ヴァーツラフ・ハヴェル『通達/謁見』

松籟社〈東欧の想像力〉叢書第20弾は、チェコスロバキアおよびチェコの大統領としても知られるハヴェルの1965年と1975年の戯曲二作を収めた一冊。戯曲家から大統領になったハヴェルだけれども、日本では肝心の戯曲の翻訳が少なくまた手に入りづらい現状を鑑みて訳出されたものだという。人工言語と官僚組織、表現弾圧の社会といった言葉と政治をめぐる状況が描かれ、堂々めぐりの反復によるコミカルさが楽しいけれど同時にそこに不穏さが忍び寄ってくる。

160ページに及ぶ十二場の戯曲「通達」は、ある役所で人工言語「プティデペ」を導入しようとする顛末を描いたスラップスティックで、人工言語のデタラメな冗長性の反復や、役所らしいたらい回しのなかで描かれる人間性の疎外が主題と言っていいだろう。カフカ以後の戦後文学らしいというか、例えば安部公房も迷宮的なものを通じてこうした不条理と人間性の疎外を描いていたのを思い出す。人工言語「プティデペ」は「自然言語では到達できない精確さ、信頼性、一義性を、あらゆる発話において保証する」ことを目的として作られ、単語同士の類似性を限りなく少なくするため、「言語の冗長性をできるかぎり高める」ようになっているという極端な代物だ。この長ったらしい人工言語の講習風景もかなりギャグタッチだけれども、通達の翻訳をするには許可が要るのにその許可を出す人間がプティデペを翻訳できないため、誰も通達の内容を知ることができないという不条理な状況に陥る。

バラーシュ ヘレチャ! どうして、この個人登録証明書を発行しないんだ?
ヘレナ 通達に書いてある結論と矛盾のないことがわからないと、その書類の発行はできないの。でもその通達はプティデペで書いてある。あたしがプティデペを翻訳できないの、みんな、知ってるでしょ。レモン、まだかしら。
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの!
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしてやらないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの! (131P)

極端に冗長な人工言語によって自然言語から疎外されるのとともに、行政のシステムが迷宮となり誰もゴールにたどり着けない堂々めぐりをもたらすことと重なって、あまりにもバカバカしくも不条理な状況が出来することになる。この喜劇性は権力に対しても向けられていて、局長の席をめぐる権力争いも描かれているんだけれども、局長の席に座る者が入れ替わったら入れ替わったで今度はその新しい局長に対する軽い扱いが始まり、権力者もまた疎外される状況に陥っている。この単独の強力な権力者がいるわけではないという描写は、後述するエッセイでの「ポスト全体主義」への言及に繋がるものだ。

行政、権力、言語や監視といったモチーフがちりばめられながら、人間が言葉から乖離し本心を言葉にできなくなる状況が描かれるドタバタ喜劇というものは当然、相当に政治的な意味合いがある。また、ある人物が解雇されたままになるラストが腑に落ちなかったけれど、こうした人間を疎外する場所から逃れ出て演劇の世界に入る、というのはそのままこの戯曲の始まる地点にたどりつくということだろうか。


この思った通りにものを言うことができない状況の不条理を喜劇的に描くと言うことでは併録された一幕劇「謁見」も同種だろう。あるビール工場での酔っ払った醸造長と青年の堂々めぐりの会話から、社会主義政権下で作品の発表が禁じられた劇作家とその監視を命じられた者の奇妙な関係が見えてくる。堂々めぐりになる会話はただ酔っ払っているのではなく、言いづらいこと、公にはできないことがあるためでもあり、その極点に醸造長が劇作家ヴァニェクに自分で自分の密告書を書いて欲しいという不条理な話が出てくることになる。このような社会では自己監視が常に行き届いているという諷刺か。ビール工場が舞台になる点でボフミル・フラバルを思い出すチェコ文学の伝統という感じもある。

堂々めぐりの喜劇のなかに本当に言いたいことが言えなくなる、本心からのコミュニケーションが阻害される状況が描かれる、言葉と人間性について書かれた一冊。これらは戦後チェコ社会主義政権における言葉による権力への抵抗でもあるだろう。

表紙には戯曲で最初に読み上げられる「プティデペ」が印字され、醸造所らしい樽のイラストとタイトルはラベルを模して描かれており、ユーモラスな表紙デザインになっている。

