きのこ、腿太郎、ライト文芸、文庫ノンフィクションなど

高原英理『日々のきのこ』

半分以上菌類に侵された人数が人口の半分を超えるという菌類支配が進んだ世界で、菌類と共生あるいは侵食され、意識ごと変容していく人間たちを安らぎにも近い感触で描いた連作集。幻想小説の心でSFを書いたような、『観念結晶大系』の菌類版と言えなくもない。

菌類に支配される人間というSFホラーになりそうな題材を、むしろ快さとして描いている小説で、SF的ではあるけれども夢想的な何ものかへの変容を描こうとしている幻想小説要素が主軸だろう。ふわふわしていて、ユーモラスで、穏やかな、鉱物幻想とはまた対極的な感触の小品。

ホコリタケを踏んで胞子の拡散を助ける仕事というのが最初に出てくるけれど、これが成立しているのは土地の皆がホコリタケに侵されているからではないか、というところから始まる。人間それぞれが個別に持つ意識に対して、菌類の特徴は自他の消滅と生命の限界まで伸びていくものだとされている。

菌はあらゆる物質に取り付き、生命あるものならその細胞の間に入り込み、その隙間を埋め、自他の区別を消滅させてゆく。生命たちを取り込み、また取り込まれ、生命の可能性を限界まで引き延ばそう。48P

印象的なのは「一〇八型粘菌」持ちのパート。胞子を撒くための粘菌の変容によって人間が空を飛ぶことができるようになるところは、『観念結晶大系』にもあった空への志向を感じさせて著者の一貫性を感じるとともに地下的な菌が飛散する空のテーマが鮮やかで本書でも特に気持ちいい箇所だ。

意識の変容、時間感覚の変容の証なのか、三つの短篇で構成された本書の二つ目の「思い思いのきのこ」はどうも部分部分で描かれていることが繋がりそうで繋がらないなと思っていたけれど、時系列が組み換えられてるんだろうか。一篇目44Pの時茸はこの二篇目の説明としてあるように思った。

三篇目では冒頭、一文ごとに文章を書くものの意識が入れ替わるようなところがあり、菌に認識を支配されかかっていることを描く実験的な箇所もある。三篇目の主軸となるジンレイというほとんど菌になってる菌人と旅人が同じ山小屋に住むくだりは、性別もわからない相手との性的な関係がエロティックで、菌となった身体が女性器にも男性器にもなり、旅人の男性との不可思議な性的結合は精液すらも栄養になる菌人にとっては得でしかなく、旅人の小屋の外でした排泄物すらも菌糸から吸収していて、この二人がほとんど同化していく展開自体が官能的。

意識があるということへの疲れや重荷を眠るように下ろし、プール一杯の水のなかに薄まることを志向する心性が、菌類に安らかに取り込まれる魅惑的な同化へと手招きするような小説で、読んでいるうちに描かれている不気味なことが不気味でないように感じられてくる感染性がある。

ばふんばふんから始まる擬音や造語やの文章の触覚的なところも印象的で、言葉を通じて食指を伸ばす菌糸のごとき文章なのかもしれない。二篇目のみ初出が10年前の短篇で、それを真ん中において説明ともなる導入の第一篇と発展部の三篇目を書いた形なのかなと想像する。

深堀骨『腿太郎伝説(人呼んで、腿伝)』

デビューから30年を経て著者初の長篇小説。GさんとBURさんに拾われた女性の腿から生まれた腿太郎という、桃太郎をベースにしながら小林旭など昭和の芸能ネタや下ネタの類を満載して自由すぎる語り口でドタバタ劇が展開する「怪作」の快作。

突拍子もない展開や奇抜なキャラクター、独自の造語をその場で作ったり自己言及やキャラが語り手に言及したりもする融通無碍な語り口の素っ頓狂な作風で、こういうのは場合によっては駄々滑りしそうという懸念が序盤はあったけれども、ノリに慣れてくるとネタが分からなくても楽しめた。

腿太郎以外にもバラバラになった女性の体から生まれた者が何人かおり、この「コミュニティ」こと村では、過去にある女性が行方不明になっていて、バラバラ殺人が行なわれた過去が浮上してくるというのが物語の土台になっている。この殺人事件には年長の男性たち村の有力者が関わっていて、彼らによって犠牲になった若い女性の遺児たちが協力して戦うことになる。桃太郎の敵にあたる「鬼ヶアイランド」は実は有力者たちと繋がりがあって、そうした社会構造の描写は現代日本を意識した諷刺的な設計だろうか。

