市川沙央『ハンチバック』

文學界新人賞芥川賞受賞作。難病により背骨が曲がっており人工呼吸器を使って生きる主人公が、中絶という「障害者殺し」が日常化したなかにあって、それなら「殺すために妊娠する障害者がいてもよくない?」と計画する。生きることと殺すことの挑発的な問いを投げかけるばかりか、作品の大枠には「当事者性」についての問いも込められている。

作者が作中人物と同様の疾患だということで「読書バリアフリー」についての問題意識を投げかけ、障碍「当事者」の芥川賞受賞としても話題になった。

健常者社会への批判

本作は子供の頃「ミオチュブラー・ミオパチー」という遺伝性筋疾患を発症し、「右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲したS字の背骨」を持つ「ハンチバック(せむし)」となり、車椅子を使用し仰臥時には人工呼吸器を装着した語り手の生活と困難が具体的に描かれる日常をベースに、健常者社会への鋭い批判が随所に仕込まれている。亡き両親が建てたグループホームで生活しており、一億を他人に融通できる資産を親から譲り受けたある種のひきこもりがその視点から世の中への批判を繰り出す、という点で阿部和重が選評でドストエフスキー地下室の手記』を引き合いに出しているのはなるほどと思った。

息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。「文學界」2023年5月号13P

せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。16P(括弧内はルビ・以下同)

「日本では社会に障害者はいないことになっている」状況から、自虐を含みねじくれながらも批判は鋭く、的確に刺してくる印象がある。怒りを内に滾らせながらも慎重さあって、そうでなければ「感情的」などと言って被害者を気取って批判を取り合わないでいられる健常者の姿を知っているからでもあるだろうか。

以下少々長くなるけれど障碍と社会の点で重要だと思った箇所を引用しておく。

障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が係累なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりとも溜飲を下げてくれるのではないか? 14P

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。(中略)紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。私の背骨が曲がりはじめたのは小3の頃だ。私は教室の机に向かっていつも真っ直ぐ背筋を伸ばして座っていた。クラスの3分の1ほどの児童はノートに目をひっ付け、背中を丸めた異様な姿勢で板書を写すのだった。それなのに大学病院のリハビリテーション科でおじさんたちに囲まれながら裸に剥かれた身体に石膏包帯を巻き付けられたのは私だった。姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ。17P

紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残りページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。出版界が障害者に今までしてきたことと言えば、1975年に文芸作家の集まりが図書館の視覚障害者向けサービスに難癖を付けて潰した、「愛のテープは違法」事件ね、ああいうのばかりじゃないですか。あれでどれだけ盲人の読書環境が停滞したかわかってるんでしょうか。フランスなどではとっくにテキストデータの提供が義務付けられているのに……。20P

1996(原文傍点)年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
 だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
 それでやっとバランスが取れない?
(中略)
博物館や図書館や、保存された歴史的建造物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。
 本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。
 生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。23P

せむしとこびと

難儀する日常生活の描写も、それをベースにしている文章も、背後に確固たる土台(皮肉に響く)が感じられる。しかしそれは私が作者が当事者だと知っているから感じることかも知れない。そうした「当事者性」については作者自身も自覚していて、随所にそれに対する仕掛けが仕込まれている。障碍当事者による健常者社会への批判に留まるならそれは小説でなくてもいいかもしれないけれど、本篇はウェブ風俗記事という切り貼りでできた「コタツ記事」から始まっているのはその一つだ。風俗嬢は、語り手が決してなることのできない「人間」の象徴にもなる。

そんななか語り手「井沢釈華」は妊娠を「人間になれるチャンス」と呼ぶ。また同時に本作では「弱者」を自称する田中という男性が重要な意味を持っていて、釈華とのやりとりのなかで彼に対する軽侮の念、「インセル」「弱者男性」に対する差別心を露わにしており、被差別者も持つ差別心が書き込まれる。ネットの情報から釈華が妊娠と中絶がしたいと投稿したのを知った田中は釈華を蔑みなかば脅迫し、妊娠中絶を試みる計画の共犯者に近い関係になる。この時、釈華は田中に渡す金額を1億5500万円と決める。

