『がっこうぐらし!』の生存の二つの相

基本的にこの手のものは、最後まで見てから言及したいとは思うのだけれど、最近はモードを変えて書けるうちに書いておこうと思います。で、これ。

日常ものと思わせてゾンビもの(というのも語弊があり、実際はミックスしている)だった『がっこうぐらし!』が話題になっているけれども、どうもそのなり方に違和感がある。「日常系」をひっくり返すみたいなサプライズで一挙に視聴者を驚愕に陥れたみたいだけれど、漫画原作が何年も前から出ているので私もそのネタ自体は前から聞いており、一話に驚きは特になかった。丁寧に作っているとは思う。

これをどう成立させるのかはまったく次話を待たないと判断しようもない、と思うほかなかった。なので、一話のサプライズを評価するのもどうも違う。そこはまだ、話のジャンルというか、手続き、段取りをしている段階で、そこを評価されても困ってしまう部分ではないか。

がっこうぐらし! 第2話「おもいで」 アニメ/動画 - ニコニコ動画
で、二話。これはずいぶん良かった。ここで、作品の基本的な構図が示されたかたちになったのだろうか。あるいは、ゆきとくるみのエピソードが描かれただけだろうか。まだわからないので私のここでの判断も甘いはずなのだけれど一応書いておく。

アニメ版は結構再構成しているという話もあるけど私は未読なのでわからない。

生存の二つの相

一話終盤と二話で、他に生存者がいない状況下でメインの四人はこの学校でゾンビと化した生徒たちから自らの身を守りつつ、救助を待っているらしいことがわかる。一名、ゾンビものの定番舞台ショッピングモールから生き延びて学校へやってきた者がいることもわかる。シャベルをもったくるみと、学校で普段通り?の生活を送っているつもり、のゆきに焦点化される話数。

一話で描かれたのは、ゆきがゾンビ化によって崩壊した学校で、誰もいない教室で友達と会話をし、授業を受け、割れた窓をきちんと閉めているという日常をおくる光景だった。それはほとんど狂的といっていい光景だ。ゆきが閉めたはずの割れた窓から風が吹き込み、髪が揺れるシーンのなんとも言えなさは印象的だ。

風の吹き抜ける部屋 (銀河叢書)

風の吹き抜ける部屋 (銀河叢書)

そして一話を見た多くの人たちは、ゆきがゾンビ化した世界を受け入れられず、幼児退行なりした狂人だという印象を持ったようだ。しかし、二話の冒頭と終わりで描かれるのは、ゾンビ化が訪れた時に、くるみの思い人が目の前でゾンビ化し、それを自らの手で殺害しなければならなかった記憶のフラッシュバックだ。思えば、学校というもっとも日常的な場所がもっとも崩壊しているというのが今作の状況で、くるみが殺して回っているのは全員がおそらくは元同級生や下級生に他ならない。二話は、そのくるみの原初のトラウマでサンドイッチされたエピソードとなっており、ラストでくるみは寝入っているゆきの手を握ってようやく安堵して眠りにつく。

(C)Nitroplus海法紀光千葉サドル芳文社がっこうぐらし!製作委員会*1
ここで示されているのは、シャベルを持ってゾンビを殺して回っている皆の生命・バイタルの生命線たるくるみが精神・メンタルの危機に瀕しているのを救っているのがゆきだという構図だ*2。そして、これもすでに指摘されていることだけれども、くるみ以外の人たちの支えにもなっているのがゆきの明るさだ。

この明るさは何に由来しているのか。幼児退行?生来の性格?というよりも、おそらくは、いつも通りの日常だからではないか。彼女だけがいつも通りに明るい。日常とは何か、それは昨日があったし、今日もある、そして明日があるという信頼と確信のことだ。そして「学園生活部」の四人のうち、ゆきだけがこの確信を持っている。他のメンバーはこの学校の外に生存者がいないのではないかという不安を持っている。このまま救助はないのではないかと恐れている。

いくら身体が健康を維持したとしても、精神が不安に駆られて失調を来せばそれは身体の失調となって現われる。生き存えるためにはメンタルとバイタルのどちらが欠けても心身は維持できない。われわれもまた明日を信じずには生きていることができない。それがなければ、気力や意欲の減退、習慣の崩壊、つまりはある種の抑鬱傾向として現われてくる。人はパンのみにて生きるに非ず。

