笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』

会いに行って 静流藤娘紀行

会いに行って 静流藤娘紀行

二度目にお会いしたとき、師匠はもうお骨になっていたと先程書きました。私が師匠について初めて書いたのは追悼文です。「会いに行った」という題名にしました。そう書けば文中で会えるだろうという気持ちがあった。どんなに未熟でも文というものにはそんな力があると。しかしお骨のある祭壇を見て来た直後なので、さすがにそれはないと追悼を書き上げて、また思った。でも今思えば案外にそこで会えていた。48P

笙野頼子には森茉莉について書いた『幽界森娘異聞』があるけれど、これは藤枝静男について書かれた長篇小説。じつは藤枝静男のことを作者が新人賞を取った時は知らなかったらしい。彼が推挙してくれたことで世に出た作者が、私小説を突き詰めて私小説から大きく逸脱する私小説、という彼の影響を受けた方法によって藤枝を語る、「私小説」ならぬ「師匠説」と称するその文学的恩への返答が本作だ。なので、藤枝を未読の場合、少なくとも『田紳有楽・空気頭』(講談社文芸文庫)くらいは読んでおいた方がいいと思う。

『空気頭』の冒頭を引用してスタートし、『田紳有楽』を軸に藤枝の諸作を題材にし、「志賀直哉天皇中野重治」などの評論をも読みつつ、台風が二度襲来した2019年の千葉県佐倉市の自宅から、TPP、FTAといった農業医療売り渡し条約に乗っかる国への批判を繰り広げる異色の「私小説」。

自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受けつづける。性欲に苦しむのはそれが強いからではない。自分の外にあると言ってしまいたいほど理不尽で不可解なものだからだ。なので多くの男性は男尊的な制度の中に、逃げ込んでしまうか、女性に責任を押しつけて被害者面をする。そうした男尊連中はそれで物が分かったという事にして安心し、自分の性的責任に関しては見なくなってしまう。ところがあなたは逃げない、しかし欲望の「醜さ」に屈伏もしない、ただ理解しない。理解しないから苦しみも残ってしまう。52P

藤枝静男の性欲とのかかわりをこのように読む作者の、藤枝静男を師匠と仰ぎながら全身で彼を読み込もうとする試みはこの藤枝自身の格闘のように、自身と師匠とをめぐる格闘という楕円的関係でもある。『金毘羅』あたりからの所有と自己の「仏教的自我」のテーマが、本作でもさまざまに変奏されているけれど、「脳内他者」、私のなかの他者性というテーマが「私小説」と「師匠説」という読み換えに現われている。

師と仰ぐ存在の読み込みという点では藤枝の「志賀直哉天皇中野重治」も同様で、これを読むのは志賀直哉の「特権的所有的自我」と中野重治の「国家対抗的自我」とのあいだで揺れる藤枝の自我にフォーカスするためだという。「師匠には俺がない。特権的所有として所有するものがない。いつも家族のため友達のため、例えばあの時は婿さんのため」という彼の自我のありようを、「文学的自我を保持するために師匠は「いや」というのではないか?」(192P)という点に見出そうとする。信仰としてよりも所有としての仏像、骨董。もちろん作者が断るようにこれは作者の「私的」な読み込みで、ここには『田紳有楽』の池や骨董たちにあたるものとして、作者の千葉の家と猫の存在が反響しているように見える。

この小さな所有としての家は、『田紳有楽』の空飛ぶ焼き物のように台風で一瞬宙に浮いたようにさえなる細部が思い返される。

そういえば、笙野頼子自身が金毘羅だったという破格の私小説『金毘羅』は、主人公が弥勒菩薩だった『田紳有楽』の引用ではないのか。作中にはこう書かれており、意図した引用ではなさそうだけれど。

なのに『金毘羅』、「二百回忌」、だいにっほんシリーズ、全て彼の影響をうけているのかもしれないと今思ったりしている私、私。その影響とは何か? それは神の俗人化、場と時空の変形、私小説的自己の分裂、……ああ、でもそれならすべて、『田紳有楽』だ。195P

『田紳有楽』の池、そして『金毘羅』も水が重要だったように思う。水のモチーフについては藤枝の水の擬人化について論じた勝又浩を引用している箇所がある。

世界と自己とが常に明確に区別対峙されていた志賀直哉には、そもそも擬人法、或いはこうした一種の感情移入された情景などということがあり得ないことだったのであろう。21P

