アンソロジーを読んだ――『アステリズムに花束を』『危険なヴィジョン〔完全版〕』『BLAME! THE ANTHOLOGY』『居心地の悪い部屋』『変愛小説集』『どこにもない国』『時間はだれも待ってくれない』 『東欧怪談集』『チェコSF短編小説集』『ゲイ短編小説集』『レズビアン短編小説集』

去年は二〇〇ページ前後の薄い本ばかりを読んでいた覚えのある秋、最近は唐突にアンソロジーばかりを読んでいた。計13冊のアンソロジー。百合SFからレズビアン文学まで、と書くと狭いな。
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アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)


百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』。SFマガジンの百合特集に寄せられたものを中心に、ネット公募で話題を呼んだもの、中国のミステリ作家が書き下ろした作品など新作を加えて一冊にまとめたもの。通読すると多くの作品が言語、通信、翻訳という根本で通底するモチーフを共有しているところが印象的だった。百合SF、と銘打って書かれた作品が、いずれもこのコミュニケーションの齟齬を基点に置いているのは偶然ではないと思われる。百合のエモーショナルさをすれ違いで作っているというのは、同性関係を描くにおいて以前なら「背徳性」に与えられていた役割を、現在はよりいっそう原理的なレベルが関係のハードルとして見いだされているのかも知れない。

冒頭の宮澤作品は、話題のセミナーでも語られていた不在の百合概念の実作かと思われる。人間のいなくなった世界にまだ見たことのない相手を探し、風景そのものに存在を滲ませる。ソロ版「少女終末旅行」の感触。

他のも、死者と字数が限定された通信を描く森田作、いわゆる「ヤンデレ」の理論化というか認識の翻訳というか、という草野作、吸血鬼化した人類という歴史改変大正女学校でお姉様との交換日記で展開される伴名作、ソ連百合として話題になった、魂の交信を描く南木作、異種三角関係と言語の翻訳の櫻木麦原作、近未来言語SFの陸作など、前述のとおり多くが言語、通信、翻訳を軸とする。

伴名練作品は、屍者ならぬ吸血鬼改変歴史スチームパンクという点で伊藤円城『屍者の帝国』のオマージュかと思ったけどどうだろう。あっちはいわばBLSFだった。内容覚えてないけど「吸血機伝説」というゼラズニイの短篇があって、これも関係あるのかどうか。

櫻木みわ・麦原遼の合作はこじれた三角関係が、人間、人形、鳥人の三つの異種族に重ねられてる異種間百合でもあり、人形のぎこちない語りの異物感も相まってかなりの歯ごたえがある。南木義隆ソ連SFは乾いた文章で国の禁じた愛が交信する一瞬に賭ける。この人のペンネーム、「東西」に対して「南北」っていう名前かと一瞬思った。

陸秋槎の言語SFは、淀みなく展開される言語学的知見の横溢のなかで、今は数年会わないような昔の友人同士の出来事が人生を変えある一人の自殺を契機にその内心がかすかに見えてくる。ぐいぐい読ませるけど、説明偏重かも。

トリの小川作品はあえてかなり漫画アニメっぽい書き方をしていて、悲しい作品が多い本書でも圧倒的にポジティブな感触を与えて終わらせるところがいい。結婚が必須になった異星の氏族社会を舞台に、見つけた相棒は年下の同性で、という保守的伝統に抵抗する女性同士の絆を描く。一番「百合SF」かもしれない。

今井作漫画はちょっと短すぎるか。絵で見せるところは面白いけど、この作者で百合と言えばアニメで見た「アリスと蔵六」の羽鳥たちの話が良かった覚えがある。三つあげるとすると宮澤、合作、陸か。しかし、百合でSFではあるんだけど、百合SFと呼ばれるとこれでいいんだろうかみたいな不全感がある。なので個人的にはSF百合、というとしっくりくる。

危険なヴィジョン〔完全版〕2 (ハヤカワ文庫SF)

危険なヴィジョン〔完全版〕2 (ハヤカワ文庫SF)

ハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン〔完全版〕』。1960年代に、それまでなかったという全作書き下ろし作品によって編まれた巨大アンソロジー。話題性抜群で伝説的存在だったものの、日本では80年代に一巻が邦訳されたのみで刊行が止まっていたのが、ここにはじめて全体像が翻訳されたことになる。

最初の小説が始まるのが61ページという前置きの長さで、アシモフエリスンがお互いのこと、そしてこのアンソロジーの歴史的意味を宣言する序文から面白いから仕方がない。なってねえなあ、とあいつはチビだ、の大人げない応酬。これら三つの序文だけでなく、各篇それぞれに数ページのエリスンの序文があり、作者のあとがきもあって、ゆえに短篇だけを抜き出してもこのアンソロジーの感触は伝わらない。解説にもエリスンの本だとあるように、彼の勢いとハッタリと熱量、そのトータルがこの本だ。この本全体にSF史における若さがみなぎっているともいえる。

ムアコックらとも他とも異なるエリスンなりの「新しい傾向」としてのニューウェーブ、タブー破りという危険なヴィジョンを志向した本書の意気込みは熱いんだけど、当然半世紀前のタブーで、同性愛ネタのいくつかはむしろ感覚が古すぎて逆に危ういところもある。あとまあキリスト教圏だから「神」テーマが多い。そうした前のめりの勢いもあって、作品自体がさほどではなくとも序文やあとがきでいろいろ関係が見えるところは内輪感もなきにしもあらずだけれど、やっぱ面白い。

いくつか印象的な作品について書いておく。一巻はアシモフエリスンの紙上いちゃつきみたいなやりとりが印象的だけれど、フレデリック・ポール「火星人が来た日の翌日」の、宇宙人が来ても新しくて古い差別がそのまま残る感や、オールディス「全ての時間が噴きでた夜」も面白い。フィリップ・ホセ・ファーマー「紫綬褒金の騎手たち、または大いなる強制飼養」は、作中アイルランドのフィネガン徹夜祭が引用されてるように、ジョイスのパロディ的文体による芸術家の話、そして性、同性愛の話が渾然となったなかなか厄介な作品だけれど、果敢な言語実験がニューウェーブっぽい。

二巻は若島正解説がいうように確かに粒ぞろいだろう。ロドマン「月へ二度行った男」の切なさも良いし、ディック「父祖の信仰」は既読だけどやはりこの現実の皮が剥がれていく感覚は鮮烈で、ライバー「骨のダイスを転がそう」のSF・ファンタジックなギャンブル小説は読み応えがある。ヘンズリー「わが子、主ランディ」 も良い。ヘンズリーは弁護士なのに自動車を暴走させて警察に見つかったのに知り合いで放免された話と、それを本に書いちゃう序文が今から見ると小説より危険だ。アンダースン「理想郷」は東西冷戦のなかで、その敵対性を相対化しているのが面白い。それをオチにするのはどうか、と思ったけどそれが常態でもある世界を描いているともいえる。バンチ「モデランでのできごと」、機械化された存在と人間との対比と冷酷さが短いなかに描かれてて印象的。エムシュウィラー「性器および/またはミスター・モリスン」、妄想症の女性による語りの怪作。

