講談社「日本の歴史」メモ4 近現代史の部

講談社「日本の歴史」メモ1 原始・古代史の部 - Close to the Wall
講談社「日本の歴史」メモ2 中世史の部 - Close to the Wall
講談社「日本の歴史」メモ3 近世史の部 - Close to the Wall
確か読み始めたのが2010年の年始だったはずなので、ちょいちょい休みつつ結局三年かかって全巻通読。全部読んだけれど読んだ傍から忘れていくので、まあ身になったかどうかはあやしい。

鈴木淳 - 日本の歴史20 維新の構想と展開

維新の構想と展開 日本の歴史20 (講談社学術文庫)

維新の構想と展開 日本の歴史20 (講談社学術文庫)

「日本の歴史」近代の部のスタート。本巻では、五箇条のご誓文から帝国憲法発布に至る明治維新の展開を追うことになる。

面白いのは、第二章「戸長たちの維新」の章で、ここでは維新の展開によって様々な変化や上からの指示を受けて動いていた地元の有力者たちの状況を追っていく。廃藩置県によって県が置かれ、県の指令を住民につなぐ存在として地元の有力農民などが戸長として据えられ、県からの布令を村人に伝える仕事をしていた。数が増えるに従い、この布令をまわすための筆写の苦労も相当な負担となっていき、この時期の急速な印刷所の増加は、こうした状況を背景にしているという。

また戸長たちは、郵便、学制、そして徴兵といった新制度の趣旨を説明し説得することをも任務としたため、その点で住民たちとの齟齬も生じている。この新制に対する反対として特に有名なのが「血税反対一揆」だろう。現在の岡山県にあたる「北条県血税騒動」においては、新制に反対する勢力が、「徴兵として人民の生き血を絞る白衣の男が徘徊している」として竹槍を持ち出し、白衣の男をかくまっているとして戸長の家を襲撃している。

この騒動の中心には村の総代役がおり、新制の様々に反対し旧制に戻そうとして、徴兵制の布告にある「血税(元々この言葉は徴兵の意)」という言葉を利用し、白衣の男が血を絞りにくるという噂を流したうえで、白衣の男を仕立てて騒動を巻き起こした。この男が反対した新制には、さまざまな負担の他、被差別部落民の平民籍編入なども挙げられており、じっさい、一揆勢は建物、布告が張り出される掲示板の他、被差別部落を中心とした焼き討ち数百件と、被差別部落住民十数名を虐殺するなどしている。著者は、掲示板等が毀損された件については、維新の新制の象徴として狙われたのだろうと指摘しているものの、被差別部落が重点的に狙われた点については何も述べていない。一揆勢にとって被差別民が被差別階級であることがそれほど重要だったのか、今ひとつ判然としないものの、徴兵制とあわせて、一律に平等な国民が創られる過程を成しているのだろうか。

もう一点印象的なポイントとして、伊藤博文の以下の認識がある。天皇の祭祀の形態が変質してきていることを指摘しつつ、著者はこう述べる。

伊藤博文は枢密院で憲法草案審議をはじめるにあたって、欧州と日本の違いは、欧州では憲法政治の伝統があり、日本にはないこと、欧州では宗教が、すなわちキリスト教が深く人心に浸透して国家の機軸となっているが、日本の宗教にはそれだけの力がないことであると指摘し、日本では皇室を機軸とすると述べている。天皇への祭祀の集中は、ここに新たな位置付けを与えられていた。P287

後に国家神道と呼ばれることになる天皇による国民統合の端緒だろう。日本の一部の保守が護らんとする天皇なるものはこの時期以降に創られた天皇を指している場合があるけれども、それが近代ヨーロッパに伍するためにキリスト教の代替物として立ち上げられたものだというのは皮肉だ。まあ、日本近代を巡るものの多くにはこうしたねじれと皮肉がつきまとう印象があるけれども。

悪くはないんだけど、全体としてはなんだかあまり印象に残らない巻かな。この人は中公の「日本の近代」で出している『新技術の社会誌』の方が面白そうだ。この本でもそういう部分が面白かった。

佐々木隆 - 日本の歴史21 明治人の力量

明治人の力量 日本の歴史21 (講談社学術文庫)

明治人の力量 日本の歴史21 (講談社学術文庫)

