文学フリマで買った本

文学フリマで買った本、しかもだいたい去年とかに買ったような本の記事を今更書いてるのもアレだけれど、読んだ記録をまとめておく。画像を引っ張ってこようかと思ったけど一つ一つ用意するのになかなか手間が掛かるなと思ったので最初のだけで諦めてしまって済まない……

オカワダアキナ編『任意の五 庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー


庄野の不可解な短篇を題材に、小説だけではなく評論文や俳句なども含めた多彩な応答で編まれた一冊。男性性についての問い直し、そしてパレスチナなども含めた戦争などもサブテーマになっている。「五人の男」がそもそも謎めいた作品で、祈ったり病気をしたり怪我をしたり子供を失いかけたりといった男性たちが描かれているけれども、なぜこの五人が描かれたのかが不明瞭で、戦後十年を経ての傷の経験を連想ゲームのように連ねたものだろうか、という程度にしか私は読めてない。

裏表紙には「国家による暴力にのみこまれ、加担もし、生還した男たち。/ さて二〇二四年、現在進行形の見えている虐殺を止められない日々だ。わたしたちは暴力をやっている。その自覚のなかで、男性性を問い直す」と記されており、おそらくは本書のコンセプトになっているかと思われる。私は編者のことを全然知らなかったので、作品を読んでプロフィールにqueerとあるのを見て、だから本書ではセクシャルマイノリティの描写が多く、そもそも表紙がレインボーカラーとも取れる色合いになっているのか、と納得した。そしてそれは冒頭に置かれた作品の最初の段落で既に示されていた。

板垣真任「大合唱」。「あのひとが男でも女でもいい」と書き出され、Be動詞についての言及が続き、「かたちが変わってもそこに、存在してくれているとうれしい」と言う言葉詩のようにリフレインされる。五人の共通項として「存在している」ことを抽出したような、意想外のアプローチで書かれた一篇。合唱であまりパッとしないバスのパートに振り分けられた、主人公「ひで」を含む男子五人という性別、性徴をめぐる話から始まり、しかしこの五人のことについてはおぼろげで思い出せず、音楽の教育実習の先生への初恋が語られ、自身が同じ学校に実習に行った時にはその先生はいなかったという経験や、あるいは無口のいとこについて語られ、そうして声を出すこと存在することについての思索が「小説家」の「私」の創作理由として述べられるという語りの型破りさを持っているけれども、読んでいて感じるのはこの散文詩的な文章の音楽性で、短くもなにか突出した印象深さが今作にはある。板垣さんは相互フォロワーで寄稿していると聞いて本書を入手したのだけれど、やはり独特の個性ある文章を書かれる人だ。「五人の男」からどのような形であれ「存在している」ということを引き出すのは鮮烈なものがあると思う。

以下、幾つかの作品について書いておく。

那覇剛柔丸「波の五分」、沖縄県を舞台にしたこの短篇があるのは戦争において沖縄は無視することができないからだろう。沖縄に旅してきた青年を描きながら、自殺と間違わたことや歓楽街、戦闘機など沖縄の風景を描く自体が沖縄の歴史への思考を導くような印象がある。

晋太郎「ペンタクル・サークル」、本書のコンセプトを実直に描いたような一作。ガザ、パレスチナへの抗議運動なんて意味がないという外の言葉に抗しながら、誰かの少しの行動が回り回ってある小さな巡り合わせを招くこともある、という祈りのような作品でもあると思う。

深澤元「読書メモ「五人の男」はなぜこの順番で並んでいるのか」、表題短篇を読んでいないならまずこの読書メモを参照することで概略が把握できるし、その謎めいた感触もうかがい知れるのでこちらを最初に読むといい。やはり何かしらの傷ついた経験を共通項にしている気がする。

宮月中「五人と鳥」、鳥のような動きをする店員、鳥の踊る真似をする後輩の話、ドバトとキジバトを混同する話、イソヒヨドリの声の話から、最後「アメージンググレイス鳥」という存在しない鳥の話へと、なにげない話から奇妙な話までが並んでいて、良い感触のある作品。

