『代わりに読む人0 創刊準備号』

私も後藤明生について寄稿した新雑誌。創刊準備号として準備をテーマにした小説・エッセイ・漫画が寄せられた本篇と後藤明生小特集、そして寄稿者の2021年読んだ本の紹介コーナーで構成された一冊。編集長曰く試行錯誤や偶然の出会いの場としての雑誌が、まず準備として始まるのは納得感がある。

そもそも編集長(社主と言った方が良いのかも知れない)友田さんの『パリ闊』だって一巻はまだ歩き出さないのだし、後藤明生もまた迂回と脱線の作家だし、数学者のエッセイではグロタンディークを通して何の準備かが未確定な準備という考えが提示されていて、そうした予期と予想外の入り交じる、さまざまなものが隣接する中間的な灰色の場として「公園」という比喩が提示されている。

私は寄稿者の一人だけども他の執筆者については読んだことのある人が三人しかおらず、名前も知らない人ばかりで、他の文芸誌だったらもう少し見知った名前があるだろうところ、編集長が数学専攻だったことから理数系の執筆者がいたり、自費出版経験のある人がいたり、バラエティに富んでいる。編集長は雑誌の創刊の辞といえる「雑誌の準備、準備としての雑誌」のなかで、「いかなる失敗も許さないが故に、経験から学ぶことができず、失敗が本当に許されないものにまで失敗が及ぶ」社会になっていないかと危惧する。漫画や小説やノンフィクションも多くはまず雑誌連載という形で始められることが多いわけで、雑誌という場は練習を兼ねた本番でもある。

まあなんかそういう諸々が込められた雑誌のそれも準備号というこれから始まるor始まりつつあるなにか得体の知れない雑・誌で、とりあえず連載としては蓮實重彦論と後藤明生小特集がある。なぜこの二つ。そして2022年の雑誌だというのに内向の世代の話をしてる原稿が二つもあるのがちょっと笑ってしまう。


以下、各篇について。

二見さわや歌「行商日記」、オカメサブレという菓子を自転車で行商している人の日記で、自転車なのに電子マネー対応してたり、父親が落語家だったり、近くの家の人に怒られたり、淡々と進んでいくエッセイ。どこでもそこを商売の場所にしてしまえる移動販売は突然の出会いを生む。

陳詩遠「解凍されゆく自身とジュネーブ近郊の地下で起こっている乱痴気騒ぎについて」、粒子加速器のあるCERNにいた研究者のエッセイで、スイス国境近くの立地や日本国籍なのに名前で勘違いされる境界的な経験とともに、重力波の観測では心理バイアス排除のためニセデータを意図的に混入させる、というかたちでつねに観測に備えた興味深いシステムがあったと綴っており、そして著者はこれから新しい職場に移る新生活の準備をしている。

小山田浩子「バカンス」、あるカップルの休暇についていった主人公の視点から描く短篇小説だけれど、出てくる猪肉や鳥の死骸など、後味の悪く解決もされない不穏なものが充満していて、ホラーとまではいかないけれども無性に不気味というバランス感覚が味わえる。しかし鳥に空いていたという穴、そういや著者の芥川賞受賞作は『穴』だった。

伏見瞬「準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彦論」を書くことになったか」、一人の著者による一冊の蓮實論が未だ書かれていないことを理由にスピッツ論を刊行したばかりの著者が蓮實論を書くという挑戦を決断し、その事前準備として状況のおさらいをしていく文章。文章のリズムの観点でビートメイカーの側面を、他にインタビュアー、語学教師、物語作家、そしてとにかく明るい蓮實重彦、という五つの観点を提示して全体図を構想しつつ、自分の関心に繋げながら関連文献を読んでいる最中だという。著者も「天の邪鬼」だと言う通り蓮實の形容としてはそれが似つかわしいと思う。

田巻秀敏「『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと」、貨物船旅行エッセイを自費出版した作者がその準備として無線資格を取ったり、本を書店においてもらうための営業の手順がめちゃくちゃしっかりしててすごい。「丁寧に記された体験には小説に劣らぬ物語がある」、という信念も良い。

オルタナ旧市街「完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)」、アメリカで出会った全てに準備万端なリー・リーという人物をめぐる小説ともエッセイともつかぬ文章で、準備と予期し得ない巨大な出来事911について語られる。タイトルと人名に春樹と大江が連想される。

近藤聡乃「ただ暮らす」、ニューヨーク在住の作者がエッセイ漫画にとって準備とは何か、というのを制作工程を示しながらネタのために暮らしたり無理やりネタを探そうとするのではなく「少しだけ準備中の気分でただ暮らす」というあり方に求める。911が話題に絡むところは一つ前の作品と同様でそういう並びかな。

橋本義武「準備の学としての数学」、最初に触れたように現代数学において最も大きな準備を行なった人物としてアレクサンドル・グロタンディークを挙げ、明確な目的なき準備としての数学という観点から語られるエッセイで、半分開かれたものの準備だからこそどこか未知の場所へ行けるのではないかとも説く。

わかしょ文庫「八ツ柳商事の最終営業日」、ある会社の最終営業日での催しの幹事を任された新入社員が幹事は必ず流血するという不穏な話を耳にして、という短篇小説。完璧になされた準備は必ず予定された結末を招き寄せる。なんか『予告された殺人の記録』を思い出した。

柿内正午「会社員の準備」、労働の準備つまり社会性の一端としての洗顔から始まり、代わりに読むという言葉から分業に繋げ、プルーストなどを引きつつ話を近代社会への問いにまでスケールアップさせていく批評的なエッセイ。本書で一番「批評」っぽいのはこの文章だと思う。

