
新潮文庫版の新訳が始まったので未読だったこれを月一くらいで読んでいこうかと思って読んだもの。キリスト教の考え方が埋め込まれているとも言われていて、まあそれは節々に感じるけれど一応子供向けなのでするっと読める作品。ただ最終作はなかなかすごくて、キリスト教徒にとってファンタジーが書かれる理由の一端を見た気がする。そういう面白さもある。
- 『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』
- 『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』
- 『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』
- 『ナルニア国物語4 銀のいすと地底の国』
- 『ナルニア国物語5 馬と少年』
- 『ナルニア国物語6 魔術師のおい』
- 『ナルニア国物語7 さいごの戦い』
『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』
第一巻。戦時中に疎開した四きょうだいが暮らす屋敷で、衣装ダンスの奥にナルニアという国があり、半獣の人と出会い、魔女の支配を打破するための戦いに加わるファンタジー。異世界に迷い込んで恐怖政治の魔女から国を救う四人のきょうだい、しかし魔女に魅入られた裏切り者がいて、という流れでゼリー状のお菓子のようなものとして出てくるターキッシュ・ディライト(トルコの輝き)、この何かが想像できない不思議な響きがなかなか印象的だけど求肥とかわらび餅に近い味とか。
一巻ではナルニア国を救う物語が展開され、冒険の末国は救われるんだけれど、その後きょうだいが成長して大人になって国を治めてってところまで行くのに驚いた。物語のなかのように時間が進んでいて、そして元の世界に戻ると時間が経過していない、夢のような終わりを迎える。読書経験の比喩のようなものは児童文学の基礎って感じがある。ここからどう話が続くのかが気になる終わり方だった。
成長した四人を語るところでお菓子に釣られて魔女に加担したエドマンドが「正義の王」となっているところが良かったな。その反省故の正義、なんだろう。
『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』
第二作ではナルニアと現世での時間の進み方の違いから、以前いた時から千年ほどが過ぎたナルニア国へと赴くことになる。征服王朝が否定した過去の伝承の復活をめぐる話になっていて、その当事者が主人公たち、といだいぶ時間が飛んでるのが意外だった。そしてこの外来の民族が元からいる人たちを侵略して、というのはケルト人の話を意識しているのかと思わせる。どうなんだろう。女の子は地図が読めないというシーンがあって、この話は歴史が長いんだなと思った。『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』
二巻の時代から数年後、カスピアン王子が叔父に追放された七人の貴族を追って東の海へ航海に出た時にルーシーたちが現われ、様々な危難を乗り越えながらアスランの国があるという東の果てへと旅する海洋冒険小説の巻。前巻までの四人のうちエドマンドとルーシーの二人と、いとこでなかなか性格の悪いユースティスが海を行く船の絵を見ていたらその絵に吸い込まれて荒れ海のさなかに投げ出され、助けたのがカスピアンたちの船だった。そこで七人の貴族の後を追って東への船旅に同行することになる。奴隷商から始まり人が竜になったりなどファンタジックな危険を乗り越えていく船旅は冒険小説の面白さがある。
ナルニアに来ても英国領事館に言いつけてやると語気を強めるユースティスの心変わりが読みどころの一つだけれど、そのきっかけとなった事件に食人の契機を読みとる解説が面白い。植民地支配の形骸化した社会で奴隷商に囚われた仲間を救出する話の後に、人間が竜に変じて同じく人間が変身した竜の死体を食べたかも知れないエピソードが続くあたり、解説にある野蛮と文明、人間性の危機についての意識が感じられる部分だ。しかし、わがままな子供が竜になって「野蛮」な行為をするところはやはり懲罰として与えられたものではないかという気もする。ここでユースティスに優しいのが人間でないネズミなのは面白いけれど、彼はアスランを強く求めて東へ赴く求道者でもあり、救世主の分身だからのようにも見える。