兼町ワニ太「動物園日誌」、生殖のために海を越えてきたパンダを見せようと動物園に連れてきた祖父は満洲生まれで、ライオンの絵は台湾に送られ、妹の恋人は韓国での兵役間近で、その次は香港返還と、いずれも戦前日本が占領した土地を話の背景に置き、生殖・暴力を動物と人間に絡めて描く一篇。1997年に返還される「港湾市」の内陸部を舞台にした節は、おそらく最初に出てきたパンダの視点の擬人化ではないか。発情期を迎えて性交することを「馬鹿になる」という言葉で語り、子種を上手く残せなかった冒頭のパンダはゲイだったという「種」明かしをしている、と読めた。

暴力と破滅の運び手「悪魔の抱擁」、火星人が攻めてきている世界でのある湖畔での出来事を描く奇怪な一篇。この太字で強調するやり方は大江健三郎だと思ったけど作品の雰囲気からはあるいは筒井康隆なのかも知れない。しかし「若く健康なアメリカ人の青年」が戦闘機で墜落した、は大江すぎる気がする。火星人に精子を採取されるという恐怖と貞操帯、「鍵盤でペニスを殴打」という生殖の不全をめぐる描写、摂食、排泄、下水の円環で生きる魚と人間、そして火星人の侵略の始まり、男性性の解体といえばそうかも知れないけれどもそれ以上のカオスで押し流されるような感じだった。

オカワダアキナ「ホーン・ホーン・ホーン」、男たちには角があるけれど男同士の争いによって奪われたりする慣習がある奇妙な世界で、「ホーン」に男性性の象徴としての角、警報・警笛の意味を込めつつ、ゲイや「おれはもとから角がない」とトランスジェンダーかと思わせる描写を重ねていく。暴力事件で仕事を失った俳優や父とその若い同性の恋人とのデートらしきものについていった記憶、「おれ」という男性的一人称を使う語り手が男性の性器を持っていないらしい叙述などもありつつ、動物の角でできたメガホンで「おれ」は反戦デモで「殺すな」を叫ぶアイロニカルな状況を描いていて面白い。

瀬戸千歳「まんまるくてかわいいおばけ」、近所のお兄さん、祖父、義理の兄、従兄、自分と徐々に自分に近いところへと語り手が推移していくかに思え、失踪、死去、転居などいずれも自分から離れていく運動が描かれているのは、自分が弱くいつ死ぬかという恐れの意識からだろうか。路上でいつ暴力に見舞われるかという不安を男性だからと一笑に付される経験をもつ最後の語り手が見聞きした傷つきやすくまたあっさりと死をもたらされる男たちの話を描きつつ、姉の夫がとても聞き上手なのは女性的とされる資質の持ち主としての意味があるだろうか。公共交通機関に乗ることができない従兄の話はこれだけでも一篇の奇想掌篇になるような印象深さがあって良い。

ざっと印象的な作品について書いたけれども、本書にはこれ以外にも男性性を論じた論考や性的サービスを行なう男性?の日記や架空の展覧会の形で男性を描く絵や写真を用いたもの、さまざまな試みがある。

幾つかの作品で動物の存在が重要な意味を持っているのは男性性の問い直しにおいて、生殖や闘争といったものを象徴とする動物との関係が重要だからだろうけれども、これは「蟹」など庄野潤三自身が動物、生き物を作品に良く描くからなんだろうか。あまり読んでないので分かっていない。

羽織虫/ゲスト むま『誰かの思い出の場所を、その人と一緒に歩く散歩がしたい 久我山西荻窪/昭島~立川~福生編』

これも去年の文フリ本。後藤明生オリエンテーリングで知り合ったり文学フリマ入場の参加列で目の前に並んでいたりした羽織虫さんの出していたもの。数度会っただけのゲストと表題通りの場所を歩いて、それぞれの視点からのエッセイを寄せ合う四篇を収める小冊子。

思い出の場所に久しぶりに来た人と、そこに初めてきた人の二つの視点があり、場所もそうだけれど、最初に読んだ文章の書き手をそこで描かれた同行者の視点からも読める、というこの企画はちゃんと面白い。羽織虫さんの視点では特に触れられなかった福生アメリカっぽさがむまさん視点で非常に新鮮に見られているところなど、視点の違いが非常に鮮やかに出ていて良かった。相手との距離感に悩んでいると書かれた後に別視点だとサービス精神にあふれた人と書かれているのは距離感が分からないからサービスしてしまうのかなと思ったり、自己反省と他者視点の交錯がある。もっと膨らませられる企画でもありそうで、でもこのさらっとした短さが良いのかも知れないとも思ったり。