三巻はスタージョン「男がみんな兄弟なら、そのひとりに妹を嫁がせるか?」が、近親恋愛タブーを批判するユートピアSFで、これはいまなお古びていない問題でもあり、性に対する罪の意識が害悪だというテーマで、あとがきスタージョンが、ポルノ追放運動を十字軍戦士と呼ぶのはそのためだ。アイゼンバーグ「オーギュスト・クラロに何が起こったか?」は「我輩」人称での軽快なコントで、ちょくちょく笑わされてしまう。ラファティ「巨馬の国」、SFというか法螺話というか、やはりラファティは良い。バラード「認識」、サーカスをめぐる認識の転換、これ読んだことなかった。ディレイニー「然り、そしてゴモラ……」、これも性をテーマにしたもので中性者や自由落下嗜好性的コンプレックス等の、宇宙時代のセクシャルマイノリティを描いていて鮮烈なんだけれど、それらがどういう位相にあるのか、を示すさまざまな描写に微妙なニュアンスがあっていい。

全三巻、総計1200ページを超える大著で、とにかく歴史的、伝説的な名が喧伝される本書だけれど、その五十年前の時代性も含めて、なかなか面白かった。幻の伝説の一冊、まあ、とにかく、読んでみるに如くはない。

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY』。映画合わせで出た書き下ろしアンソロジー。これももう二年前だ。ブラムを読み返してなくて正直かなり忘れてるんだけれど、それでも面白いし、特に飛浩隆は圧巻だった。ブラムをまったく知らないまま読むものではないけど、各人各様に原作を解釈した小説が並んでいる。

九岡望「はぐれもののブルー」、青をこころに、一、二と数えるわけではない、青の塗料を求める漁師と、会話可能な珪素生物というはぐれもの同士の邂逅からの展開。厳しい環境のなかでの夢を求める清々しさが印象的で、開幕に置かれるに相応しい。

小川一水「破綻円盤」、「検温者」という温度を測る者を通じて、この巨大建造物がどこにどのように存在しているのかを内部から推測する原作のSF的再解釈の一作。さすがの面白さなんだけど、これ両性具有者と女性型珪素生命との異種百合SFで、百合SFアンソロに書く前に既にこれを書いてたのビビる。

野﨑まど「乱暴な安全装置」、これが賛否分れるのはわかる。完全に火消しと悪代官の感触でそれなりに時代劇やってからのあのオチ、この酷薄さが原作らしいと言えばそうだなそういえば。ネタ枠。ただ、この人の短篇集読んだときも思ったけど、そんなに趣味じゃないんだ。

酉島伝法「堕天の塔」、原作忘れててモリが原作ネタだというのは言われて分かったくらいで、ちょっと作品の厚みを読めてないんだけど、大きな穴を延々と落ち続ける異常状況下でのポストヒューマンの日常を描いてて面白い。しかしこれ、山尾悠子「遠近法」オマージュだと思ったんだけどどうだろう。

で、飛浩隆「射線」、霧亥が消えたあとのブラム世界を徹底していじくり回して数万年スケールのなかで展開拡大させた破格の一作。重力子放射線射出装置の傷痕による痛みが、建造物に侵食したマイクロコンピュータの群体に自我を目覚めさせる展開、飛作品らしいなと思いつつ読んでいくと、まあ、どんどんどでかい方向に飛んでいってのラスト。設定をかなり改変追加しているんだけれど、あまりに巨大な建造物、霧亥と重力子放射線射出装置というブラムの二つの軸を中心に据えつつ大胆に換骨奪胎し、数万年スケールへ大いに膨らませた上で原作に送り返すという、トリをかざるに相応しい傑作だ。半端ない。そんな結婚指輪ある?と思わせる展開、愛、愛とは……?となるような中盤の展開もインパクト大だ。

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

岸本佐知子編訳『居心地の悪い部屋』河出文庫版(権利の問題で単行本とは一つ収録作品が異なる)。12の奇妙な英米短篇小説のアンソロジー怪奇小説というよりは奇想あるいは不気味な感触を重点においた編集で面白い。印象的なのは、エヴンソン、カヴァン、ロビンソン、ヴクサヴィッチ、オーツ、カルファスあたりか。

エヴンソンの二作は理由のない暴力の不条理さが突きつけられ、カヴァン「あざ」は不運と出口のなさが重苦しく、ロビンソン「潜水夫」は幻想性がとりわけ薄いながらもいやな感じのリアリスティックな積み重ねが効いてて居心地の悪さに関しては随一だろう。オーツの「やあ!やってるかい!」は文体と反復で笑わされてしまうし、ヴクサヴィッチの「ささやき」はSF短篇集に入っていてもおかしくないなと思ったら創元SF文庫収録だった。カルファスの野球クイズを模した短篇はどれも野球とは根本的になんなのか、が不分明になるようなメタ野球奇想小説。デュコーネイ「分身」は、自分から脱落した足がそこから再生して自分がふたりになる話で、その自分の分身を性的にも愛し始めるんだけど、自己愛にも似ていながらちょっと違っていて、双子百合的な感触に近い。この作者がスティーリー・ダンのリキの電話番号のリキらしくて、そういう繋がりがあるのかと驚いた。

グレノン、オロズコの知的なジョークみたいな作品も悪くないし、薄めだけどいいアンソロジー。表紙本文デザインがなかなか良くて、これ見覚えあるなと思ったら水戸部功。ちくま文庫のカヴァンもだ。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

変愛小説集

変愛小説集

岸本佐知子編訳『変愛小説集』 。岸本編訳本その二、概ね群像に連載していた短篇翻訳を一冊にまとめたもので、必ずしも愛がテーマでないものもあるけど、現代英米文学のなかから訳者の偏愛によって選ばれたセレクトではあるだろう。独特の作品が多数詰まっている。

冒頭のスミス「五月」、木に恋した人とその同居人の二人の視点での短篇で、視点が変わったところでちょっと混乱して、これは女性同士の話だったのか、と思った。性別がわからないなと思ったら原文は性別の特定を避ける書き方がしてあるようで、著者なりの自然な訳として女性二人と思われるような訳文になっている、というのも面白い。