「日本の歴史」近代の部二巻目。本書では帝国憲法からはじまり、明治天皇の死に至る明治時代後半を扱う。

特徴的なのは二点。一点は著者は実証史学の基礎に戻るべきということで、直接史料にあたることを重視し、既存の論文、著書等への参照が少ない。もう一つは政治家達の行動、言動を追うことを基本とした、政治史として書かれていること。

このため、登場人物達の個性豊かな物語色の強い叙述となっており、その点比較的読みやすい。列強に認知され、不平等条約を改正し、日本が「不羈独立」の国となるべく奮闘する政治家達の苦闘と達成をえがく近代日本の物語として、なかなか魅力のある物語となっているとはいえる。

といえばわかるように、著者の書きぶりは保守的な色が濃い。明確にそれが現われるのは序章、「国民国家批判」をどうも雑に理解して批判した叙述を読んだ時で、あまり近年の議論を追わない人なのかとびっくりして大丈夫かと思った。また、叙述は基本的に近代日本がいかにして不羈独立を達成したか、というドラマに焦点を当てているため、植民地その他近代の弊害への批判的観点がきわめて薄く、国家を叙述の主体としているあたり、どうかと思う面もある。

元々、このシリーズは歴史修正主義自由主義史観の盛り上がりに対抗して、網野善彦らが実証的な現代歴史学の成果を提示するカウンターアクションのようなものだ、と思っていた(そういう言及をどこかで読んだか私の思いこみか)ので、これは全くそうではないのに意外さを感じた。とはいえ、原史料の博捜を生かした実証史学の見地からの指摘が随所に見られる点は、やはり編集方針に則った人選だとも言える。

内容に戻ると、陸奥宗光桂太郎といった政治家を評価したり、伊藤博文に評価して欲しくてあえて歯向かったりする伊東巳代治の「拗ね」、井上馨が怒りを東京からの距離で表現する木戸孝允から学んだ政治手法を指摘する部分など、人物の性格付けに余念のないところなど、卑近な面白さがある。

著者はまた、日清戦争時にはあまり広がりはなかった、敵国への脅威が日露戦争時には広く認められたことについて書いている。新聞同士の争いで、「恐露病」がお互いへの悪罵として用いられたり、「露探」ロシアの探偵すなわちスパイまたは対露協力者が恐れられるようになり、「露探狩り」が行われるようになり、果ては代議士の辞職にまで至る。

「恐露病」と「露探」はロシアが日本と日本人を脅かす最大最兇の敵として、如何に人々の間に広く認識されていたかを示している。それは日清戦争の時には無かった現象で、この間に国民意識の形成――日本の国民国家化――が進んだことを窺わせる。昭和戦前期には「非国民」が問題となったが、これは国民の存在を前提とする言い回しである。すでに国民国家化が完成していたことが分かる。283P

日露戦争は、ロシアの脅威を朝鮮半島から払拭することが目的で、これに勝利することによって対露関係もまた安定を得たのだけれど、伊藤博文の韓国保護国化路線が挫折し、日韓併合へと至った経緯を著者は以下のように分析している。

韓国を保護国・衛星国ではなく領土としたことは、緩衝地帯の消失を意味しており、日本は満州、ロシアと直に境界を接することとなった。日本は必然的に満州に深入りする形となり、やがてそれは帝国日本の死病となった。349P

この後の章では明治天皇の死に至るまでを描いていくことで、列強と伍する独立国日本を達成した瞬間、そこに破滅の影が見えてくるという、非常に劇的な語り口となっている。絵になる話ではある。

明治後期の日本の外交的動きを丁寧に追った叙述ではあり、外側からの批判的観点に乏しいものの、日本の意図や動機がなんだったのかを把握しやすいとはいえるだろう。

本書を読んでいてひとつ驚いたことがある。西園寺公望の国防方針についての考えが論じられているところで西園寺直筆と思しき文書の写真が載せられていて、そのキャプションに「著者所蔵」とあったことだ。「お前個人が持ってんのかよ!」と目を丸くした。あんま本では見たことないんだけど、業界ではわりあいあるんだろうか、史料が「著者所蔵」って。

伊藤之雄 - 日本の歴史22 政党政治天皇

政党政治と天皇 日本の歴史22 (講談社学術文庫)

政党政治と天皇 日本の歴史22 (講談社学術文庫)

