八杉将司『LOG-WORLD ログワールド』

LOG-WORLD

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月の磁場から発見された地球外生命の残した知識を用いた技術革新によって発展した近未来、さらに月には人類の記憶ログが埋め込まれていることがわかり、そのログにアクセスして調査する仕事に関わることになった主人公が、この世界、この私の唯一性をめぐる事件に遭遇するSF長篇。歴史と可能性、情報と生命、分岐したもう一人の自分、仮構された現実などなど、この私は本当に自分なのか、この世界は本当に現実なのだろうか、という意識・自己のテーマをヒトラーの死んだ改変歴史やフッサールとの出会いといったSF・哲学を用いて正面から問う青春小説SFでもある。

急逝した著者が生前pixivにアップしていた小説を、個人が作った版元からAmazonのオンデマンド出版で刊行した上下二段組300ページというボリュームの作品。情報の海から回答を探り出すAIシステムはChatGPTを想起させるし、突如第一次世界大戦の戦場に放り込まれ右往左往する描写も含めて扱われている題材は公開時以上に身近かも知れない。

主人公は18歳で結婚した新田瑞樹、妻は雨子。妻が月で従事していた仕事に瑞樹が誘われるところから話が始まる。瑞樹は人工子宮で生まれており、雨子の母がそれを嫌悪した差別発言のために雨子は母と絶縁しているという背景がある。このイレギュラーな発生は作品全体に通底するものにもなっている。月の磁場に埋め込まれた人類のログ、ログワールドの探査というのは他人の主観的記憶を覗き見ることしかできず、誰のログにアクセスできるかはランダムだ。まるで他人のFPSゲームのリプレイを見ているようなものと思えばいいだろう。しかし主人公がアクセスした時、なぜか身体操作ができるというイレギュラーが起きる。

再度アクセスした時、上司は時代と場所からそこに一兵卒のアドルフ・ヒトラーがいることを突き止め、ヒトラーを殺せと瑞樹に秘かに指示を出す。その指示に従うか迷うちに、瑞樹の目の前でなんとヒトラーは戦死してしまう。そして瑞樹は現実世界との通信が途絶し、現地の青年の意識に閉じ込められてしまう。見ているだけのはずが身体操作ができるようになり、さらにはログアウトできなくなるという事故が起こったわけで、ゲーム世界転移ものに近いかも知れない。しかし、本来の瑞樹は事故のあと本来の世界で目覚めており、ログワールドに取り残された瑞樹とは事故によって分岐してしまったことになる。

瑞樹がアクセスしたログの持ち主は第一次世界大戦の戦場にいたドイツ語を話せるインド人青年で、瑞樹はその人物を乗っ取る形で、しかし彼の記憶などがいっさいわからない状態で生き抜かなければならなくなる。瑞樹が分岐したのはこのヒトラーの死の直後だった。そしてヒトラーの認識証を持っていたため、ヒトラーを名乗って生きることになった瑞樹がその後部隊で出会ったのが、フッサールの息子二人だった。

こうして、改変歴史にかかわるヒトラー現象学とこの世界の唯一性の問いを担うフッサール、この両者を組み合わせてこの自分・世界はリアルなのかログなのかという問いや、人間とは何か、意識とは何かを問うていく大がかりなSFの仕掛けが露わになるとかなり面白くなってくる。

「人間が戦争の本質であり原因か」195P

「ログワールドは単純な記録ではなく、人類の精神世界です。意識によって構築される世界でもあるので、現実にはなかった会話も認識を再構築することによりできています。つまり意識を持つことは、自分の中にログワールドを作るのと同じことだと言える。ひいては実際のところ現実もログワールドも同じかもしれない……」221P

フッサール教授は、自由とは身体によってもたらされた概念だと述べられた。そうであるならログワールドの人々にもそれぞれ独自の自由を持っていてもおかしくない。そんな自由を備えた身体には、主観性のある自意識が宿っているとみなされるべきだ」296P

「幸福とは、死がある人生を持った人類が創作した価値観にすぎません。死がなくなったことで新たな価値観が創作されるとは思いませんか」260P

これ以上は内容に触れないけれども、地球外生命の関与にしろ、実験の事故によるものにしろ、偶発的に生まれたものをそれでも肯定していくポジティヴな姿勢が爽やかな読後感を与えてくれる。人間の定義から外れたものを否定するか、定義の拡張に至るか、その葛藤。

歴史改変と哲学的疑問がヒトラーフッサールに代表される形で題材となっていて、インド人の青年がアドルフ・ヒトラーと呼ばれてフッサールの息子達と親交を深めるという展開として描かれているのがなんともおかしく魅力的なフックになっていて、これがきちんと出版されたのは良かった。ウェブに公開されていたのは知ってたけれど、紙の本でないと読む気が起こらずタイミングを逃していたので。

膨大なログの集積とそこに生まれる知性、そして身体性について、人間とは何かという問いについての本作の問いの構成は今井むつみの以下の記事と素材が共通してもいるけれど、色々違っているのが面白い。現今、ChatGPTが身近になったことで本作の問題意識はよりリアルに感じられるのではないか。
chuokoron.jp

しかし、瑞樹が憑依したドイツ語を話せる謎のインド人青年、史実に何か元ネタがあるんだろうか。

同作者同版元からは電子版短篇集成が出ている。原稿用紙800枚を超える分量の短篇を収めたものとのこと。こちらは未読。

『Delivery』をめぐるジュンク堂でのイベントには私も参加したことがあり、その映像が残っている。
www.youtube.com