『力なき者たちの力』

ハヴェルが78年に書いたエッセイで、古典的な独裁制に対して、個々人がそれぞれに「嘘の生」や「ゲームの規則」を生き、「自発的な動き」で従い作られる現代の「ポスト全体主義」のありようを分析する小著。『通達/謁見』で描かれているものと共通している部分が多く、相補的に読める。

つまり、記号は、従順さを示す「低い」基盤を本人から隠すことを手助け、それによって、権力の「低い」基盤をも隠す。何か「高い」もののファサードの影に、それらを隠している。
 この「高い」ものこそが、イデオロギーである。(17P)
 
イデオロギーは体制と人間のあいだの「口実」の橋となり、体制の目指すものと生の目指すもののあいだの大きな亀裂を覆い隠す。体制が求めているものは、生が求めているものであると装う。それは、現実として受け取られる「見せかけ」の世界である。(20P)

こうして「疎外、現状への迎合を隠すことができるヴェール」、「口実」こそがイデオロギーだとし、自身の「真の生」を覆い隠すものの分析を進めていくのだけれど、現代において非常にわかりやすいのは以下の部分だろう。

非常に単純化して言えば、ポスト全体主義体制は、独裁と消費社会の歴史的遭遇という土台のもとで作り上げられたのである。「嘘の生」がこれほど広範にわたって適応され、社会の「自発的全体主義」がこれほどまで容易に拡大したことと、精神的、倫理的高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくはないという消費時代の人間の後ろ向きの気持ちのあいだには、何か関係はないのだろうか?(33P)

体制からはみ出ない「記号」を共有し、消費社会における安定志向によって維持される下からの全体主義というのは古典的だけれども、今以て、あるいは今こそリアリティがあるのではないか。記号が意味するゲームの規則によって「真実の生」から疎外され、維持される全体主義社会への抵抗は『通達/謁見』で描かれたものの背景そのものでもあり、例えば71ページで語られるハヴェルのビール工場での経験は、「謁見」の元ネタでもあるし、この政治エッセイの基盤にもなっている。

社会主義体制で誰も真面目な働こうとしないなか工場の経営が傾いてきた時に、ある男が真面目な仕事をしようと現状の分析と改善の提案をしたら、工場の実権を握った者たちは仕事に無関心だけど政治的な力を持っていて、男の業績向上のための提案は「中傷文」と見なされ追放されてしまう。ここに、マサリクの言う「慎ましい仕事」、ハヴェルの言う「真の生」をまっとうしようとした真面目な一市民がポスト全体主義体制の壁にぶつかった瞬間が現われている。心ならずも「ディシデント」、異論派、反体制派とされてしまったわけだ。本書の主題は「ポスト全体主義」と「ディシデント」にあり、ディシデントとは何らかの政治的職業などではなく、そして「背教者」という語源のように何かに背くことでもなく、「真実の生」を生きようと決意した姿勢にあり、それは無数の普通の人々だと論じる。

以下の箇所も非常に日本的な現状という感じで興味深い。

ポスト全体主義体制の社会では、伝統的な意味での政治的生活はすべて根絶やしにされている。人びとが公けの場で政治的見解を表明できる可能性はなく、そればかりか、政治組織を編成することも叶わない。その結果生じた隙間は、イデオロギーの儀式がことごとく埋めることになる。このような状況下、政治への関心は当然のことながら低下し、大半の人びとは、(仮にそのようなものが何らかの形で存在するとしても) 独自の政治思想、政治的活動といったものは現実離れした抽象的なもので、ある種の自己目的化した戯れでしかなく、強固な日常という心配事から絶望的に遠く離れたものと感じる。(51P)

以下のくだりも常套だ。

権力の代表者たちは、「真実の生」を目的のある動機――権力、名声、あるいは金銭への欲望――とつねに関連付け、そうすることで、自分の世界、つまり堕落が当たり前の世界へと引きずり込もうとする。(44-45P)

NHKの五輪ドキュメントで反対デモ参加者が金によって集められたという捏造字幕がつけられた問題そのもの、という感じですね。一部の人には、つまり「永遠の嘘をついてくれ」だといえば通じる気がする。


劇作家がチェコスロバキアの最後の大統領にしてチェコの最初の大統領というのはなかなか面白くて、そもそもチェコスロバキアの最初の大統領はトマーシュ・ガリグ・マサリクという哲学者だったわけで、面白い国だ。マサリクについては林忠行の『中欧の分裂と統合』という新書があり、十年前になるけどこの記事で触れた。
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