後藤明生再読 短篇「疑問符で終る話」

疑問符で終る話 後藤明生・電子書籍コレクション

疑問符で終る話 後藤明生・電子書籍コレクション

電子書籍版再刊便乗企画。今回は作品集『疑問符で終る話』表題作のおよそ三十ページほどの短篇。1973年3月「文學界」発表。団地ものの一つといえる作品だけれど、団地生活の奇妙な関係を焦点に当てるのではなく、中心になっているのは「テレビ屋」との「玄関における戦い」とよばれる、新品テレビ購入の勧誘をいかに撃退するか、ということだ。壊れたテレビの修理を頼んだテレビ屋は、新しいテレビをお買いあげいただけるなら修理代はタダにします、と修理代を受けとらずに、なんども勧誘に現われていた。

問題がテレビ屋との戦いにあるため、ギャグ色が強く、「とにかく被害者にだけはならないことだ」という「男」の意気込みが奇妙な空回りを見せるような饒舌の脱線が見どころといえる。

放屁を我慢しすぎることが女性の盲腸炎の原因だという産婦人科医の談話、週に三回ほど「男」が泥酔してタクシーで朝帰りになることをマイカー族ならぬ「ハーフ・カー族」と呼ぶこと、壊れたテレビが狂ったような音を出すことに逆上しそうになるある日の「男」、テレビ嫌いの妻とのテレビ論争要不要などなど、いかにもどうでもいいような話が後藤明生流の奇妙なロジックで展開されていく。

特に、妻の話を受けて、テレビ番組には確かにこちらの腹を立てさせるものがある、ということから始まる、河出書房新社版の25ページあたりの記述はほんとうにおかしい。確かに腹が立ってテレビを投げ捨てたくなるような番組はある、と言い、そして腹が立って団地の屋上から飛び降り自殺をしたくなるような衝動が起こったとしてもいったい誰に否定できるのか、と続けるあたりで、一端こちらは「え?」となるのだけれど、男はそのまま話を続け、そのテレビ番組は男に自殺させるために作られたのではなく、その証拠に団地の多数のベランダには多数のアンテナがあるからだ、というのは確かにその通りなのだけれど、間髪入れずにカラーと白黒の比率はどのくらいだろう、などと言い出し、まだ白黒が多いのでは、という自問自答をしたと思ったらそれは「いま問題ではない」、と仕切りなおして、ある男が屋上から飛びおりたその瞬間、あるダイニングからは笑い声が聞こえてこないとも限らない以上、その番組は男に腹を立てさせるために作られたのではない、と語る。

無理がある。明らかに屋上から飛びおりる男と笑いのあるダイニングを対比させるために、怒りによって屋上から飛びおりる男というわけのわからない仮想の存在が出てきており、この無理矢理な感じがおかしすぎる。ここでなくともやはり全体的におかしいので、つねにボケ倒されているような感じがする作品だ。

ただ、じつは今作にも朝鮮体験が出て来る。子供と一緒に風呂に入り、水鉄砲でタライを狙う内に、朝鮮に住んでいた時、野戦演習があると兵隊達が男の家にも泊っていき、家の前に立てかけられた銃の数を子供達が自慢し合っていた、ということを思い出すくだりがある。実銃を撃った経験はないけれど、「三八式歩兵銃」の重さを感じたことはある、という戦争に遅れた少年のややノスタルジックな感傷がさっと差し込まれて小説全体をクールダウンさせる。

そして、いよいよテレビ屋との交渉という戦いに挑み、修理代を払うから新しいテレビは要らない、と「男」は敢然と断言するのだけれど、テレビ屋はまったくひるまず、修理代を半額にし、「お宅さんの結論はうかがいましたが、まだこちらの結論は出していませんから」という煙に巻いたような返答でもって、帰っていく。

「男」の「戦闘」癖は以前からも指摘しているとおり、ここでも過剰な敵対性の導入が行われるのだけれど、力強い意気込みを饒舌に語りつつも、結末においてそれが見事に脱臼させられてしまう。加害者と被害者、という二項対立の図式がすぐさま失調してしまう空転の有様が、まったくどうでもいいような疑問符で締められることで、脱力的な笑いをもたらすことになる。

「男」の朝鮮と軍に関する記憶ともども、戦いや暴力の脱臼というパターンは後の『挾み撃ち』にも見いだせる。というか、この時期のこうした試みが集大成されたものが『挾み撃ち』だというべきだろうか。

次回の電子書籍化は同書収録の中篇「行方不明」のはず。これは表題作として文庫化されたこともあるので、ある程度手に入りやすい作品だろうか。