一番のインパクトはホームズ「リアル・ドール」。妹の持ってるバービー人形と恋人になった少年の話。あまつさえ人形と「ファック」して精液をぶっかけるの、アレなオタクのアレっぽくて、すごいところ突っこんでいくなと思ってたら、妹の方も人形に傷をつけたりいたずらをしたりしてる嗜虐的な部分が出てきて、妹が首を男の人形とすげ替える子供らしい遊びをする結果、少年が男の人形に欲情して少年と男の人形の行為が始まるし、バービーの方も嬉しそうに自分は妹の物だとか言うなど、レズビアンSM的な趣向まで入って来て、セクシャリティの混沌が極まってくるかなりの一作。笑っちゃったのが、人形になんで男は嫌がると分かってることをするの、男はみんなジャック・ニコルソンよ、って言われるところ。ジャック・ニコルソン

人形を丸呑みする性癖についてはスラヴィンの「まる呑み」がまさにそういう作品だったり、ニコルソン・ベイカー怪奇小説?があったり、ヴクサヴィッチの二篇、バドニッツ「母たちの島」も面白い。とにかく、何かしら「変」な小説が詰まったアンソロジー

どこにもない国―現代アメリカ幻想小説集

どこにもない国―現代アメリカ幻想小説集

柴田元幸編訳『どこにもない国』。十年くらい積んでた現代アメリ幻想小説集と銘打たれたアンソロジー。既読のもの以外だとジョイス・キャロル・オーツとケン・カルファスの作品が印象的だった。岸本本でも面白かったカルファス、調べたら訳書が一冊もないので驚いてしまった。

マコーマック「地下堂の査察」は、増田まもる訳「隠し部屋を査察して」の別訳で既読。やはりグロテスクな奇想が光る一篇だけど、あとがきで「増田のぼる」と誤植されてる。ケアリー「Do You Love Me?」は地図という影のインフラが忘れられ、町も人も忘却されると消えていく寓話。

オーツ「どこへ行くの、どこへ行ってたの?」は、自分の見た目に自信のある少女が家族の出払った日に不思議な男に家に来られてドライブに行こうと執拗に迫られるだけといえばだけなんだけど(誘いを受けなければ電話線を切るなどと言われたりするけど)、じりじりくる恐怖と男の存在の生々しい異様さがあり、フェミニズム小説として有名らしいのも頷ける。

カルファス「見えないショッピングモール」はカルヴィーノ『見えない都市』のパロディ。マルコ・ポーロが「帝国内」のショッピングモールをフビライ・ハンにレポートする冒頭からユーモアとともにメタ的な断章の積み重ねのテンポの良い構成は野球クイズと同様の好作。

レベッカ・ブラウン「魔法」は、女王様に拾われた私、という二者関係がおそらくは女性同士の関係で展開されて妖艶ともいえるんだけど、次第に見ることと見られることの権力の問題が浮上してきて、ファンタジックな装いのなかに二人の関係の露わな暴力性が露呈する幻想譚になっている。

ニコルソン・ベイカー「下層土」は、自作をスティーヴン・キングに貶されたことに腹を立てたというベイカーが書いた、ジャガイモホラー。ケリー・リンク「ザ・ホルトラク」はゾンビや霊が普通に存在してる奇妙なコンビニでの青春というかなんというか、不可思議な感触がある。

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

ケン・カルファス、何か名前に見覚えがあると思ってたら「すばる」2013年12月号に都甲幸治訳で短篇が訳されてて、これは『鼻に挟み撃ち』掲載号で家にあった。で、ケン・カルファスの「Pu239」。これで既訳短篇は全部読んだかな。

ロシアの核施設でのずさんな管理による事故で被曝した主人公が、後に残される妻子のため高濃度のプルトニウムを売りさばこうとしてしくじり、その危険性を知らない売人がドラッグと勘違いして吸引するという無残な結末を迎える、ドライな筆致で人間の愚かさを描き出す一篇。解説にはカルファスの『この国特有の混乱』という作品が、911事件をパロディ化した作品らしく、カルファスは被害者たちをひたすら美化する姿勢から、イラク攻撃の惨禍まではたったの一歩だ、と発言したことを訳者都甲幸治が紹介している。パロディの手法は人間の愚かさを炙り出すとともに信仰や偽善などの美化がもたらす政治性への批判でもある、ということのようで、その一端はこの短篇からも窺える。

時間はだれも待ってくれない

時間はだれも待ってくれない

高野史緒編『時間はだれも待ってくれない』。オーストリアルーマニアベラルーシチェコ、スロヴァキア、ポーランド東ドイツハンガリー、ラトヴィア、セルビアの東欧諸国からSF・ファンタスチカを集めたアンソロジー。これももう八年前か。ようやく読む。

ファンタスチカはSF、ファンタジー幻想小説、ホラー、歴史改変小説までを含んだ呼び方で、幾分か非現実的な要素を含んだジャンルをまるごと包含する言い方と思えばいいだろうか。いずれも原語からの直接訳で、ベラルーシ、ラトヴィアからの小説の直接訳は本邦初とのこと。極めて貴重な一冊だ。序盤のほうがSF色が強く、後半になるほど幻想小説的、という傾向はあるか。

オーストリアのモンマース「ハーベムス・パーパム」は遠未来での異星人やロボットまで含めた多種族から教皇を選出する一コマ。こんな時代でも女性かどうかが気にされてるのは皮肉だろうか。

ルーマニアのフランツ「私と犬」、子供を安楽死させた男のその後の長い人生を描く一篇で、情感とともに陰鬱さが漂う。

ブルンチェアヌ「女性成功者」はアンドロイドの夫を買いそれを捨て、その後人間と結婚した女性の他者への態度を描いた短篇。モンマースとともに未来でも人間が変わらないありさまが浮かび上がる。

ベラルーシのフェダレンカ「ブリャハ」は、チェルノブイリ原発事故以後のある村での事件を描いていて、緊迫感ともども非常に印象的な一作。初出は96年で21世紀でもなく、ファンタスチカでもないリアリスティックな短篇だけれどその価値がある。解題でも、われわれはこうした作品群を「破滅SF」として読んでいなかったか、と問うている通り、このチェルノブイリでの汚染後の村はある種ポストアポカリプスものともいえ、ここに原発事故以後の日本の状況について、現実とファンタスチカの境界の揺らいだ状態を見る視線がある。この短篇は「災いは人を平等にする」、と書き出されている。村のつまはじき者だった男も災害後に村長から仕事を依頼されて豚の解体を手伝うという状況においては平等かも知れないけれども、一歩引いてみるとこの村自体が不平等のさなかに置かれているともいえる。台風19号が明らかにしたのは氾濫の地域差とともに避難所からの野宿者排除、という「災害ユートピア」の偏在でもあったわけだけれど、そんな村落にやってきた強盗の大怪我にもブリャハは医者を呼ぼうとする人間性を持っていて、作中ではこのつまはじき者だけがそうする。しかしそんな場所は「助けてくれる人も、守ってくれる人もなく、ただ風だけがひゅうひゅうと鳴り、雪あらしが地から空へと舞い上がっている。それはまるでこの世の終わりのようだった」(93P)、そういう場所だった。さまざまな意味でアクチュアルに読める一作だ。