第二十二巻は明治天皇の死から、昭和天皇の即位を経て、満州事変、五・一五事件に至る歴史を扱う。おおよそ大正時代から昭和初期にあたる。

本書ではタイトルにある通り、政党政治崩壊に至る政治史を叙述していくけれども、もうひとつの主軸は天皇の政治関与をめぐる議論だ。明治、大正、昭和と三人の天皇の比較検討を行い、近代日本の君主がそれぞれどのような働きをしていたのかを通じて、日本の立憲君主制のたどった運命を論じている。

簡単に言えば、満州事変での軍部の暴走をなぜ止めることができなかったのか、この時期の天皇の権威の低下はどうして起こったのか、ということを全体を通じたひとつのテーマとしている。これに対する簡潔な回答としては、立憲君主制下において明治天皇はじつは政治関与を非常に抑制しており、原則的に調停者としての関与しかしてこなかったのに対し、明治天皇存命時には昭和天皇は幼かったこと、大正天皇の病状と不調からこの政治関与の原則が昭和天皇には伝わらなかったこと、また昭和期に流行した明治天皇のカリスマ視、理想化があったこと、昭和天皇への進講においても明治天皇のリーダーシップ等が伝説化した形で強調されたことによって、昭和天皇が積極的な政治関与を行うことになり、これの失敗が陸軍内部などでの天皇の権威の低下を招いた、とまとめられるだろう。

天皇は権威を担い、実際に政治に関与しないことで天皇制の長期的な存続を可能にした、ということはよく言われていることだけれど、昭和天皇は積極的な政治関与でその権威を傷つけ、軍部の暴走に対する抑止力たり得なくなってしまった。柳条湖事件でも、関東軍はともかく、朝鮮軍満州出兵は天皇の奉勅命令と経費支出の閣議決定が必要で、それを無視して出兵したことに対する厳しい処置を一部の陸軍首脳は覚悟していたものの、若槻礼次郎内閣は妥協した。天皇統帥権干犯とも見なせる事態に対し、張作霖爆殺事件での政治関与で失敗した昭和天皇は、陸軍内部の支持が薄いことを見てか、積極的介入を控えた。

ここでなんとか公平な調停者としての面目を保っていた西園寺公望もその影響力を無くしていき、天皇は基本的に傍観者としての立場を選ぶことになった、と著者は締めている。

著者は、イギリスにおいてジョージ五世が「立憲君主制の父」と呼ばれているように、明治天皇を日本の立憲君主制の父と呼んでも良いだろうと述べている。本書はその明治天皇から大正、昭和と時代が下るなかで、「近代日本の君主制はなぜ崩壊に至ったか?」(帯文より)という問いへの答えを模索したものといえる。

有馬学 - 日本の歴史23 帝国の昭和

帝国の昭和 日本の歴史23 (講談社学術文庫)

帝国の昭和 日本の歴史23 (講談社学術文庫)

第二十三巻は、昭和のはじめ、普通選挙スタートの時期から、敗戦に至る昭和戦前期のおよそ二十年を扱う。戦時帝国主義の時代ということになる。

ここで著者は戦前の価値観は現在から見ればそれはまるで外国のようだ、という前提を置いている。そこで一つの設問と回答を示す。

昭和戦前期という時代のキーワードが〈戦争〉であるということは、そこには一種類の設問しか存在しないということでもある。すなわち、日本人はなぜあのような愚かな戦争をしたのか、という問いである。誤解を恐れずに言えば、この問いに答えるのはある意味では簡単な事だ。だれも戦争それ自体が愚かだとも悪だとも思っていなかったからである。9-10P

著者はこのようにややシニカルな回答を示して、そうした戦前期の価値観は今とはずいぶん異なる、という話の導入に用いているのだけれど、これはやや質問と回答がずれている。先の大戦を指して言う「愚か」とは、一般に戦争それ自体ではなく、日中から日米開戦へといたる展開においての無謀さを指すはずだからだ。まあそれは措くとして、著者は次にこう書いている。

人はさまざまな行為を通して「国民」となるのだが、ここでは選挙権を行使して一票を投ずることによって、国民となるのである。普通選挙によって、無産大衆ははじめて<主体>としての国民になることができたのだ。22P

