天体による永遠――『放課後のプレアデス』について

Febri Vol.29

Febri Vol.29

放課後のプレアデス』が最終回を迎えた。日常のほんの小さな一歩と、無限遠の壮大な宇宙スケールという両端をガールミーツボーイのドラマにつなげて、繊細で緻密な作りにおいて描き出した傑作だ。星空への夢、ロマンを根底に据えて、中学生の子供達の足踏みしがちな不安感と、それでも前に進みたいという心情にフォーカスしつつ、魔法使いが空はもとより太陽系、宇宙までを飛び回る自由闊達な爽快感、国立天文台等専門家の監修をもとにした宇宙の背景、そして作品をとりまく世界はポジティブで優しく、力強い。そうそう見ることはできないだろう、素晴らしいジュヴナイルサイエンスファンタジーだ。SF設定を利用はしても縛られない自由さで用いているのも良い。

簡単な紹介は先々月書いているので、そちらを参照してもらうとして、最終話を踏まえた感想というか、雑感を書いておく。五十枚超と異様に長くなった。全部読むつもりなら覚悟してくれ。
佐伯昭志監督 - 放課後のプレアデス - Close to the Wall
その記事でも書いたように、全話四周するくらいはまった作品は他にないくらいで、特に七話は七周はしたんだけれど、この話数を見て、結局ドライブとあわせてブルーレイを買った。TVアニメのパッケージを買ったのは『トライガン』のVHS(これも五巻くらいまでしか買ってないし、去年の引っ越しで売ってしまった)以来だ。『serial experiments lain』ですらDVDは買わなかったからなあ(bootlegは持ってる)。

足踏みする子供達

佐伯昭志監督のインタビューやコメントの他、作品に協力した国立天文台の教授にまでインタビューがなされている特集が載った「Febri vol29」によると、プレアデスの話数は三話ごとのまとまりになっているそうだ。なるほど。第三話で仲間とのつながりが描かれ序盤が終了する。六話でプレアデス星人の設定が明かされ、温室のみなとと角マントとが遭遇・融合?し、TVシリーズyoutube版と合流して、前半のクライマックスが訪れる。ここで、すばるとみなとの対話が行われていた温室は消滅し、話の展開が変わってくる。九話でそれまでの日常が終わり、十話からラストシーケンス、すばるとみなとの物語が本格的に起動する。全体で四部構成になっている。九話までが日常で、十話以降がシリアスな展開になっていく。

「Febri」で夏葉薫が書いているように、登場人物たちは皆「物知りで思慮深い」。この思慮深さは、前へ進めないということと表裏一体でもあり、これが各人の個別回で明らかにされる悩みの内実になっている。前へ進めず、足踏みしてしまうこと。前へ進みたいのに進めない、変わりたいのに変われない。これが幼い子供達の確定されない可能性、魔法使いになれる条件というのが本作の設定だ。悩み多き子供達にこの作品は向けられている。ジュヴナイル、と書いたのはこの意味だ。

序盤の区切りに当る三話で、ぽんこつと呼ばれた主人公すばるは、自分が仲間たちと一緒にいて良いのかと悩んで、父の持ってきた不良品の車の部品に自分を見て涙を流す。しかし、温室のみなととの対話を経て、仲間たちと一緒にいたいことを自ら認め、エンジンのカケラ集めを成功させる。両親、みなと、仲間たちという三者を相互に関係させた脚本の流れは非常に巧みだ。海底から宇宙へとダイナミックに範囲を広げながら五人の仲間たちとのつながりを描き、実はそのなかに六人目「角マント」を滑り込ませているのもうまい。

この思慮深さは、つとに評価の高い四話の「ソの夢」*1でもそうだ。父が書きあぐんでいる楽譜にソを書き足してしまったことがあとになって怖くなり、父の曲を聴けなくなってしまったひかる。いろんなことがこなせる天才肌なのに、どれも途中まででやめてしまい、両親の仕事にも関わろうとしない。しかし、父がその音符を採用していることは信じているのだろう、その曲を最後まで聴いたら「泣くしかないじゃないか」と言う。両親も、娘が今まで自分たちに嘘をついたことがない、と言うほどお互いに信頼している。ただ、もう一歩が足りないだけ。この回は、すばるとひかるの夢の混信の描写、台詞回しがとても巧みで、視点人物を変えて説明を排したからこその流れが作られている。ここら辺は凄い。また、ひかるの夢のなかでは思慮深いはずのすばるも「あほの子」になってしまうあたり、人間の二面性について自覚的に描いている。四話の劇中曲は「夜空のノクターン」という。サントラα収録。

「放課後のプレアデス」オリジナルサウンドトラック

「放課後のプレアデス」オリジナルサウンドトラック "むつらぼし"α


*2
『放課後のプレアデス』と『恐竜』 - a piece of coco fudge - So tough
世界で最も短いと言われる小説「恐竜」と四話を独自の切り口で検討した非常に興味深い文章。

これも評判がいい五話は、もっとも女性的と思われたいつきが実は王子様になりたかった、という形で二面性を描いており、過去の出来事から思ったことが言えないようになってしまっていたことが語られる。SF的に考証が半端なかった土星の輪の部分の他に、劇中劇として、他人に聞き届けられれば何でも願いを叶えられるというお姫様がおり、その能力が不幸を呼んだために塔に閉じ込められ、自ら消えることを願った、という演劇を演じることになっている。これのお姫様をいつきがやるかどうか、というのが作中の筋なんだけれども、じつはこの劇中劇自体が作品全体の伏線にもなっているのが終盤まで見るとわかる。

第六話は上述したようにyoutube版の再展開、というかTV版はyoutube版をいくつかの点で再利用しつつ上書きする形になっている。ここではプレアデス星人の旅の理由、あらゆる可能性のなかからそのひとつを自在に選び出すことができるとかいう超技術の存在、カケラ集めは超巨大な宇宙船の実体化という地球の危機を食い止めていたことが明らかになったり、温室の花の開花とドライブシャフトのモデルチェンジなどなど、前半の区切りとなる重要な話数となっている。また、前半話数の基調となっていたみなととすばるの対話の舞台、偶発的に行くしかない存在しない場所・温室が消滅する。そのため、すばるはみなとを探して、会いに行かなくてはならなくなる。あらゆる可能性の前で立ち止まるプレアデス星人もまた、すばるたちと似た存在だったことがわかる。

ここまでが前半だ。おさらいのはずがすでに長いですね?