そしてこう述べる。

 水それ自体に解放を見る師匠、水になって逃げたいと思う師匠。同時に人間の嫌な性から自由な生物が、水の中にいるとつい、一瞬でも幸福なのではないかと錯覚してしまう小さな優しさ。
 水の中に群れて、生まれてすぐその殆どが喰われ死ぬ生き物、それは師匠の、結核で早く亡くなった兄弟姉妹を想起させる。21P

リアリズムから幻想にいたる破格の私小説としての藤枝静男作品との長年にわたるつきあいや親族の話を前提にした私的な読み込みが、まさにその実践でもあるようなかたちで描かれつつ、いま目の前にあるものを自分の「茫界偏視」として言葉にし続ける「報道」に結実する笙野頼子の「師」と「私」。後藤明生『壁の中』での永井荷風の延々たる読み込みを思い起こさせるような文学的先達との小説的対話になっていて、『金毘羅』が自身の誕生秘話でもあったように、今作は作家笙野頼子の誕生に大きくかかわった藤枝静男と自身とをたどり返す一作ともなっている。

デビューから十年、本が出なかった。師匠、私は生きていますよ、と言って京都の下宿 で時々泣いていたりした、しかし彼はそのような脳内他者であるばかりではなく、実はいつも後ろにいてくれたのだった。というのも、私がデビューから何年も経ち、完全に忘れられながらもあちこちに汚い字の原稿を持ち込んでいたとき、「あああの、師匠が、それならこの人の作品は悪いはずはない」と言って、最初の編集者がもう私に送り返そうとしていた作品を、師匠を尊敬する方が読んでくださった。そんな事はよくあった。彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた。290-291P

私小説をめぐる師と私の語りは、私小説を書いているのは「千の断片としての自分」だという認識持ちつつ、書くことの他者性へと向かっていく。

 そして私小説のもうひとつの原則。今書いているのは、それは、……。
 必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分、である。それは千の断片としての自分である。
 それ故にもし、自分が間違っていたとしても、自分の文章は自分を裏切らない。172P

だがそれでも、結局、ただひたすら目の前のものを書く事を、私は信仰しているのかもしれないのでした。それがミクロ報道、ミロク私小説です。258P

師匠! 師匠それではまだ実況を続けます。ていうかなんか、こうしていると私小説とは何か、の一面が現われてくるような気がしましたよ。260P

私を書くことそのものが私ではない私を生み出すことや、私の眼前のものを直視していくことという、書くことそのものの他者性が迫り出してくる。徹底して私的になることによって私を越えた私を文章に刻みつける、書くことの意味にたどりつく。私と他者と書くこととの、笙野頼子の方法のありようがここにはある。


そういえば金井美恵子カストロの尻』、最初の一篇が後藤明生『この人を見よ』について書かれていて単行本も買ってはあったんだけど、未読だったので終盤で藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」に触れられていたのは知らなかった。後藤の『この人を見よ』には藤枝の『志賀直哉天皇中野重治』の影響があるんじゃないかなと思っていて、まだ出る気配のない私の後藤明生論では、『この人を見よ』について書いた箇所は「志賀直哉天皇共産主義」という藤枝文をもじった章題をつけてたりする。

あと、『田紳有楽』の磯碌億山を、「居候奥さんなのか?」と推測してるところ(199P)があるけど、これは弥勒菩薩が顕現する「五十六億七千万年後」の五十六億をイソロクオクと読んでるんだと思う。『田紳有楽』でもその年数と名前が近いところにあったと思う。108ページの文豪とアルケミストへの言及、そんなの雑誌にあったっけと思ったらここ一段落くらい書き足されてる箇所だった。加筆箇所も結構あると思うけど、気がついたのはここと、講談社文芸文庫総選挙のくだりか←モモチさんに指摘されて気づいたけど、これは元からありました……。
shonisen.blogspot.com
こちらで感想と諸情報へのリンクがまとめられている。花布の指定ミスがあったという装幀の話も面白くて、「会いに行って」の「て」のフォントが大きく違うところは改めて見るとなるほど、と思う。90年代のエッセイ「会いに行った」があり、今作では『会いに行って』と言葉の感触がより開かれていて、この変化の予兆を反映したものだという。リアルタイムな目の前のものとの出会いを描く今作らしい箇所。