普通選挙国民国家の関係から、政策に「国民大衆」を意識することが強まってきたことや、帝国日本において、誰が国民だったのか、という国民の境界線もまた「帝国」の時代の主要な問題となる。いかな戦前とはいえ、国民大衆の民意を無視して国を動かせるわけではない、ということ。

これは、満洲事変以後の政治状況に対する議論につながる。著者は中野正剛の言説を紹介しつつ、「人種平等、資源公開の原則」によって満洲事変を肯定していることを指摘し、その流れにある政党・国民同盟が「国際正義」「恒久平和」「搾取なき正義社会」といった理念がナショナリズムの「新しい容器」として現われていることを論じている。そして、「満洲事変とともに確立した「生命線」というイデオロギーは、一方で歴史を動員すると同時に、現在の国民生活救済、国民の生活権確立と結合されたのである」と指摘する。そして、重要なこととして以下のように続ける。

事変の以前においては、ともかくも事実ではあっても不合理で危険なものであった「国民感情」が、「生活権」と言い換えられることで、誰にも批判できない正義に転換していくからである。
 このようなイデオロギーにとってもう一つ重要であったのは、第一次大戦後の世界的な風潮だった帝国主義植民地主義の否定という理念をかいくぐって、満蒙権益を正当化する論理を提供したことである。大衆の「生活」問題を介した満蒙問題と国内政治の結合が、そんなアクロバットを可能にした。大衆政策としての帝国主義というわけである。いや、満蒙権益は「搾取」なきものとされるのだから、それはもはや帝国主義ではないのだ。169-171P

このことは、「「聖戦」イデオロギーを最も積極的に鼓吹した政治勢力の一つが、ほかならぬ社会大衆党であった」という指摘とも通底する。当時の「聖戦」の意義として主張された、欧米資本主義から東洋民族を解放すること、日本民族の民族的意義、資本主義を改革して全体主義を建設するため、とした主張を引用しつつ、著者は以下のように注意を促す。

こうして、戦争は日本の労働者・農民のみならず、アジアの非圧迫民族をも解放する「聖戦」となるのである。日中戦争を「聖戦」、すなわち旧来の帝国主義戦争ではなく解放戦争であるとする立場が、国内の「革新」、すなわち資本主義を打倒して労働者・農民の生活を改善する変革であるとする立場と、セットになっているのに注意しておきたい。223-224P

こうして戦前の政治思想のねじれを指摘するわけで、またここには「戦時体制の強化は国内体制の合理化、社会化であり、本質的には社会主義への接近である」という大熊信行の回想を引いてもいる。これはこれで戦前社会体制に対する指摘としては、女性の社会参加などとともにむしろ常識的な知見だろうか。

本書では最後に「戦時」社会における女性やモダニティを論じており、雑誌デザインなどに見られた「戦時」と「モダニズム」の結合の興味深い事例を紹介している。

読んでいて特に面白い一冊、というわけではなかったものの、戦前期日本の概説としては手堅いものだろうか。

河野康子 - 日本の歴史24 戦後と高度成長の終焉

戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24 (講談社学術文庫)

戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24 (講談社学術文庫)

通史パートの最終巻となる第二十四巻は戦後から刊行当時までの五十年ほどを扱う。原本は2002年刊だけれど、2009年の民主党による政権交代を受けた言及が多数含まれている終章は改稿されており、一応は文庫版刊行当時までの範囲はカバーしている。ただし、本書は五十年を超える日本戦後史を書くにあたって、政党政治史を主軸としており、その範囲を出ない。その点は要注意だ。

概ね、戦後政治における五五年体制の形成と解体について、というのがポイント。個人的に面白く読んだのは敗戦直後から五五年体制が形成されるまでを扱ったところで、憲法制定の過程、戦後政党の形成、吉田茂の楽観とGHQの政策との落差などだ。つまりは現在に至る現代史を規定する基本的な構図がいかにして作られたか、という部分。

そもそも敗戦、にかんしてポツダム宣言受諾によって敗戦となったわけだけれど、受諾にかんする議論が合意形成に苦慮したのは、「天皇の地位について明確な表現がなかった」からだとされていることが気になる。そしてそのあいだに二つの原爆が落とされる。ここには原爆を実地試験するためのアメリカによる思惑があったという話はあるものの、国体護持を国民よりも優先させたことによってその罠にはめられた後になってなされた「聖断」のいったいどこが「聖断」なのか、とは思う。

