現代東欧文学全集1 ノンカの愛 他 ペトロフ〈ブルガリア〉

*1
幻視社で〈東欧の想像力〉特集をやった時から読もうと思っていた恒文社の東欧文学全集。去年の夏、全巻セットを買ったので、読もう読もうと思っていたものにようやく着手できた。これから月一程度で順々に読んでいこうと思うけれどもちょっとこれから用事がたてこむので毎月更新できるかは不明。12巻のアンドリッチ『ドリナの橋』については既に記事を書いた。つまりこれで二冊目。
全巻の書誌情報及び既訳他書については労作の下記サイトを参照。
http://homepage1.nifty.com/ta/0ka/kobun2/toho.htm
第一巻は版元いわく日本でブルガリア文学がまとまって紹介されるのは初めて、という一冊。ペトロフ、カルチフ、スターネフの作品を収録。1967年刊、第五回配本。赤い表紙にビニールカバーがかかっている本体が、黒い箱に入れられており、また箱には全体を覆うフルサイズの帯が巻かれている。

現代東欧文学全集〈第1〉 (1967年)

現代東欧文学全集〈第1〉 (1967年)

後にこの全集の他の巻のように「東欧の文学」シリーズの一冊『ノンカの愛』として再刊されており、四十年前の刊行にもかかわらず新品で入手可能なようだ。
ノンカの愛 (東欧の文学)

ノンカの愛 (東欧の文学)

目次は

松永緑弥*2矢代和夫「英雄と詩人の国ブルガリア」……3P
ペトロフ「ノンカの愛」松永緑弥訳……23P
カルチフ「愛の終り」矢代和夫訳……235P
スターネフ「桃泥棒」松永緑弥訳……429P
阿部知二「わたしの作品論」……483P
月報
萩原直「バルカン研究国際会議開催の意義」
岩淵正嘉「ブルガリア文学の映画化」

という形。上下二段組で一ページあたり1100文字程度。文庫本等だと1.5倍程度のページ数になるだろう。

この全集には巻頭に訳者等による当該国の歴史文化の概説と、作者と作品の解説があり、巻末には著名な作家評論家によるエッセイ的な作品論が置かれている。また、月報にはこれ以外に訳者略歴や編集コメント、次巻予告などがある。オリジナルの栞がついており、これに登場人物一覧が載っているけれども、時に物語結末を明かしている時があり、油断できない。私の持っているセットではいくつか栞が欠けている。

以下収録作品について。ブルガリア語なので本当はキリル文字なのだけれど、私がまったく分からないし、解説での記載に準じてアルファベットで表記する。

イヴァイロ・ペトロフ - ノンカの愛 Ivailo Petrov (1923-2005) "Nonkinata Lyubov" 1956

ペトロフブルガリア北東部、黒海に面した南ドブルジャ地方、ブルガリアの穀倉地帯と呼ばれるトルブーヒン州(現在のドブリチ州)出身。ソフィアで大学に通い、法律を学んでいたものの文学に転じる。また第二次大戦中は反ファシスト勢力の祖国戦線に参加しており、初期にはそれを題材にした作品を書いている。トルブーヒン州は現在ドブリチ州と改名されている。トルブーヒンというのはブルガリア解放を指揮したソ連の元帥の名だった。ドブルジャはルーマニア語ではドブロジャとなり、この地方は戦争によってブルガリア領になったりルーマニア領になったりしている。年表を見るに、ペトロフが生まれた頃はルーマニア領だったようだ。北部はルーマニア領。

本作は農村での恋愛を扱った長篇。舞台はペトロフの出身地だろうか。ブルガリアの一農村で、働き者で美しいノンカという女性の恋愛と結婚を物語る。養豚場へ働きに出て、仕事のできる前向きな女性として魅力的に描かれるノンカは、村の男、ペータルに心奪われる。ペータルもまたノンカを愛し、二人は逢い引きを目撃されたことをきっかけに、幸福な結婚を迎えるのだけれど、さまざまな問題が起こってくる。

第一に、ペータルの母親ピンテースカは親友の娘で、ペータルとも仲の良かったマリイカを気に入っており、ノンカをよく思っていないことを結婚前から公言しており、折り合いが悪かった。ペータルの父親は働き者のノンカに好意を持ち、とてもよくしているのだけれど、ノンカの居心地はよくなかった。

そして、ノンカは立ち上げからかかわっていた養豚場での労働に非常に思い入れを持っており、結婚してもずっとそこで働いていた。しかし、姑のピンテースカや夫のペータルはそれをよく思っておらず、家庭へ入ることを要求し、それにも従わないノンカを、結局ペータルは無理矢理に家に戻してしまう。