羽織虫/ゲスト 針山『誰かの思い出の場所を、その人と一緒に歩く散歩がしたい 西新宿/青山・表参道』

針山さんの初恋の西新宿、羽織虫さんの青山・表参道という思い出の場所を二人で散歩してその様子をそれぞれ文章にする四つのエッセイで構成する企画の第二弾。捨てられなかったもの、で繋がる回だった。

針山さんの二十五歳での初恋が、三ヶ月で同棲してる相手がいることを知らされたものの結局四年付き合ったという「私は彼を捨てられなかったのではなくて、わたしの恋心を捨てられなかった」経験が切ない。その時羽織虫さんには実は似た経験があってうまく寄り添えなかったとあるのが笑ってしまった。

表参道のところ、羽織虫さんがコムデギャルソンについて非常に複雑な思いを抱えている文章の後に針山さんがギャルソンについて能弁な羽織虫さんを見て、確かにギャルソン愛があるのでは、と思うところがやっぱり双方向エッセイの面白さで良かった。複雑な思いがあるものほど語ってしまうというか。

羽織虫さんの、恋人の実家に泊まりに行って結婚を考えている話を親とした直後に、彼女から好きな相手ができたから別れようと切り出されたのはだいぶすごい話を持ってるなと思った。「物よりもなんかもっと根深いものを捨てられてない気がする」という針山さんの観察もいい。

羽織虫/ゲスト ごま『誰かの思い出の場所を、その人と一緒に歩く散歩がしたい 横浜人形の家/神楽坂・市ヶ谷編』

羽織虫さんの横浜人形の家と、ごまさんの神楽坂・市ヶ谷を二人で歩いてそれぞれ文章を書くZINEの第三弾。羽織虫さんの相手の期待に応える性格にフォーカスが当たるのは、この企画の性質からは当然なのかも知れない。
これまでも共著者からサービスが良いと言うようなことは確かに書かれていた。横浜人形の家というのは、羽織虫さんが人形を怖がる様子を面白がった姉たちがしつこくそれをネタにして、もう怖くもなくなった頃にもそのいたずらにずっと答えて怖がって見せていたという過去のエピソードの舞台だった。そうした性格の原点を見つめ直したからと言って別に何か解決するわけでもなく、さらっと文章は終わるんだけれど、あなたと私、あの時と今のズレを描こうとするこの企画が、そういう演技的な性格と本心との谷への意識から出てきたのかも知れない。

後半でごまさんが恋人と昔ここに来たときに撮った写真と、それがどこから撮影されたのかを探し当ててちょうど撮影しているところを後ろから羽織虫さんが収めた写真の二つが掲載されているのはメタ的で面白い。

すずきまゆこ・須田さ紀え・羽織虫『地元に住んでるドッペルゲンガー

地元を離れた三人が地元に住んでいたら送っていたかも知れない架空の一日と現実の一日の日記を書く、という企画のZINE。羽織虫さんの企画は「今」の視点を複数化することで過去との距離を探っている気もする。三角測量的に。

羽織虫さんについてはいくらか人物像を知っていたので架空の方は判別できるけれど、全然知らない他二名については、架空の一日がどっちなのかすぐには分からなかったりする。最後に出身地と現住所が出てくるとなるほどとなるけれど、地元のことなので描写もリアリティがある。

各人の地元のドッペルゲンガーが皆未婚独身として描かれているのは興味深い。むしろ地元にいたほうが結婚しろという圧が強そうだけれど、地元に残してきた自分の分身という設定故か、母と同居している設定の一人を除いて独り身の寂しさが漂っている。現在の方が人との交流があったり。

東京と北海道という分かりやすく上京を経ているすずきさんの他は、茨城県日立市から埼玉県川越市、埼玉県の比企郡からさいたま市、という移動をしていて、実は私にはそれぞれの町の違いがあまり分からない。なので結構難しい本だな、とも思った。転勤族で「地元」がない私には殊更そう。

