講談社「日本の歴史」メモ3 近世史の部

前々回前回に続いて、近世。楽しめる巻の比率が一番高かったのが今のところこの近世史の部。さて、近現代はどうだろうか。

池上裕子 - 日本の歴史15 織豊政権江戸幕府

織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15 (講談社学術文庫)

織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15 (講談社学術文庫)

信長の上洛から江戸開府までを扱い、近世のスタートとなる第十五巻。

本書では信長、秀吉、家康の三者三様の統治方法の違いが面白い。信長は将軍を利用しつつも己が取って代わって幕府を開くわけではなく、秀吉は関白として天皇朝廷の官位体系に入り込み、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開く。

大まかには信長と秀吉の政権を中心として追っていくわけだけれど、即時的な軍事行動で勢力を拡大していく信長のあとを継いで、秀吉はより統一的な権力基盤の構築に努めている様子がうかがえる。豊臣平和令と総称される刀狩り、喧嘩停止令、海賊停止令や、検地での統一基準策定、さらには身分を固定するさまざまな政策(刀狩りもその一環)が行われている。信長は、反乱に対しては即虐殺、というような苛烈な政策をとっていたけれど、秀吉はそれとは対照的に赦免を多用していた。秀吉の対応は穏和ではあるけれど、これは秩序を隅々に行き渡らせていくことでもあり、そうした秩序統制の強制、確立が秀吉政権の特色だろう。

著者はここで秀吉の政策がいくつかの点においては信長のものを引き継いで行われたものでもあり、連続性を強調してもいる。

また、制度的統一を進めていくなど秀吉は非常に慎重で老獪な統治者だったように思えるけれども、朝鮮侵略という壮大な「妄想」へ向けての準備の面もある点を指摘している。朝鮮侵略では万単位の奴隷を略奪し、徴発によって欠けた田畑の耕作をさせたり、職人などを進上させたり、連行者のなかには朱子学者もいて後の日本の学問に影響を与えたり、さらに朝鮮は陶磁器の技術が高かったため、連れてきた陶工によって技術的な影響を受けている。有田焼の祖はその一例で、西国の大名が出兵の主力だったため、そういう事例は西に多い。

こうした人品の略奪は、なにも外国だからではなく、国内において普通に行われていたことを同じように国外でも行っていたために起きている、ということが指摘されている。戦争先で略奪することが常態化、目的化していたというのは最近の戦国研究でもよく言われていて、知られていることだろう。

信長の達成した統一を引き継いで、安定的秩序の確立に努めた秀吉が、朝鮮侵略の失敗によるダメージと世継ぎの問題で没落したところを、家康がかっさらっていくという流れはよくいわれる通り。今巻では関ヶ原の戦い江戸幕府の成立と、豊臣一族の滅亡までを描いて終わる。

横田冬彦 - 日本の歴史16 天下泰平

天下泰平 日本の歴史16 (講談社学術文庫)

天下泰平 日本の歴史16 (講談社学術文庫)

江戸時代初期、十七世紀を扱う第十六巻。関ヶ原大坂の陣ののち、戦乱が終息し平和を迎えた社会において、戦時から平時へと大きく政策が転換していく様子を扱う。

読んでいて、この時期は非常に大きな転換があった時代だという印象が強い。前巻では天下統一こそ成ったものの、信長、秀吉、家康へと至る大きな戦争、そして国外侵出へと至る戦時体制だったわけだけれど、江戸開府以降乱世が終焉を迎え、いかに安定した統治を行うか、という試行錯誤の時代となっていく。この「天下泰平」の世において、どのような転換がなされたのか、という事例が非常に興味深く、面白い。個人的にはこれまでの巻のなかでも五指に入る面白さだ。これまで江戸時代についての本を読むことって全然なかったんだけど、人気があるだけあって江戸って面白いんだな、というのが分かった。