チェコのアイヴァス「もうひとつの街」、スロヴァキアのフスリツァ「三つの色」、ポーランドのストゥドニャレク「時間はだれも待ってくれない」、東ドイツのシュタインミュラー夫妻「労働者階級の手にあるインターネット」は、いずれももう一つの世界、もう一つの時間というモチーフで括れるだろう。

とりわけ東ドイツのシュタインミュラー夫妻のものは、消えたはずの東独ドメインの自分自身から送られたメールが主人公を恐怖に陥れる。検閲、シュタージへの恐怖と、既にないはずの東独というもう一つの世界は、当時の西独にとっての東独の似姿とも見え、分断の歴史と歴史の分断のモチーフを東欧的と感じさせるものがある。

アイヴァスの長篇からの抄録の「もうひとつの街」はこの街には古くから存在が知られてないもうひとつの街がある、という不可思議な幻想小説で、ストゥドニャレク「時間はだれも待ってくれない」は、ポーランドの戦前の街並が年に一度戻ってくる、というノスタルジックなSFだけれど、今に書き重ねられる過去の時間、という二重性の面でこの二作にはいくらかの共通点がある。

フスリツァ「三つの色」はハンガリーとスロヴァキアが紛争状態にある、という歴史改変もので、スナイパーの視点から陰惨な状況をスケッチする一作。同作者の「カウントダウン」は人権を尊重しない権威主義的国家との関係を破棄せよ、「中国共産党に対して民主主義のための戦争」をと、民主主義テロリストがヨーロッパの原発の破壊を盾に要求するという一作で、風刺的ジョークとも思えるけど、2003年に書かれたこれも現在はきわめて喫緊の様相を帯びる。

ハンガリーのダルヴァシ「盛雲、庭園に隠れる者」は、ハンガリーの中国ものという興味深い一作で、年単位で庭園に隠れることができる奇妙な人間とその庭の所有者との命を賭けた知恵比べ、という按配。確かに中華風ファンタジーぽいけどしかし微妙にまた違った感触もある。

ラトヴィアのエインフェルズ「アスコルディーネの愛─ダウガワ河幻想─」、アスコルディーネという女性をめぐる話が、複数の分岐とも思しき辻褄の合わないんじゃないかという錯綜した断章で展開されていて、その構成自体をも幻想と呼んでいるような怪奇譚。

セルビアジヴコヴィッチ「列車」は、電車に乗り合わせた神から、どんな質問でも一つだけ答える、と問われた名門銀行の上級顧問氏を描くショートショート的な一作。神と出会ったのはもちろん一等車での出来事、という書き出しはユーモラスだ。ジヴコヴィッチは黒田藩プレスから一冊、東京創元社から一冊作品集がすでに出ている。

これに先立つアンソロジー、『東欧怪談集』編者でもある沼野充義が「東欧」という場所を西洋とアジアの境界性において把握する解説も、東欧革命後数十年を経た現在なおも「東欧」を冠したアンソロジーを編むことの意味について論じていて有用だろう。深見弾『東欧SF傑作集』の後継を志して編まれたアンソロジーで、翻訳史的にも貴重だし、非常に興味深い一冊。「ブリャハ」やシュタインミュラー夫妻のや表題作などが面白かったし、アイヴァスはやはり長篇版を読んでみようと思った。

東欧怪談集 (河出文庫)

東欧怪談集 (河出文庫)

沼野充義編『東欧怪談集』。1995年刊行の怪談要素を持った東欧文学を集めたというアンソロジーポーランドチェコ、スロヴァキア、ハンガリーユダヤ(イディッシュ)、セルビアマケドニアルーマニア、ロシア。パヴィチ以外はすべてが原語直接訳で、19作が本書のための新訳という。『時間はだれも待ってくれない』に先立つ東欧幻想小説アンソロジーの先駆できわめて貴重だけれども、ここでも言及されている沼野が愛読したという白水社の『現代東欧幻想小説』71年がさらに先駆としてある(持ってない)。

面白いのは東欧のユダヤつまりイディッシュ語作品が立項されて二つ収録されていること。殲滅兵器ゴーレムが未だ眠りのなかにある不気味さがあとを引くイツホク・レイブシュ・ペレツの掌篇と、傷を癒やせることが悪魔の使いだと迫害される、キリスト的な男を描いたイツホク・バシヴィスことアイザック・シンガーの短篇だ。ペレツはイディッシュでは著名な作家らしいけど、ほかにはアンソロジーにいくつか収録がある程度だ。

ポーランドからは「サラゴサ手稿」抜粋のポトツキ、ムロージェク、また近年国書刊行会から翻訳されてるグラビンスキは本書で初紹介だったという。チェコのチャペック、ハンガリーのカリンティ、セルビアのアンドリッチ、パヴィチ、キシュ、そしてルーマニアエリアーデなどが有名なところだろうか。

グラビンスキはなるほどこれは良かった。一切口を利かない女性との夜ごとの逢瀬が続くなか、という怪奇小説。ムロージェクは確か『象』を読んだはずだけど、「笑うでぶ」もまた不気味でグロテスク。有名所以外もなかなか面白くて、「こぶ」のコワコフスキは哲学的寓話集からの一篇らしく、人から生まれたこぶが自分こそが人間だと主張する奇妙な寓話。これを含む作品集が国書刊行会から翻訳されている。

ヨネカワ・カズミ「蠅」は短い怪奇掌篇だけれど、この23歳で事故死した作家はロシア文学米川正夫の子のポーランド文学者米川和夫の息子で、沼野充義がこの家で家庭教師をしていた頃、和夫のポーランド文学紹介の先駆的な仕事を目にした思い出も含めた私的なセレクトでもあるという。米川家はイタリア文学カルヴィーノ訳の良夫やゴンブロヴィチやアンジェイェフスキの和夫がおり、日本におけるロシア、ポーランド文学翻訳史の一コマとしての米川家の重要さの面でも意味があるだろう。

チェコの部は死の絵描きのネルダ「吸血鬼」や、持ち主が死ぬ絵画のルヴォヴィツ「不吉なマドンナ」など王道怪奇小説もあるけど、チャペックの「足あと」が不気味な現象を前にした警察の形式的振る舞いを皮肉る奇妙な短篇で、怪奇というより行政の不気味さが印象的。そしてなかでも印象的なのはクリセオヴァー「生まれそこなった命」で、子供が欲しい女性とそうではない男性の性行為を描きつつ、ある小屋での怪奇現象を題名の通りこれから生まれ損ねた生命自身の語りも挾みつつ独特の文章で語った作品で、なんともスリリングな感触がある。本書中でも一番記憶に残る。