七話 対比と逆転の構図

で、七話「タカラモノフタツ 或いは イチゴノカオリ」。これはシリーズでも私がもっとも好きな回、というよいもっとも繰り返し見ざるを得なかった回だった。「Febri」で監督がこれは「第一話のリフレイン」とコメントしているけれど、やや意外で、私はこれは二話の再来だと思っていた。すばるとあおいの話の続きなので。しかし、一話を見直すと、二人の話の齟齬は確かに一話の反復だ。これに決着をつけたのが七話。二度目の変身シーンが出てくるのもこれが一話の反復だからだ。

六話という前半の区切りを経て、リスタートを切る七話。「Febri」で宮昌太朗は「反復」が異なる「エモーション」を呼び込むと表現している。私流に言うと、七話は反復そして、対比と逆転(切り返し?)だ。それが七話の演出コンセプトではないかと思える。絵においても話においても。同じことを別の言い方をしているだけか。

あおいは自分がすばるを守るんだと思っているのだけれど、すばるはみなとが残した温室の花を咲かせようと園芸部に一人で入部したり、自分の知らないところでみなとと会っていたりした、ということを知り、庇護しているつもりだったのがそうでなかったことを知って、不機嫌になってしまう。これ、youtube版で仲直りした特徴的なバス停が、テレビシリーズでは学校の中庭にあり、その場所で喧嘩している。この小屋はその後も二人のやりとりの舞台になっている*3

(四分頃)
二人は別の次元から呼び寄せられており、それぞれの次元で相手から置いて行かれている。それぞれが今向き合っている相手とは別の、しかし同じ人間に不満があるわけだ(ややこしい)。このしこりを残したまま宇宙に出てカケラ集めを始めることになる。

(C)GAINAX放課後のプレアデス製作委員会 以下同。ツイッター引用を除き、画像はすべてニコニコ動画ニコニコ生放送から
めあてのカケラは氷に覆われていて彗星のようになっていて、太陽に突入するその氷の塊は、突入しているのかと思いきや、その瞬間画面が上下逆転して、重力で引き寄せられて落ちている、と認識が反転させられる場面になっている。氷と火の対比と上下の反転。

このような画面の切り返しは連続して用いられており、太陽でのカケラ集めの場面で、すばるとあおいの齟齬の原因、中学校で別々の学校に行くことになった件で、お互いが置いて行かれたと認識していることが明らかになる場面(これが一話の反復)でも、雪の足跡の場面が対比されており、太陽の灼熱と対比されている。

二人ともが実は置いて行かれた方に他ならず「一緒にいたかっただけ」で「答えを持っていないんだ」ということがわかる。そして重要な対比は、落ちかけたあおいをすばるが捕まえた場面で、最初は背を向けていたのに、二人の対話と和解を経たあとでは、落ちかけたすばるを捕まえた時は向き合っている。凜々しい顔を見たあおいは、対等な二人を見いだすことになる。

小熊座のキーホルダーをなくした時のことを二人それぞれの立場から回想し、すばるの記憶ではあおいに見つけてもらい、あおいの記憶ではすばるのなくし物を見つけたらそれをすばるから贈ってもらったという記憶を回想している。川を挾んで二人それぞれの視点から別次元の記憶を回想する。別の運命線から来たという設定だからこそできる対比描写だ。ここでかかるBGM「もう一度飛ぼう」はパッケージ第一巻付属のサウンドトラック「“むつらぼし”β」収録。劇伴中もっとも好きな曲で、後半の重要局面でかかるキー楽曲だけれど、市販されていないのはもったいない。

ここで、あおいがすばるの頭をなでようとしてやめたのは、あおいがすばるを庇護の対象として見ることを完全にやめたことを意味している。別の運命線からきたすばるを相手に「どんなに変わってもすばるはすばるだし私は私だ」と言い(これはやはり二話の「やっぱりおまえは私の知ってるすばるだよ」の反復で、一話の反復、というよりかは一話と二話がともにここに流れ込んでいる、と見るべきだろう)対等な相手として見直す。

そして、キーアイテムの「お母さんと一緒に作った」小熊座のキーホルダーを二人が見せ合うことで、今話最大の逆転がなされる。置いて行かれたとばかり思われていた二人は、二人とも小熊座のキーホルダーを持っていたことを三叉路で確認しあうことで、以下の認識に到達する。


「私たち、置いて行かれた訳じゃないんだ」「そうだよ、私たち二人とも、大切な友達から宝物をもらったんだよ」

そして、どんなに変わっても、その人はその人だ、という認識を携えて、すばるが園芸部のみなとそっくりなのにすっとぼけていた謎の人物へ声をかける勇気になる。このとき、ポケットのキーホルダーを見てから、みなとに声をかけている。パラレルワールド設定を用いながら、変わること、変わらないことというテーマが示される。みなとだと認めた謎の人物は言う、「きみはそうやってまた、どこからか扉の鍵を見つけてくるんだね」と。脚本、演出、小道具、構図、BGMと、きわめて完成度の高い話数。

個人的にこの七話があまりにも身に沁みてしまうのは出来の良さもあるけれど、十六年のつきあいがあって八年一緒のアパートで生活した、葬式で代表して弔辞を読んだような友人を半年前に亡くしたばかりだからで、見る度ごとに涙目になってしまうからだろう。

詳細な紹介としては以下の記事がある。
変わらないものを見つけるために ~放課後のプレアデス第7話『タカラモノフタツ 或いは イチゴノカオリ』読解~ - めそっどろぐ

八話 幸福はここにある

八話「ななこ13」は、最初てっきり「アポロ13」のパロディでもするのかと思ってWikipediaであらすじなんぞをさらっていたのだけれど、見てみたら全然違ったのでびっくりした。いや、よく考えたらそうなんだけれど、というミスリードは見事で、うまくだまされたので楽しく見られたので良かった。

ななこは作中最大の謎めいたメインキャラクターで、コミック版特典ドラマCDでは、会長と四六時中、風呂も寝るときも一緒にいるという驚きの設定はニコ生でキャストの藤田咲もいろいろコメントしていたように、マジかよって感じだった。