本書の構成を要約すると、第一章では大坂の陣の戦後処理として、武力の統制としての一国一城令武家、公家に対する法度の制定を扱い、第二章では宗門改め、島原の乱を通して、日本的「華夷秩序」形成を見、第三章では寛永飢饉への対処の中での民政への転換を追い、第四章では村落社会の実像を探り、「直訴」その他の政治参加システムと、それを可能にした村民の法的・行政的能力を論じ、第五章では都市社会の経済と住民の政治参加を扱う。第六章では「生類憐れみの令」を通じて、それまでは武士こそが屠者であったのが、仁政を行うものとして将軍が慈悲の側に位置づけられるようになると、皮革製造の過程で牛馬を屠るかわた職人等が慈悲の対極に置かれるようになる、穢れのヒエラルキー形成をのべ、第七章ではさまざまな書物の刊行、流通から庶民層における書物文化の広がりを描き出している。

どこも面白いのだけれど、やはり戦乱の中世、自力救済の社会からの転換が印象的だ。著者は家康が江戸開府にあたって出した「郷村法令」について、こう述べている。

百姓が「むさと殺され」たり、人質を取られたりしない、年貢米を一定水準以上に「無理」に取られない、総じて「非分」を強制されない、こうしたことが現実に守られるための制度的保障として、ここで訴訟制度が設けられたのである。18P

刀狩りはじめ、自力救済の禁止として農民の武装解除が行われたのと引き換えに、領主間の戦争停止、武士団の日常的な武力行使の抑制が行われ、その告発の手段として訴訟制度が必要とされる。これらはそれぞれ密接な関連を持っている。そして、武力にかわって、「訴」を始めとする行政能力が必要とされる社会と書物文化の開花もまた関連しているという。

平時への政策転換の実例として興味深いのが、寛永飢饉の下りだ。第三章では、飢餓を惹起した国許の家老たちに対し、なぜ飢餓が起こるまで対処が遅れたのか、資財を蓄えているのはこのような時のためであるのに、いちいち上の意向を伺っていてどうするのか、悪心を持つものならいくらでも死罪にすればいいが、百姓に餓死者が出たとすればそれは我等の恥だ、と酒井忠勝が返事をした例を挙げている。

寛永末年の飢饉は、十七世紀における最大の全国的規模での飢饉であった。そして、それへの対応を模索する中で、幕府も藩も、それまでの戦争と軍事を中心においた体制から、「憮民仕置」つまり<民政>を基本に組み込んだ政治の仕組みへと大きく転換していくことになるのである。150P

著者は、島原の乱の解釈において、一揆側は凶作と取り立てに対する「直訴」として展望を見ていたのに対し、幕府は国法を犯すキリシタンとして見ていた、というズレがあったと指摘している。ここに際し、一揆勢を「土人」と呼んだ例を引き、彼等は百姓ではなく、土人とみなされたがゆえに殲滅されたと述べている。

つまり、国内の統一と泰平が、内外の「異敵」の形成と裏腹だということ、そして「近世社会がその成立に際して「土人」殲滅の歴史的経験を持ったこと」に著者は注意を促している。これは日本的「華夷秩序」と穢れのヒエラルキーの形成にかかわるところで、本書では触れられていないけれども、北海道松前藩アイヌの独特な関係もこの重要な補助線となる。

吉田伸之 - 日本の歴史17 成熟する江戸

成熟する江戸 日本の歴史17 (講談社学術文庫)

成熟する江戸 日本の歴史17 (講談社学術文庫)

江戸時代中期、十八世紀を扱う十七巻。今巻はこれまでのものとはずいぶん異なり、「江戸の成熟」ということを、豪商ら上層から乞食ら芸能集団ら下層までの社会集団をミクロな視点から詳細かつ緻密に叙述していくことで表してみようとする。つまりは、政治史をほとんど申し訳程度に差し挟む他は、諸々の社会階層の人々の生活の仕組みを辿っていこうということで、通史シリーズとしてはなかなか冒険的な構成になっている。