なお本書は笙野頼子さまより恵贈いただきました。

雑誌掲載時の感想

いくつか既にブログにもまとめたことがあるけど、雑誌掲載時の感想を再度ここに残しておく。

連載第一回分(「群像」2019年5月号)

「群像」でスタートした笙野頼子の新作は藤枝静男。笙野が特定の作家を題材に長篇を書いたものでは『幽界森娘異聞』があるけれど、藤枝は新人賞で笙野頼子を強く推したいわば文学的恩人とも言うべき人物。その藤枝静男について、笙野頼子なので当然事実に基づく評伝ではなく、藤枝の「私の「私小説」」にちなんで、「私の師匠説」を書く、と始まっている通り、「自分の私的内面に発生した彼の幻を追いかけていく小説」として書かれていく。初回は、藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試みのように思えた。新人賞で自分を見いだした「師匠」の小説をたどり、静岡での藤枝静男の娘さんとの出会いへと話がつながっていく。藤枝は潔癖な性格から自身の性器を傷つけたエピソードが知られるけれども、今作でも「自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受ける」143Pと書かれ、その倫理性を評価しつつ、笙野作の語り手自身は性欲に苦しんでいない、と彼我の切断線を明示しもする。藤枝静男の「理解」とは、理論ではなくつねに具体物から発し、その具体的な文章から奇跡を起こす、と評し、リアリズムに徹することでリアリズムを越える道を示す。性欲あるいは膠原病の、自身の身体という具体物を見つめる視線と、その外への志向が見いだせるようにも思う。志賀直哉藤枝静男について、勝又浩の論を引用しつつこう書いている箇所が簡潔にこの師弟の差異を示している。

連載第二回分(同7月号)

第二回は、「不毛な改元」を話題にしながら、藤枝静男文芸時評にあった天皇への怒りについて、これも引用の集積『志賀直哉天皇中野重治』などを引用しながら追っていく。笙野の旧作『なにもしてない』で既に改元天皇について書いていたことと、最後ホルンバッハの日本女性蔑視CMの件にふれつつ、多和田葉子との対談のために共産党本部へ行ったことが最後にあるのは当然意図的な構成だろう。改元騒ぎを「平成からゼロ和、それはTPP発効直後のリセット元年だ」と厳しく批判しつつ、志賀は天皇に近いが故に捕獲されているけど、中野もまた人間と制度を切り分けられるが故に人間を人間性によって判断するという文学を禁じられ、政治に捕獲されているとも指摘する。藤枝静男を文芸文庫以外のものも読まないとな、と思っている。

連載第三回分(同9月号)

第三回は、藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」をめぐって、それぞれの作家の「私」を読み込むような叙述で、中野の「『暗夜行路』雑談」が、作家にとっては不毛な評論だと批判しつつ、「五勺の酒」の不毛でない語りもしかし、「天皇」という人間に捕獲されてしまっていると指摘する。改元下、「天皇人間性」という捕獲装置をめぐる読み直しのなかで、「私」と「人間」についてのさまざまな様相がたどられる。語り手が志賀を結構評価しているのは、つねに自己に即くありかたが「私小説とは自己だ」という持論と通じるからだろう。翻って中野の志賀批判は成心のない、本心からのものでもそれは「批評機械」と呼ばれるように、公共性や理論的なものであれもやれこれもやれ式の、作家には届かないものと批判される。さらに中野は「私的なものを理解することが不得意」だとし、「特権的自我、所有する自我」もそうだ、と。最後に、小説を書いてるのは、「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。/ もし自分が間違っていたとしても自分の文章は自分を裏切らない」と締められる。

連載第四回分(同11月号)