それでもピンテースカはつねにノンカのやることなすことにケチをつけようとしており、養豚場という生き甲斐を奪われたノンカはますます追いつめられ、さらには二年、三年たっても子供ができない、という不妊がノンカをさらに追いつめることになる。そして、ペータルもまた不妊にいらだちを見せ始め、ノンカはまったく地獄のような家庭生活を余儀なくされていく。

こうしたように、農村での結婚生活の様子を描いた作品になっており、牧畜、農耕と農業にたずさわる人々の生活を季節や自然の情景とともに描き出す牧歌的な作品だけれども、同時に女性の社会進出と保守的な家庭観とのすれ違いという現代的な問題がそこに横たわってもいることが興味深い。女性もまた労働に携わるべき、という思考は、共産党の指導のもとでのものだとも書かれており、党の指導を背景に持つ新しい社会観を肯定的に描いているとも読めるだろう。作中、養豚場へノンカを働きに行かせるか争論になったとき、党の人物はペータルにこう言い放つ。

「おまえは集団労働と女性に対し正しい観念をもっていない。まだ頭にトルコ支配時代のターバンをつけているんだ」136P

古くささを難じる罵倒文句がトルコ時代というあたりに土地柄が出ている。

ただ、党を好意的にだけ描いているわけでもなく、作中ペータルが、この地方では種蒔きの時期をもっと遅らせるべきだと主張したのに、党はトップダウンで役職を解任してでも種蒔きを強行し、ペータルの予期通り霜によって種が全滅してしまう結果になるあたりなど、強権的な指導を皮肉っているらしき描写もある。

とはいうものの、基本的には新婚夫婦と姑という、古くからどこにでもある普遍的な問題をめぐって書かれている作品で、新婦が働くべきか家にはいるべきかという問題や不妊をめぐる不和、そして妻の味方になってくれない夫という構図は今だにリアリティを持って読める話ではないだろうか。

姑の厳しさに対して、舅が非常に嫁を買って好意的という嫁ぎ先の家庭と、実母がやはりノンカの養豚場勤めに対して否定的で、実父は娘にとても甘い、という両家庭でともに、男は女性の社会進出に肯定的で、女性は否定的、という構図は、どちらにしても男が賢明なように書かれているきらいがあり、時代的にはまあそうだろうなとは思うものの、女親と男親の娘への態度の違いはなかなかにリアリティがあるようにも思う。だから、このこの男女の嫁への態度の違いは、単に異性には甘いという男の生態を書いているだけともとれる。

一点付記しておくと、本作は三人称視点で場面ごとに内心を語る焦点人物を変えていくという手法で書かれており、特に前半、ノンカとペータルがともにまだ詳しく知らないお互いのことを恋いこがれている時、偶然、お互いの姿を認めて相手のことで内心一杯になりながらすれ違う瞬間に、ペータルからノンカへと視点が切り替わる見事なシーンが印象的だった。

カメン・カルチフ - 愛の終り Kamen Kalchev (1914-1988) "Dvama v Noviya Grad" 1964

カルチフはガブロヴォ州のケエレカ村で生まれ、中等教育の頃から労働運動に参加し、のち共産党に入り、その活動によって投獄されている。プロレタリア詩人の主宰する地下文学サークルで作家活動をはじめるという筋金入りの左翼作家といえる。

「ノンカの愛」が農村での牧歌的な作品だとすれば、こちらはある程度市街部での生活を舞台にした長篇となっている。原題は英訳では"Two in a New City"あるいは"In the New Town Together"、「新しい街での二人」というもの。舞台となっているのはハスコヴォ州ディミトロフグラド(ディミトロヴグラド)という戦後建設された新しい工業都市。この都市の名前は、ゲオルギ・ディミトロフというブルガリア共産党の指導者で戦後ブルガリア首相ともなった人物にちなみ、その遺体はレーニンのように首都ソフィアの九月九日広場*3にある霊廟に、一九九〇年、ブルガリア共産党の下野に伴い墓地に埋葬されるまで生前の姿で安置されていた。

主人公または「私」という語り手としてあらわれるのは、マリン・マスラールスキーという38歳の男。トラック運転手をしており、工場を行き来して生計を立てている。そしてこの男は十年前にある事件によって党から追放され、そのことによって妻と離婚する羽目になった。他の人からもっと出世できる、他の仕事もできる人だなどと言われても、自分はこの仕事を続けていく、と答えるような多少拗ねたところをもつ意固地な人間として書かれている。