今話のキーは孤独。太陽系外縁部にあるエンジンのカケラに到達するために地球時間で三ヶ月かけて、ほぼ光速なので本人は半日かけて行く必要があり、それには五人分のドライブシャフトを組み合わせて一人乗りのを作らなければならなくなった。乗り込むのは誰か、となった時に手を上げたのがななこだった。

ななこは過去、家族の離別*4によって仲の良かった弟が母親に連れられて別れてしまった。そのせいで、ななこの回想には、不自然なまでに母親の顔は出てこず、現在も二人暮らしの父親との会話もほとんどない。大人への不信感がある。


この、弟との関係が絶たれたことによる孤独への自閉がななこの悩みで、太陽系外縁部への一人旅はそのまま孤独への旅路だった。ななこは外縁部に未知の惑星を見つけ、失望と欺瞞の神の名、アパテと名付けている。あまりにも重傷かつ「博識」。


しかし、ななこはすばるから旅のしおりをもらっており、アパテを見つけて「みんなも一緒だったら楽しいのかな」と考えることで、皆を呼び寄せることに成功する。そして、アパテはエンジンのカケラとの相互作用によって、惑星内部に変化が生じ、恒星になりかかっている、つまり太陽に弟ができる。会長ことプレアデス星人というのも、そもそもは石のなかから現われた宇宙人が、ななこが心中に思い描いていた、弟の描いた絵の姿をとって現われたもので、本来のプレアデスから来たものではない。そして、ななこがなぜ会長と一緒にいるのか、というのも、あれが弟の描いた絵の化身だからだろう。それだけ、ななこにとって弟が大切な存在だからだ*5

「一人になってもみんなといっしょだった記憶は消えないんだ。思い出はなくならない」

この、アパテの変化を通じ、他者への愛情、他者からの愛情、すでにあったそれに気づくことが八話でそれがタイトルとコミュニケーションを描写したラストシーンになるわけだ。恒星の誕生という無茶な展開が、ななこの心情とリンクする壮大さと繊細さの融合は、個別回特有の構成といえる。そして、各キャラクターの個別回はいずれも、幸福はすでにそこにあり、自らがその手前で踏みとどまっていた一歩を踏み出すことを描いてきた、とてもささやかで叙情的な話だった*6

九話 星を見ること、夢を見ること

やっぱり児童文学(それがいったい何を指しているのかって疑問はあるにしろ)じゃないか!って思った九話「プラネタリウムランデブー」。今話と十話のみなとの過去は、この作品の核として本質的に重要で、たぶん宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」が引用されていると思う。直接的に敷かれておらずとも、似ている。

それはともかく、文化祭の準備をはじめたコスプレ研究会の四人は、天文部でもあるすばるが、みなとといっしょにプラネタリウムの準備を始めているのをベストカップルコンテストに応募しようと狙っている。そんなラブコメじみた前半から、後半は、みなとがすばるをつれて本当に魔法を使って太陽系外に出て、プレアデス星団を見せて、果てはベテルギウス超新星爆発をバックにキスをする、という半端ないスペーシーなリリシズムを発揮してくる。何を見たのかよくわからないようなシリーズ突出して浮遊感あふれる話数だ。

さらには、じつはみなととすばるは、過去に病院で会っており、すばるが母親の入院で見舞いに来ていたときに、入院していたみなとの病室*7に迷い込み、そのとき、みなとから星のこと宇宙のことを教えてもらい、果てはベッドに乗って宇宙を旅したことがあったという。二人とも、そのときのことは忘れていた。幻か何かだと。しかし、そうではなかった。

「すばる、僕があの時の魔法使いだよ」

本当にロマンティックな一話。

たとえばこれが病室でなくてもいい。何か閉塞感を感じている子供、あるいは子供でもなくてもいい。すべての星を見る、見たいと思う人へ向けられたエピソードではないか。あるいは、星でなくてもいい。これは、ここではないどこかへと想像力を働かせる物語をも意味する、夢を見ることそのものへ向けられたエピソードだろう。病室に閉ざされた子供にとって、星空や、物語の世界は、どれだけ求められたものだったか。飛ぶベッド、話を聞いてくれる友達、退院の日、明るい希望。星を見ること、空を飛ぶこと、夢を見ることが、ここでイコールでつながっていく。

物理法則を無視して光速を越えてベテルギウスまで来たとき、帰るならば、ここまで来たときの記憶は忘れてしまうことになるとみなとは言う。「忘れるからこそ、今この景色を楽しめる」のだと。そしてこう言う。

「忘れてしまうなら、何を見ても意味がない?」

本作において、また本作ラストから考えてもきわめて重要なセリフだ。また、フィクションを見る・読むことにおいて言われた言葉として読むとしても興味深いものがある。それは決して無意味ではない、ということで、登場人物たちが忘れずにいて、あるいは忘れてもなにがしか持ち帰ったように、われわれは別次元の世界の住人にはなれずとも、フィクションを見・読むことでその経験を持ち帰ることができる。ここにはきわめて自覚的なメタフィクションの意味合いが込められているはずだ。

星を見ることは、想像力とともにあった。「星めぐりの歌」を想起しよう。きわめて文学的な感性あふれる話数だと感じられる。児童文学を感じるのはここら辺にある。まあ、私は児童文学に詳しくないんだけれども。

10話 幸福はここにない

今作で変身シーンがあるのがすばると幼少期みなとくんだけというのがすごい。堀江由衣桑島法子の魔法少年コンビの投入とはと驚かされた。だから「魔法少女」じゃなくて劇中では「魔法使い」だった。これには「プリパラ」のレオナ的な驚きがあった。前の記事でちゃんと魔法使い、と注記しておいてよかった。だからこれは、「魔法少女」ではなく、「魔法使い」アニメなんだ、と。という第十話「キラキラな夜」。

それはいいとして、病室に訪れた宇宙人とみなとが出会い、彼にはみなとがエルナトと名付け、カケラあつめの幸福なシーンが描かれる。このカケラは宇宙船のエネルギー源で、流星雨になって地球に降り注ぎ、人々の心に宿ったと。実現された可能性からはじき出されたものがこの可能性の結晶、キラキラのカケラなんだという。そしてこれには望みを叶える力がある。