海乃凧「身支度」、中学の友達からの久しぶりのメールを受け取った朝の出来事を描く短篇小説。長袖が隠していたものをめぐる過去の悔恨と身支度とマスクが隠すことで維持される社会性の話かも知れない。

太田靖久「××××××」、読み方が分からない中華料理屋の名前についての短篇小説かエッセイか、と思ったけどやはりこれはエッセイか。検索はしていない。リアルの出来事についてあえて検索せずに自力で思い出したりしたいということはある。突発的事態には準備ができない一幕。

佐川恭一「ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会」、犬の話かと思えばほとんどパワーストーンの話をしているしア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会がいったい何の大会なんだかまるでまったく何一つわからないままだった。

鎌田裕樹「オチがない人生のための過不足ない準備」、書店員から農家の見習いとなった著者が農業とは過不足のない準備だと言われた話とともに、精神病患者の集う家での「寛解」概念を知り、迂回もまた経験なのだし「準備をしても期待はしない」というゆるくとった態度を志向する。

毛利悠子「思いつき」、コンビニ帰りに飛行場で大阪に飛んだ経験をもつその場のぶっつけ本番での制作を旨とする美術家のエッセイで、国外での制作がコロナで厳しくなったけれどもリモートを駆使して周到な準備を行なうことで例年以上に展示の機会を得た顛末。計画的な遂行はしかし物足りないと言う。

友田とん「雑誌の準備、準備としての雑誌」、編集長による発刊趣旨ともいえるエッセイで、ユーモア、試行錯誤、関心空間の接続といったものを束ねて「公園」と呼ぶ趣旨は既に触れたけれども、類似を見出す数学の経験が今に生きていることなどの迂回、隣接、類似への注視は非常に後藤明生的。この雑誌に何故後藤明生小特集があるのかがよくわかる文章にもなっていて、まあじっさい後藤明生のことが出てくるわけだけれど。「果てしなく目下準備中である」というフレーズがなんともこの雑誌らしいとも感じる。


後藤明生小特集」
連載企画と言うことで毎号載るらしい特集。歩くこと、怪談、政治性、回想と失せ物、色々な側面から後藤明生を読んでいて、それでいてそれぞれの原稿が響き合う箇所もしばしばあり、このなかだと自分のゴツゴツした原稿も全体の硬軟のバランスに貢献できてるかなと思える。

haco「日常と非日常の境界線」、後藤明生「誰?」を起点にしていつもは自転車で通り過ぎるだけの近所を自転車から降りて歩いてみることで日常と非日常の境界を越えてみようとする、歩く小説としての後藤明生追体験。「日常は、見方を変えれば非日常にもなる」という帰結も後藤的な感触。

蛙坂須美「後藤明生と幽霊」、怪談作家が『雨月物語』の現代語訳と『雨月物語紀行』を題材にしたもので、後藤の論から時代の通念に抵抗するものとしての幽霊像と、喜劇と怪談を変換する文体についてを読みとるもの。「こと移動を書かせたら、後藤明生の右に出る者はそうおるまい」という一文がいい。しかし上田秋成の筆名の「和訳太郎」はすごいセンスだ。後藤明生訳の『雨月物語』はなかなかすごくて、長い文章を上手く切って連ねていき、とても明快で読みやすくリズムが良い。文中での雨月を元ネタにした小説があるのか、という疑問については、『首塚の上のアドバルーン』が作中で触れている。そのほかはどうだったか。『笑いの方法』も触れている箇所がある。

友田とん「後藤明生が気になって」、坪内祐三の小島論を思わせるタイトルで、後藤明生ゴーゴリ風の描写を散りばめてるなと思ったら「八等分」で笑ってしまった。八等官じゃないか。失われたものの探索で『挾み撃ち』を踏まえながら、まさに後藤明生を読みながら後藤明生を書いているエッセイ。後藤明生を知らなくても興味深いんだけど、後藤明生ゴーゴリなどの作品のパスティーシュにもなってて、読むと言うことが書くと言うことと表裏一体になっているメタ的な仕掛けは作者らしい。

自分の原稿についてはこちらで触れた。
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall


コバヤシタケシ「dessin (1)」、本誌デザイナーが描くデッサンとエッセイ。美大受験で落ちた経験があるものの、子供や妻がデッサン教室に通い始めたのを見て、別に自分も今から始めれば良いのではと始めたことと、自分の名前にまつわる嫌な記憶をカタカナ書きにするという新しい始まりの話。

「2021年に読んだ本」コーナーはそれぞれ興味深く読んで、読もうと思っていたもの、気にはなっていたもの、買ってあるもの、買おうと思ってるもの、全然知らなかったものなどいろいろあった。参考にしたい。記事投稿当時ジュンク堂書店池袋本店でフェアをやっている模様。私は梁英聖『レイシズムとは何か』とエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』について書きました。こんなフェアが開催されるのか、妙に注目度高くない?って思ってる。

毎ページに入っている佐貫絢郁の絵は具象抽象さまざまなスタイルで描かれており、美術家のページだとアルファベットを使ったスタンプみたいなのをじっさいに制作したのかなと思わせる。しかしこれとあわせて同じページが二つとないのは組版飯村大樹の労力が偲ばれる。


とりあえず一読したメモ。編集長自身が知っている人だけではなく、寄稿者からも情報を募って集まった多彩な書き手が混在する妙な空間の末席から、へえこんな感じなんだと面白くその場の空気を体感している。