スロヴァキアはシヴァントネル「出会い」が死と不貞と復讐でもっとも怪談らしい怪奇小説で、レンチョ「静寂」はまさに突然のこの世の終わりを描いた掌篇、次のプシカーシ「この世の終わり」は物乞いへの倫理的態度にまつわる宗教的寓話か。

ハンガリーのカリンティ「ドーディ」は子供にしか見えてない不気味な子供がドーディのものを何でも欲しがるうちにドーディのすべてを奪っていく。ゲーザ「蛙」は蛙なのかどうかもよくわからない不気味な蛙を殺した話。アーロン「骨と骨髄」はこれも世界の終わりと宗教にまつわる怪奇篇。

セルビアのアンドリッチ「象牙の女」は本当に象牙でできている女性を描いていて、グラビンスキのものとも通ずる一作。パヴィチ『ハザール事典』抜粋は長篇詩を残した女性の生涯、キシュ「見知らぬ人の鏡」は、自らの惨殺される未来を映す鏡の物語。パヴィチとキシュはこれらを収録した元の本の文庫があるのでそれを是非どうぞ。

マケドニアアンドレエフスキ「吸血鬼」、吸血鬼もの二つ目だけど、これは死んだ夫が復活して村中から盗みを働き、妻はその弁償をし続けるなかで、吸血鬼退治の男を呼んで、という話で、埋葬と復活の吸血鬼の伝承がベースになっている。

ルーマニアの二篇はどちらも30ページ前後あり、エリアーデの「一万二千頭の牛」はある男が自分を騙した詐欺師を探しに来たら空襲で入った防空壕で出会った人々は、既に爆弾で死んだ人だったという、二重に謀られる幽霊譚。男は六千頭の牛の商売の話をしているのに表題がその倍なのは、この二重の時間を意味しているのか。ミハエスク「夢」もまた戦争にまつわる話で、戦時行方不明になった妻が離れた街で踊り子をしているらしい、という話を聞きつけ赴くと、という話で、妻を切望し日々写真に口づけしていた男の願望が幾重もの夢となって現われ、現実すら定かではなくなっていく。

東ヨーロッパの広がりを示す意味でも選んだというソ連崩壊後のロシアから、ペトルシェフスカヤ「東スラヴ人の歌」、ロシアに留まらないスラヴ文化を意識したような表題を持つ怪奇掌篇連作七篇から四篇選んだもので、最初の幽霊譚や最後の部屋と一体化して鍵を扉に差すと血が流れる女性の話などがあり、全篇の訳が読みたいけど、既訳書には入ってない様子。

全体に妻、恋人をめぐる女性についての話が多いのが古典的怪奇小説ぽさがあり、事実18世紀のものから現代のものまで幅広く、レベルの高い作品集。これだけのマイナーな作家を集めて文庫版で出したのが快挙というような一冊だ。工藤幸雄訳ポトツキ『サラゴサ手稿』の53日目が掲載されていて、工藤氏が亡くなる前には既に翻訳は終わってたという話だけれど、本書で刊行予定と書かれてからも既に二十年以上の時間が経っている。なにが原因で止まってるんだろう?

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー)

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー)

ヤロスラフ・オルシャ・jr.編、平野清美編訳『チェコSF短編小説集』、編が二人についてるのはなんでだろうと思ったらチェコSFに興味を持った平野が外交官のオルシャとのやりとりで目次を作っていったとのことで、つまり二人の共同編集による日本オリジナルの20世紀チェコSFアンソロジーということらしい。東欧圏のアンソロジーというのは結構多いけれども、一国に絞ったものは珍しいので、その意味でも貴重で、作品もそれぞれ面白い。

最初に置かれた、『兵士シュヴェイクの冒険』の作者ヤロスラフ・ハシェクによる「オーストリアの税関」1912年作、は事故で瀕死の男がサイボーグ化されたら使用部品が税関で無数の関税を掛けられるという掌篇で、当時の関税政策についての諷刺らしく、独立したジャンルとしてのSFが成立する以前のものでなかなか面白い。

ヤン・バルダ「再教育された人々」31年は、生まれた子供はすべて親から離されて思想教育される管理社会を舞台に、ある人らがそれ以前の社会の様子を書いた禁書を見つける、という中篇のクライマックスを抄録したもの。法廷での弁論を描いた部分で、確かにここだけでおおよその作品内容は掴める。私家版が数冊しか残っていない、という先駆的なアンチユートピアSFとのことでなかなか面白いけど、子供はその実の親が育てるべきだというような血のつながりや母性本質主義的主張は、管理社会化への批判として個人が対置されてるとはいえ、児童虐待など今では子供の権利や視点をどうしても考えたくなる。

『R・U・R』の著者で「ロボット」の発明者でもあるカレル・チャペックの「大洪水」38年作は、なんともシニカルなショートショートでまあこれは一読してもらうほかないだろう。

ヨゼフ・ネスヴァドバはさまざまな東欧アンソロジーに名を連ねている作家で、訳された作品も10に及ぶので本書を読むような人はどこかで一つは読んでいるかもしれないチェコSFの代表格だけど、邦訳単著はない。「裏目に出た発明」60年作、はすべてをオートメーション化できる発明をした人物のたどる顛末を描く、今読むと古さはあるとはいえジャンルSFらしいSF。主人公の願望は皮肉な結果になるけれども、労働と通貨なしでスポーツや文化に打ち込めるならやっぱり楽園じゃないかな、と今は思える。なお、本書のネスヴァドバ邦訳リストにはameqlistにもない「宇宙塵」掲載作も載っており、計10作が邦訳されていることになる。
https://ameqlist.com/euro/eastern/nesvadba.htm

ルドヴィーク・ソウチェク「デセプション・ベイの化け物」69年作、火星探査の訓練としてカナダの北東部、ツンドラ地帯を宇宙服を着て走破する計画を始めた三人が、そこで偶然得体の知れない存在と遭遇するファーストコンタクトものの短篇。全員訓練だと思っていてうっかりファーストコンタクトしちゃうという趣向で、軽妙な雰囲気が次第に慄然とした状況に陥っていく。

ヤロスラフ・ヴァイス「オオカミ男」76年作は、研究仲間に裏切られ犬に脳を移植された男が、犬のように暮らしながら人間の相棒を見つける、という動物ものとしての心温まる話から、次第に野生に還っていく哀しさが印象的な一篇。犬SF。いや、オオカミSFか。前半の描写がずいぶん良かった。