今の自分と別の可能性の自分を淡々と描写してみる、なんか不思議な感触がある。

みーら、若松沙織(わかしょ文庫)、岸波龍『中原昌也トリビュート』

タイトル通りの三者三様の形式によるトリビュート冊子。

みーらさんのエッセイは小山田圭吾のラジオを生きる糧にして生きていた学生の頃、温泉暴力芸者時代の中原昌也のライブの時、照明を使った影絵でやりとりをした些細な出来事を語ったもの。音楽とともにある青春の一ページに刻まれた影絵セッション。良い距離感がある。

若松さんの「こんな夜もあった」は中原作品をあまり読んでない自分でも、ああ確かにこんな感じだったと思わせる掌篇で、冒頭からなかなかの暴言が飛び出してくるしうんこをラメでキラキラにすることにこだわる変なやつが出てきて、挙句がアレなのでまあ笑うしかない。

岸波さんの書評は近作を題材に適当すぎる題名、暴力と笑い、美へのカウンターなどなど、中原作品のポイントを解説したもので参考になる。文中の「点滅……」はそういや小島信夫の最後の長篇が載った雑誌にあったので読んだことがありその時はあまり面白いとは思わなかったんだよなあ。唐突な暴力による脈絡の破壊とかだと木下古栗が思い浮かぶ。

『試行錯誤3』

出版社代わりに読む人が出している小冊子第三弾。2024年6月の刊行だった。

わかしょ文庫「大相撲観戦記」、尊富士が怪我をしても出場を優先することを懸念し親方のパワハラではないかとも思うのに、いざ見てしまうとそのドラマの美しさに感涙してしまい、相撲への熱が再燃する過程を描いていて、「物語」の強さを思う。

スズキナオ「谷崎潤一郎のことを考えながら散歩する」、谷崎のように東京生まれで後に関西に住むことになるライターが生家から徒歩10分だった人形町について谷崎を読みつつ書いていく連載になるようだ。日本橋は去年髙島屋から室町のあたりを歩いたけれど、そこからほど近い。幼い頃に見たことのある店、最近までやっていた店が谷崎の文章のなかに見いだせる面白さがある。

伏見瞬「蓮實重彦論」、今回は雑談的な中間報告めいていて、蓮實の「凡庸さ」についての議論が自分の思考や生活とも絡んで、本は読んでいないけどその圏域で暮らしていることを描いている。

陳詩遠「なにがなんだか」、自分のせいで飛行機に乗り遅れることを繰り返しているという描写がなかなかすごくて、よくここまでできるなという感慨を覚えるけれど、その解決が走る速度を上げることなのもすごくて、生活上の困りごとを力技で解決しているのは笑ってしまう。スーツを着てないと舐められるのは分かっているけれど、スーツで権威性を出すよりは舐められる方がまだマシだという気分は分かるところがある。

友田とん「取るに足らないものを取る」、家出仕事をしていると仕事道具の出し入れや気分の切り替えが難しいことから、事務所を借りるまでの過程を描いていて、数学的思考を絡めて書いてるところはらしいと思うし、やればできると思っていることと実際にやってみることの違いを指摘するところは行動してみることの意義を示していて面白い。試行錯誤そのものか。

『試行錯誤4』

別冊代わりに読む人第四弾。

陳詩遠「なにがなんだか」第四回、2023年に開催された国際物理オリンピックの採点係を担当した体験記だけれどもこれが面白い。研究の現場とタイムアタック的な試験では本質的な能力が違うという話も含めた色々なジャブが既に面白いんだけれど、採点基準を大甘にすることで採点者のブレをなくすという方法を語ったところが面白すぎた。甘々な採点基準どころか解答用紙に惜しいところがあれば即加点していくことでどんどん善行をしている気分になっていくくだり、とてもよい。そっからのオチも良い。

わかしょ文庫「大相撲観戦記」、第四回は「大関の書いた小説を探して」、これは過去の大関が小説を書いていたという話を見てその実物を探そうとするんだけど、調べ物の過程って面白いんだよね。国会図書館のリファレンスでも分からないとされたものを調べていく。

スズキナオ「谷崎潤一郎のことを考えながら散歩する」第二回、銀座で母と谷崎ゆかりの店に行ったりといった出来事を描きつつ、芥川自殺のきっかけになったという店の鏡の噂、そして関東大震災前に谷崎が書いていた地震の話、など不穏な要素が良く出てくる回だ。