また、腿太郎を拾ったGさんとBURさんは爺さん婆さんと思って読んでいると実は若いゲイカップルだったと明かされるところは文章ならではの意表の付き方だったり、諷刺的な社会構造同様、荒唐無稽のようでいながら男性社会とマイノリティへの意識も感じられる。ゲイカップルもいれば占師姉妹のように飲んだくれもいたり、奇抜なキャラクターばかりなのもフリークス的な登場人物それぞれの肯定という意味もあるだろうけれどもそれと同時に、「行き当りばったリズム」とあるような語りというかギャグが楽しめれば楽しい。

最終盤であれが急に言及されるところは嘘だろ?って思った。アレが伏線だったのか、という。パラテクストを利用したトリックというか。

支倉凍砂『瀬戸内海の見える一軒家 庭と神様、しっぽ付き』

東京で会社がなくなって愛媛松山の祖母の遺した家に住むことになった女性が、腹を空かせた化け狐の少年を拾い同居生活を始めたら、そこに龍神の少女や狸の美女も訪れるようになって、という異種族同居ものの中公文庫のライト文芸ぽい本。表紙を見て絵が良いなと思って、そういや女性主人公ケモミミ同居ものが読みたいと思ってたんだ、という気持ちになって買ったんだけど、そういう気分にしっかり応えるちょうどいいエンタメ小説という感じ。キャラが揃ったところで話が大きく動いていくので、平穏な日常パートがもっと欲しかったなと思う。

狼と香辛料』の作者だけど、にわかデザイナー志望の転職活動中の成人女性主人公で、狐の少年への龍神少女のほんわか恋模様を間近で応援するみたいなところとか、わりと女性向けに設定組んできたなと思った。イラストの感じも美少女も描けばBLも描いてそうな人の良さがあるなと思ったけど実際そういう感じ。途中ネットのバズに頼る展開があるんだけど、そこでツイッターが出てこないのは昨今の情勢を見てのことだろうか。狸の国だという松山を支配する年寄りたちに対する若者世代の反抗、というジュヴナイル的なスタンスは懐かしくもあり、ネット世代の反映でもあり。

ただ、老人が強いため未来志向の政策が通らず年金と医療費で国の予算が食いつぶされるなんていう話にさらっと触れてるところ(168P)は気になった。そういや死んだ祖母が残した家に転がり込むところから話が始まることを思い出して、この二つが揃うとちょっと嫌な感じが高まってくる。年寄りはみな一人で生きてる訳ではないので高齢者福祉を削減した場合その家族に負担が行くので話は簡単ではないとはよく言われる。この主人公はそれをうまく回避している。本書の反大人的な若者の抵抗という物語が高齢者批判のニュアンスを帯びるとなると話は変わるし、死んで遺産を残す老人だけが良い老人なのか、と訊ねたくなる。この一節は、権力者の老人批判が老人がお荷物だという批判にスライドしていく不気味さがある。経済に詳しいという人、しばしば経済合理性を人権の上に置くことをリアリズムと思ってそうなことを言うのでわりに警戒している。維新的、というか。

そして、本書では年長世代がはっきりとした名前を持って出てくることがほとんどないのはその点で気になる。家の持ち主の祖母ですらそうだし、土地の有力者との交渉は狸の千代さんが肩代わりしている。登場人物を絞る意味では理解できるけれども、上記の件があると不気味な含みを感じないでもない。

実際作者は愛媛に住んでいたことがあるらしく、住んでないとわからないような実感的なニュアンスがあるのはだからか、と納得した。松山市というより伊予北条のあたりに祖母の家があり、松山市の合併での巨大化ぶりにはツッコミが入ったりしてる。松山市の観光案内の趣もある小説で、グーグルマップで地名をたどりつつ読んだ。上記の気になるところはありつつ、日常パートを増やして漫画とかにすると良さそうだなとは思った。

杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』

そういえばこの人読んだことないなと思ってちょうど新刊が出てたので買って、帯にネタバレ厳禁とあり話も死んだ作家の遺稿を探す話でまあその手のトリックがあるんでしょと思ってたら、それでもマジかよと驚かされた。トリックというか労力がすごい。こういうやつは作者が名前をイニシャルで出してる人がなんかそういうので有名な人らしいので類似例があるかも知れなくてマニアならまた違う感想かもだけど、よくやったなという感じだ。この仕掛け、作中のあれにしか意味がないのか、現実で利用できるものなのかどうか。

ちょい内容に触れるけど、犯人は早めにわかる。ただ本書が作中でノンフィクションとして書かれたものなのに、推理で特定個人を窃盗や器物損壊の犯人だと述べる文章がそのまま刊行されるのかと思うし、真犯人が一度も顔を見せないまま犯人として作品の外に排除される構成はえげつないなと思う。なんというか、感動的な話を仕組むための今作の犯人はまさに小説の設定を成立させるための装置でしかなく、それ故に人格も顔も名前も?与えられないようなものになっているところが気になった。しかしそれは見えるということが重要な意味を持つ本作においてあえてのことなのかも知れない。

やけに読みやすくてサクサク読めたんだけど、なるほどそれは仕掛けとも関係していて、なおかつこのリーダビリティゆえに仕掛けに気づかせないトラップにもなっていると思う。ある種の人はすぐ気づくかも知れない。しかしこれはこれで面白いけど大仕掛けなので別のも読んだ方が良いな。音楽ものとか。

柳瀬博一『国道16号線 「日本」を創った道』

日経ビジネス記者を経て現在大学教員をしている著者が、東京をぐるっと取り囲む郊外の象徴とも言える国道16号が走るエリアを日本近代の立役者として、また音楽文化の揺籃として、あるいは江戸以前から重要地域だったと主張する大掴みの16号線文化論。

「日本を創った」は過言だし論述が我田引水的になりがちで荒いところもあるんだけれど、このエリアに住む身としては色々面白く読める。そもそも私は免許を持っておらず専ら鉄道網で生きているので、道路からものを見る習慣がなかった。『生物から見た世界』でいう環世界の違いというか。

横浜横須賀などの港と生糸の生産で主要な役割を果たした八王子などの内陸部を繋ぐ重要なルートとして富国強兵の一端を担った歴史や、地形について、小流域という概念について、ユーミンクレイジーケンバンドに至る音楽の土台となった米軍基地の存在など、雑多な題材の情熱的闇鍋の観がある。

1945年、第二次世界大戦で日本が敗北すると、横須賀、横浜、相模原、八王子、福生、入間、柏などのちに16号線となる道路沿いに配備された旧日本軍施設は、進駐軍GHQに接収され、その多くが米軍基地とされた。結果、周辺は突如として日本のどこよりもアメリカに近い場所となった。映画、洋書、ファッション、家具、料理、酒、自動車……。まじりっけなしのアメリカ文化が流れ出した。そして米軍由来の音楽は日本の芸能を根本から変えた。36P

こうした戦後の音楽文化とのかかわりや、ユーミンが八王子の呉服屋出身だとか、矢沢永吉が横浜から音楽キャリアを始めたなど芸能史的エピソードが興味深い。

16号線エリアは「山と谷と湿原と水辺」がワンセットの「小流域」地形で、古来から人が好んで住んでいた場所だったという地形論の話や養老孟司の言う昆虫の独特の分布の仕方でわかることなども面白い。ただそれを16号線の特色として切り出すには比較検討の手続きが薄いと思う。激化する学生運動を都市部から剥がす目的で、法政大学、中央大学ほか私大などがキャンパスを郊外に移した、という歴史があるのはなるほどとは思うけれど、大学や城や貝塚がこのエリアには多数ある、というプロットの仕方も注意書きがあるようになんか恣意的な印象。

当時自由民権運動が高まっていた奥多摩、八王子、町田、立川、東久留米、三鷹、吉祥寺、調布、成城、喜多見などの含まれる三多摩地域の勢力を弱体化する目的で神奈川から東京に移管する、という話があり、これは大学の郊外移転と同目的の逆パターンだ。本書では触れてないけれど三多摩移管は他に水利権の問題もあるらしい。

相模原の古淵でヨーカドーとジャスコの巨大店舗ができたという話があり、あそこは友達の運転する車で通ることがあって、このエリアは何なんだろうと思ってたので有名な場所だったのか、と。「鉄道駅前よりもロードサイドが巨大な商業地区になった典型的な地域」、とある。