第四回、19号せまりつつあるいま台風15号の被害について現政権の対応が批判されてるのを読む味わいといったらない。仏教や自我の問題は当然この国土、国民に対する責任の問題に通じる文脈において浮上する。だから当然カッコ付けされてるように「関係ない話」ではないわけで、土を通じて藤枝静男が並ぶ。印象的なのは小川国夫が藤枝について言ったという「汚穢に触れざるを得なかった汚れない人物がその本質と言った、その汚穢とはまさに戦争と軍隊。つまり女性ではない」367Pという箇所。志賀直哉の『暗夜行路』を「特権的所有者が関係性に侵犯されて負けていく話」とも要約しつつ、藤枝静男について「師匠には俺がない。特権的所有として所有するものがない。いつも家族のため友達のため、例えばあの時は婿さんのため」371Pと志賀藤枝を対比していく読解。文学的自我を保つための「いや」という口癖に着目するのも面白い。最後、「師匠の私小説『田紳有楽』はこのように「でたらめ」と称し、一切のお約束的リアリズムの手足を縛ったまま、真っ暗の崖に飛び下りても、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学」384Pだと述べる。画像部分で見つからないと書いていた土のなかからUTSUWAの破片を掘り出すやつ、『壜の中の水』の表題作で窯跡の土のなかから陶器の破片を掘り出すエピソードとは違うやつなのかな。エッセイ集はそんなに読んでないからわからないけど。藤枝著作集月報での混浴温泉のエピソードは、立原正秋のそれについて後藤明生が訂正をしたものだろう。文芸文庫の月報集で読める。後藤のは『夜更けの散歩』に収録。

連載第五回分(同12月号)

第五回最終回。台風15号から始まっていて、前回に続いて今回は19号の暴風による体感を「実況」しつつ、台風、日本の政権、そして藤枝静男の戦争体験を災難・危機として重ね合わせつつ、藤枝静男の文学、自我をたどる。 「師匠、私達日本人にはもう国がありません」「雨も風も使わずとも国民は殺せます」、という直近の自然災害と政治的過程による危機の感覚のなかで、「イペリット眼」や「犬の血」といった「医者的自我」によって「戦争の恐怖をとことん抉りだした」藤枝を読んでいく。医学的な発見の喜びと患者の苦しみという悲しさの同居という医者の矛盾や、患者から解放されることが仕事を失うことと繋がることや、他国人を犠牲にし、少年を犠牲にして自己をも犠牲にする人間を医者独自の視点からこそ「戦争の異常空間が現れ渡るのだ」と。医者自身の矛盾を剔抉するにとどまらない藤枝の自己への厳しさについて、あるいはこうも書かれる。「彼は優しすぎる。つまり優しさ故についた傷は深く、その深さが彼の激烈さを生む」(283P)と。女性についての態度の箇所だけれども、戦争への毅然とした態度もまた生き延びた感覚によるだろうか。

「師匠は国民が戦争につっこんでいった状況を、騙されるのとは別に、まず本人達が望んで、というか異様な真理に乗せられ理性なく加担したのだと考えている。天皇についても、天皇を支持して、天皇制と天皇をわける事が出来なくなるのが、一般大衆の性だと理解している」276P

藤枝静男の自我と小説的に作られた私とのあいだを読み込みながら、笙野は最後に自分の小説が読まずに送り返されそうになったときでも、あの藤枝静男が褒めた人なら、ということで編集者に読んでもらえたことを記している。「彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた」。本作はこの十年を大事にしつつ、デビューから四十年が経とうという現在、読むことと読まれることの渾身の応答として書かれている。また藤枝は生き延びた戦後を書き、笙野は来つつある危機を実況しつつあり、時間的に対照的な動きがある。危機のまさにただなかで書かれた今作は危機の後にも読まれるはずだ。

ファトス・コンゴリ『敗残者』

敗残者 (東欧の想像力)

敗残者 (東欧の想像力)


敗残者の通販/ファトス・コンゴリ/井浦 伊知郎 - 小説:honto本の通販ストア
敗残者〈東欧の想像力17〉 | 松籟社 SHORAISHA

松籟社〈東欧の想像力〉第17弾はアルバニア文学としてイスマイル・カダレ以来二人目となるファトス・コンゴリが1992年に発表した第一作。91年、国外脱出の船を出航前に降りた主人公が、幼少期の暴力やその復讐、国外逃亡者の叔父を持つための迫害、恋人や友人を失い、そしてすべてを失うまでの敗残の人生を回想する長篇小説。

カダレが外への希望を描いていたとすれば、コンゴリの今作は自らの罪を引き受けて内に留まることを描いているように見える。共通するのはアルバニアの閉塞感だ。コンゴリは一党体制下では作品を書かず、新政権において初めて本作を発表し、アルバニアにはカダレ以外の作家もいると国際的に評判となったらしい。

東欧革命の流れのなかで、国内の混乱と困窮で西側諸国への脱出者が大挙した91年を現在時に、その船に乗り損ねた男を語り手として二十年ほど時を遡る告白が語られるわけだけれども、ここで大きいのは、父からも殴られたことのなかった平穏な彼を襲った教師の暴力と、復讐としてその教師の娘の美しい少女、ヴィルマが飼う子犬を毒殺したことだ。この件は彼についてまわる因縁の一つになるけれども、この頃の主人公にはもう一つ別の罪が降りかかる。