そして表紙カバーになってもいる『煕代勝覧』という江戸の商店街を描いた長大な絵巻の分析が始まる。ここはなかなか面白く、何が書かれていて、誰がどうしているのか、というのを詳しく説明してくれる。文庫の体裁上、図版がかなり小さいのが残念だけれども、繁華街の情景が詳細に解説されるので、人々の暮らしの様子がよくわかるようになっている。

その後、絵巻にも書かれている三越こと三井越後屋の成長の様子をたどったところも面白いのだけれど、だんだんその詳細さがどうも個人的に興味の持てないものになっていく。面白みはあっても、詳しすぎて興味が続かない叙述というか、あまり面白みのない詳細さというか、段々退屈さが勝ってきた。

芸能集団のテリトリーをめぐる争いとか、魚河岸の仕組み等々、面白い部分はあるんだけど、どうも詳細すぎる。試みは面白いので、読む人によっては非常に面白いんじゃないかと思うけれども、個人的にはもう一つ、だ。

この時代を扱ったものとしては、小学館ライブラリーの竹内誠『大系日本の歴史10 江戸と大坂』が同時期を扱っているので、通史的叙述としてはそっちを当たると良いと思う。その本では、打ち壊しの最中に中休みを取って規律正しく打ち壊しをしていた、という話の部分がとても面白かったのを覚えている。

井上勝生 - 日本の歴史18 開国と幕末変革

開国と幕末改革 日本の歴史18 (講談社学術文庫)

開国と幕末改革 日本の歴史18 (講談社学術文庫)

江戸時代後期の十九世紀、維新の直前までを扱う第十八巻。前半では主に、江戸後期の「成熟」についてを様々な視点から分析しつつ、黒船来航を扱う四章以降では、開国を迫られる幕末の政治状況を、幕府、朝廷間の関係を軸に描いていく。

前巻に続いて本書でも強調されるのは江戸の「成熟」ということだ。その基盤となるこの時期の農業生産を飛躍的に増加させた要因として、著者はアイヌの営みの重要さを指摘している。

江戸時代後期の社会の成熟をいっそう進展させたのは、経済の上昇であった。その上昇をもたらした要因の一つは、アイヌ民族と和人雇い漁夫が蝦夷地で生産したニシンの魚肥である。

序章では、経済とともにロシアとの接触という外交の問題を含む近世アイヌ史を簡略に触れた後、前半では経済、一揆等における民衆の政治参加、江戸の博物学等の文化的側面を例に挙げながらその成熟の内実を辿っていく。そして、一般に黒船来航時の日本は、鎖国故に諸外国の事情に無知で、アメリカに易々と騙されて不平等条約を結ばされたと思われがちだけれど、実はここで江戸の役人が非常に強かに議論に臨み、対等以上に渡り合っていたことを明らかにする下りは、この江戸の成熟を強烈に印象づけるクライマックスとも言える部分だ。

諸外国の情報をも踏まえてアメリカの詭弁を駁す江戸幕府の外交がきわめてレベルの高いものだった、という話は、同著者が岩波新書で出した『シリーズ日本近現代史1 幕末・維新』で既に読んでいたものだけれど、やはり面白い。この下りをはじめ、本書では近代になってつくられた江戸時代・幕府へのマイナスイメージを覆すことがひとつのテーマとなっている。

そのひとつが民衆運動の見直しだ。国への訴えにおいて千もの村が「原告」となって行われた「集団訴訟」の実体を通して、広大な範囲における利害調整とそれぞれの代表を選んで訴えを行う「代表制」のシステムがあったことを明らかにし、地域社会の政治的成熟のあり方を描き出す。同様に、一般に暴動のように見られがちな百姓一揆の実情を追いながら、盗みをはたらいたものが生き埋めにされるなど、そこに厳しい規律と作法があったこと、訴えが正当なものと認められれば罰されることがなかったことなどを指摘し、江戸幕府がそうした訴えを聞き入れる柔軟性を持っていたことを強調している。