また、ブックオフ古淵で花開いたと書いてあって古淵店は行ったことがありあそこが一号店なのかと検索したら、一号店は古淵とはやや離れた相模原市の千代田にあったとあり、千代田は近いのはJRでは矢部、淵野辺、相模原なのでちょっと違う。現在本社が古淵にあるのは確かだけれど。一号店は確かに16号線裏手で古淵にもほど近い場所なので丸めればそういえるかも知れないけど、ちょっと気になる丸め方をしてるなとは思う。同様に、「16号線エリアは、あらゆる時代のあらゆる人間に好かれてきた」(252P)という末尾の一節も情熱がほとばしっているけど、どうかな、と思ってしまう。

ポケモン田尻智が町田出身とか解説が町田に縁のある三浦しをんなのとか、いろいろな文化をこの地域視点で見てみるという視点の置き方としては面白い。著者としては音楽、漫画、映画の16号線とのかかわりを論じたいという意欲があるようで、そっちのほうが面白いかも知れない。

ただ、16号線を論じるというなら鉄道との関係も比較対象として重要なんじゃないかと思った。都心で働く人が自然があって暮らしやすい郊外を選ぶという時の交通機関は鉄道が多いだろうし、環状道路と交差する放射状の鉄道網はセットで考えられてるはずじゃないかと思うので。

16号線エリアを擁する関東は、中国大陸や朝鮮半島から遠い上に、水害の危険もあり、当時の技術で大型都市をつくるのに適した規模の盆地や平地がなかった。関東平野はあまりに巨大な湿原であり、近世までの水利土木技術ではコントロールできない規模だった。266P

前近代では東京都心ではなくその周囲に重要拠点があったというのはこうした地形的な必然性があるというのは納得だけれど、16号がそこを走る地形的必然性への掘り下げが欲しかったかな。16号線の先行研究なども触れられてて参考文献が充実してるのは良い。

原武史『「線」の思考 鉄道と宗教と天皇と』

天皇と鉄道にまつわる著作を多く持つ著者が、北は北海道から南は九州までの鉄道に乗車し、天皇や宗教にまつわる土地を実際に訪れる紀行エッセイ。鉄道の走る空間とそこに潜む歴史の絡まりを体験的にも捉えようとする試み。「線」といえば前回『国道16号線』の感想を書いたけれど、こちらは道路ではなく鉄路が主題になっており、原本が一月違いで出ていた両書を同月に文庫化したのは線の思考としてワンセットだと版元が考えたからだろうし私もこれらが並んでるのを見てセットで買ったわけで狙い通りだった。

学者の書いたこちらのほうが色んなところへ赴く紀行文なのはちょっと面白い。鉄道マニアで天皇研究をしている学者なだけに、鉄道知識のよくわからない細かさや、記念館の新人ガイドの説明に詳細なツッコミを入れてこれじゃダメだと返してしまうなかなか面倒なオタクぶりはちょっと笑う。

軍都旭川の衰退を描く章もあるけれど、小田急江ノ島線沿いにあるカトリック学校の創設者の皇室とのかかわりから始まり、日蓮ゆかりの地が多数存在する房総半島、古代天皇の事跡と重なる阪和線新宗教の施設が多数ある山陽本線など、副題通り鉄道、天皇、宗教の関係を素描している。

上皇后が元々カトリックの家に育ちカトリックの女子大出身で、江ノ島線沿いにある聖心の布教姉妹会の前身聖心愛子会と関係があり、それをたどったところでは布教姉妹会がなぜかその創設者聖園テレジアを歴史から消しているという謎にぶつかるところは面白いけど、真相が明らかになるわけではない。バチカンの意向が働いているらしいけれど、その詳細は不明のままだ。戦後広大な土地を入手できたりと色々謎めいたところがあり、その謎が人脈とも絡まって皇室とカトリックとの意外な関係の糸口が見えてくる。

日蓮を追う章では、東京から房総半島東側の上総一ノ宮に向かうルートを陸地沿いに行くルートとフェリーを使って南側からまわるルートを繋げて、「房総三浦環状線」と著者なりに名付けている。前記国道16号を右にズラしたような環状線なのがちょっと面白い。なおここでは日蓮を襲撃した「東条景信」という私と同姓?の地頭が出てくる。実は私の父のさらに祖父が千葉にいたらしく、もしかしたらこの東條氏は私とも何か繋がりがあるのかも知れない。東條姓は徳島や千葉に多いらしく、千葉には東條郷、東條潘なんてのもあったらしいし東條英機は祖先が安房東條氏だという。遡ると同郷だったりするんだろうか。

