後藤明生再読 短篇「誰?」


何?―後藤明生作品集 (1970年)

何?―後藤明生作品集 (1970年)

もう出たのが三ヶ月ほど前になる電子書籍便乗企画、これは三つ目の作品集『何?』収録の30ページほどの短篇。リンク先の情報にもある通り、「文学界」1970年二月号発表。

文体の急カーブ

後書きで著者が書いているとおり、初期後藤明生の「文体」の「急カーブ」が始まった作品がこれだ。それまでの逆接でもってつないでいくような長回しの文体から、短く区切っていって疑問符でリズムを整えていく後藤明生らしい文体へと変わっていくのがちょうどこの時点になる。過渡期にあたるこの作品集から、各作品の書き出しを拾ってみよう。発表順。

「嫉妬」69.2
 これは手紙だ。ただ宛先が不明なだけだが、それは彼女の行方がいまだに不明である以上、むしろ当然というべきであって、この一月余りというもの、わたしは考えに考えて、考え続けた。もちろんその間にはわたしといえども、ひと並みに風邪をひき、酒も飲み、また一、二度仕事で旅にも出かけはしたが、とにかくわたしが彼女のことのみを考え続けてきたのは紛れもない事実であって、彼女の行方がわからなくなってからすでに一月以上を経過したいまになってようやく、この通りこうして、なんとかこれを書きはじめるところまで漕ぎつけたというのが、なによりの証拠だ。125P
 
「ある戦いの記録」69.12
 私はかつて画家だった男だ。画家といっても無名であるから、誰も私の名前を知らないのは当然の話であるが、その上、もう半年以上の間わたしは一枚の油絵も描いていない。パレットの絵具はおそらく、どこかへ飛び去った燕が巣のまわりに残していった糞のように、固く、冷たくこびりついたまま放置されているはずであって、なにしろわたしは、いまそれを取り出して確かめてみようと思わないばかりでなく、いったいどこへ仕舞い込んだのかさえ、忘れているほどだ。163P
 
「誰?」70.3
 男はトイレットのドアをうしろ手にしめたところだった。妻はベランダに子供用のふとんを干し終り、ダイニングキッチンへ足を踏み入れるところだった。つまりその日、男は妻とそのような出会い方をしたわけだ。
「富士山がとってもきれいだわよ」
 男はちらりと富士山のことを考えた。55P
 
「何?」70.4
 会社をやめてからの男は二週間に一度の割合いで髭をそった。すなわち、一週おきの木曜日に職業安定所へ出頭する前夜である。職安へは午前九時から十時の間に出頭しなければならない。もっとも男は髭だけでなく服装にもかなりの気を配っていた。ある意味でそれは、会社勤めをしていたとき以上だとさえ考えられるほどだ。
「えーと」と男はその朝も妻にたずねた。「こないだのときはネクタイだったかな?」7P

かなり明瞭に差がある。「嫉妬」の頃の文体も初期短篇時代の後藤明生らしい文体だけれども、やはり「誰?」以降の短く区切った簡潔なリズムがいわゆる「後藤明生」だろう。引用部分では出てこないけれど、この時点ではまだ疑問符の使用はぎこちない。

なぜ、このような変化が現われたのか。これは非常に難しい。芳川泰久渡部直己蓮實重彦の後藤論をざっとめくってみたけれど、そういえばそこらへんの文体的変化を追うような論文ではなかった。テマティックな論考なので、作品間のたとえば下痢、嘔吐、横たわること、といった仕草を横断的に読み解いていくわけで、作品ごとの固有性を解体していく性格があり、一作ごとの文体の違いを追っていく文学研究的論文ではもとよりない。雑誌記事論文にはありそうだけれど、以前検索したときに「誰?」にフォーカスした記事があった覚えはないなあ。文体的変化を追った通時的記事はあるかもしれない。

当時の文芸時評とかそこらへんをさらってみる必要があるのか。ただ、四回芥川賞候補になって、これ以降候補にならなくなってるから、もう賞レースから脱落した作家だとどうなんだろうか。たぶん、新人扱いから一段違うランクということになった、ということなのかもしれない。あと、芥川賞候補になったのを期に平凡出版を退社して作家専業になったのは1968年のことで、「誰?」発表とは二年のずれがある。

なぜそういうことを復習しているかというと、今作の内容というのが、表題にもあるように一種のアイデンティティクライシスにあるからだ。しかしそれははなはだ不明瞭な形でしか意識されておらず、ただ主人公の「男」は不思議な焦迫に駆られて「団地」の外に出ようとする。そのきっかけは妻にいわれて見た富士山だった。

あのときスリッパのままベランダへ降り立ったゴーストライターの男の内部で、突然うち砕かれたものが自信でないとすれば、それはいったい何だろうか? 男にもよくわからなかった。ただ、何ものかを失ったという不意の衝撃を受けただけだ。うち砕かれたものは何か? 失われたものは何か? 不明である。そして不明であるが故に、男はその日、とにかく家を出ることに決めたのである。とにかく団地の外へ出ることだ。しかしそれは、失われたものを捜し求めるためだろうか? 男にもはっきりわからない。ただ、生きているためだということだけは、わかったようだ。人間は何ものかを少しずつ失いつつ、生きている。つまり生きるということは、何ものかを少しずつ失うことだ。59-60P

この不明瞭な衝動に駆られたゴーストライターの男の行動が今作のアウトラインをなす。後藤明生読者には、団地の外へ、というスローガンとともに『挾み撃ち』が予示されているように読めるだろう。まあ、この頃の短篇はだいたい『挾み撃ち』の準備段階に読めるんだけれど。それは措くとして、このテーマはそのまま次作「何?」に持ち越されて展開されていく「飢えの記憶」のことでもあるだろう。母親が団地に来るとか、ツツジの下りとかはそのまま次作の伏線になっているので。

何? 後藤明生・電子書籍コレクション

何? 後藤明生・電子書籍コレクション

ゴーストライターの死?