ユースティスの改心は良いんだけど最後、良い子になったユースティスをアルベルタおばさん、母親がつまらない子になってしまったと思ってる一節はとても良かった。意地悪な悪い子のように見えても母にはそうではなかったのは一種の救いでもあるのではないか。教導に対しての自己批判というか。
『ナルニア国物語4 銀のいすと地底の国』
前巻で冒険をともにしたカスピアンの息子の王子が行方不明となっているさなかのナルニアに、前巻のユースティスとともに同じ学校のジルという少女が訪れ、王子を見つけ出すために荒野と地底の国を旅することになる。言うことは悲観的だけれどここぞの時にはしっかりと行動するドロナゲキのキャラクターがなるほど魅力的で、彼が想像力の重要さを訴えるところに本作のファンタジーとしての核心があるのは良く分かる。けれども今作自体はそれなりという感じもあった。時代的に二巻から四巻までがカスピアン三部作といえそう。
「しゃべる雄ジカを食べている」、カニバリズムだ。獣人的な存在がいるけれども、食べて良い肉かそうでないかは喋るかどうかという区分けなのが示唆的だ。
『ナルニア国物語5 馬と少年』
シリーズ第五弾は第一作で省略された、ルーシーたちが治めるナルニア黄金時代を舞台にしている。孤児の少年と老人の妻にされそうになった少女が、喋る馬たちとともに南の国を脱するシンプルな冒険物語で、この世界の子供たちが主人公となっているのが珍しい。ルーシー、エドマンドの懐かしい面々が既にいるから新たに地球から紛れ込む者たちはいない、ということだろう。ナルニアの敵国カロールメンで漁師の息子として育ったシャスタ少年は売り飛ばされそうになった時に、ナルニアの喋る馬だったブリーがその場にいたことで二人して逃亡の旅に出る。同じくして老いた宰相の妻にされそうになったカロールメンの貴族の娘アラヴィスが死のうとしたときに愛馬フインが急に喋り出して一緒に逃走を試みたところで、二人と出会う僥倖を得る。二頭はともにナルニアからさらわれて来たことでカロールメンでは喋れることがバレないように振る舞っていた。
プライドが高い軍馬の雄馬ブリーと、貴族の娘でシャスタと話さないようにしていたアラヴィス、と男女雌雄で傲慢な態度の問題を描いているというのは解説にあるとおり面白い所だと思う。同時に、独裁的なカロールメンの文化は明らかに中東のイメージで、オリエンタリズムというかヨーロッパの人種差別の具体例になっている。
読んでて興味深いのはドラマ的に盛り上がりそうな部分が異様にさらっと済まされてしまうところだ。最後の素性が明かされる所とかもだけれど、ここはもっと描写を増やしても良さそうなところでさっさと次に行く淡泊さがある。これはむしろ現代小説が濃すぎるのかも知れない。あるいは大人になって読んでいるからというのもあるか。子供向けとしての取捨選択があると考えた方が良いかもしれない。
しかし、前巻のところでも書いたけど、普通に肉食する世界をベースにしながら、動物と亜人種との境に話が出来るという知性の有無を持ってきているのはキリスト教的人種主義なのかなとも思える。あと、アスランを仰々しく迎えすぎている、という気もするけどこれこそ宗教観の違いかも知れない。
『ナルニア国物語6 魔術師のおい』
第一巻よりもっと以前の1900年頃のロンドンで、テラスハウスで隣同士の少年と少女が雨模様の退屈さから屋根裏を探検していたら魔術研究をしている伯父の奸計にはめられ異世界に飛ばされることになる。ナルニア創成に立ち会い一巻冒頭に繋がる第ゼロ話。世界と世界を繋ぐ森を介して、黄色と緑の指輪によって現世や凶悪な魔女のいる世界、そしてアスランによってナルニアが作り上げられる世界を経巡る冒険が描かれている。第ゼロ話らしくシンプルな冒険譚に見えて、異世界と現世を往還する仕掛けは六番目に読むことで驚きが生まれる作りだろう。
異世界で好奇心からポリーの制止も振り切ってベルを鳴らしてしまい、世界を滅ぼした魔女が復活し、ついてくるのを振り切れずに現世にまで連れてきてしまい、そこでドタバタが起こるというのはなかなかファンタジーらしい展開に見えるけれど、こういうパターンの定番ってどこから始まったのか。
基本的にナルニアに地球の人間たちが赴いての冒険が主だったこのシリーズでこうして向こう側から脅威が訪れるというのは初めてのことで、それだからこその新鮮さがあって面白い。ディゴリーもだけれど伯父もまた女王の美貌に惹かれるけれどもポリーは特別魅力を感じないという相対化がされてもいる。