飲み屋で喧嘩をしたり、少々荒んだ生活をしていたマリンだけれど、そこに元妻のヴィオレッタが現われることでさまざまな変化が起こることになる。微妙な距離感のうちにある元妻は他の男と付き合ったりしているのだけれど、その男はまた別の女とも付き合っており、二股を掛けられていた。二股を掛けていた男はエフゲニー・マスラールスキーといい、彼が宿舎で事に及んでいるところを見つかり、エフゲニーだけでなく家主もまた売春斡旋の疑いで逮捕されてしまう。この事件によって、同姓のマリンにあらぬ噂が立てられることになる。この同姓のエフゲニーは以降も不愉快な形でマリンと関わり続けることになる。

この四十前の男と、七歳ほど年下の元妻との微妙な関係を描いていくわけだけれども、「ノンカの愛」と比べてこの作品はどこかわかりづらい。ノンカが非常にシンプルな作品だったのに対し、本作は主人公の一人称でその鬱屈が反映されているということも一因だろう。解説で本作はスターリン批判(1956年)後の人間回復を主題としたもので、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が閉鎖的な場所を舞台としたものなら、こちらは工業社会での舞台でそれを描いたものだ、という風に書かれているのだけれど、背景事情がこちらにはほとんどないので、そうした点がうまく像を結ばない。以下の引用部分は確かにそういう解釈が至当だろう。

そうだった、一九五一年にわれわれは苦痛を知り一九五六年に再び大地に戻ったのだ。私はトラックを飛ばして高速道路を走っていた。ヴィオレッタは本を持ち歩いていた。われわれは沼地を泥まみれでもがき歩いていたのだ。そして、甦った大地に足を止めたのだ。戦いはまだつづいている。十月の轟きは死に、九月はすぎ去ったが、戦いはまだ終わってはいない。368P

確かに、本作の時代設定は発表された当時の1960年代を舞台としており、また、1951年の事件によりマリンは追放され、離婚を余儀なくされたという設定は、スターリニズム下での圧政を寓意したものとも解釈でき、そこからの立ち直りと再スタートを描いた本作のストーリーラインは解説の言う通りのようにも思える。ただ、一読者の私にはそうした点はあまりピンと来ず、工業社会化した都市の生活で、独身男が元妻と再会し、お互いの位置を再確認する、という再スタートの物語という風に読んだ。

ただ、その再スタート、作中で繰り返される「未来」の言葉にはつねに社会主義社会の建設、というお題目の残響が聞こえるのも確かで、戦後建設された工業都市という舞台ともあいまって、本作にはつねに社会主義下の生活のニュアンスがさまざまに見て取れるのが面白い。

また、「ノンカの愛」と並べると、対照的な点と共通点とが色々ある。基本的に男女の恋愛を軸にして社会状況を背景に描いている所がそもそも似ていると言えるけれど、そこでは農村と工業化した市街地という対比があり、また作中の重大事項として不妊と妊娠が鋭く対照をなしている。二十前後の若者と、三十四十の中年という世代も異なり、初恋と離婚者という対比もできるだろう。そして結末も非常に近いところまでいくものの結局は逆になる。それでいて、この二作で共通して印象的なのは新時代の女性の力強さだったりするのだから面白い。ノンカのポジティブで前向きな労働者という像と、元妻ヴィオレッタの文化的素養が高く決然とした姿勢と、二人ともバイタリティ溢れる存在だ。

エミリヤン・スターネフ - 桃泥棒 Emiliyan Stanev (1907-1979) "Kradetsut na Praskovi"

発表年は不明。ヴーロ・ラデフ監督、ネヴェナ・コカノヴァ主演で映画化されており、表紙カバー帯の写真はそこから。

スターネフはトゥルノヴォ*4に生まれ、その後ソフィアで美術学校に籍を置いたものの、画家になるには才能と金が必要だと確信し、官吏となった。その頃から小説を書き始める。ハンターでもあり、動物を扱った作品に定評があるという。また、スターネフの出身地、トゥルノヴォ州*5は第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた場所で、作中でも「古都」と評されるように非常に古い歴史を持っている。ドナウ他の河川と気候もあって、ブドウの栽培が盛んで、作中にもブドウ畑が出てくる。

本作は第一次大戦下での捕虜と大佐夫人との悲恋を描いた中篇。語り手の「わたし」が第二次大戦下での疎開の際、父の遺産を売却しに少年のころに住んでいた「古都」を訪れる所から始まる。そこで出会った老人が、語り手の昔の教師で、二人で歩くうち、町を離れた頃のまま残された「大佐の番小屋」を見つけ、そこで老教師が語り出すのが本篇の物語となる。

