2018年と2017年の文藝賞、日上秀之、山野辺太郎、若竹千佐子

日上秀之「はんぷくするもの」 

はんぷくするもの

はんぷくするもの

今年の文藝賞受賞作。東北震災後の仮設店舗で商店を営業しみなし仮設の家に住む男とその母がいて、店に訪れる友人やツケでもの買っていく男、常連の老女といった人物を配置しながら、加害、被害の妄念に取り憑かれた男を通して、微細な倫理感覚を描いた小説のように思う。

日常を細かに見つめながら、あやふやな足元つまり自己存在の不確定さが描かれ、自分を雇ってくれる会社などないと繰り返されることにもそれは滲んでいて、だからこそ、自分の行為の倫理性がつねに問題になってしまう。それもある種解決不能のものとしてある。仮設の商店の床は薄くぐらついており、客も少なく経営も先がない、日々細かく追い詰められているなかで、いつまでも金を返さないのに必ずこの日に金を返すと幾度も連絡してきて、男とその母に帰ってこない金のいとわしさを思い返させるかのような男が主人公と対置されてもいる。

町田康の指摘でお、と思ったのはこの借金男の「だってあなたの家は津波に流されたじゃないですか」のセリフの解釈だ。非常に印象的ながらこの下りをどう読むのかいま一つわからなかったけれども、これは自分は被災者になれなかったという意味だ、という指摘は、なるほど確かにそうだ、と。自分の家はまったく無傷だったんだ、と呪わしそうに語り、この男はほかのアパートに引っ越すんだけど、ここで主人公と借金男には立場の反転があって、津波に流されてない私はあなたに貸しがあるんだ、という奇妙なねじれが金を借りて返さないこととして表現されている。

作者も「文藝」の受賞記念の対談で、被災地で被災しなかった人間に焦点が当てられないこと、を問題化しているけれども、家が無事だったことがこの借金男の主人公に対する負い目になっているのかも知れず、ここにもまた別の立場の倫理感覚が行動として表れているともいえる。

被災者としての自分の視界から、つねにその倫理性が周囲から問われ続けているように感じられるという感覚。それはある種の妄念として、あるいは他者の言葉として、対談で言及される家屋に流れ込んできた泥のようにまとわりついて主人公は手を洗い続けることになる。

 山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」

いつか深い穴に落ちるまで

いつか深い穴に落ちるまで

今年の文藝賞受賞作その二、日本からブラジルに一直線に穴を開けるというプロジェクトを請け負う会社の広報係を語り手にした大法螺話を枕に、戦後の企画出発時からリオ五輪以後に開通するほぼ現在時までの数十年を描く。地球を貫くあり得ないネタの奇想小説、ではなく、広報係の視点から、戦後の企画者、ポーランド大使館の通訳、北の国の女性、ブラジルの向こう側からこちらに穴を掘る会社の広報の女性、現場の中国人や東南アジアの人々といった、日本のなかの国際性を横糸として紡ぎながら描く日本現代史というか。読ませる小説になっているのは確かなんだけど、ただちょっとどういう小説だったのかってのがいまいち自分のなかで像を結ばない。戦後日本史を個人視点でたどっていくという語りの大筋を持つ作品のタイトルとラストが示唆的だとはいえるし、「二階級特進」が直截ではあるけど。現場には中国系や東南アジア系の人たちがいて、でも震災でいろいろあって大部分がいなくなる、というくだりが生々しくて印象的だった。 

   若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

去年の文藝賞芥川賞受賞作。これは良い小説ですね。標準語と東北弁を取り混ぜ、一人称とも三人称ともとれる「桃子さん」という語りで、夫を亡くした哀しみは一方で解放の喜びでもあった、と私は私自身に従って生きていく、と決意する道行のありさま。母親が叶えられなかった願いを子供に託そうとする負い目について、「自分より大事な子供などいない」と繰り返し語るところも印象的。愛情が枷になる瞬間は祖母による左利き矯正が左右盲をもたらしたところでも語られており、これは夫への愛情によって自分を縛り付けた過去にも繋がる。宮澤賢治の引用の表題とともに、科学的言説への好奇心は語り手の特徴の一つで、その点でも賢治の文脈を持ってきているように思う。若者には未来があるように、老人にも老いは未知の領域で、「知らないごどがわがるのが一番おもしぇいごど」だと桃子さんは語る。勇猛なる前進。作者の受賞の言葉の末尾、「私はこれから勇躍出発いたします」の力強さよ。こういう受賞の言葉は珍しい。格好いい人だ。

作中祖母が「食べらさる」という言葉を使っていて、受け身、使役、自発の三態が入り交じった独特の意味があったというくだりがあるけど、これ北海道方言でよくいわれる「押ささる」、勝手にそうなるという言葉遣いすごく似ている。この言い方、東北も伝播範囲内らしいけど、主人公は共有してない模様。読んでいて、やはり東北言葉を小説に多用した向井豊昭を思い出させる。自己を分裂させた自己批評的な手法もそうだし、老人の諧謔と力強さを感じさせるところも。作者は向井豊昭を読んだことがあるだろうか。 

文芸 2017年 11 月号 [雑誌]

文芸 2017年 11 月号 [雑誌]