「お前が生まれる数か月前の話だ。お前の叔父さんは国境で兵役に就いていたが、他の兵士二人と一緒に国境を越えたんだ。これは逃亡であり、敵対行為であり、我が一家にとっての恥だ。私たち全員にとって、そうだ。お前にとっても、あいつはもう存在しない。そしてお前も、あいつを憎まなければならない!」44-5P

こうして彼は生まれる前の知らない人間を、絶対の秘密のうちに憎悪せよという任務を命じられる。語り手はじつは子犬殺しには罪悪感を覚えておらず、彼にとっての最初の罪とはこの「亡霊」を憎悪せよという「危険な秘密」を抱え込むことだった。そして彼の世界は、ヴィルマの白と、自分の黒、という二つの世界に分かたれる。子犬殺しとこの不条理な罪は絡み合うように彼の人生を支配する。

大学時代に知り合った党の高級幹部を父に持つラディと、十歳年上の未亡人ソニャとの出会いと彼女との恋は彼の人生を上向かせるけれども、叔父の件を知る閣僚の息子の党員査察官が彼を執拗に追いつめようとする。そしてとつぜんラディの父が人民の敵として逮捕されてからは、大学も辞めざるを得なくなる。「裏切り者」の叔父、語り手の後ろ盾ともなっていたラディの父の理由の分からぬ失脚によって、彼に原因があるわけでもない突然の転落を余儀なくされる不条理さは、いわばカフカ的な迷宮感があり、カダレの『夢宮殿』を思い出せるところがあるのは社会主義国家のならいだろうか。

党員査察官の象徴的な「灰色の目」に見つめられながら、主人公はそうして転落していき、採石場での労働に従事するようになる。ここからまたさらに彼は絶望を味わうことになるけれども、それは略すとして、この親族の事情と子供の頃からの人間関係から逃れられないどん詰まり感は甚だしい。当時のアルバニアの空気というのはこういうものだったんだろうか。主人公の人生は「狂人ヂョダ」に始まり「狂人ヂョダ」と再会して終わる今作の「円環」的な構成は、生まれた時から運命づけられた閉塞感と切り離せない。と同時に、彼がアルバニアを離れないのも罪の意識からでもあって、「狂人ヂョダ」は子犬殺しその他の象徴ともなっている。

解説で社会主義リアリズム的ではないと指摘されている主人公の弱さがある。彼は英雄でもなく、かといって罪のない善人でもない。「灰色の目」に立ち向かうこともできずおめおめと生き残り、どこにも出口はないと認識するしかない。そして党の支配する国で生きてきたなかで犯した罪責とともに、アルバニアを離れることを辞める。

「いつまで俺たちは壁に頭をぶつけてなきゃならないんだ?」
「頭をぶつけたって壁は壊れないってことがわかるまでよ」249P

このアルバニアを離れることと留まることの対比は、カダレとコンゴリ自身を思わせるところがある。解説にもあるようにカダレは91年、党第一書記に改革を要望したものの拒否され、フランスへ亡命することになった。党とアルバニアをめぐって二つの道が分かたれたことが本作の背景のようにも見え、カダレとコンゴリはアルバニアをめぐる岐路を象徴するようにも見える。

「人間というのは残念ながら、美ではなく権力にひれ伏すものなのだ」(109P)というシニカルな一文のように終盤、勝負を挑むこともできないのは、そもそも「狂人ヂョダ」への復讐が子犬に向いたこととと無縁ではない。だから彼は冒頭でそれと向き合うことになる。

自分がこの生に留まり続けるのはそこから逃れることが不可能だからだ(中略)自分自身の無力さ。恐らくそれは、この町のぬかるみの狭間で、凡庸と卑俗の中で生き延びて、他人の苦痛や悲劇を耐え忍び、断罪されつつやり過ごしながら歳月を重ねていくことなのだと言えるだろう。死は永遠の眠りだ。生きながらの死は永遠の拷問だ。
235P