出よう出ようと思っても、怪我をした息子の通院や自分の歯科通いなどまあいろいろあって結局出るに出られない様子を描きながら、おそらくは今作の核心にあるだろうと思われるのが以下の部分だ。男が団地を出ようと思いながら入った喫茶店で、自分が書いた「団地の主婦のアルバイトと浮気」を扱った記事が載った週刊誌を読んでいる主婦二人を横目に見ながら昼間から酒を飲んでいるとき、もし、自分がその二人にその記事を書いたのは自分ですよ、と言いに行ったりして、ゴーストなのであるいはライターだということ信じてもらえなかったとしても、記事の内容(浮気)が主婦との間で実現された場合、どうなるか、としてこう続く。

男はおそらく何ものでもなくなるだろう。まず男は、もはやゴーストライターではない。主婦はそれを信じてはいないからだ。しかし主婦はそのとき、他ならぬ男によって書かれた記事を信じるだろう。つまり男は、週刊誌の記事だ。ゴーストライターの男はもはや、彼自身の手によって書かれた記事そのものである。にもかかわらず男は、その記事を信用しているわけではない。だから男はそのとき、男自身嘘かホントかわからない週刊誌の記事そのものだ。すでに男からは、彼自身であることさえ失われている。男は存在しなくなった。ゴーストライターの男はいまや、彼自身の手によって書かれた週刊誌の記事の中に、消滅する。しかもその記事は、他ならぬ男にとってさえホントか嘘かわからないものだ。そしてこともあろうにその消滅は、男があれほどまでに脱出を希んでいた鉄筋コンクリートの真只中においておこなわれるはずである。75P

まあちょっと異様に面倒くさいロジックで本文読んでないとわかりづらいけれども、つまりはゴーストライターの消滅、がここでは宣告されている。団地のなかでの幽霊の消滅。ゴーストライター、というのは「笑い地獄」においても登場する重要なアクターだというのはご存知だとは思うけれども、もしかしたら、これ以降後藤作品で出てこないのかもしれない。そして、ゴーストライターの消滅とともに、この短篇のラストは、団地を出ようとしたところで、団地の外の目的地としていたバラ園がなかったことに困惑した男が、コンクリートから脱出するつもりがコンクリートを満たした肥料溜のなかに転落して、そのとき誰かに呼ばれたような気がした団地の主婦が、誰もいないその場所へかけた声が「誰?」という表題なわけだ。

表題には二重の消滅が掛けられており、このアイデンティティクライシスと文体の「急カーブ」にはおそらくは関係がある。「何ものかを失ったという不意の衝撃」にさらされて「団地の外へ」と出なければならない、この衝動によって書かれているのが30ページに満たないこの短篇ではないかと思われる。実際、ちょっといろいろ未消化な感じがするのも事実で、ただ、その過程でゴーストライターという仮装にも死刑宣告しているというのが非常に意味深長に感じられる。つまりは生身の露呈ということかと考えられるからだ。

意味といえば、「誰?」と「何?」では発表順と作品集での並び順が入れ替えられており、本の並びで読むとやや妙に感じられるところが出てくる。後書きからすると発表順と執筆順は同じように思えるのだけれど、とするならば、本での並びを変えたのはどうしてだろうか。「誰?」「何?」の順で読むと、ああ、「男」は「誰?」の衝動によってライター仕事を辞めたんだな、と受け止められる。しかしこの順序が逆になるとちょっと妙になる。職安でゴーストライターの仕事を見つけた感じになってしまうからだ。それは、ないよな。後藤明生が作家専業になったのは68年で、これは70年。で、「隣人」では露文和訳の仕事をしたりしていたり、で、「疑問符で終る話」だと割と普通に勤め人だったりもするので、後藤作品の主人公というものの属性というのはよくわからないところがある。「行方不明」で校正やっているのはアレはアレで独立した虚構性の高い作品だから、というのはあるのでいいとしても。

突然の内部の喪失

と、まあ実はこの作品だけでは展開し切れていないのだけれど、富士山を見たことで「男」に何かをうち砕かれたように思わせたもの、というのが「何?」以後で展開されてくる朝鮮の頃の記憶か。というか、朝鮮の記憶の喪失、という方が正確か。「何?」で飢えの記憶が失われていっていること、と表現されているように、忘れていることすら忘れている、というかたちで、だから「失われたものは何か? 不明である」としか言いようがない。初期作品から全作をたどり直しているわけではないので断言できないのだけれど、もしかしたら、そのことに気づいて愕然としたのがこの「誰?」だったのかもしれない。それが疑問符と文体の急カーブをもたらしたのかととりあえずは考えられるかもしれない。

朝鮮関係の全面的な展開はもちろん「一通の長い母親の手紙」で、それ以外にも「無名中尉の息子」とか初期から出てくるのだけれど、忘却・喪失とのかかわり、ということだとここで見いだされたものだったのだろうか。喪失といえばもちろん失われた外套を求めて、の『挾み撃ち』に至るわけだけれども。

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

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挟み撃ち 後藤明生・電子書籍コレクション

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