九州での章では神功皇后への聖母信仰が取り上げられており、この聖母信仰はほぼ九州北部に限られるという。この中世からの聖母(ショウモ)信仰が浦上などに代表される九州のカトリック受容に影響しているのではないか、という推測は興味深い。

こうした知見を散りばめた鉄道旅行エッセイで、同行者と駅弁を食べたり行き先が地元のタクシー運転手も知らない場所だったり、色々なヒントを探りに行く、という風で必ずしも謎に答えがあるわけでもないけど、鉄道から見る歴史という視点は面白い。

奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

ボルネオ島に住む狩猟採集で生きる少数民族プナンの、感謝や反省をするということがなく、私有を否定する社会のありようを観察し、私たちの生きる社会との違いを考える文化人類学エッセイ。

狩猟採集民プナンの社会がどのようなあり方をしているかを題材に、毎回さまざまな文献を引きながら考察を加えていくまさに試論・エッセイのスタイル。すべての章にニーチェエピグラフが掲げられているほか、文化人類学、哲学、倫理学政治学、文学などがその都度参照され、著者の守備範囲も広い。

人から何か貰ったりした時感謝がない、というのはプナン社会で私有が否定されていることから来ている。狩りで手に入れた獲物は、誰が獲ったからだとかの傾斜配分をせず、必ず均等に成員に分配される。人のものを悪びれずに勝手に使ってしまうのも、人のものという観念がないことから来る。

慾を捨てよ、とプナンは言う。いわば、「本能」としての個人的な所有慾は、徹底的に殺がれる。つまり、人間には、生まれながら、自動的に共同所有の観念が植えつけられているわけではない。個人的な所有慾は殺がれ、後天的にシェアする心が養われる。
 なぜ、プナンは、独り占めを忌み嫌い、隣人にも分け与えようとするのだろうか? なぜ、みなでシェアしようとするのだろうか? それは、その場にいるすべての人間存在に、すべてのプナンに、自然からの恵みに頼って生き残るチャンスを広げるためではないだろうか。「今」分け与えて、あとで、「ない」時には分けてもらう。そうすることで、互いに支えあって、みなで生き延びることができる。個人所有を前提として貸すとか借りるのではない。そこには、ある〈もの〉はみなで分かち合うという精神がある。126P

いつ獲物が手に入るかわからない狩猟採集社会ではこのように均等配分を徹底することで、他日に受け取れる保証となる。こうした何ごとも状況次第な環境や、学校にも行かないプナンには、近代社会的な向上心や将来性といった観念がなく、「今を生きる」実践ゆえに反省が意味をなさない。

このような私たちの社会とはまるで異なる様相で成立しているプナンの生活は確かに、自分たちの社会を相対化する契機として非常に面白くはあるけれども、私的所有がないということは人権もない社会ではないか、という気もしないではない。プライベートという観念もなく人権以前の社会ではあるだろう。人権が必要とされるような社会的抑圧がそもそもない、というべきかも知れない。そういう尺度で見ようとすることが誤りだろう。赤ん坊の頃からの私有を否定する教育がなされるくだりの描写は、プナンがありのままの姿で生きているというユートピアではなく、その社会にはその社会の教育がある証左だ。

一つ思うのは、プナンの社会は非常時・緊急時が常態化したもののように見えるところだ。資源の独占を禁止したり子供たちも皆で育てたり、すべては状況次第で今しかない、将来性を考慮しない思考スタイル。プナンでなくとも、緊急時・災害時にはある程度プナン的な社会になるような気もする。私有、人権、未来、将来、学校等々、近代社会の常識的な観念は平常時というか、農耕社会的なものがあって始めて生まれるのかも知れないなんてことを思った。つまり、そうだとしたらプナンから学ぶとは一体どのように学ぶのか、それを私たちが何かしら取り入れることが可能なのかが気になった。