新政権のなかの自由と裏腹の混乱のなかで、一党体制下の灰色の生活が想起されるこの作品は当時のアルバニアに生きる人々のリアリティの巧みな形象化なのかも知れない。

作中の重要な色でもある灰色の写真と白ベースでの装幀がかなり決まっている。〈東欧の想像力〉は11弾から仁木順平が担当していて、フォーゲルとかアンドリッチとか、これまではもうちょっと抽象的、記号的な意匠だったけれど、一転してシリアスな方に振って新鮮な印象がある。

なお本書は松籟社木村さまより恵贈いただきました。ありがとうございます。

藤枝静男『凶徒津田三蔵』、『或る年の冬 或る年の夏』

『凶徒津田三蔵』

明治二十四年、警察官がロシア皇太子を切りつけた大津事件の首謀者を描いた1961年の表題作と、その事件をめぐる畠山勇子、明治天皇、児島惟謙の行動をまとめた72年作の姉妹篇「愛国者たち」が併録された講談社文庫オリジナル編集の一冊。

「凶徒津田三蔵」は藤枝の小説としては異質な歴史小説。書き進めるのに難儀し、最初は津田のことを下らないとも思いながら、「同情的」「同感」になってくることで仕上げることができたと巻末収録のエッセイで語っている。作りとしては異質ながら、それでも藤枝らしいのは、津田の姿に自身の若い頃の政治に対する姿勢を重ねることで書かれた、という論評は講談社文庫版の解説でも言われていて、それは確かにそうだろう。ただ、「政治の中心を遠く離れ、田舎の駐在を転々とし、政治に失望しながらも自信は全くなく、頑固で、ひとりよがりの愛国心にとりつかれて自身をもてあましている。そしてついに追いつめられて大津事件を起す」という藤枝の評は興味深く、この鬱屈した「国士」的な情動が動員される現在、非常に示唆的に読めてしまう小説でもある。

併録の「愛国者たち」は多くの資料を下敷きにしながら、三蔵からはじまり、津山事件の後ロシアへの謝罪として自害した畠山勇子、事件の責任者としての明治天皇、そして内閣の脅しをはねのけて三蔵を死罪にせず法律通りに裁いた大審院長児島惟謙ら各人の人生を簡潔にまとめている。「凶徒津田三蔵」はもともと畠山勇子と並べて書くつもりだったのを、勇子を諦めて仕上げたものだったと著者はいう。政治に強い関心を持ち女権拡張論者だったこととロシアへの謝罪に自害するという古い考えが同居する愛国心のありかたが著者の関心を惹いたわけだ。三蔵も勇子も政治にかかわれない平凡な人間な点では同じで、殺害と自殺という飛躍でもって政治的なアクターとならんとする無謀さにおいて通ずる。明治天皇は降って湧いた事件にあわててさまざまな対処をするけれども、ニコラス皇太子と友好な会食を終えたと思いきや、ウィッテの回想ではニコラスはこののち日本憎悪者となり、生涯日本をマカーク(キツネザル)と呼び通したというオチが付いている。明治天皇は下々の民のしでかしたさまざまな行為によって事件の責任者として右往左往し胃を痛めるある種喜劇的な登場人物という印象すらある。

内閣の脅しに屈せず司法権の独立を守った児島惟謙はとりわけ興味深い。大津事件という日露開戦のきっかけにもなりかねない事件について、児島は刑法112条の謀殺犯適用を主張し、政府関係者は皇室罪として116条の適用を主張した。児島は皇室罪の「天皇」に「日本」とついてないのは国外皇族も含むとする、成立時の議論を無視した意見を却下する。「注意して」処理するべし、という天皇の勅命を逆手に取り、またロシアがこのとき新しい法律を作れと言ったことを日本にこの事件を裁く法がないと認識していた証拠だとし、法の論理を貫徹し内閣とのギリギリの抗争のなかで法に則った判決を下すことになるくだりは読ませる。さらに面白いのは、この司法権の独立を守った英雄とも呼ばれる児島について、その手記を読んだ藤枝は、自分を正義の権化と信じ込んでいるエゴイズムが行間から露呈していると批判していることだ。しかしそれによって政府の構造を浮かび上がらせている点を評価してもいる。児島の行動は薩長藩閥政府に対する宇和島藩の仇討ちという説を紹介し、また大審院長たる児島自身も担当裁判官に職権濫用とも言える干渉をしているではないか、という児島のエゴイズムへの言及はその神話化への批判ともなっており、通り一遍ではない読み込みを感じる。