ラジスラフ・クビツ「来訪者」82年作、侵略SFショートショートだけれど、今作が受賞した「チャペック賞」というのがチェコ最古の定例SFコンベンション「パルコン」と縁の深い若手作家発掘の賞で、本作はその第一回という歴史性がある。八〇年代はこうした作品が専ら地下出版で流通していたともいい、歴史的社会的経緯が興味深い。

エヴァ・ハウゼロヴァー「わがアゴニーにて」88年作、人が何度か死ぬのが普通というような臓器移植が常態化して人間自体が共同体の資源となっており、それ故に団地での狭い人間関係が利害関係と絡んで閉鎖的になり、劣悪な環境下以外の場所を想像できなくなっていく、という想像力の縮減、自縄自縛のディストピア。団地というコミュニティのありようをディストピアに擬したと思しい独特の設定で、人間関係の嫌さが生々しい。ラストも悲しい。

パヴェル・コサチーク「クレー射撃にみたてた月飛行」89年作、タイトルからわかるように、J・G・バラードの「下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルドケネディ暗殺事件」に言及する、そのオマージュともいえる一作。ケネディ大統領が月を目標にする宇宙規模のレースへの招待状を受け取っていて、という奇怪な導入から、平気な顔してデタラメ現代史を語っていく飄々としたパロディ感覚が面白い短篇。バラードというかアメリ現代文学的なユーモアを感じさせる作品で、柴田元幸岸本佐知子が翻訳してそうでもある。じっさいアメリカ現代史のパロディなので、アメリカ文学ぽいのはその通りなんだけど、笑いの感じも近い気がする。

フランチシェク・ノヴォトニー「ブラッドベリの影」89年作、題名がブラッドベリで本篇はレムの『ソラリス』の影響を受けた、未知の存在との接触が宇宙飛行士のトラウマを呼び起こす人物の姿をとって現われるという火星SF。作中言及される『火星年代記』の第二探検隊の末路はちょっと覚えてないけど、個人の心理ドラマとともにアフガニスタン戦争での、玩具や人形に仕込まれた爆弾によって子供たちが犠牲になったことによる、ソ連兵の精神的外傷ということを意識した作品でもあるという。

オンドジェイ・ネフ「終わりよければすべてよし」2000年作、その当時の誰かに乗り移ることで行なう時間旅行が一般的になった未来で、アウシュヴィッツを撮影した写真で賞をとった写真家をゲストに迎えたテレビ番組の形式で、その写真がいかに撮られたか、という倫理性への問いを描く一篇。どこへも行くことができない、終点としてのアウシュヴィッツが題材になっており、作品の結末も、作品集の掉尾を飾るに相応しい一篇だ。

ハシェク、チャペック、ネスヴァドバ以外は日本初紹介の作家だけど、ハシェクの原SFチックな掌篇から、いかにもジャンルSFらしいSFを経て、バラード、ブラッドベリ、レムの作風を持ち込んだものから、ホロコーストテーマという現代的なアプローチまでのチェコSFの見本市かつその歴史をたどるものとなっている。作中から選ぶなら「オオカミ男」と「クレー射撃」が良かったかな。

こうしたチェコSFのように、国別に一冊編む試みはもっと欲しくなる。東欧圏としてはレムがいるポーランドSFも一冊できそうな気はする。あるいはチェコSFのネスヴァドバの既訳短篇をまとめるだけでも一冊になりそうだけどさすがに古いか。

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

大橋洋一監訳『ゲイ短編小説集』。古書店などで平凡社ライブラリーの棚を見るとだいたい刺さってる印象のゲイ文学アンソロジーオスカー・ワイルドから、ヘンリー・ジェイムズ、サキ、D・H・ロレンス、E・M・フォースター、シャーウッド・アンダソン、サマセット・モームまで、二十世紀前半の英米文学の古典的作家から編まれた一冊。言ってみれば英米文学の古典のゲイ視点からの読み換え、ともいいうる。

前世紀前半ということで多くの作品は同性愛が忌避される時代の影響下で書かれていて、自らの内にある同性愛的欲望への恐れが滲んでいたり、悲劇的結末になるものだったりというのが多いけれども、その歴史性などを含めて解説ともども非常に面白いアンソロジーだ。

最初のワイルド「W・H氏の肖像」は、シェイクスピアの『ソネット集』に書かれた少年は誰か、を探るメタフィクションミステリー。そもそもソネットが少年を歌う同性愛的な作品で、それを探る男とその友人と、という男たちの関係が枠取る構成になっていて、とても面白い。長篇版が訳されているけれども、これは大幅改稿される前の中篇版になる。

「幸福な王子」は意外かも知れないけれど、ここでの「キリスト教的兄弟愛」は同性愛的欲望の生まれる条件ともなり、また殉教者こそ同性愛的欲望を喚起したものだったということでの収録。訳者を予定していた人と、この関係は師弟関係か同輩的関係か、で議論になった挙句、編者大橋洋一自身が翻訳することになった、というのがちょっと面白い。

ヘンリー・ジェイムズ「密林の野獣」、これはなかなか難しくて、やたら迂遠・迂回的表現によって語られ、そして長い割りにことさら事件が起きるわけでもない、不穏ななんともいえない感触がつづく小説になっていて、これをセジウィックが、己の同性愛に恐れているという分析をして研究史を書き換えたという。

サキ「ゲイブリエル・アーネスト」、これはかなり寓意的な、己の同性愛を庭に突然現われた裸の美少年の姿をした野獣、として描く短篇で、野獣のイメージが「密林の野獣」とも通底している、セジウィックのいう「ホモセクシュアル・パニック」の典型らしい作品。サキも同性愛者で、ペンネーム自体がそれを現わしているネーミングでもあるという。

D・H・ロレンスプロシア士官」、これ、私は特にBL読者ではないんだけど、軍人、上下関係、ホモソーシャル、傷、暴力、嫉妬その他その他、そういう萌えポイントのオンパレードみたいだと思ってしまうところがある。上官が若い当番兵に魅惑されながらもホモフォビアからいじめ抜く挙句にという話なんだけど、ホモソーシャル、ホモフォビック、権力と暴力の世界、これらの結びつき方が危うくて、萌えポイントだというのはホモフォビアを楽しんでいるということにもなるわけで。やや古い百合作品が「背徳」「禁断」を謳うのと似ていて(現代でもあるけど)、もはや無自覚に楽しんでいいものではないだろう。

シャーウッド・アンダソン「手」、短篇連作の『ワインズバーグ・オハイオ』の冒頭に置かれる短篇で、生徒への情熱にあふれた教師がその子供への身体的接触を同性愛だと見なされ共同体から迫害されるという異性愛社会を簡潔に描いた一篇。詩人と物語への言及は、これ以後の流れへの導入なんだろう。

