ヨゼフ・シュクヴォレツキー - 二つの伝説

二つの伝説 (東欧の想像力)

二つの伝説 (東欧の想像力)

「東欧の想像力」叢書第六巻は、カナダに亡命したチェコ出身の作家、ヨゼフ・シュクヴォレツキーの中篇集プラス、エッセイ。ミラン・クンデラ、ボフミル・フラバルと並んで現代チェコ文学の代表的な存在と言われている。ちなみに、ミステリ作品が90年代に一冊訳されているので、作者の単行本初紹介というわけではない。

本書では装画からして明らかなように、音楽特にジャズ・ミュージックが大きな意味を持っている。収録作の一つ「バスサクソフォン」はその名の通りだし、「エメケの伝説」の方にもジャズは重要な場面で出てくる。なにより、冒頭に置かれたエッセイ「レッド・ミュージック」はジャズの思い出を語りつつ、ジャズと重ね合わせるように自身の文学観を語っていて非常に面白い。エッセイを併録するのはどうかと思っていたけれど、読んでみて納得、感心の一篇だ。

レッド・ミュージック

「レッド・ミュージック」の「赤」はもともとあった「ブルー・ミュージック」というバンドにちなんで名付けたグループ名で、別に共産主義を意識したものではなかったにしろ、結果的に皮肉な意味を持ってこのエッセイのタイトルに選ばれたのではないだろうか。本場のジャズミュージシャンへの思いや、圧制下で活動していたチェコの歌手、ミュージシャンについて語ったり、ナチスドイツ時代、ある地方で通告された音楽規制の十戒などなど、軽妙かつ皮肉に語られている。特に、ドイツ民族にそぐわない野蛮なリフはだめだ、とかユダヤ的な陰気な歌詞はだめだ、とかアーリア的な節度に沿った一定以上のアレグロはだめだ、とかアドリブ、スキャット、立ち上がってのソロ演奏の禁止等々が並べられている十戒は呆れたおもしろさを提供している。

シュクヴォレツキーはジャズについてこう書いている。

当初、私たちの世代がこの音楽の啓示を受けていたころ、つまり第二次世界大戦を少しさかのぼる時代のジャズには、いささかの抗議も込められていなかった(T・G・マサリクのリベラルな共和国は、いかなる欠点があったにしても、文化的寛容にかけては本物の天国だった)。つまり、リロイ・ジョーンズがどんなごたくを並べようと、この音楽の神髄、「この音楽作法」はイコール抗議ではない。ジャズの本質はもっといたって根源的なもの――それは生の躍進(エラン・ヴィタール)、つまりあらゆる真の芸術と同じような、息をのむほど爆発的な創造エネルギーであり、そしてそれは、おそらく究極に悲しいブルースにさえ感じとれるものなだ。その効果はカタルシスなのである。
 しかし、個人や共同体の暮らしが、奴隷商人、皇帝(ツァーリ)、総統(フューラー)、書記長、元帥、大将、総司令官(ジェネラリッシモ)、両極端の思想の独裁政権の観念論者といった、自身は誰にも手綱を締められることのない権力者に統制されるとなれば、創造エネルギーは文字通り抗議と化する。9-10P

社会主義体制下であれ、ナチス占領下であれ、何らかの抑圧するものにたいして、生の情熱として溢れ出る音楽、そして芸術。これはもちろん「プラハの春」の後亡命したシュクヴォレツキーの文学についてもいえる。

私にとって文学とは常に、永遠に管楽器を吹き続けることであり、青春がもはや取り戻せぬものとなったときに青春について謳いあげることであり、時代が患っている統合失調症によって、大洋の向こうの国――どんなに温かく、どんなに友好的に迎えてくれても、その岸に漂着したのが遅すぎたゆえ、決して完全に心の国になることはない土地――に追い払われたときに、母国について歌うことであった。34P

シュクヴォレツキーは亡命した後、妻とともに、チェコ本国で出版できないチェコ語の本を出す「68年出版」という会社を作り、そこで自身の作品のほかにフラバル、クンデラの本なども出すという活動をしている。

この後に収録されている二つの中篇も、「エメケの伝説」は社会主義体制下、「バスサクソフォン」はナチス占領下というように、抑圧的な社会を舞台とする。

エメケの伝説

「エメケの伝説」は行政によるレクリエーションのツアーで訪れた小さな村での出来事を描いている。ここでは、主人公、教師、エメケという三人による三角関係が主軸となって話が展開される。敬虔な信仰をもつにいたったハンガリー人の女性エメケを落とそうとする粗野な教師は、つねにその浅い策略が失敗し、無神論者としてエメケと議論したりしつつ、好感を勝ち取りつつある主人公に対して、憎しみをたぎらせる。

三者の関係は、かなり図式的な印象があり、女性の存在も到達できない真実の表象なのか、観念的な感じが強い。なにより、粗野で浅薄な教師によって、エメケへの愛が寸断され、その後、彼がいかに知性が足りない人物かということをしつこく描く展開は、あまり面白くないというか、ちょっとひどい。かなり若書きの印象が強く、今作はそれほど楽しめない一篇だった。

けれど「バスサクソフォン」のほうは、似たような図式――愉楽の瞬間、自分と対象とが引き離される――を用いつつも観念的な調子は影を潜めたものになっている。

バスサクソフォン

時代はナチス占領下、主人公の少年はある老人が楽器ケースを持ち損ねて往生しているところを助けたことから話は展開していく。ケースの間から見えた物珍しいバスサクソフォンに強く惹かれ、バスサクソフォンの話を聞こうと声をかけたのだけれど、その老人は実はドイツ人だった。それでも、彼は話を聞こうとドイツ語で話しかけるのだけれど、そのときに、こう語る。

この一言でもう、私がチェコ民族の社会から追い出されたも同然だった。ドイツ語は共生された状況でのみ使うものだからだ。最初にドイツ語が聞こえた時点で立ち去るべきだったのだ。バスサクソフォンに別れを告げるべきだったのだ。だがこの世には、民族よりもっとかけがえのないものがある。127-128

その老人はナチスによって招かれた、チェコのドイツ人社会のためのジャズ・オーケストラの一団に所属していた。そして、老人は主人公の肩にセカンドテナーサックスの腕章を認めると、是非とも協力してほしい、演奏してほしいと頼み込む。その一団では、サックス奏者が床に伏せったため欠員がでていた。

対独協力者(コラボラント)と見なされることへのおそれを感じながらも、バスサクソフォンに魅せられ、そしてドイツ人に命令されるのではなく、懇願されたということが、彼を承諾させる。

音楽によって民族の壁を乗り越えた、という話なわけだけれど、それは結局一瞬のこと。灯火管制下の暗い道で、彼はその思い出が幻ではないかと考えるけれど、その「早すぎた伝説」。一瞬の思い出(メメント)は確かな形を持って、ずっと彼のなかに残っていく。

作品の質感は異なるけれども、本書の二つの伝説はかたや女性との愛、かたや民族を超えた音楽の高揚、という限られた一瞬の輝き、圧政のなかでの生の躍動を描いている。

この二作はグレアム・グリーンが絶賛した中篇だそうだけれど、もうちょっと他の作品を読んでみたいところだ。

たぶん一番右がバスサクソフォン