物語自体は年嵩の大佐に嫁いだものの不妊に悩まされる女性が、桃を盗みに畑にやってきた好男子のセルビア人捕虜と出会い惹かれてしまうという話で、当然のように悲劇的な結末をたどるほとんど古典的と言っていい作品だ。カダレの『死者の軍隊の将軍』にもこうしたエピソードがあったのを覚えている。不妊と年も違う大佐の妻として暮らしていることで抑圧してきたものが噴き出してしまうという展開は、上掲二作と時代設定の違いを反映したところだろう。

突然、夫に対する憎悪が、赤らんだ首筋を目の前に見せているこの老いだした軍人に対する憎悪が、彼女を襲ってきた。彼こそ彼女に人生を浪費させた張本人であった。彼こそ彼女をあざむき、将校の位と、きらびやかさと、幸福で確実な生活を作ってやるという口約束とで彼女を買った男であった。彼女にとって彼は戦争の化身、彼女の青春を失わせた元兇となっていった。だから彼女は、自分は彼に対してけっしてこのことを宥(ゆる)さないだろうと思った。448-449P

古典的な悲劇を非常に丁寧に語っている作品で、また巧みなのはこの語りが第二次大戦下を現在時としているところで、過去の悲劇を現在に引き寄せることで、二重写しになった戦争の惨禍を静かに批判している。双方において象徴的に出てくるのがドイツ兵で、鉤十字のあるなしの違いがあるものの、第一次大戦下では食糧等の無理な徴発に苦しみ、第二次大戦下現在でも険悪な雰囲気が漂っている。


というわけでブルガリア作品集でした。ブルガリア文学のなかでもたぶん王道的、スタンダードな作品を選んだと思しき構成でどれも女性が大きな存在として目立っている。そして長篇二作はともに発表当時の社会生活を庶民的な視線から捉えたもので、ブルガリアのでの生活の様子がうかがえる。

ちなみに冒頭のサイトをみてわかるように、ペトロフ、カルチフは邦訳はここにあるだけ。スターネフは他に短篇が一つ訳されている。明記されてはいないものの、ブルガリア文学者松永訳のものはまず間違いなく原典訳、矢代訳もたぶんそうだろう。奥付クレジットから見てもそうだと思う。ユーゴの巻の月報での編集部の言い分だとドイツ語からの重訳を用いたユーゴ巻以外は原典訳らしい。ただギリシャカザンザキスを訳しているのは英米文学者みたいなんだけれど、これは重訳ではないのだろうか。

作家情報は本書解説にない没年部分はウェブを適当に検索して見つけた情報を使っているので誤りがあるかも知れない。歴史や風土にかんする情報は以下の文献を参照した。27州の風土の解説と、160ページほどのブルガリア史概説、また文献案内がついている。

ブルガリア―風土と歴史

ブルガリア―風土と歴史

通史は古代から戦後直後まで、バランス良くコンパクトに記述している。ただ、地図が少ないため地名で場所が見当つかないとわかりづらい。また、この本は編訳ものなのに原著者が書かれていない。後書きによると、風土の部分は元になった著作を大幅に増補しており、歴史の部分は、ブルガリア著作権協会から提供された、複数のブルガリアを代表する歴史学者による概説書のタイプ原稿を元にしており、これは翻訳の計画が中止となったため、本書のために抄訳し、またさらに日本人読者のために削除したり追記したりして作成したものとのこと。訳してもいるけれど、かなり手が入っていることもあって、こういう表記になっているものと思われる。

私が生まれる前に出た本なのに、新刊で買ったら初版一刷が送られてきた。恒文社は、何十年前の本でも品切れにならないところだけれど、どうしてそれが可能なのだろうか。値段も安いなと思ったら発行当時の定価のままだった。

0820書誌リンクと翻訳の情報を追記

*1:背表紙が軒並み焼けまくっているけれど、本来はもっと鮮やかな色をしている。左端の背表紙と表紙画像を見比べてもらいたい

*2:あるいは「緑彌」。訳書によってはそちらでクレジットされているものもある。緑彌が正式な表記だろうか

*3:共産党らが糾合した祖国戦線がファシスト政権を倒した記念日

*4:一般にはタルノヴォ

*5:現在はヴェリコ・タルノヴォと改名、「大」を意味する「ヴェリコ」が付されたのは1965年から。南東部ブルガス州にマルコ・タルノヴォという町がある。