衣装箪笥や街灯、ナルニアの魔女などの第一巻の状況がこうして出来上がった、という後付けの説明という感じもあるけどそれはそれとして一巻に繋がっていくのは面白い。ただ、現世の人間をあっちにつれていって勝手に王と女王にアスランが仕立て上げるのは拉致にしか思えずビビった。良いんだ、それ……って思わないではいられなかった。馬車の御者が成り行きで異世界に行ってそこで急に王になる、サブキャラだからって扱いが適当すぎないか。
それはそれとして、この冒険のコンビのポリーとディゴリーがずっと友達だったと書かれていて、恋愛関係にならないのが今読むと面白い。思春期以前の子供たちを描いているからでもあるんだろうけれど、冒険とラブロマンスを混ぜないのが基本になってる感じがある。たぶんそれは私なんかが少年漫画なりアニメなりだと冒険と恋愛がセットになっているのを当然のものとして見てきているせいだろうとも思う。
『ナルニア国物語7 さいごの戦い』
シリーズ最終作は偽アスランの登場によって混乱に陥ったナルニア国がカロールメンに侵略されるばかりか、星が落ち海が押し寄せる世界の終末という劇的展開で驚かされる。仮初めの世界の奥にある真の楽園の光景は、死者の宗教的な救済にも見えた。どうもこのシリーズはアスランを仰々しく応対しすぎているなと思っていたから、暴虐を命じる偽アスランにも従ってしまうという展開は、ナルニア人の自立心のなさを描いているようで面白いと思っていたけれど、あんまりそういう意味ではなかったかな。ドワーフの描き方からしても。
さいごの王と呼ばれさいごの戦いと称される預言的な言葉が出てくるので何かしら終わりを迎えることは明らかだったけれども、怒濤の如く押し寄せる終末の光景は大スペクタクルな読みどころにもなっていて、創成を描いた前巻はこの終わりを迎えるための布石だったわけだ。
賛否両論巻き起こるのも納得の終結で、宗教的救済をプラトンのイデア論も用いてやや異端的に描いたもののような気もする。しかしこのラスト、藤枝静男の「一家団欒」のようなもんだよなとも思う。世界の誕生と終焉そして信じるものの死後の救済。
最初の四人の一人、スーザンだけがナルニアを忘れ、現実の大人として生き、それを非難されているんだけれど、ナルニアにいないということは事故で死なずに一人生き残っていると見て良いんだよな。これも賛否があるけど、スーザンは現実へのアンカーなのではないかとも思った。
三巻でユースティスの改心を母が残念がっている描写が印象的だったんだけれど、それと同様のナルニアの相対化の契機ではないか。作者は普通にドワーフともども救われぬ人々として描いたかも知れないけれども、それ故にこそ今作の描写の絶対化を批判的に見うる視点を埋め込まれている。
馬小屋やイエスその他キリスト教的モチーフもふんだんに散りばめられているけれども、そういうのを気にしないで読むと、亡くなった人たちもまたあの世で楽しく生きていて欲しいというひどくシンプルな願いとも読める。一巻で献辞がある子供はあるいは亡くなったのか、とも思ってしまった。
ただ、このシリーズ通例として、肌を塗り三日月刀を使ってカロールメンの仮装をしていた面々が、その肌の色を落とす時に「真の人間になった」気がするというところの人種差別ぶりはすごくて笑ってしまった。
そういえばこのニール・ゲイマン『壊れやすいもの』所収の「スーザンの問題」はナルニアを読んでからじゃないとダメだな、と思ってこの本も積んでいたんだけれど、ようやく読んだ。とは言ってもあまり感想はない。生き残ったスーザンが老教授になり児童文学についての本を出していて、そこにインタビューに来た女性との対話のなかで、列車事故で家族を失った後その陰惨な状態の死体を検分したトラウマ的な体験を語る下りは重々しい気分になる。ナルニアの世界にも死はあったけれど、グロテスクな死や性の描写を与えて、そこから排除されたものの存在を描いているような印象がある。別の翻訳は見ていないのだけれど、岩波少年文庫の瀬田貞二訳の三巻タイトル、『朝びらき丸 東の海へ』というのはなかなかすごいなと思った。新潮版は「夜明けのぼうけん号」で素直な訳だと思うけど、「朝びらき丸」は格好いい。ただ、子供の頃の自分だったらむしろこれはダサいと思いそうだ。