また憲法制定のさい、その草案がマッカーサーGHQから出されたもので、そこには事実上の強制があったという話は既に知られたものだけれど、それは当時隠されていたことに注意を促している。そして議論の上でも、天皇の地位やその他の問題は世論を活性化させることなく決まる。

このような状況を所与のものとしてスタートせざるを得なかった戦後政治においては、「戦後政党にとって最初の課題は、軍部と官僚によって引き起こされた戦争を、どのような論理で否定するかにかかっていた」といい、鳩山一郎片山哲芦田均といった人物はいずれも戦時議会の少数派に属しており、自由党民主党社会党といった戦後初期の主要政党は、「いずれも戦時体制への抵抗という事実をもって戦後政治へ向けての正統性獲得を求め」たと指摘している。

また、戦時中対米和平を画策し憲兵に捕えられ投獄されたこともある吉田茂の敗戦に関する指摘が興味深い。吉田は敗戦直後「此敗戦必すしも悪からす」と書いた書簡があるように、敗戦を歓迎した点もあった、これは吉田のデモクラシー観によるとして著者は以下のように指摘する。

つまりデモクラシーは吉田にとって、軍部台頭のもとで中断された政党政治の伝統を、戦後に向けて回復し再建することに他ならなかった。
 そうであるならば、「軍なる政治の癌」を切開除去し、よき戦前に回帰することで、吉田はポツダム宣言を十分に履行できると考えていたのではないか。27P

しかし、このような考えは後に瓦解する。占領改革が進み、憲法制定のなかで、戦犯の疑いがある近衛が憲法制定に関わることに対する批判が起こり、近衛が戦犯として逮捕される前日に自殺する事件に至る。「よき戦前」への回帰などという想定が絶望的となったことを象徴する事件だと著者は述べている。新憲法は、天皇自身の「象徴でよいではないか」という発言もあり、GHQ草案を基本的に受諾し発表される。

その後もたとえば、講和が最初はより懲罰的な面を持っていたこと(ボートン草案)、それが、マッカーサーから「帝国主義的」だとして退けられたことは興味深く、しかしそうした宥和的な政策に対し、日本軍の攻撃を受けたフィリピン、英連邦のニュージーランド、オーストラリアといった国にとって、「日本の軍国主義の復活を防止する意味で、懲罰的でなければならなかった」として、イギリスが牽制をしかける構図がある。

1974年にも、タイ、インドネシアで、日本企業の進出と拡大に対するボイコットなどがあり、田中角栄首相が反日デモに取り巻かれる事態になるなど、占領統治の傷跡が対日感情に陰影をもたらしていた。

戦後政治、しかも政党政治を軸にしており、戦後政治をその面から概観するにはこうなる、というだろう感じで、戦後直後の動きは面白いものの、やはり扱う時代が直近でかつ広すぎるためか、やや薄い。この時代の概説には岩波新書の「シリーズ・日本近現代史」が新しい。ただ、五十五年体制の終焉をむかえる90年代以降、そして小泉政権によってそれが完全に解体する、という終章のポイントはなかなか興味深い。やはり、基本的に五十五年体制の形成と終焉、という軸で書かれており、その点から読むならいいのではないか。

日本の歴史25 日本はどこへ行くのか

日本はどこへ行くのか 日本の歴史25 (講談社学術文庫)

日本はどこへ行くのか 日本の歴史25 (講談社学術文庫)

講談社の「日本の歴史」シリーズ最終巻は、論点巻として七人の論考が掲載されている論文集となっている。いずれも、近現代史の論点を扱っており、国民国家をどう考えるかというのが大きなキーワードとして通底しているのが見て取れる。

特徴的なのは外国人による論文が半分以上を占めていることで、アメリカのグラック、フジタニ、ハルトゥーニアン、オーストラリアのモーリス=スズキが参加しており、また国内の研究者も、琉球大学の沖縄研究者比屋根、京都のアイヌ研究者岩�啗、そして在日韓国人二世の姜、という執筆陣となっており、いずれも外部あるいはマイノリティの視点から日本を論じるスタンスを共有しており、非常に野心的な編成だといえるだろう。通史巻ではどうしても取りこぼされてしまう少数者の視点を論点巻で補うのは、中世史の論点巻と同じ試みだ。