しかし、この望みを叶える力を病院で出会ったすばる個人のために使おうとして失敗し、カケラ集めの楽しい日々という魔法は解けてしまう。そして目にしたのは昏睡状態で眠る自分自身の姿だった。飛び回っていたのは幽体離脱のように本体から飛び出した幻のもう一人だった。このことに衝撃を受けたみなとは、カケラの力を使って、すべてをやり直そうとするけれども、過去の自分を否定して魔法は呪いに変わってしまう。エルナトもまた否定され石に変わり(八話でななこが割った石)、みなとは自身を否定し、呪いを受け闇に飲まれた。「自分自身を呪うな」というエルナトの言葉は、本作のテーマそのものでもある。

それまで、幸福はすぐ・すでにそこにあった、ということ描いていたこのシリーズが、昏睡状態でどうしようもない閉鎖状態にあるみなとを出してきた。全き絶望というほかなく、ここに、エルナトと一緒にカケラ集めの幸福な時間を過ごしたみなとと、「銀河鉄道の夜」で死出の幻のなかでジョバンニと星の旅をしたカムパネルラを重ねるのは無理筋ではないと思う。この絶望と向き合うすばるは自らがあのときの少女だったと明かしそして私も魔法使いなんだ、と変身を解く。すばるを助けるためにみなとは今あるすべてのかけらの力を使い、自らはその反動、巨大なカケラのウニのトゲに刺されて消えてしまう。

11話 六人の魔法使い

前話の最後、自ら変身を解いたすばるは魔法使いになる能力を失っていた。混乱に陥る面々だけれど、一度しかない文化祭、と五人のコスプレ研究会の面々は文化祭を頑張ろうと活動にいそしむ。そして祭りも終わり、最後のカケラの出現となり、これが最後の出動となってしまう。ここで会長は皆を置いて一人で出動しようとしているところを見つかってしまう。あおいとすばるは、youtube版の小屋での和解が別れとして再演され、ここでは前向きな別行動が演出されている。それぞれの決意が宇宙の理を超えていく様子が描かれる十一話「最後の光と彼の名前」。

そしてすばるを残したカケラ集めが四人で行われることになるのだけれど、太陽系外、銀河の外までいってもカケラに追いつくことができない。空間そのものの膨張が光の速さを超えているので、追いつけないという。

宇宙図2013 A1判

宇宙図2013 A1判

宇宙図 2013
この運命線、この五人のままでいたいという思いが、最後のカケラが宇宙の果てまで逃げ、いつまでも追いつけない現象の原因になっているかもしれないと会長は言う。カケラを集めたことで、この宇宙は少しだけ五人の都合の良いように運行されているとも。しかし、あおいは、変わりたい、すばると変わると約束したことが、カケラを集める決意を後押しする。ひかるも、

「この宇宙のおかげなんかじゃない。全部私たちが自分の意思と自分の力でやったことだよ」

と言う。あおいもこう言う。

「ずっとこのまま魔法使いでいられたら、って思ったこともあるよ だけど私たち、変わりたいから魔法使いになったんだ。このままじゃ終われないよ!」

これまでの意思を確定し、これからの意思を明確にする。

学校にいるすばるは、みなとが好きだったいちご牛乳がバナナ・オーレに変えられていた自販機に何度も挑戦することでいちご牛乳を引き当てることに成功し、同じく展望室の扉から、本当のみなとの眠る病室へ訪れることに成功する。


また、子供の頃、みなととすばるは、母親と作った折り紙の星と、キラキラのカケラを交換していた。これがそもそもの二人の縁だ。そしてそれをみなとに返す。なぜそれが、みなとが白い衣装で魔法使いになり(みなと復活だけならわかる)、すばるが黒い衣装になって魔法使いになった衣装交換となったのかはわからないけれども。みなとがここでドライブシャフト(レヴォーグ――レガシィレヴォリューション、ツーリング、を合わせた造語、という車種のものらしい)を持っているのは呪いから解けたということだろうか。ここでみなとが言っている。

「選ばないんじゃなくて、選ぶ可能性すら、はじめから失われている〜そしてぼくはこの世界から消える。」

すばるが即答する。

「じゃあ私は何度でもみなとくんの扉を開ける」

ここでのみなとのセリフが、この作品の優しさの極まっているところで、みなとは全く他者危害を考えない(余談として、このみなとの目的は五話の劇中劇と同じで、今作自体がお姫様と王子様の男女を入れ替えたジェンダー逆転劇になっている)。今作は悪も敵もいないことに関しては徹底している。九話まで、無限の可能性がある五人の話*8が語られていたけれど、十話以降で明らかにされたのは、その裏にはこのみなとという可能性の死者がいた、ということだ。そしてすばるは「もう一度飛ぼう」のBGMとともに、彼もカケラも諦めまいと決意する*9

12話 五人の物語

最終話。ブラックホールに取り込まれたカケラを回収するためにカケラの力を使って最後のカケラを引き戻そうとするも、力が足りない、そこで、もう一人の力がほしいとき、みなとの助力を要請する。カケラに引き寄せられ、七つの銀河団を超えてきたここに、彼も来ていたからだ。ここでようやく、富士重工業の「SUBARU」の六つの星が揃うことになる。

ここでみなとは言う。

「君はわからないだろう。何者にもなれないこの星たち、可能性すら与えられずにいる僕らの気持ち」 

すばるは、確かにわからない、ただ、自分の知っている優しさや暖かさを持った、みなと君に消えてほしくないだけだと答える。「宇宙を何度やり直しても私の出会ったみなと君はたった一人だよ」。すばるは逆に問う。みなとの本当の気持ちは何なのかと。しかし、みなとは、「何がほしいとか、誰かといたいなんて、きちんと言葉にしたことないんだ」と答えている。これは可能性の死者たるみなとらしい返答だ。これに対するすばるの返答がすごい。

「だったら、わたしがいう、私がみなとくんといっしょにいたい、私がみなと君を幸せにする!」

君にできるはずがない、というみなとの言葉に対して今する!と返して宇宙で二人密着して飛びながらキスシーンとかいう展開はすげえな。生きる理由がない彼に対して、私がその理由になる、と断言するすばるの行動は、すばるのキャスト高森奈津美がよく言う肉食系というレベルを遙かに超えている。

そうやってみなとを仲間にして(ここでようやく、会長がみなとを七年前の彼だと認識する)ブラックホールに対抗してこちらもブラックホールをぶつけるというロマンあふれるSFネタでカケラを回収する。宇宙船をバックにしたホーキング砲とかいうハッタリ感はいいねえ。