明治時代になってから、「暗黒の近世」という虚像がつくられた、と保坂氏は指摘する。旧幕府の政治は上意を下に達するのみで強権的であり、民意を権力に届ける方法などないと描かれてきた。明治政府は幕府を転覆して権力を掌握したから、幕府政治をことさらに暗黒なものとして描く必要に迫られた。しかも「暗黒の近世」という虚像は、反政府の運動を展開した自由民権運動家をもとらえた。自由民権家も、文明開化という時代の波にとらえられ、江戸時代を「未開」、「暗黒」と決めつけた点においては明治政府と異口同音であった。近代の政府も自由民権家も、「合法的な」越訴のような下意を上に届ける道筋が江戸時代に広く存在したことなどとても認められなかった。104P(保坂氏とは保坂智氏のこと)

だからといって、江戸幕府が人道的意識に基づいていたというよりも、効率的な、安定的な統治を行うには、強権的な抑圧より、理の必然としてこのような柔軟さこそが必要だということだろう。

もうひとつは、維新に至る幕府外交の見直しにある。役人の交渉術の強かさというのは既に書いたけれど、著者はより大きな視点として、幕府外交の「弱国という選択」に着目する。それこそが漸進的で慎重な外交方針を選択させることになり、幕府のこの路線にはまだまだ継続の余地があり、さまざまな可能性があったはずだ、と主張している。このオルタナティブの可能性を一方に置きつつ、幕末の展開を叙述していく。

ここで批判的に参照されるのが戦前に文部省で編纂された大部の『維新史』だ。これには元老の朱筆が入っており、当時から薩長藩閥の顕彰のためのものだという批判があったという。これを題材に、「軟弱、卑屈な幕府」に対する、「世論をうけた天皇・朝廷」が条約拒否を貫いたという「物語」を批判的に検討し、以下のように結論する。

『維新史』以来、軟弱、卑屈な幕府外交、それに対して大名たちの世論をうけて断固条約反対を貫いた正論の朝廷・天皇という構図で修好通商条約の承認問題は描かれてきたが、それはつくられた「物語」であり、事実に反して朝廷と天皇を称揚する皇国史観のフィクションにすぎない。241-242P

そして、攘夷論者の徳川斉昭ですら承認を求めた条約承認を拒否する孝明天皇を、現実的な問題を無視し、無謀な選択を行い、無責任な冒険主義に走ったとして批判する。これによって、「穏当で、開明的で現実的な幕府の改革派勢力がつまずいた」と著者はいう。

このあたりに著者の基本的な視座が見える。幕府外交の再評価といっても、単にナショナルなものを称揚しているのではなく、皇国史観に対する批判的立場によるものでもあるわけだ。この点、文庫版あとがきにもあるように、勇み足を踏んでしまった部分もあったようだけれど、幕末日本においては「植民地化の危機」は大きくなかった、と見直しを行っている部分も興味深い。

先にも述べたように、全体として、幕府を転覆した明治政府や皇国史観によってつくられた、江戸時代のマイナスイメージを個々に見直していく部分が面白い。明治政府や皇国史観に淵源する歴史解釈というのは今もって影響力を持っているものでもあり、こうした批判的見地からの叙述はなかなか興味深い。

江戸時代の部のなかでは十六巻に続いて面白い巻だ。

鬼頭宏 - 日本の歴史19 文明としての江戸システム

文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)

文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)

「近世史の論点」として、江戸文明全体を概観する第十九巻。本書はシリーズの論点巻のなかでは例外的に、経済史・歴史人口学の専門家単独の執筆となっており、それぞれ、村、人口統計、自然・都市環境、産業、経済、生活等々の観点から総体的に江戸文明を捉えようとする。アプローチとしては十七巻にも似るけれども、より包括的。単独著者による論点巻なので、江戸文明概説としてこれだけ取り出して読んでも違和感はない。

序章においては、この巻がそもそも担当する「近世」という時代区分に疑問を呈しているのが面白い。時代区分論についての議論はさまざまあるけれども、ここで著者が言うのは、室町末期から江戸前期にかけて日本では大きな変化が起こっており、中世後半から近世をより近代に近い時代として見ることが提案されている。著者による区分では経済社会化システムとして区分される時代となる。これは、幕藩制が封建制度の一種ではあっても、中世のそれとは異なり、全国的な市場経済ネットワークを前提にしているものだということから来ている。