死者に戒名を与える日本と死者の家族が名前を変える葬送儀礼の違いも面白い。名前はおろかその人の身近な家財道具を焼き払ってその場を立ち去るという死者の痕跡をあらゆる形で消去するプナンの慣習は感染症対策にも似ている。

しかし本書で一番驚愕したのは日本でのことだ。著者が過去小学校で女子には男性器がないことを不審に思った小四男子が女子の下半身を触りだして騒動になった時のことを著者はこう書いている。

青木先生は、ある日のホームルームの授業でこの問題を取り上げた。先生は、最近女子の下半身を触ろうとしてくる男子がいます、と優しげに語り始めたが、名指しして、高橋くん、女の子が嫌がっています、そんなことは学校ではやるものではありませんよと、みなの前で高橋くんを諭した。 同じクラスには、高橋くんと同じ家に住んでいる彼のいとこにあたる、同じ高橋姓の女子がいた。青木先生はそれに続けて、もし女の子にどうしてもそんなことをしたいのなら、家に帰ってから、いとこの高橋さんにお願いして触らせてもらいなさいと付け足したのである。211P

おぞましいにもほどがあると思った。担任は女性教師だという。学校での問題を女の子一人を生贄に解決する提案が教師からなされるというのに本当に驚いてしまった。学校でのことは家庭に押しつけてことなかれ、という態度も見えるし、著者がこれに当時は良い解決だと感心したというのも、ちょっと、どうか、と。

現代人とは隔絶した生活をしている民族を描く人類学エッセイで一番驚いたのが七〇年代の日本でのこと、というのに色々考えなくもないけど全体には興味深いエッセイだ。


よく見ると分かるけど杉井光からの四冊はすべて同月に出た新潮文庫の新刊で、なんか気になるのが複数まとまっていたので、ちょうどよい、とまとめて買ってまとめて読んだ。ノンフィクションも含めていつもなら読まなかったかも知れない本をあえて買ってみたもので結構面白かったかな。

ジャン=ルイ・ド・ランビュール編『作家の仕事部屋』

バルト、レヴィ=ストロースル・クレジオビュトール、モディアノ、サガンソレルストゥルニエ等々1970年代フランスの錚々たる書き手に仕事の方法、執筆の仕方を聞くインタビュー集。筆記用具、部屋、時間、さまざまなこだわりが読める。

収録作品:作家の仕事部屋/ジャン=ルイ・ド・ランビュール 中公文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア
リンク先にもあるけれどインタビュイーを列挙する。
ロラン・バルト
アルフォンス・ブダール
エルヴェ・バザン
ミシェル・ビュトール
ジョゼ・カバニス
ギ・デ・カール
エレーヌ・シクスー
アンドレ・ドーテル
マックス・ガロ
ジュリアン・グラック
マルセル・ジュアンドー
ジャック・ローラン
J・M・G・ル・クレジオ
ミシェル・レリス
クロード・レヴィ=ストロース
フランソワーズ・マレ=ジョリス
J・P・マンシェット
A・P・ド・マンディアルグ
パトリック・モディアノ
ロベール・パンジェ
クリスチアーヌ・ロシュフォール
フランソワーズ・サガン
ナタリー・サロート
フィリップ・ソレルス
ミシェル・トゥルニエ

ノーベル文学賞受賞者を含む名だたる書き手によるインタビューで、とはいえ半分近くが知らない作家だったし読んでない人の方が多いけれども、それでもバラエティ豊かな書き手の各人10ページほどでその人にとって書くとはどういうことかというのが語られていてだいぶ楽しく読める。仕事風景はそれぞれにとってどうしたら書けるかという試行錯誤の末に選びとられたスタイルなわけで、信念の体系というか迷信の体系というか、各々の困難と解決法はその人固有のもので共通の正解はない、とは解説にもある通り。

決まった時間に書く人、一気に書く人、筆記用具にこだわる人、こだわらない人、カフェで書く人、都市で書く人、静かな場所で書く人、観察する人、想像する人、聞く人、手書きの人、タイプする人、口述する人、異常な回数推敲する人、名義で違う書き方をする人、色んな人あるいはやり方がある。


最初に置かれたロラン・バルトの章では彼はこの質問に対して、「多くの人々が一致して、ある問題をとるに足らぬものと判断する時、一般にそれは重要な問題だということなのです」27P、と非常に前向きに捉えている。最後から二番目に置かれたソレルスとかなり対照的だ。