選ぶことを先延ばししているだけだと思われたプレアデス星人は、そうではなく、別の宇宙での別の可能性を探していた。みなとは、「僕は、過去ばかり見て自分を呪い、君たちを巻き込んでしまった」と謝るけれども、エルナトの姿で「それももう過去だ」と水に流す*10

「どんな姿になっても、僕は君のプレアデス星人だ」と、ななこに別れを告げて、会長ことプレアデス星人(ななこ回でプレアデス星人ではないことがわかったけれども)はエンジンを修復し別の宇宙へ去り、宇宙人の置き土産として、すべての可能性の源へと遡行する。そこからやり直すことができるという。

そして訪れたのは、まだ生命が生まれる前の原初の地球。無限の可能性がある何物でもない地球の波打ち際だった。何になってもいい、何をやりなおしてもいいという選択肢を前にして、皆はみんなとのかかわりのなかで自分自身を見いだし、「わたしは、わたしになる」と元の世界、少しは変われた自分自身に戻ることを選択する。自分自身の可能性に自分で気づくこと。すでにそこにあるものに気づくこと。個別回での発見がここで回収される。

そしてすばるは“ほぼ”元の世界、時間に戻って*11、第一話と似た場面、あおいと同じ道を通って声をかけることができる。「制服が着たくて受験を決めた」という理由を聞くことができ、半年ぶりに和解ができる*12。宇宙の果てまで行っても、声をかけることができる、その一歩を踏み出せるだけだったという些細なこと。五人の物語はほぼここで終わる。綺麗な幕切れ。なお、物語全体が、星を見に行こうとした「放課後」に収まっている。

死者カムパネルラの救出

九話以降は五人の物語と同時に、みなととすばるの物語が大きく動きだす。無限の可能性と対比された、可能性の死者みなとの物語だ。上述したように、その下敷きはやはり宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」ではないかと思う。出てくる星や星座もあまりかぶっていない*13けれど、「銀鉄」のなかでは「星めぐりの歌」が何度か歌われているし、幻想の旅の背後に死があるというエピソードは、十話の展開と似ているからだ。もしかしたら、制作者側としたら賢治や「銀鉄」を直接想定しているわけではないかもしれない。けれども、このラストシーケンスですばるは、可能性の死者みなと――溺死したカムパネルラの救出を目指す。つまり、「銀鉄」という哀しい話から希望を見いだそうと挑戦する。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

宮沢賢治 銀河鉄道の夜
十二話のくだりで書いたように、この世界から消えたいと願うみなとを完全なるエゴイズムで引っ張り上げたのがすばるだ。あなたが死ぬことを私は許さない、というただそれだけの理由でしかなく、しかしそれ以外はない。私があなたを幸福にする、というだけではなく、最終話では、五人それぞれがそれぞれの運命線に帰ったあと、すばるが振り返ると、そこにはみなとがいる。「えっ?」といってあっけにとられるみなとを見よ。ただの案内人だと言っているから「何になってもいい」という対象外だったはずだ。そして強引にすばるに腕をとられて、「みなと君と私は一緒に行くの。私、約束したよ。みなと君を幸せにするって」「だけど、君の世界に僕の可能性は……」「それでも行くの」と。強引というレベルを超えてすらいる。陽が沈む海を見ながら肩を寄せあい、「今度こそ、一緒に星を……」と一話の約束をつぶやいて眠ってしまうすばるに、みなとは、

「僕に生きろだなんて、君はどこまでも残酷だ」

と呟く*14。確かに、可能性がない者をエゴイスティックに強引に生に留めおいたすばるの仕打ちは残酷というしかないだろう。しかしそれこそが愛の一側面でもあろうし、普通の作品なら、もっと取り繕うところではないだろうか。そしてその繕いから欺瞞と虚偽が漏れ出すところだ。突き放した厳しい優しさはすぐれたジュヴナイルの条件かもしれない。

それに、作中の描写を見るに、すばると出会って宇宙の魅力を教えたのはみなと自身だったはず(orbitトレーナーを着ているからはじめから好きだったかとは思う)で、こんなすばるになった遠因の一端はたぶんみなと自身にあり、まあ自業自得といっておこう。だからこそ、他の四人にはみなとを助ける理由がない。

エピローグではすばるによるナレーションがある。

「今日の予報は流星雨 星空を見上げていると、今はまだ出会えていないどこかの誰かのことをふと思ってしまいます。その誰かも、同じようにこの星空を見上げていて、星たちは空から、そんな私たちの姿を見守ってくれているはずです。待っててね。」

そして、治療室にいるみなとは閉じられたまぶたで夜空の窓を眺め、前はつけていたはずの人工呼吸器を外して涙を流している。この運命線ではお互いのことは忘れており、知らないはずだけれども、確かに少しは前進している。すばるが四人とまた出会ったように、いつか二人も出会える可能性もあることだろう。

最終話での、プレアデス星人ことエルナトとみなとの別れでの以下の下りも興味深い。

エルナト「キラキラも連れて行くよ」「一度は人の心に宿りながら、そこからはじき出された可能性の結晶だ」「この世に生まれることすらなかった命の可能性」すばる「この子たちを救おうとしてくれてたの?」エルナト「みなとの目的はぼくが引き継ぐ。新しい宇宙でなら、彼らが輝く未来もあるかもしれない」

みなととすばるが会ったのは産婦人科、小児科でのことだから、おそらく流産した子供達のことだろう。昏睡状態の可能性の死者が、生まれなかった子供達を救おうとしていた。十話でのキラキラの説明にも、そう読める部分がある。みなとは、そういうキラキラのかけらを使って変身していたようだ。カムパネルラが溺死したのは溺れた級友ザネリを助けようと川に飛び込んだからだし、やはり、みなとはカムパネルラではないか。

しかし、それではあまりに話として悲しすぎる。そこで彼を助け出すべく現われたのがすばるだった。そういうことになりませんかね。

「きみはそうやってまた、どこからか扉の鍵を見つけてくるんだね」とみなとが言うように、何度でも、繰り返し、扉を開いてはわずかな可能性を求める。本作は、きわめて固い決意で絶望を容認しない*15