パンのみに非ず 後藤明生・電子書籍コレクション

パンのみに非ず 後藤明生・電子書籍コレクション

つまり「日常」とは明日への確信のことだ。くるみがゆきの手を握って眠るシーンを再度見てもらいたい。ゆきはこう言っている。「くるみちゃん、来年もいっしょに……」。劇中、ゆきは授業を受け、部のメンバーも参考書を取りに図書室に行くなどして、未来・将来への準備を怠らない。未来があると思うことはこの先の希望があるということだ。希望があるということは、毎日毎日、日々の生活を考え、計画し、家事をし、日常を送るということに他ならない。丹生谷貴志が何かの本*3で書いていたように、「明日もまた、今日と同じようにやることがたくさんあるのだ!」ということだ。くるみが握りしめたのは「明日」そのものだ。

こうなってくると、ゆきの行動の意味合いが変わってくる。もっとも壊れているのがゆき、ではないし、狂人なのがゆきでもない、もっとも強靱なのがゆきだと考えてみなければならない*4。もっとも壊れている状況で、いつも通りの世界を生き、「日常」が昨日も明日もあると指し示す強さを三人に教えているのがゆきだと考えてみるのはどうか。どうか、っていわれても困るか。

何度も繰り返すようだけれどゆきとくるみの場面は、メンタルとバイタルの命綱が手を取り合うことで生き存えるかすかな望みとなって四人の明日を繋けている、きわめて印象的なラストシーンになっている。

日を繋けて (中公文庫 A 77)

日を繋けて (中公文庫 A 77)

というのは深読みかな。

「日常」と「非日常」

もういくつか思ったことを書いておくと。あまり下品ではないな、とは現時点では思う作品ではある。一話のサプライズぶりから考えると、嫌みさはない。

もう一点、「学園生活部」という設定に乗っているためか、全体に独特の空間ができあがっている。特に二話後半の肝試し。実際にゾンビがいる学校で肝試しも何もないもんだけれど。しかし、じっさいにゾンビがいるからこそ、肝試しが成立する。ゆきによって「非日常」が「日常」に反転させられ、肝試しの諸注意が対ゾンビの注意に転用される。

いや、そもそも、「学園生活部」というものが、学校を拠点とした救援活動、を部活動っぽい言い回しで表現したもの、ゆきに通じる言い回しに翻訳したものに他ならないわけで。この作品はこうした日常と非日常をたがいに流入させるような仕組みでできているように感じられる。日常ものをぶち壊す、というような悪意ある作品では今のところないし、むしろ、ゆきの位置づけからもわかるように、日常を哀切に希求すらしている。その点、以下の記事のような作品をタグでしか見ていないようなネタにするようなものではない(タイトルで読む必要はないと思って読まなかったけれどこの記事を書くために読んだらやっぱり読む意味はないものだったので特に読む必要はない)。
はてなブックマーク - 日常系アニメ難民を襲う悲劇、がっこうぐらし!ショックとは - LIFE IS HAPPY!!!
ニコ動に限らず、残念ながら、人が楽しく遊んでいるところにとりあえず否定から入って人が苦い顔をするのを喜ぶようなガキくさい遊びをする連中の格好のネタになってしまっているところがあるけれども、まあ作品の方はさすがにそんな志の低いものではない。
とはいえやや不穏なのは、作品冒頭でゆきは、最近学校が好きになってきた、と言っていることだ。誰もいなくなった学校が、好きになってきたとはこれいかに。自分自身で仮構した学校生活の虚構性を自分自身でわかっている前提のものだとは思うけれども。一つの国みたいだ、というサバイバルにあたっての前提も差しはさまれていたし、ここらへんはなんらかの伏線ではあろう。

がっこうとくらし、のうち生存には触れたけれども、あまり学校には触れていない文章だ。二話までではどうにも。「のんのんびより りぴーと」にまでゾンビネタを持ち込む馬鹿には怒りが沸く。しかし、入学式でれんげを迎える笑顔の兄貴(こいつ、笑顔という表情を持っていたのか)にはわけもなく涙が出そうになるな。

8/3 画像引用元、権利者表記を追加

*1:第二話より ここでシャベルも握っているのが象徴的

*2:この二人を囲むようにして皆が寝ているのも偶然だろうか。後輩の銀髪が一番奥で、まとめ役的人物が通り側、というのは自然とはいえ

*3:『家事と城砦』かな

*4:現実を認識している部分は「めぐ姉」という死んだらしい教師に外部化しつつ、自分は生徒としてそれに従う、というやり方でいるのもなかなかに戦略的だ