面白いのは第二章での江戸時代の村の生活を、1671年から実施された宗門人別改帳から復元するところだ。これは、年一度、町村ごとに、世帯の構成員の名前、年齢、続柄を記したもので、毎年のものを追っていけば個人個人の詳細な調査ができる。このような詳細な記録はこの時代の世界に他に例のないことらしく、キリスト教会の教区簿冊のような史料に比べても非常に使い勝手のいいらしく、さらに死亡者が分かる寺院の過去帳等々を含め、利用可能な史料が多くあり、「人口史料の宝島」などと呼ばれているらしい。

これによる復元では、江戸がやはり離縁と再婚の多い時代だったこと、また離婚は結婚初期に集中し熟年離婚がほとんどみられないこと、また男性では最も死亡率の低くなる二十歳から四十歳のあいだで、女性においては難産死、産褥熱等によって死亡率の山ができるという事実などが明らかとなり、当時の生活状況などが見えてくる。子供の死亡率の高さから、労働力としても家の存続のためにも、ある程度の数の子供が必要とされ、それゆえに結婚初期の離縁そして再婚の多さがあることが指摘される。

これはミクロな視点からのものだけれど、第三章では江戸時代における人口動態から見た、マクロな視点からの分析が行われている。ここでは江戸初期の人口増加や、中・後期には社会の成熟に伴い、意図的な出生抑制が行われていたことなどが指摘されており、非常に興味深い。たとえば、江戸初期・十七世紀について著者はこう述べている。

十七世紀は平和の到来とともに、市場経済が社会の各階層・各地方に浸透していったが、これに対応して人々が経済合理性を重視して行動する経済社会化が進んだ。その結果、農村では直系家族を主体とする小農経営への転換が進み、誰もが結婚する「皆婚社会」が成立した。経済成長と生活水準の向上は出生率の上昇とともに、死亡率の低下ももたらして、人口の持続的な成長を実現したと言えよう。こうして、「江戸システム」が形成される過程で、経済と人口が相互に影響しあいながら持続的に成長するという現象が起きたのである。80P

これが初期の江戸社会の様子だけれど、土地と資源に制約のある鎖国日本では、これはそれほど長く続くものではない。中・後期では社会が豊かになると同時に、意図的な出生抑制の他、晩婚化も進んだという。それは、人口増加の結果、耕地面積がそれに見合うだけ拡大できなかったことの他に、資源供給の制限もあり、農家の経営面積が縮小したことが原因だろうと著者は述べている。そのため、子供の数はかろうじて家の存続に必要な分だけに制限されたのだろうという。また、江戸初期と末期では五歳までの幼児死亡率が四分の一にまで減少した地域もあるように、幼児の生存率が大幅に向上し、これもまた出生を抑制する理由にもなった。著者はこの様子を、社会が豊かになったことによる「少子化」だとも述べている。

ここでいう出生抑制というのは、いわゆる間引きなどの嬰児殺しを指している。当時の手引き書やパンフレットに度々間引きを戒める内容のものがあったことから、かなり広汎に行われていた可能性が指摘されている。ただ、間引きなどのように荒い手段だけではなく、母親が自ら授乳することで、排卵を妨げ妊娠を遅らせるノウハウが当時の育児書に書かれてたりもする。

とりあえずここでは序盤の人口分析の部分を紹介したけれども、最初に書いたように、江戸における経済、環境、文化その他諸々を論じていてどれも面白い。概説書としても良いバランスになっていて、このシリーズのいくつかで見られるように、専門的な話題に深入りして素人には難儀させられるような部分は見当たらない。なかなか良い巻だろう。

著者は歴史人口学の専門家として、ここで分析したような江戸期の人口停滞等の知見を基にして、現在の少子高齢社会について論じた新書等も出している。