E・M・フォースター「永遠の生命」、ポストコロニアルの面から注目されるフォースターもまたゲイだったらしく、最近新訳文庫で出てた『モーリス』が死後出版されたゲイ小説だったというのは知らなかった。この作品も死後出版で、そして植民地を舞台にしたゲイ小説だという複雑な要素を持つ。解説にもあるように、同性愛的欲望自体への否認が描かれることの多いこのアンソロジーのなかで、男性同士の性行為が明示される唯一の作品で、しかもそれがキリスト教伝道と引き替えになされる。非常に興味深いテーマ性のある一作。同性愛と植民地についての解説も面白い。

サマセット・モーム「ルイーズ」「まさかの時の友」、モームもゲイだったけれども、作品にまったく同性愛要素がない作家だったらしく、解説ではこれらの作の語りの側面から読み解いてみせるのが面白くもある。ただ、「ルイーズ」は自分に都合が悪くなると心臓発作を起こす、という演技的な女性を描いていて、確かにミソジニーでもあって、解説ではゲイゆえのものと書かれているけど、娘への態度は今で言う典型的な毒親だ。相手にダブルバインドを強いて自分の望みを通す他者コントロール術がきっちり描かれている。ここが面白い。

監訳とあるけれど解説を読むに大橋洋一の編集だろう。大橋洋一といえばテリー・イーグルトン、エドワード・サイードその他文芸批評の理論的著作の翻訳や概説書で知られるけれど(自分は小説ジャンルの専門家ではない、と書いている)、そうした研究を背景にした解説も充実しており面白い。翻訳も研究を反映してかすべて新訳で、そして大橋洋一以外の訳者はすべておそらく女性。各訳者のプロフィールを知りたいと思ったのに何も載っていないのは如何なものかと思う。

古典BLアンソロジーというのも出てるけど、英語圏以外か、二十世紀中盤以後のものを選んだ続篇でもあるといいなと思った。

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

利根川真紀編訳『レズビアン短編小説集』。『ゲイ短編小説集』と対になるアンソロジー。元々98年に『女たちの時間 レズビアン短編小説集』として刊行されたときは、『ゲイ短編小説集』が翌年刊行にずれ込んで、あまり見た感じ姉妹作には見えなかったけれど、四年前にゲイのほうが再販されたとき、タイトルを揃えて新装版として再刊された。

ヴァージニア・ウルフガートルード・スタイン、キャサリンマンスフィールド、カースン・マッカラーズ、ジェイン・ボウルズ、イサク・ディーネセンが有名な書き手だろうか。ほかに「三大レズビアン小説」といわれる作品の作者の短篇も収めている。三大レズビアン小説とはウルフ『オーランドー』、ラドクリフ・ホール『孤独の井戸』、デューナ・バーンズ『淑女の暦』とあり、最後のは未訳でホールのも1950年代に『さびしさの泉』として邦訳されているけれども今は入手も難しいだろう。この時期に出ているのは発禁になったという話題性込みのものか。

本書の作家は全員女性だけれど、女性名を用いない作者も複数いる。時代も19世紀末から20世紀前半のもの。収録作は女性同士の関係あるいは異性愛父権制社会への抵抗を描いており、『ゲイ短編小説集』が「戦慄と死」だとすれば、本書は「幸福と喪失」とでも言いうるような雰囲気の相違がある。男が自らの同性愛的欲望に戦くのだとすれば、レズビアンはその関係が社会から拒絶されることが焦点となる。そのため、本書にはそれが失われるとしても女性同士の関係あるいは共同体を、至福の時間として描くことが多くそれがとても良い。旧版の表題だった「女たちの時間」とはそこに掛かる。レズビアンとはいえ性愛的な関係が必ずしも主ではないのは時代もあるし、より広義に定義をしているからでもある。

19世紀後半のアメリカでは、ヴィクトリア朝の性道徳のもとで女性は無性的な存在とされ、女性同士の愛情関係は異性結婚までの間に精神的な向上をもたらすものとして奨励されていた。教育制度が整い女性が経済力を持ちはじめると女性同士の生活形態が現われ、それがボストンマリッジだという。

冒頭のセアラ・オーン・ジュエットはそうした生活を経た第一波フェミニズム圏内のフェミニストだったという。その「マーサの愛しい女主人」は、女主人の屋敷で女中をするマーサが、ある日現われた主人のいとこの女性ヘレナとの交流によって、のろまと言われていたのがよく仕事をこなすようになり、マーサはヘレナへの敬愛を抱くものの、そのあと会えないでいた間ヘレナへの「本物の愛」によって自らを律し、そして数十年を経て再会を果たすという話で、非常に後味のよいハッピーエンドといえる本書でも希有な一篇。1890年代の作。女主人が未婚の末娘で女性だけの家なのも重要なポイント。

ケイト・ショパンライラックの花」、パリで女優をしている女性はいつもライラックの花を持って修道院へやってくる。そこでの滞在がかけがえのない至福の日々だったけれども、おそらくはその稼業故に修道院から追放されてしまう、という一篇。女性同士の共同体が精神的な拠り所となることとその喪失が描かれる。

ウィラ・キャザー「トミーに感傷は似合わない」、銀行の仕事をこなし自転車を乗り回す男勝りな女性が、大学から連れてきた好きな女性、地元で思いを寄せていた男性とのあいだで三角関係になってしまうという異性愛と同性愛の同居があり、身を引きながら人々への愛を叫ぶ。男勝りな女性の居場所のなさは他の作品でも描かれている。

ジュエット二作目の「シラサギ」、これは同性愛を描くと言うより、シラサギを狩りにきた魅力的な男性を拒絶する、という異性愛への抵抗を描くのがポイントの模様。狩猟して鳥を剥製にする男性が撃とうとする鳥、なかなか象徴的な短篇。

キャサリンマンスフィールド「しなやかな愛」、あるホテルでの二人の女性を描写している三ページの掌篇で、あきらかに性的関係が示唆されるものの、生前未発表だったという一篇。

キャザー二作目の「ネリー・ディーンの歓び」、美しく陽気で街中の人に愛されているネリーと、そんな彼女と親友になったマーガレットだけど、長ずるにつれネリーも父権制社会に絡め取らていく。ネリーは三人の老婦人たちに愛され、その一人の息子と結婚しても、婦人は息子よりネリーをかばうほどだった。最後、ネリーの子を囲むこの三婦人は明らかに東方の三博士と重ねられてもいる。このキリスト教的含意はうかがい知れないけれど。女性たちの協同関係に対しネリーは男たちによって命を削られる構図だ。ネリーの子はマーガレットの名を与えられていて、二人の子でもあるかのような。