冒頭に据えられたキャロル・グラックの論文は、二十世紀を語る大きなキーワードを多数俎上に挙げながら、そこに二項対立の抜きがたい桎梏が打ち込まれていることを確認しつつ、「近代」が必ずしも西洋の専有物ではなく、各国でその国なりの「近代」が生まれていたことを指摘する、メタ歴史学的な論考になっている。

そして、つづく四者の論考はいずれも具体的なマイノリティの視点から「近代国民国家」、を問い直すものとなっており、どれも興味深い論考となっている。

姜尚中の論考は、日本における朝鮮蔑視の歴史を概括するもので、ややあっさりしている気もするけれどいい。この人は岩波の『ナショナリズム』が面白かった覚えがある。

テッサ・モーリス=スズキの論考は内容自体は国境の分断によるアイヌらのたどった運命とそのアイデンティティのあり方の変化を論じるもので、『辺境から眺める』の縮約版にも思えるものの、小笠原諸島への言及や、琉球への言及などは新味のある話もあり、ともに読んでおいて損はないだろう。

個人的に最も面白かったのは比屋根照夫の論考で、近代沖縄の服属と統治の話から始まり、「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷と、その実弟・伊波月城の思想を紹介しつつ、そこにコスモポリタニズムを見出すもの。名前は知っていた伊波普猷はともかく、彼に弟がおり、弟もまた新聞記者として活動していたというのはまったく知らなかったので、この両者を扱うこの論考は非常に面白かった。アイヌ知里姉弟を思い出させるところがある。

岩�啗奈緒子の論考はモーリス=スズキと共にアイヌを扱っており、こちらはアイヌの漁業と狩猟という生業にまつわる権利が、近代において剥奪される断絶の過程をたどるのとともに、日本近代歴史学のなかでアイヌがどのような存在として語られてきたのか、ということを論じている。アイヌ同士の争論過程から漁業権が当時どのように見られていたかをたどるくだりが面白い。

そして、タカシ・フジタニによる論考は「象徴天皇制」にかんする言説を見ていくもので、原本刊行当時盛りあがっていた女性天皇問題にも触れている。そこでは男女同権の時代に女性天皇がふさわしいという言説がまま見られたものの、天皇が女性だと言うことと性差別の解消には関係がないし、「血」にまつわる人種観を固定するものともなりうるとし、天皇制には「代表的日本人」という「人種的ないし民族的秩序の構築」に役立つものとして機能する可能性を指摘している。

そして最後にハリー・ハルトゥーニアンの「近代日本における国民的主体の形成」という副題をもつ論考が置かれている。ぽつぽつ面白いことが書かれているとは思うけれど、長大な論考を要約したような高い抽象性と密度の濃い文体で、全体に呪文にしか見えなかったのでコメントは控える。

どこへ行くのか、とはいっても基本的に歴史学の論考なので、未来予測でもなんでもなく、日本という近代国民国家の抱える問題をその個別的論点から見ていく論考を多く含むものとなっている。グラック論文はより広い視点から二十世紀の歴史の語られ方を扱っているように、これらの個別論点を他国の問題と比較して「日本」の輪郭を描き出すような論考も欲しかったとは思う。

最後に

全巻通読してみて、やはり本シリーズはやや中級向けで、入門書的なものを期待して読むと全然面白くない専門性の高い話が続く場面等もあり、そこらへんを考慮して読むといいと思う。叙述が硬いぶん手堅い印象。入門書的な導入と叙述の面白さの点でいえば、やはり中公文庫版がボリュームもあっていいし、古さと分量が問題ならば、小学館ライブラリー版のものもいいと思う。

全体的に見ると、やはり古代史パートは興味の持てない詳しい制度史的な記述が多かった覚えがあり、つまずきどころかも知れない。中世以降は、書き手ごとにスタイルが異なり、古典的な政治史的、人物史的叙述を採る人もいれば、そうでない人もいる、という風に、書き手のスタンスによる。

古代、中世、近世、近現代、のなかでは一番面白かったのは近世だと思う。巻ごとのアベレージが高かった印象。古代史は面白いものは突出して面白い。

面白かったものを挙げるとなると、00.02.07.12.14.16.18.19となり、近現代はあえて挙げると21、論点巻の25も中盤は良かった。