責任者明治天皇とその心痛を誘う三人を含めた「愛国者たち」を描く日本近代史の一コマで、三蔵のみならず勇子も児島も、そこにある実存、エゴイズムによって連繋させられているように見え、藤枝の関心はこのエゴイズムの剔抉という点で私小説とも通じるものがある、というと簡単過ぎるか。

司法権の独立(明治24年5月27日、「大津事件」の被告に無期懲役が宣告される)- 今日の馬込文学/馬込文学マラソン
大津事件についてはここに参考文献含め短くまとめられている。内閣からの司法権の独立というのは昨今の状況をも想起させるけれども、それが薩長への敵愾心という強烈なエゴイズムでもなければ貫けないものだというのは、なかなか示唆的なものがある。

『或る年の冬 或る年の夏』

或る年の冬 或る年の夏 (講談社文芸文庫)

或る年の冬 或る年の夏 (講談社文芸文庫)

藤枝静男自身の学生時代、左翼運動に関係して逮捕された経験を元にした1971年刊行の長篇。幾人もが既に亡く今も結核で死が近い親族への愛情、自身の性欲への悩み、左翼運動にかかわる友人達へのコンプレックスという主人公における家族、性欲、左翼を軸にしている。

序盤、亡くなった人物として出てくる飯尾は藤枝静男の筆名になった北川静男がモデルらしく、中島は平野謙、三浦は本多秋五を元にしているとのこと。積極的に左翼運動にかかわる二人に対して、主人公寺沢はそのプロレタリア芸術の安易さにつねに違和感を抱いている。「強力なイデオロギー社会は学問芸術の自由を圧殺するにちがいない」(123P)と考える彼は、左翼評論家が労働者は生産の本来の性質としてまた未来への自信がある以上は当然に楽天的だ、と言ったすぐあとに露骨で猥褻な冗談を笑う場面が入っただけの小説が現われたのを目撃する。芸術に対する潔癖ともいえるこだわりと中島らの社会正義のために使えるものは何でも使うしかないじゃないか、という政治優先との衝突がある。

寺沢は政治と芸術以外にも自己の性欲についても煩悶を抱き、恋愛と性欲のあいだにも引き裂かれる。寺沢が女性の裸体を見るためにデッサン画の教室に通う場面で、初めて裸体を見た時は「固い醜い」ものだと思っていた女性の体が、教室を続けていくうちに美しいものを見てそれを描いていることに気づき始める。幻想と現実の落差から、観察と手を動かすことで美しさを見出していくのが印象的な場面だ。

寺沢の中島らへの劣等感も、そのイデオロギーの正しさを認識しつつ、しかし拷問や暴力といったものが恐ろしい、という痛みへの恐れで運動に参画できないことからくる。しかし、寺沢が救援が必要と言われて金を出してしまい、それによって警察に逮捕される瞬間から彼は豹変する。早朝突然に訪れた人間が、最も恐れていた結核の家族の死を伝えに来たのではないとわかった瞬間、警察に敢然と抵抗し、それまで恐れていた暴力にも耐えたばかりか、他の左翼学生が寺沢の件を白状したのにもかかわらず、自分は「赤」ではないと繰り返しながら頑固な黙秘を貫くようになる。

逮捕され暴力を受けたことで、不安と恐れの奥にこれで決着が付いたという落ち着きを感じ、「同時にそれが三浦や中島に対する劣等感からの無傷の解放を意味していることをも彼は微かに自覚していた」(201P)と考える。しかし彼は暴力を振るわれており、身体は無傷ではない。それでもこう考えているところに彼の自意識のあり方が見える。実体験を元にしたというこの吹っ切れる場面が非常に印象的で、性体験を経て「呪縛から解き放たれた」ことを思うのとともに、自意識の自己分析が描かれている。そういえば、逮捕の切っ掛けの支援のとき、依頼されて即小銭以外の有り金全部を渡したのは「三田村四郎の家族が病気」だからだった。ここでもやはり家族が主人公の大きなこだわりとなっている。

講談社文芸文庫で読んだけど、手持ちの単行本についてる二ページほどの後書きが文庫ではカットされてる。作品集はともかく一冊の復刊にみせてこういう細かなカットされると違和感がある。著作権的な問題があるとも思えない。中村光夫の『二葉亭四迷伝』で、解説ばかりか作家案内でも言及されてる後書きがなかった、という困惑させられることがあったのを思い出した。

