『白い人・黄色い人』『82年生まれ、キム・ジヨン』『月と太陽の盤』『ヤゴの分際』『物語ポーランドの歴史』『方形の円』

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

遠藤周作『白い人・黄色い人』文芸文庫版。「白い人」、犬を折檻した女中に魅惑され、ナチ占領後のリヨンでゲシュタポに協力して神学生の友人を裏切り拷問を加える男。信仰とサディズムに三島の『仮面の告白』を思い出すけど、遠藤は澁澤以前にサドの評伝を書いてたという話に納得する。しかし神学生の従妹の扱いが、男同士の関係に女性を利用する、ホモソーシャルミソジニーの典型みたいだ。「黄色い人」で日常的に「犯される」糸子とかも。戦後文学ってミソジニーこそが文学だと信じられていた形跡を感じることがあるんだよな。会社のために家族を犠牲にするのが社会人、みたいな。「アデンまで」は黄色人種と白人、そして黒人の人種問題が描かれていて、黒は醜く、黄色はもっと憐れだ、と語り手は述懐し、なぜ白人の肌が美の標準になったのか、という劣等感が語られていて、白人女性との恋愛でもこの自己疎外の経験が共通している。
82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』 不可思議な人格の混乱を呈した女性を診断する医師によって書かれた体裁で、33歳の韓国人女性の人生を簡潔にたどりながら、女性が女性だというだけで受けるさまざまな体験を描く小説。表紙は、これはあなただ、という鏡だろうか。IMF危機を有利に生き延びた両親を持つジヨンの境遇はかなり良い部類に入ると思われるけれども、それでもこのような状況があるという点で、読者の多くにあるある、と思わせるような典型的な人物像が共感を呼んだと思われる。表紙はそして女性が男性を見返すという意味での鏡でもあるか。姉妹より弟を優先させる祖母、小学校での男子の好意が歪んだからかい・いじめ、男子には許されるスニーカーが女子には許されない学校、笑顔で応対しただけでストーキングしてくる予備校の男、指示棒で胸を突いてくる男性教師、子供時代だけでも並べ上げれば切りがない。大人になっても就職での差別があり、取引先からのセクハラ、女社員にキツい仕事をやらせて男に楽な仕事を振った上で男の収入を多くしていたり、女は会社の荷物と言われないように頑張ることが後進の女性に負担を与えてないかという女上司の苦悩、そして子を産むことがキャリアを閉ざす。男の子を産むことが重要視され、女の子と言うだけで中絶すらされてしまう社会、姉妹は衣食はおろか進学の選択肢すら末弟優先のあおりを食らうことになる家父長制社会の有り様を描いているけれど、同時に母や姉、見も知らぬ女性たちが、ギリギリのところでジヨンの助けにもなる。家族のうちでの母や姉妹という存在がいかに社会や敵としての男性に対するアジールとなるか、ということでもある。ジヨンのこうした境遇をまとめた医師ですら、最後に差別をいっさい何も理解していない叙述がおかれ、断絶を露わに描くラストに心底の絶望が刻まれている。もちろん戸籍制度の廃止やさまざまな状況は、祖母の時代よりは良くなってはいるだろうけれども、かわりに現代では母親は良い身分だな、という女性への被害者意識からの差別が生まれてもいて、本作はその交差を描いているという解説はなるほどと思った。これは韓国の小説だけれども、日本も変わるところはないだろう。いくらか現れ方に差異はあるだろうけれども入試差別の露呈などよりいっそうひどいものもあり、妊婦への対応は日本の方がひどいというのは両国を知る人の共通の認識のようだ。出産子育てをめぐって最も親密な夫との間にこそ巨大な断絶が生まれる絶望感は大きい。絶望だけではなく、小学生時代の女子への不当な扱いへの抗議が実り、絶対権力者を変えさせた達成感をもたらした挿話が印象的でもある。作者は「文藝」の「韓国・フェミニズム・日本」の特集で掲載されていた、家長の家出を描いた「家出」という印象的な短篇があり、家父長制社会への関心が高い。しかし、「家出」と異なりキム・ジヨンは家父長制社会から離脱する手段はない。しかし母親の反中国的態度は文脈がよくわからなかった。
月と太陽の盤: 碁盤師・吉井利仙の事件簿 (光文社文庫)