そして、ここまでの展開は、五話の劇中劇が悲劇だったのを、ハッピーエンドに書き換えたことがそのまま伏線となっていた。お城の姫様の願いなどそのままだ。

渚にて』――最終話がなぜこの題なのか

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

悲劇をハッピーエンドに書き換えようとする意思に関しては、この最終話のサブタイトルの引用についてもそうだ*16。『渚にて』は核戦争後の人類最後の日々を描いたネヴィル・シュートによる1957年のSF小説。作者はイギリス出身で後にオーストラリアに移住した人物で、これもオーストラリアを舞台にしている。中国とソ連との核戦争で北半球が壊滅後、南半球は徐々に迫りくる放射性物質を待つだけとなった、すべての終わりがやってくるまでのわずかな時間を丁寧に描いた作品。終盤では主要人物たちがどんどんと下痢や嘔吐で体調を崩し、それならばいっそ、と用意された薬で死を選んでいく様が描かれていく。

渚でのラストシーンなどはすばるとみなとを重ねるととたいへん不吉なものになってしまうのだけれど、絶望ではなく、希望を映し出そうとするのが『放課後のプレアデス』だからこそのオマージュ手法を見るべきだろう。今作の最終話には似つかわしくはない。しかし、だからこそふさわしい。絶望を希望に反転する挑戦こそがすばるの物語だったからだ。

七話がシリーズの折り返し点として、小川の対岸にいる二人が、すばるの視点から見たかと思ったらあおいの視点からも見返すことで、対比と逆転・切り返しを強調する演出がなされた話数だったことを思い返してほしい。人類の終わりを描こうとする『渚にて』を、シリーズ最終話において、生命すべての始まりの渚にたどり、ここには無限の可能性があると指し示すことで反転してみせるのがこの引用の意味ではないだろうか。


OP等で向こう側を見ている絵面が多いことは象徴的で、前を向くことがイメージされているからだろう。

オーギュスト・ブランキ - 天体による永遠

ここからは、同じ伝で私が記事のタイトルをこれにした理由を書いていくので、ブランキに興味がなければ飛ばしても良い。

ブランキは19世紀の革命家で、獄中で書いた宇宙論の書名が『天体による永遠』だ。彼の評伝は「幽閉者」とも題され、人生のおよそ半分を獄中で過ごしたような人物だった。これはベンヤミンや訳書の原本を編集したアバンスールといった人に再評価されるまでは、希代の革命家として知られるオーギュスト・ブランキの風変わりな文書、という位置づけだったものらしい。

幽閉者 ブランキ

幽閉者 ブランキ

*17
読んでみるとその理由もよくわかる。これは、革命論を求めて読む者を戸惑わせるに足るまさに宇宙論で、なぜこれがトーロー要塞に幽閉されたブランキが急いで書き上げたのかまったくわからないだろう。比喩ではなく、当時の物理学、宇宙論ラプラス対する反論が延々と論じられており、ハーシェルなんかも出てくる。果ては世界の起源にまで進み、衝突と炎上が天体の運行の起源だとブランキは喝破する。そして、その大元となっているのは少数の元素がいくらかその組成を変えているだけなんだ、という。

19世紀の議論なので大略掴んでもらうとして、ブランキにとってはここからが本題だ。ブランキは、少数の限られた組成から無限の空間を満たすとすると、無限に同じものが出現せざるを得ないという。少数の元素から、無限の多様性は生まれ得ないからだ。すると、我々の地球とまた別の歴史を持つ、もう一つの地球が宇宙のどこかに現われるはずだ、と。つまり、我々のあらゆる変種(ヴァリアント)が宇宙のどこかにあることになる、というのがブランキの宇宙論だ。一つのかごにあるレゴブロックでは、同じようなものしか作れないということだ。

この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである。無数の地球上に存在する、誕生から死までの我々の一生のほかにも、他の何万という異なる版の我々の一生があるのである。99P

これ、ニーチェ永劫回帰がそんなんじゃないか、と思ったらやっぱり解説で指摘がある。なぜこれにベンヤミンが着目したか、ということとも関係するのだけれども、まあそこらへんの哲学的解説は放るとして、ブランキ自身が「実を言うと、この天体による人類の永遠はメランコリックなのである」と言っている。現世は何もかもが無益な繰り返しで、進歩がなにもない、と。表紙にある「ベンヤミンを震撼させたペシミズムの深淵」とはそういうことだろう。

可能性のすべては宇宙のどこかですでにあり、瓜二つの私やあたなはどこかにあり、あったし、これからある、という宇宙による人類の無限、がブランキの宇宙論だ。可能性の死がみなとなら、可能性の拡散がブランキ。また、生きたまま閉ざされた幽閉者、という点でも二人は共通している。

ただし、ブランキがひたすらに絶望しているかというとやや疑わしい。

ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。*この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこ他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。
 進歩は、この地球上では、我々の子孫たちにしか残されていない。彼らは我々よりも多くのチャンスに恵まれている。我々の星が見るであろうすべての美しい事物を、我々の未来の子孫は、もちろん彼らに先立ったあるいは彼らに続く瓜二つの人間という形で、すでに見ているし、今見ているし、いつまでも見るだろう。
133P(強調傍点)

記述のいくつかは判断に迷うところが多く、これは、徹底した現在への絶望だろうか、それとも、未来への希望だろうか。

トーロー要塞は、陽光も差し込まない劣悪な環境だったという。宇宙論を執筆しながら星も見られなかったけれども、朝夕二回の散歩で外に出ることはできたらしい。そうした場で想像されたメランコリーが込められたものが『天体による永遠』という詩的なタイトルだ*18

しかし、私も途中まで読んだとき、これは希望の書ではないかと考えた。「彼の何十億という瓜二つ人間も、同じ考えと同じ疑問を持って同時に空を仰ぎ、目に見えない彼らのすべての視線は交差する」という詩的な文章を読んだとき、人間はこの宇宙に孤独ではない、という主張にしか見えなかったからだ。

時間的空間的広がりの選択可能性は幾何級数的な増加、よりもっと想像もできないような広がりをしてしまうものではないか。系外惑星、スーパーアースの発見を経て、我々にとっていまや、『天体による永遠』という詩的な言葉は、合わせ鏡の中に閉ざされた幽閉の意味ではなく、それこそ無限の可能性、人類が孤独ではない無限の希望のなかに開かれた可能性を示しているように聞こえる。
異形の惑星―系外惑星形成理論から (NHKブックス) スーパーアース (PHPサイエンス・ワールド新書)