「田中さんの身長分です。1センチ100万。あなたの健常な身体に価値を付けます」 27P

履歴書で彼の身長を知ったくだりはそんなこと書くものかと不自然だけれども、ここには決定的な侮辱がある。田中が弱者と自認するのはおそらくこの低身長と無縁ではなく、立てば釈華からも見下ろされる田中の一番痛いところを突くいやらしさがあることを示してもいる。それでいて「田中さんとの子どもなら呵責なく堕胎できる」という苛烈な一文には笑わされてしまった。グループホームから出られない障碍者と、その身長も要因かも知れないいじめなどの経験があってこのグループホームに来た田中とで、社会のイレギュラーな者同士のいびつな関係が描かれている。

そしてその後、障碍者の立場から健常者を刺す語り手の言葉は、健常者でも安定した居場所のない人間に屈辱を与えて逆に刺し返されるわけだ。当事者ではなれない立場からの切り返す視点。本作ではそうした尊厳の交錯が描かれており、お互いの尊厳の尊重といったような穏和さではなく、闘争的なところがある。そもそもが障碍者殺しの中絶に対する障碍者自身の妊娠中絶を持ってくるわけで、対立軸を浮き上がらせる闘争は本作の基調をなす。ここは、黄泉で腐敗した身体を見られたイザナミはお前の国の民を一日千人殺すといい、イザナギはそれならば一日千五百人を産もうといった神話を思い出させる。

生むことと殺すことがそうした神話的ニュアンスを帯びた闘争を演じている雰囲気がある。イザナミを読み込むの勝手な推測としても、後半でのエゼキエル書の引用、そして涅槃の花やシャカやブッダというアカウント名の仏教的要素など、ここでその位置づけはできないけれども、かなり意識的な宗教の引用があるのは確かだ。宗教という「物語」の示唆とも取れるけれども。

物語と当事者

ラストシーンは選評で賛否が別れた。突然の別の語り手の登場の意味が判然とせず、カットした方が良いという意見が多い。しかし、私の解釈が妥当かどうかはわからないけれど、ここはやはり重要な意味と必然性があり、それは「当事者性」と「物語」についての仕掛けなのではないか。

「私は29年前から涅槃に生きている」という釈華は冒頭のエロ記事やティーンズラブ小説(女性向けポルノ)で稼いだ金を行き場のない少女のシェルターやフードバンク、あしなが育英会などに寄付している。そして暮らすグループホームの「イングルサイド」は『赤毛のアン』由来だという。芥川賞受賞など本件では「当事者性」が云々されるけれども、障碍者やさまざまな「当事者」は不意に当事者になってしまうものではないか。釈華も当事者故に当事者以外の者になれない、不如意で壊れていく身体に縛られている。釈華が書くエロ記事なりTLなりのポルノはそうした身体の制約の裏返しだろう。

つまり「物語」こそがそうした「当事者」ではない者になる手段なのではないか。「当事者」でしかいられない現実を生きるひとつの方法なのではないか。

 私の紡いだ物語は、崩れ落ちていく家族の中で正気を保って生き残るための術だった。
 彼女の紡ぐ物語が、この社会に彼女を存在させる術であるように。37P

殺人事件加害者家族の述べた、本作末尾のここでは物語の二つの機能が述べられている。空想的な物語が過酷な現実を生きるよすがになることと、物語によって自分のような存在を社会に認めさせること。物語を読むことと書くことの二つの相だ。そしてもう一つが釈華がずっと望んでいた、別のものになること、だ。

赤毛のアン由来の名前のグループホームで生きる釈華は、物語によって生きることを示唆してもいる。本作の冒頭や末尾のような風俗、ポルノメディア的な物語は釈華のような存在にとって不可能でもそうなりたいような空想的な意味を持っており、「物語」とは「当事者」を超える夢なのではないか。釈華と沙花はお互いに読み・書くメビウスの帯のような構造になって、物語の二つの相のその両面が相互に乗り入れるようになっている。お互いがお互いを書く=生んでいるようなメタフィクショナルな構成は、妊娠することと人を殺すことをめぐる本作のもう一つのレイヤーだ。

つまり妊娠と中絶という本作の中心軸には、もう一つ「物語」をめぐるテーマが重ねられている。だからこそ冒頭は創作記事で始まり、最後は釈華の物語を沙花が書いたのかあるいはその逆なのかと疑わせる位相にあり、あるいは物語を「孕む」ことを示唆して終わっているのではないか。人を殺す物語を生むことで生きること。釈華が性にまつわる書き物で稼いだお金を恵まれない子の生きる糧にしようとしているのもそうしたねじれた関係の一つだろう。他者を生み、他者に成り代わり、別の現実を作り出していく物語についてのフィクション。

