トーマス・ベルンハルト『息 一つの決断』

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝的五部作の三作目、邦訳としては四作目になる。語り手が死の淵を彷徨う肺の病によって終末期患者の病室で死を間近にして過ごしている時、敬愛する祖父の死を知ることで逆説的に「息」を吹き返し、一人の力で立ち直り二度目の誕生を迎えた転機を描いている。以前の作では自殺願望すらあった語り手が、「今、私は生きたいと願った」(16P)というほどの大きな転機。

祖父の入院を契機に体調が悪いのを我慢し続けていた主人公も限界に達し、意識を取り戻しても胸から溜まった水を毎日穿刺して抜かなければならない状態になっていた。語り手も危地にあっただけではなく、病室では今にも死にそうな人間ばかりが集められており、幾人もの死を目の当たりにしていた。「医師たちは、横たわっている人々を既に死んだ人と見做しており、死者には関心を示さず通り過ぎねばならぬと思っていた」(48P)という状況にあり、

数百人の医者と呼ばれる人の中に、本物の医者は稀にしか見つからない。そう考えたとき、入院患者というのはいずれにしても常に、衰え、死んでいくよう定められた人々の社会なのだ。医者とは誇大妄想狂か、または呆然としてなす術を知らない人か、どちらかだ。いずれにしろ患者にとっては害になるから、患者自身が自分で何とかしなければならない。52P

「死んでいく過程がない、こんな幸せな死に方ほど、羨ましいものはない」(60P)。という突然死への感慨は肺という呼吸に困難をもたらす病気故のことでもあるだろうか。語り手は、この病室での様子を「もっとも哀れな人間たちの生活」(69P)と言う。

ほとんどの医師はダメだと言い募り、病院の牢獄性を語ってやまないだけではなく、最初の病気から回復したあとに結核ではないのに結核療養所に送られることで結核感染をもたらしたということへの悪罵は著者通例と言えるけれども、本作ではそうした苛烈さよりは病室での死を眺める厳粛さと再生の契機が印象深い。

私は、生きたかった。ほかのことはすべて、何の意味もない。生きるのだ、それも、自分の人生を生きるのだ。自分が生きたいように生きたいだけずっと。これは誓いではなかった。これは、既に匙を投げられてしまった人間が、自分の前でほかの誰かが息をしなくなった瞬間、心に決めたことだった。
(中略)
私は、自分の頭側にいた人のように、息をするのをやめようとはしなかった。私は呼吸し続け、生き続けようとした。おそらく私が死ぬだろうと思っていた看護婦に、無理にも私を浴室から運び出させ、病室に戻させずにはおかなかった。つまり、私は息をし続けなければならなかったのだ。一瞬でもこの意志を緩めたら、もはや一時間すら生きてはいなかっただろう。息をし続けるかやめてしまうかは、私にかかっていた。16P(強調は原文傍点)

これはごく初期の記述だけれど、本当の再生は祖父の死によってもたらされる。

祖父の死は、凄まじい姿で私を訪れ、凄まじい影響を私に与えずにおかなかったとはいえ、それはまた解放でもあった。生まれて初めて私は自由であったし、突然感じたこの完全なる自由を、私は自分の命を救うために利用したのだということが、振り返ってみると分かる。これを認識し、この認識を実際に利用した瞬間から、私は、病との戦いに勝ったのだ。79P

私は最初の古い人生、古い存在を終了し、それまでの人生でおそらくもっとも重大な決断をして、新しい人生、新しい存在を始めたのだ。91P

私はいつも、ただ私になりたいと思っていたのだ。115P(強調は原文傍点)

フェッタールでの療養所での生活で家族から持ってきてもらった本を読むことで、肺病によって閉ざされた音楽、歌手への道を断たれた代わりのように世界文学への扉を開き、シェイクスピアシュティフターといった祖父の本棚の本を読み始める。語り手は祖父とともにあり、祖父によって他の家族から切り離されていて、祖父を大変敬愛してはいるけれども、それは同時に庇護下の人生でもあったものが、祖父の死によって一人で自分自身の人生を決めなければならない自由を手に入れ、それによってこそ祖父の残した本を読むようにもなる。

ここに後の作家ベルンハルトの契機があり、自伝的五部作の核心があるのだろうと思える。死のなかからの生還、祖父と別れてそれまで疎遠だった母との関係の変化という二度目の誕生はそこにかかる。祖父は入院などで思索の領域に入ったことのないような人間は芸術家として大成することはない、という芸術化信仰のようなことを言うけれど、この時語り手はその資格をも得た状態で再起することになる。

五部作の翻訳は残すところあと一作。
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