エレーヌ・シクスー「私が耳を傾けようと努めるのは沈黙であり視線であり肉体が語る時の語り方です。私は禁じられたものについてしか仕事しないのです(私のテクストが難解なのはそのせいです)」111P

ジュリアン・グラック「『森のバルコニー』を書くまえ、私は非常に生き生きした、非常に強烈な戦争の記憶をもっていましたが、今ではそれがより漠然としたものになっているのに気づきます。とりわけそれらの記憶が生気を失い、反響も延長もひき起さないのです。小説を書くと、人はそれだけ貧しくなる」142P

マルセル・ジュアンドー「創作したものなんて、なにもありません。私は想像力をもっとも軽蔑しています。それに私自身、想像力などというものをほとんどもちあわせていませんしね」150P。ジュアンドーは「私は生きた録音機だという事実があります」とも言っている。あと面白いのは次の一節。「私にとって絶対に不可欠な条件があります。私の仕事場は、住む家の最上階になければならないということです。私は信者です。自分の上に空があることは容認します。容認できるのはそれだけです」157P。これはあまり聞いたことのないこだわりで面白い。

ジャック・ローランはその名義での仕事は手書きで行ない、セシル・サン=ローランという「通俗歴史小説」を書いている名義では口述するという使い分けをしている。ジャック名義では綿密なプランを立てないけれど、セシル名義ではプランを作る、という違いもあるという。

マンディアルグが書けない時は無害なヴォルテールを読むという話の次にこう述べている。「ついでにあげればピエール・ロチの文章のいくつかも、その点では有効かもしれません。彼はとどのつまり馬鹿でしたが、文体という点では比類がありませんから」230P。ひどいことを言う。

ロベール・パンジェが朝起きてまず何も飲み食いせずに数十分仕事に取りかかる、正確に言えば「文章をひとつ産み出すまで」。それさえ出来ればメカニズムが始動できる、というのはわかるところがある。取っ掛かりを作るまでが大変で、そこで調子を決められればあとはそれを伸ばしていける。

クリスチアーヌ・ロシュフォールが、途中放棄した原稿をある時読み直して続きが書けることがあるという話で、「トマとクリストフという二人の若者の真実を発見した時、言いかえれば《友情》という言葉を《愛情》と言い換え」ることで続きを書けたというのがあって、BLを発見している、と思った。

フランソワーズ・サガンは「口述すれば、そのたびにテクストの調子を自分の耳で聞くことができます。読み直す手間が省けるので、時間の節約になります」269Pと言っている。口述筆記の利点はそういうところもあるのか。

しかしソレルスのインタビューは初っ端からこう切り出しててさすが前衛作家だという感じ。
「あなたに自分の書き方を話すだけで満足している作家たちは、まさにその点で、彼らの仕事観がいかに伝統的で物神主義的であるかを証拠立てているのです」「秩序壊乱的な作家はすべて、逆に、仕事が絶え間なく不断になされることを強調しています」「作家というものは四六時中言語の生産のなかに浸りきっているわけですから、その立場を定義できるのは、眠りや夢もふくめてその生全体との関係においてだけなのです。それが私の出発点です」289P。


アルファベット圏だと手書き、口述の他にタイプライターがある、というのは書く時に結構な日本との違いがありそうな気もしないでもない。概ね清書の時に使うようだけれど、バルトもル・クレジオもタイプができなくて、「二本指」で打っているという共通点があったりする。

なお、ロブ=グリエにインタビューはしたものの、雑誌掲載前に推敲のため原稿を数か月預からせて欲しいと主張したため、本書に収録することは諦めざるを得なかったらしい。この不在もまた、彼流の一つの仕事の仕方といえるかも知れない。

私はまだスマホで文字を打つのが苦手というか思ったことをこれでは表現できないという気分になるので、最終的にはPCのキーボードでないとものが書けない人間になっている。手書きももどかしいし、ノートパソコンのキーボードも間に合わせにしかならない。家のPCが必須になってる。

これを書いてる時聴いてたラジオで、鷲崎健は新幹線の席が一番集中できる、ということを言ってて、原稿にしろ作曲にしろ、新幹線が一番良いという。それしかできないという状況が良いというのはありそうだけど、私は外では簡単な作業しかできないな。

本書は担当編集様より恵贈いただきました。ありがとうございます。