作者はこれが初めての「純文学」で、それまではファンタジー、SF、ライトノベルを投稿してきたというのは障碍当事者を超え出る物語を求めてではないかという気がする。そして本作でデビューできたというのは、障碍当事者でいることから逃れられない点で皮肉なことでもあったのではないか。読書に関する障碍者対応の遅れへの怒りが執筆の動機だともいい、記事などで当事者として扱われることを受け入れると語っていたから、声を上げるためににあえての行動で、そのあたりは分かった上でのことだろうとは思うけれども。

過日「当事者が当事者を描いた作品」で受賞したことを批判する意見を見たけれども、作者の投稿歴もそうだし「当事者性」についての問いが既に本作には埋め込んであって、そうした意見がいかに底の浅いものだったかというのが実作を読むことではっきりしたと思った。

この一連の発言だ。


おそらく、「重度障害者の受賞者や作品がこれまであまりなかったことを考えてほしい」という発言を報じた記事へのリアクションかと思われるけれども、本作を読む前にこれが流れてきてひどいものだと思ってツイッターでも反応してしまった。つまらなくなった読者が減ったのは○○のせいだという事実とは思えない単純化による煽動で、なんだか「ポリコレ」批判みたいな語り口だなと思ったし、ちょっとまえ文学賞受賞者が全員女性作家になったことがあったりしたけど、それも「当事者」と思ってそう、と思った。


こういう指摘もあるけれど、そもそも芥川賞井口時男が「社会と接点を持った文学賞」と表現してたのを先日聞いて上手い言い方だなと思ったように、被爆者、在日朝鮮人被差別部落、沖縄、トランスジェンダー様々な当事者がいたし、近年でも最年少受賞者や元ミュージシャン、芸人その他色々話題性には事欠かないし、想像力によって世界を構築するような作品が受賞する文学賞かといえばそうではないわけで。公募ではないものの新人賞だし。

色んな「当事者」がこれまでいたのに障碍者が獲った時に当事者性をあげつらうのは、よほどそれが気にくわなかったのかと思ってしまう。読書バリアフリーや障碍当事者の書き手など、この件は「文学」がこれまで限られた者たちの間だけで書かれていたというニセの普遍性への告発を含んでいるのに、この人はこの件で「普遍性」を失ったと書くわけです。かなりすごいなと思う。悪い意味で。参加者が開かれる意味での普遍性と作品自体の普遍性は別とも言えるけど、具体例を挙げるわけでもなく受賞作を読んだわけでもなさそうな書き方というのが、「ポリコレ」叩きでウケ狙いって感じがしましたね。「○○特権」を言い出すまであと何歩だろう、というか。

重度障碍者のリアルを描くには重度障碍者でないとならないわけではもちろんない。しかし、本作は読書バリアフリーの遅れといういないことにされていた障碍者の存在を描くという強い動機を持ったものが当事者しかいなかったというかたちでその普遍性への批判を突きつけたものだった。この過程において当事者だから選ばれた、というロジックはその死角を不可視化するものだし、芥川賞がそもそもそういう賞だったか、という点においても詐術的なものだと思う。

そんなことを思って作品を読んだらそんなことはもちろん「当事者」自身が百も承知なんだな、と。

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ラストシーンの解釈に困りながらも感想を書いていて、ある程度書いてもまだわからなかったんだけど、ある瞬間これは物語と当事者についてのテーマがある、と気づいて自分なりにようやく消化できた。「物語と当事者」の節より前はそのことに気づいてない状態で書いてる。新人賞選評でラストは要らないのではという意見があったのは、そのテーマに気づいてないというよりは、作中の健常者批判の新規性に対して、物語についての仕掛けが凡庸だ、ということなのかも知れない。

そして私は近年、漫画はほぼ電子書籍でしか買わないけれども、文字の本については紙の本しか買わない人間だ。専門の眼科に行っても原因を突き止められなかった目の不調のせいもあって、一日中ディスプレイを見ているということができないからだ。だからその点では作中人物が目は健康そうなのは羨ましいと思った。ここに老眼とかがきたらどうなるかはあまり考えたくない。

文學界」は最新号から電子版の配信を始めた。おそらく今作や作者の主張を受けてのことで、作品を選んだ雑誌としての責任を果たしたかたちだ。