月と太陽の盤: 碁盤師・吉井利仙の事件簿 (光文社文庫)

  • 作者:宮内 悠介
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/07/11
  • メディア: 文庫
宮内悠介『月と太陽の盤』、碁盤をテーマにしたミステリ連作集。同年のSF短篇集は読んだのにこっちは読んでなくて文庫になったのを機に買ったけど、これもさすがの宮内作品という感じでジャンルは違うけどいつも通り楽しく読んだ。第六篇の繋ぎ方とか、らしい感じ。主要人物に姉弟子がいて、りゅうおうのおしごと、を思い出してたんだけど、こっちでもやっぱり姉弟子だった……。
ヤゴの分際 (1963年)

ヤゴの分際 (1963年)

藤枝静男『ヤゴの分際』、デビュー作「路」等の再録を含む三冊目の作品集。「家族歴」にもあるように家族を結核で次々と亡くしていった過酷さと、自身の性欲への否定的感情、そして医学という病気との戦い。表題作で自分は妻より戦うべき結核菌をこそ見ていたのでは、という自己批判に至る苦闘。

結核くらい人間をきたえるものはないという気がする。それは死に対する、慢性の、長い対坐である。生活の楽しみは何時でも監視されている。人はよく、恋愛は人をきたえると云うが、これは逃げだすこともできるし、また不真面目なら放っておくこともできる。また年とれば自然消滅する。ところが結核という奴は自分自身の身体の中に並んでいて、一生の間仮借なく喰いついて放れないのだ。私は病院への途々よくそんなことを考えながら歩いた。」(「路」158-159P)

「彼は妻や喬を愛していると思いこみ、しかし妻も喬もまつわりつく彼の眼を避けている。彼は病者の妻を見ないで、妻の肉体の内部の、彼の肉親を次々と無残に斃した結核菌だけを見つめている。喬の肉体の中に人間の必然の過程を認める前に、且て憎悪し続けた彼の敵の姿を発見し反撥している。
(いったい俺は何時ごろからこんな利己的な嫌らしい人間になり下ったんだろう)」(「ヤゴの分際」201-202P)

渡辺克義『物語ポーランドの歴史』中公新書、これはちょっと悪い意味での教科書的記述でよろしくないと思った。文章が平板というか、過程と結果がぽんと書かれていてなんでそうなるんだ?というのがわからないところが散見されて、印象がぼんやりして頭に入ってこない。ワルシャワ蜂起を英雄の戦いと呼ぶ論についてそれはポーランドに媚びすぎていないか、とその論争史を紹介する部分など、コラム部分はわりと面白く読めるけど。あと、引用文の出典書籍も明記して欲しい。訳者とタイトルで参考文献のこれかな、みたいなことをしなければならない。ルーマニアのギョルゲ・ササルマン『方形の円』、36の架空の都市を描く幻想・SF小説集で、奇想のショーケースのような魅力的な一冊。マルコ・ポーロもハーンも出るしてっきりカルヴィーノ『見えない都市』のオマージュかと思っていたらほぼ同年に書かれていてお互いに無関係だというのに驚く。酉島伝法の解説のとおりバラードの初期短篇のあの魅力的な都市ものぽくもあり、等質市は石川宗生「吉田同名」を思わせ、貨幣石市の怪奇性や、禁断の都の中国風な頓知、宇宙市のSF、モーター市のマコーマックみたいな一篇など、シュール、ユーモア、アイロニー、さまざまな魅力がある。多くの場合は登場人物主体ではなく都市の歴史を俯瞰的に眺めるクールな距離で創造と破壊を描いていて、表紙のデザインともども非常に印象的。英訳したル・グインの序文なども面白い。出てくる名前がだいたいそうだけど、建築のアイデアを拡大していく手法が、SFに近い幻想小説の感がある。ギョルゲ、というと変わった名前だと思うんだけど、Gheorgheというスペルを見ると明らかにジョージのルーマニア語形なのがわかる。ハンガリー系のイシュトヴァーンて名前もやたら格好いいけど、英語で言うとStephenだ。