地球外生命――われわれは孤独か (岩波新書)

地球外生命――われわれは孤独か (岩波新書)

なお、国立天文台が建設した当時世界最大の一枚鏡の反射望遠鏡は「すばる」という。

終わりに

むちゃくちゃ長くなってしまった。というよりも、ここ一年くらいで最も長い文章を書いた。そんなことしてないでやることあるだろと某人から怒られてしまう。だいたい二週間かかったけど許してくれ。

それはともかく、当初はSUBARUからのEyesightの広告アニメの依頼だったという*19のが、めぐりめぐってyoutube版のダイジェスト的な20分強の短篇アニメーションになり、それが四年を経てテレビシリーズとしてこのような作品として現われたというのは驚くべきではないか。スバルの協賛によって作品が作られたというのは、作品の制約として働いたというよりは、監督および時折脚本演出またツイッターによればシリーズ構成も兼ねる佐伯昭志の叙情的作家性もあったのか、悪や敵のいない作品世界をきちんと作り上げることを可能にしたと思われる。事故と隣り合わせだからこその「安心と愉しさ」のSUBARU、というわけか? ここに至ると社是と作家性に区別がつかないしつける必要もなさそうだ。
若者のクルマ離れ阻止なるか?エヴァのガイナックスと組んだスバル“こだわり”の美少女アニメ | エコカー大戦争! | ダイヤモンド・オンライン
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原作はガイナックスとなっているけれども、想像するに原作の相当部分も佐伯監督が担当しているのではないか。と言うと彼個人の作品かのように思われてしまうけれども、脚本作業がどうも特殊で、これは業界的にどうなのか私にはよくわからないけれども、佐伯、森悠(八話でのななこ母のキャスト木村はるかはこの人の別名義)、浦畑達彦の三人で回している。しかも、二人、三人の連名でクレジットされていることもあるばかりか、単名のときも協力で他二名がクレジットされていることもあり、佐伯以外が単独担当はたぶん四回。脚本を三人でかなりぐるぐる回して練り込んだ感じだろうか。あるいはそうとう佐伯主導で書かれている構成脚本ではあるか。あれ、やっぱり佐伯色強いのか。

ブルーレイを改めて見ると、序盤は空を飛ぶことの爽快感が秀逸で、後半の宇宙スケールのとんでもなさと対比をなしているなあとか、藤田咲のななこ会長との演じ分けがやっぱり序盤はちょっと違ってるんだなとか、オーディオコメンタリーでの、すばる母の積極性(三話で父の隣にぐいっと食い込むように座る感じのアレ)と父の癖っ毛をすばるは受け継いでいるという高森奈津美の発言は、全く私も同じことを思っていたので、同意するなり。あと高森さん、彼女たちは内股の筋肉発達してそうって言ってるけれど、いつもきちんとシャフトに跨がって飛んでるのはあおいとすばるだけだし、どうもシャフトって体に触れていればいいっぽいから筋肉つかないんじゃないかな。あと、あおいは実はすばるの空想の友達説、というのが桑島法子発信で言われている、というのがオーディオコメンタリーで言われていたけれど、みなとはともかく、他のキャラが各々の家族との関係が描かれていたのに対し、すばるとの関係でないあおい自身の掘り下げの足りなさは確かにある。一話、二話、七話と話数を振って、これ以上個別回を割り振れないのも確かなんだけれども。コミック版かそれにつけるドラマCDかで補完してください。OVA、あおい回、これだ。

放課後だけの魔法使い!すばるとなぞの少年

放課後だけの魔法使い!すばるとなぞの少年

児童書版プレアデス、アニメ版をかなり整理していて面白い。パラレルワールド設定を削除して話をシンプルに、みなと角マント同一人物バレを前半で済ます、とかいろいろ。あおい受験失敗とかひでえ、とか思ったけど、成功してたら同じ学校に通えないしね。たぶんこれだと最後に全部忘れる展開とないな。九話十話あたりもカットだろう。あれ、もしかしてエルナト出番ない? そこは出す感じに再構成するのかな。児童書らしいエンドになるはずだ。カバーには星模様のラメ的ななんかがちりばめられててきれいな感じ。ななこピースサインも健在。

放課後のプレアデス みなとの星宙

放課後のプレアデス みなとの星宙


で、ノベライズをSF作家菅浩江が担当するという。
2015年冬に読んでいた本 - Close to the Wall
ちょうど以前、SF大賞候補になった『誰に見しょとて』を読んで、非常に面白く、私の化粧観をかなり変えてくれるものがあって、魔法少女やアイドルもの、といったものへの補助線になったので、すごい縁もあったものだと。みなと視点というのはなかなか難しそうなアプローチだけれども、ノベライズなら確かにそれしかなさそうだ。脚本コンテ演出に女性はいるんだけれど監督が男性の本篇が少女たちを主人公にしていたのに対して、ノベライズが少年を主人公にして女性作家が書くという試みになっている。ノベライズすると聞いて、持っていた『永遠の森』を早速読んで、ロマンティックなものへの憧れと希望への意思は通じるものがあり、ノベライズを頼んだというのもなるほどと思った。
永遠の森 博物館惑星 (ハヤカワ文庫JA)

永遠の森 博物館惑星 (ハヤカワ文庫JA)

放課後のプレアデス アートワークス

放課後のプレアデス アートワークス

こんな書籍も。デザインもいいけど、やはりスタッフその他の話が聞きたい。脚本関係とか。五話が原画二名ってのも凄かったな。美術や科学考証についてはやはり「Febri」が参考になる点が多いのでそちらを。時々公式サイトのスタッフブログを読んでない人もいるのでまずはそちらを読んだ方がいい人も。

夜空の星を結ぶ魔法 ~放課後のプレアデス読解・感想~ - めそっどろぐ
花や星についての分析はこちらがまとまっている。
TVアニメ【放課後のプレアデス】感想と考察と 魔法少女x宇宙SF=無限の可能性の物語
全体のもっと簡潔な紹介としたらこちらを
放課後のプレアデス / SUBARU x GAINAX Animation Project:TVアニメ『放課後のプレアデス』一挙上映&キャストトークショー イベント詳細のお知らせ
プレアデス、一挙上映イベントやるみたいで、これは行きたい、と思ったけれど、オールナイトとかなんだ。私の生活サイクル的にすごくつらい感じなんですけど、これは……。予定か体調の調整がついたらあるいは。

付記・「反=成長物語」?