伏見瞬「蓮實重彦論」第四回は「書籍版『蓮實重彦論』の構想をそろそろ本気で考えてみる」と題され、その構成を考える途中経過報告。やはり時系列で書いていくのが楽というか自然とそうなるんだけど、著者は色々な構成案を考えていて、時系列に沿うと定型の物語にハマってしまう危惧がある。

友田とん「取るに足らないものを取る」第四回、可笑しなことの見つけ方をテーマにしたワークショップ開催にあたってどうやってその方法を言い表せるかを考えているさなかに見つけた可笑しなもの。過剰さやいつもの習慣から外れた瞬間に見えるもの、これはつまりインフラということになるか。

『試行錯誤5』

ズキナオ「谷崎潤一郎のことを考えながら散歩する」は後藤明生の文学講義のCD(私がガイド文書いた奴)を睡眠導入剤に使っているという話から始まって、その題材になっている『吉野葛』の舞台を実地に歩いた話に後藤の解説が絡んできていて、この文章自体がメタ構造になるのが面白い。『吉野葛』については花田清輝が註釈小説を書き、後藤明生がそれへの註釈を『吉野大夫』に差し込んだわけで、そのことに触れてるわけではないけど、後藤の『吉野葛』講義に触れながら吉野を歩いてずくし=熟柿を求めて歩く複層的なエッセイになっているのが面白い。

わかしょ文庫「大関の書いた小説を探して」、タイトルを変えての連載で引き続き大関伊勢ノ濱の書いた小説を探したり探さなかったりの日々を語りつつ古書店関東大震災の影響を実体験し、最後の最後に目当てのものを見つけ出したところへたどり着く構成、痺れるものがある。

伏見瞬「蓮實重彦論」、蓮實と言えば「表層」というイメージがあるけれど『表層批評宣言』以外ではあまり使われておらず、「運動」の方が重要で、「規則」と「運動」の関係から蓮實のその時の時流に対してカウンターを試みている様相を見ていく。前回の時系列問題とも絡まる論点。

友田とん「取るに足らないものを取る」、現状の経過報告という感じで仕掛かりのネタを列挙していっている。地下鉄漏水対策は著書として刊行予定になったので他のものもそのうち形になるかも知れない。今年の二月段階だとまだ赤瀬川原平の話はここに載ってないんだな。副産物事典、これはつまりセレンディピティに近いと思うけれど一切言及がないので失念していたか微妙に違うことを指しているのか。

『試行錯誤6』

試行錯誤のなかでエッセイが小説に近づいていくようになってきたと編者友田とんが記すこの小冊子、最初のものはわかしょ文庫「大関の書いた小説を探して」、で百年前の大関伊勢ノ濱が書いた小説を実際に読んで見るレポートが書かれており、「美人の薄命」という恋愛悲劇のようだ。相撲取りが深窓の令嬢の恋愛というか悲劇というかそういうのを書くというのは面白い。武骨な格闘家のようでそういうものを書くのはそれはそれで花を愛でる武人みたいなパターンとも言えるけど、当時はどう見られていたのだろう。

伏見瞬「蓮實重彦論」は70年代のいかにもな比喩や言い回しの気負いのある文体と後の事実に即く簡潔な文体の差異を示していて面白い。ああいう特にハッタリの効いた文章を書いていた頃とその後を分けるのは「物語」への取り組みにあるのではないかと問うていて、なるほど『物語批判序説』があったなと。それは積んでて読んでないけれど後藤明生にも触れている『小説から遠く離れて』も80年代か。

スズキナオ「谷崎潤一郎のことを考えながら散歩する」、芦屋の谷崎記念館を訪れたときのことを触れながら『猫と庄造と二人のおんな』について、相手が自分のところに訪れるかもという予感について、筆者の経験と重なるところ、そして物語と谷崎の実際の状況が重なる点について書いている。

陳詩遠「なにがなんだか」、色々あって京都大学の教員となった筆者が研究員と教員との違いや大学という空間について触れながら、研究資金の獲得にいつもあくせくしていることや研究をする時間がないこと、学生の指導でのことなど本当に色々大変なんだなと苦労が窺える。

