笙野頼子 - 神変理層夢経3 猫文学機械品 猫キャンパス荒神(後篇)

すばる 2012年 04月号 [雑誌]

すばる 2012年 04月号 [雑誌]

すばる4月号にて先月に再開された神変理層夢経の第三部の後篇が早速発表された。前篇の感想

「書く機械」と化した様子は前回も書かれていたように、本篇でも語り手を乗っ取るさまざまな声が流れ込んでくる。後篇では、沢野千本の元々の体の持ち主による語り(この連作の著者は笙野頼子ではなく、沢野千本。生まれてすぐ死んだ体に、深海生物が乗り移ったのが沢野)から始まり、冒頭から飛ばしに飛ばしていて、おいおいついて行けねーぞ、と振り落とされそうなドライブ感が凄い。

拗音、撥音、擬音擬態語を駆使して、震災を受けて文学が変わるとかいう「エア革命」言説や、責任を「みんな」に拡散して最大の行為者「東電」をその中に埋もれさせるような言説を「天狐」と呼んでこれもまた切り刻んでいく。さらに、元の持ち主の視点から沢野の近況を描写しつつ、分析、罵倒しまくっている。擬音語、擬態語に微妙に意味のある言葉を交ぜているような感触があり、「フィネガンズ・ウェイク」ってこんな感じだっけ。

その後に始まる沢野の語りはぐっと落ち着いて、震災当日の不穏さ、衝撃を丹念に追っていく。ドラの死後のさまざま、震災直前のさまざま、大学、三百代言な博士等の話題も含めて語られる部分は、自分の震災当日のこと、その後のことを色々思い出しながら、ゆっくりと読んだ。大きなトラックの音で地震に戦いた自分の日常と重なる。千葉にいる語り手の様子はそれでもずいぶん冷静に見える。

やがて話は父のことに繋がっていく。父と「みいや」という秘書の密接で奇妙な関係を母が非常に嫌っていた、という微妙な家族間の様子が描かれていて、ものすごく不穏な空気が流れている。

母の看病の時も最初は良かった。父は帰郷した私の姿を見て頼り、泣きそうになった。しかしすぐ私をうたがい始めた。みいやの存在自体に苦しみ続ける母と全部にみいやを介在させなければ調子が悪くなる父の間で、私と父は険悪な雰囲気になった。78P

遺産相続関係のごたごたでの父との押し問答など、笙野が書くと、みいやも父も何かしら空虚な不気味さに覆われたような雰囲気になってくるのが恐ろしい。単純な悪意ではなく、機械的な悪意、何かのバグのように無機質な悪意とも呼びようのない、何か。

さらに話は『水晶内制度』と「だいにっほんシリーズ」三部作にも繋がる。『水晶内制度』は、原発をと引き換えに女だけの国を建国することを認められた女人国「ウラミズモ」を舞台とした作品で、そのことを書く時、作者は「放射能が怖く、シリアスになりたくなくて原発という言葉を使わ」ず、特別に原の「日」を目玉のマークにした字を使っていた。「どんなに極悪であってもそれが架空であるように出来る限りの注意を払いながら」書いたというそれが、いまや現実となってしまった苦しみを書き付ける。

「原因企業」の無責任が私の小説に出てくる悪役そっくりというツイートを見た時は無論辛かった。きつい皮肉も警告も、現在の事実になっている。腹が立つよりも心が強張ってしまう。そもそも、私などに書けるものなのだ。つまりは商店街や携帯電話のように、それは、そこら中にあるという事だ。ただ単に、それが日常だったという事なのである。今後起こりませんという事はあり得ない証拠。81P

私の架空の言葉の中、私の描く近未来は地獄になっていた。故にその終わり近く、不幸を救う天国を私は設定した、フィクションの世界だからそれが出来た。心の中のわが民草の中から望む者は幸福な世界に行ったのだ。でもあの春から、おんたことその小説で呼んだ悪と、そっくりの会社様が本物の不幸を目の前でまき散らしている。でもどうしたって私の言葉はフィクションで現実と隔てられている。また、予知になるようなものを書いた覚えはまったくない。ただそれ程までに、あちこちにあったのだ会社様は。91P

そしてまた笙野の重要なテーマでもある権力の問題に行き着く。

回避出来る汚染を回避させず、人を汚染するもの、それが権力だ、その汚染をつかってまた大金を儲ける事と汚す事の両方が権力の目的だ。そう言うと性の話みたいだが、これが「核」ではないのか。そこでポルノは実は、多く、アレを内蔵しているかもしれないとつい思った。ならばもしポルノで反権力をやろうとするならば、リセットと汚れに無知なものは必ず失敗し、弱者を踏みにじるのではないだろうかとも。86P

この下りの前には、こういう文章がある。

汚すという事と、経済という事は表裏一体ではと、大儲けの欲とは汚してはならないものを汚したいという欲望を内臓しているのかも。

経済と汚れ、といえば水俣病をはじめとする公害問題がすぐに思い浮かぶ。原因が特定されても経済を優先し、公害病の蔓延を引き起こした。そしてこれはさらに、ウラン鉱山や核実験場によって、伝統の土地を汚染され、奪われた核と先住民族の問題につながっていく。

先住民族の「近代史」―植民地主義を超えるために (平凡社選書)

先住民族の「近代史」―植民地主義を超えるために (平凡社選書)

本作の直前に読んでいた上村英明先住民族の「近代史」』は、近代において先住民族がいかなる役割を果たし、いかなる被害を受けたかを論じ、植民地主義批判の観点から、公害、核政策にみえるレイシズムを抉りだしている本なのだけれど、ここで述べられている「核植民地化」状況は、都市部で使われる電力が地方でまかなわれる、福島原発のポジションについても言える。

笙野が述べている権力論は、経済成長、植民地主義といった「近代」と表裏一体の病理の構造への指摘を含んでいる。権力と汚れという弱者の差別化システム批判は、『水晶内制度』から「だいにっほんシリーズ」(特に、火星人少女遊郭という設定を想起する)を経て、今作においても繰り返し現れている。

自らが神だという設定や宗教、神話的モチーフにくわえ、ドゥルーズ=ガタリといったポストモダン思想の援用のなかで行われる近代批判、というのが近年の笙野作品の一面だと思うけれど、ここらへんのカオスな様態についての批評的な意義はいかなるものか、という議論を本職の人とかに期待したいなあ。

終盤では再度作中作「猫ストリート荒神」が始まり、生と死の裏返りについて語ったりする。そして、最後、語り手はこう書く。

大きいうすら馬鹿な糞権力の下、最低の世界を人は生きている。幸福になることは復讐である、怒りを忘れぬことは未来への道である、こっのやろう死ね死ね死ね悪税製造機ども。でもまず自分が生きなきゃ仕方ないのだ。101P

最後の祈りは引用しないけれど、「幸福になることは復讐である、怒りを忘れぬことは未来への道である」は良い言葉だ。


作中、ちょいちょい自作短篇のタイトルが出てくるところがある。そういえば私は「庭の雀」と「妻」の短篇を読んでないんだった。この二篇だけ読み損ねたままになっているのはまずいな。あ、妻の方、手に入れるの難しそう。

馬場さんは、私がこの作品がすばるに載っている、ということを知った時には既に感想がアップされていたという早さで、驚愕した。
『猫キャンパス荒神(後篇)(「すばる」2012年4月号掲載)』(笙野頼子):馬場秀和ブログ:So-netブログ

記事を上げようとしたら千葉で震度五強の地震が来た。笙野さんの住んでると思われるところは震度四くらいみたいだから、まあ大丈夫でしょう。