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)

児童文学、というものが何なのかを考えたかったので、読んでみたもの。直接参考になるというものではなかったものの、面白かったものなので挙げておく。
本書中に、幼稚園児が先生をも共犯関係に巻き込みながら子供をいじめ殺す短篇(那須正幹「六年目のクラス会」)を扱って、「成長」イメージの揺らぎを見る「反=成長物語」と題された一節がある。それで思い出したんだけれど、じつは本稿ではここまで一度も「成長」という言葉を使っていない*20。プレアデスという作品における「成長」は実のところ結構難しく、また「成長」と一言でいうと通俗的なイメージ*21に巻き取られてしまうように思うからだ。ただこの作品を成長物語ということは間違ってはいないと思う。エンジンのカケラを探す途上で彼女たちは確かに成長しただろう。みなとに悩みを相談するばかりか最終的には彼を救い出すすばるを見よ。しかしその旅の終局で、彼女たちは自分自身の選択によって、それぞれの運命線・時間まで戻った私’として送り返される。物語の大部分が展開される五人とみなとの絡んだ世界での「成長」は、そこで一端途切れる形となる。つまり、通常イメージされる経験や蓄積、通過儀礼を経ての「成長」とは何かが異なる。私’自身にとっては、魔法使いでの経験の記憶はないので、「成長」の実感はないはずだ。しかし、彼女は誰か、と言う形でみなとの存在を意識しているようで、忘却へ抵抗し、成長を示してもいるのかもしれない。それに、私たち視聴者にとっては、確かに彼女たちは一歩を踏み出した。難しいなあ、この作品は難しい。監督も方々で言われたらしいけど。そりゃあねえ。やはり何かを見落としている気がするし。

8/3誤記訂正、画像引用の権利者表記追加

*1:「タイトルがソ(ビエト連邦)の夢で内容が月面探索ってこれもう狙ってるとしか思えないな」ってニコ動に書いた人、出てきなさい

*2:二巻でひかるがジャケということは、あおいはこれ、いつジャケになるんだろうか

*3:この、二つの入り口がある小屋は、出会いと別れ、喧嘩と仲直りの象徴でもあり、それは二話序盤と七話終盤の三叉路にも通じている。どちらもあおいとのシーン。ほかにもあったかな

*4:Febriの監督コメントで確定。作中では離婚かどうかは明確にされていない

*5:ななこは弟大好きで、いつきは兄好きで、ひかる、すばるは両親と仲が良く、ではあおいは? すばる以外に?

*6:ただ、この孤独性とななこのキャラがどうも個人的に噛み合わない。初稿から現在まで、隙あらばピースサインをしている茶目っ気のあるななこと、今話での人嫌い気味の性格が、二面性では片付けられない齟齬がある気がしてならない

*7:みなと君の部屋には「ないしょの花園」って本があるけど、これはどんな本なんでしょうか

*8:作品キャッチコピーには「無限の可能性の力を武器に」とある

*9:しかし、黒い衣装のすばるを見て、会長の言う「まったく新しい魔法」とはいったい。これほとんど触れられていないけれども、「魔法」というのがプレアデス星人の職掌を超えたところにあるものに至っていることの表現かもしれない。きわめて重要なポイント。ここではじめてみなともドライブシャフトを手に入れた、ということは、彼も魔法使いになった、ということだろうか

*10:ここで、プレアデス星人が別の宇宙へ行くことがありなのに、みなとが許されないのは何故なのか。自分自身を呪うことになるのと、すばるの引き留めがあるから、という回答があり得るだろうか

*11:父が帰ってきているので、第一話と「同じ」場面ではない、というのはラジオで佐伯監督が言うまでわかっていなかった。最終話から第一話をリピートしたのにもかかわらず。相変わらず自分には細部を見るセンスがない

*12:これ、あおいの運命線だと、すばるはもしかしてあおいが着ている制服着ている可能性が?

*13:二話の二つのカケラのエピソードは白鳥座アルビレオ

*14:この直後みなとのカーディガンを羽織ったすばるはyoutube版の再演

*15:で、じつは十一話の部分で触れたように彼はすばるとの星の交換で魔法使いになっており、ドライブシャフトを手にしている。とするならば彼には無限の可能性がある、あるいは変わりたい、という意思があるはずだ。けれども、最終話のプレアデス星人の贈り物での選択肢を与えられておらず、どうもそうでもないらしい。救出は、果たされたのか、そうではないのか。その微妙なありようは、まさにラストの病室のみなとの描写にある、ということになりそうだ。7/9更新のプレアデスラジオでの佐伯監督の話では、最終話の病室のみなとは、目が開いているパターンもあったという

*16:あるいは、このサブタイトルは、旧エヴァンゲリオン劇場版のラストシーンが引用されていると見る意見もあるかもしれない

*17:これは未読。『天体による永遠』のところだけ拾い読むと、なんかえらい熱っぽく書いているけどどういうつもりで賞賛しているのかよくわからない。通して読めばわかるかもしれないけれども二段組の大著なのでそのうち

*18:ベンヤミン・コレクション1』では『星辰の永遠』と訳されている。ついでにこのブランキを引用した「セントラルパーク」に興味深い断章がある。「レスビアンの愛は、精神化を女性の胎内にまで推し進める。妊娠も家族も知らない<純粋な>愛という百合の旗印をそこに立てるのである」384P久保哲司訳ちくま学芸文庫。百合に女性同性愛を見るのは日本の史的現象だったはずだけれど、どういうことだろうか。キリスト教的に百合ってここで出てくる文化的意味合いってあったっけ?

*19:二度ほどEyesightのSEが出てくる

*20:石川博品のネルリシリーズを紹介したこの記事と、http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20110802/p1 これのリンクを含んだ http://d.hatena.ne.jp/Erlkonig/20120513/1336913348 以下の記事を読んで、「成長」概念に再考を促されたからでもある

*21:成長には痛みがともなうことがあるからといって、理不尽な痛みに耐えさせることが目的化している倒錯をよく見かけますね