友田とん「だいたいのアンザン」、作者が『田中小実昌哲学小説集成』を読んだことをきっかけに考えたという「数学小説」。タイトル通りの日常に根付いた計量、計数のあり方を描きつつ、今作で数学的発想の特徴として描かれている一つは、抽象化、ということではないかと思った。語り手はジオラマ制作を仕事にしていて、それはただ単に実物を縮小するのではなく、さまざまニーズに基づいて何らかの変形を加えて作られるものだ、というようなことを言っていて、これは現実なりなんなりをモデル化=数式化するプロセスのように思える。枕木を数えるためにはおそらく等間隔に並んでるだろう電柱と電柱の間に枕木が幾つあるかをまず数えて、後は電柱が幾つあるかを数えることで「だいだいのアンザン」が可能だというのも、現実の無数の数を操作可能な単位に変換する一例のようにも思う。しかし小説のなかで語り手の懸案になっているのは暗算力の衰えの要因としての短期記憶の減退で、色々なことをふと忘れてしまったりという日常のちょっとした悩みだ。それが数を数えることに付随して描かれているのがユーモラスだけれども、あるいは年齢が増えたという数のせいということなのかも知れない。

「H.A.Bノ冊子」25号で著者がこの短篇を書くまでのエッセイを書いていて、そこでは数学の特徴として以前論理的思考ということを挙げたらどんな学問も論理的思考でしょうと反論されたことがあるという。本号と「H.A.Bノ冊子」25号は友田さんに恵贈いただきました。

『試行錯誤7』

序文の友田とん「謎を謎のままに」で「日常の謎」というジャンルを「すこし前に」知ったとあって、「すこし前に」!?って驚いた。確かに友田さんと相性良さそうなジャンルでしかも謎が解かれない方が良いというのもそうだろうなと思える納得感がある。

スズキナオ「谷崎潤一郎のことを考えながら散歩する」、大阪に転居して時間が経ったけれども未だに大阪弁では喋れない著者に対して、妻はもとより関西人で子供二人も幼い頃に移ってきたので早い段階で大阪弁になっているという状況が語られ、谷崎の関西弁の話になる。谷崎の関西弁は女学生を雇って監修してもらったもので、織田作之助は、相当程度に大阪弁のリズムを生かしているけれども実際に喋っている人がいない理想化された大阪弁ではないかという批判をしていたことが引かれている。書き手の実感を踏まえた見方があってエッセイならではのものがある。

伏見瞬「蓮實重彦論」、蓮實のテマティスムと物語批判を絡めて、テマティスムによって細部を拾い上げて通俗的なイメージを覆しつつ、別の物語を語るストーリーテラーとしての蓮實の特色を提示する。確かに、蓮實は面白いというのはあって、だから感染力の高さがあるんだろうなと思った。

わかしょ文庫「大関の書いた小説を探して」、歯抜けの状態で伊勢ノ濱の「美人の薄命」を読みつつ、そこで間の状況はこうではないかと想像をたくましくするところがだいぶ面白いのとかなりありそうな展開で面白い。しかし国会図書館の収蔵雑誌って欠号も多いから、別の専門施設をあたるのがいいのかな。

陳詩遠「なにがなんだか」、物理学者は理論家と実験屋に別れ、実験屋は色んな装置を自作する必要があるのでなんでも自作する習慣がつく、という話からレッドブルボックスカートレースに自作のカートで出場した話をしていて、大学の自由さというか物作りの面白さみたいなものが楽しい。

友田とん「読むと肩こりが治る小説のための」、短篇小説だけれどエッセイと小説のあわいを行くような、小説を書くための準備をしている過程を描いた小説というややこしい短篇。意味の分からないような試みを本気で実践してみる時、何が生まれるか、著者通例のものの一つの過程が描かれる。ワークショップで著者が話した内容を付箋に書き記し、模造紙に貼り付けてグループ分けをしてみたり繋げてみようとしてみたら物理的制約がそこに現われた話は面白い。自分が口にしたことでも参加者の体を通して見ることで、思ってもないことを発見する、ということ。「読む」ことと「書く」ことの対立が「見つける」ことを通して解体されてしまうような経験をそこで見いだしている。読んで見つけたものを書き写していけば書かずに書くことができる。これは後藤的な読むと書くとのメビウスの帯的な現象にも思えて、この短篇の書き出しは『吉野大夫』かも知れないと思った。