マンスフィールド二作目の「至福」、既訳では「幸福」という題で各社の短篇集に採られている有名作。なんというか、大学の授業とかで複数人でじっくり読んでみたいような解釈の幅と深さの器が感じられる。バーサはある女性への愛情が転じて夫への初めての性欲を生むんだけれど、二人は不倫していた、という話で、バーサのなかの同性愛と異性愛の関係とか、その欲望がいずれも不倫関係の目撃によって瓦解するのは同性愛およびバイセクシャルが社会から拒絶されるということなのか、あるいは不倫の目撃の前にすでに、女性を介して夫を愛そうとしたバーサは二人に対して裏切っていた、ということかどうか。

ガートルード・スタイン「エイダ」、スタインとアリス・B・トクラスのレズビアンカップルが共同生活をしているときの話らしいんだけど、それ以上に特異な言葉遊びの文体が奇妙で面白い。もう一つ収録されてる「ミス・ファーとミス・スキーン」も著しい反復とズレの文体で同性愛をほのめかす異様な一作。

彼女たちはきちんと楽しくし、彼女たちはちょっとしたこと、楽しくするためのことを覚え、彼女たちはたくさんのちょっとしたこと、楽しくするためのことを覚え、彼女たちは毎日楽しくし、彼女たちはきちんとし、彼女たちは楽しくし、彼女たちは毎日同じだけ長く楽しくし、彼女たちは楽しくし、彼女たちはじつにきちんと楽しくしていた。248P

すごいインパクトだ。この「楽しい」とは原文では「gay」らしく、他にもそういうダブルミーニングが仕込まれているとのこと。木下古栗の小説にこんなんなかったか。

ラドクリフ・ホール「ミス・オグルヴィの目覚め」、第一次世界大戦で女性部隊を従えて勇敢に戦い部下からも慕われていたのが、平時の社会では居場所がない、というマニッシュな女性が、ある遺跡で古代の男性に同一化して女性を愛す幻想に至る、という現代社会への怒りを示した一篇。これはスティーヴンと名付けられた女性をめぐる話だという『孤独の井戸』と内容が似ているらしい。なんと『孤独の井戸』を個人で邦訳している人がいた。
ラドクリフ・ホール『孤独の井戸』日本語訳

ヴァージニア・ウルフ「存在の瞬間」、ファニーがミス・クレイという女性への思索をすすめていくなかで、未婚の彼女は孤独な女性だろうかという認識が、いや違う、「幸せな女性なのだ」へと認識を転換するまでを意識の流れの手法を用いて描く短篇。読者の認識の転換をも試みる一篇だろう。

デューナ・バーンズ「無化」、成長の遅れた子供という存在が枷になること、弱々しい夫の存在、そして旅立つ女性を描きつつ、子育てをする存在に押し込められる女性、への批判が込められているような作品。ものごとが明瞭でない幻想的な雰囲気がある。

ウルフ「外から見た女子学寮」、これも女性たちの共同体を幸福な時間として描き出す掌篇で、思い出したのは宮本百合子「図書館」という短篇で、女性だけの空間が反差別運動のゆりかごでもあったというもの。
https://twitter.com/inthewall81/status/998917645163347970

ヘンリー・ヘンデル・リチャードスン「女どうしのふたり連れ」、女性同士の会話のなかで、母親を喜ばせるためにも男性と結婚するのが良いとはわかっていても、どうしても近くにいたり性的な接触をするのが恐ろしいと語られ、レズビアン異性愛規範とのあいだで引き裂かれる状況がある。

「あなたにそんなふうに考えるように教え込んだのは、そもそも誰なのかしら? そんなことを匂わせたり仄めかしたりして、あなたに信じ込ませてしまったのは誰かしら?…… 自分が本当にそんなふうに感じているんだと信じ込ませてしまったのは誰かしら?」
「違うわ! お母さんはひとことも言ったりしたことなんかないわ……フレッドのことで は」
「言う? わざわざ言葉を使う必要なんかある?……目をちらっと動かすだけでいいんだもの。あなたのフレッド君のためなら、これくらい簡単にね!」286P

カースン・マッカラーズ「あんなふうに」、幼い少女の視点から、姉が恋人と性体験を持ったことで変わり果ててしまったことを目の当たりにし、あんなふうには絶対にならない、と決意する。初潮、死産した伯母も含めて、異性愛や生殖のもたらすものへの抵抗を描いている。とはいえ、マッカラーズは大人の女性の同性愛は書かなかったらしく、同性愛を一過性のものと見るホモフォビアを見いだす見解もあるらしい。じっさいこの作品もそれが少女の視点からのもので、少女らしい幼さとも読める余地がある。

ジェイン・ボウルズ「なにもかも素敵」、モロッコでの女性との出会いと駆け引きがイスラムの異文化との接触とも絡んで描かれている一篇。

イサク・ディーネセン「空白のページ」、貴族が妻の処女の証に初夜の血の付いたシーツを掲げる風習があり、よい亜麻布のシーツを作ることで有名な修道院ではその血の付いた部分を額縁に飾る回廊があり、そのなかに一つだけ、名もない真っ白なシーツが掲げられている。異性愛父権制社会への抵抗が無言の空白の一枚として置かれている、という沈黙の抵抗を描いていて非常に象徴的な一篇。スーザン・グーバーの評論で有名になったらしいけど、訳されてるんだろうか。

『ゲイ短編小説集』が自身の欲望を自覚すること自体が問題だったのに対し、ここでは異性愛父権制の諸規範に対する抵抗が自覚的になされている作品が多いのが印象的だった。女同士の関係、場所の肯定や認識の転換など、さまざまに描かれた抵抗の諸相。スタインやボウルズなど、芸術家のコミュニティを担った人がいるのも、この共同体への意識があるからだろうかと。それぞれの作家にも同性のパートナーの存在がしばしば指摘されている。読んでいて、女性同性愛が学生時代の一過性のものだというのは大人になれば異性愛社会にお前たちを放りこむという暴力の言い換えに過ぎない、ということを感じた。解説も含めてやはり非常に面白いアンソロジー

しかし「レズビアン連続体」や「強制的異性愛」などが出てくるというアドリエンヌ・リッチの『血、パン、詩』、よくよく言及される基礎文献ぽいけど、いまかなり入手困難だ。

というわけでアンソロジーしばりで読んでいたまとめ。後半ほど各作品にきちんとコメントしだしているせいか、分量の偏りがひどいな。何十人の作家を読んだかわからないけど、被ってるのはカルファス、ベイカーくらいか? 『危険なヴィジョン』を読んでるあたりで、いっそ家にあるアンソロジーをまとめて読むか、と思いついて引っ張り出したものだけど、序盤の早川SFアンソロジーつなぎと、アメリ幻想小説から東欧幻想へ、そして平凡社ライブラリー「短編小説集」つなぎで最初と最後を合わせてクローズ、はいいと思うんだけど、ブラムアンソロから岸本アンソロへは特に繋がってないのが惜しい。