後藤明生『四十歳のオブローモフ【イラストレイテッド版】』

つかだま書房から再刊された後藤明生初の新聞連載小説で、旺文社文庫版には掲載されていたものの単行本にはなかった山野辺進の挿絵を大判で再録した一冊、この機会に再読した。
挾み撃ち【デラックス解説版】

挾み撃ち【デラックス解説版】

装幀は黄色と黄緑でいくらかデラックス解説版の『挾み撃ち』と似たところがあり、じっさいこの二作は似た題材を違うやり方で書いたものと言える。方法的に編み上げられ焦迫感がある『挾み撃ち』と、新聞小説のリズムで日々の出来事を描くオブローモフの伸びやかさ。本作は、四十の誕生日を迎えようとする男の日常と「帰郷」をめぐって、松原団地と敗戦後引揚げた郷里九州とを二つのポイントとしながら、シベリア旅行の回想なども紛れ込み、「不惑」のはずなのに迷い惑う男の姿を描き出す長篇で、九州福岡の故郷と土着の問題を引揚者の視点から考えるところは両作で似てるんだけれど、体験の回想の仕方などはずいぶん異なっていて、傑作という点では『挾み撃ち』だけれど、『四十歳のオブローモフ』には人好きのする親しさがある。そういえば「未来」連載の後藤明生論で、『挾み撃ち』と『四十歳のオブローモフ』の同じような体験を書いた箇所の書き方の違いに触れたことがある。なお、『四十歳のオブローモフ』は72年に新聞連載しているので、初めての長篇小説は本書。『挾み撃ち』は初めての「書き下ろし」長篇小説、ということになる。書籍刊行は二つとも73年だけれど、オブローモフが二ヶ月早い。

後藤明生らしく妻や娘とのものなど会話が結構独特で、噛み合ってるんだか噛み合ってないんだかわからないような進行をするし、久々に会った同級生との会話なんかも途中から自分をモデルにしたらしい同人小説の話の説明になって、本題がはぐらかされたまま終わったりする独特の味わいがある。また、作中で父の剣道仲間に会いに行った小説を書いた、という「父への手紙」への言及をしたり、四十歳の誕生日に綾瀬川を散歩してつくしを採った、という「思い川」と同じ話が別様の描き方で出てきたり、『思い川』収録作品ともども、四十歳連作ともいえるようなリンクがある。

また、内心では時折怒りを表現するんだけど、実際にはそれを表に出さないことがほとんどで、本間宗介はしばしばそうして自分の感覚に疑問符をつけることになる。歴史作家がいつも同じ文句を書くのに対し、宗介は毎回色紙に書く文句に迷い、シベリア旅行の船で出会った同級生を誘うかどうかにも迷い、部屋に誘ってもそれから先にはたどり着かない。ズレながらの関係は解決されない。

厄年、前厄の話題が出るけれども、厄と役の掛け詞は、後藤の一種の主題ともいえる演技と仮装の問題にも繋がっている。「「演技」ほど宗介にとって恥かしいものはなかった」という宗介は「演技」をことさらに嫌い、仲人に相応しい、幸福な夫婦と思わせる「自然な態度」を言う。

「平凡に徹するべきだといっているわけじゃないか。へんに個性なんか出さずに、最も平凡な型に、自分をはめ込めばいいんだ」252P

と宗介は言う。しかし、個性をださないはずだった仲人の演説はメモを忘れたことで頓挫し、メモを忘れた演技をしたという風に受け取られてしまう。これはそのまま、九州土着の「チクジェン」訛りの習得に失敗した過去と同根でもあって、演技を拒否した平凡への仮装は挫折する。前半で登場する「変身」や「形式」への着目もこの「演技」や「型」と相似形に見える。蓮實重彦の『挾み撃ち』論の「模倣と仮装」に繋がるようなそうでないような……

またこれは挫折を通じて個性が獲得されるというのとも違い、一種の運命として甘受するほかないものとしてある。野球部を辞める時の宗介はこう言ってしまう。

「もう、なにもしたくなくなったとです。どうもすみません」
 筑前ことばと植民地標準語のチャンポンである。193P

このようにあるほかない運命。「もう、なにもしたくなくなったとです。どうもすみません」というセリフは後の『使者連作』で金鶴泳がソウルのシンポジウムで発した「イルボンから来たキム・ハギョンです」という日本語と韓国語の混成語とほとんど同じものでもある。外地で敗戦を迎えた引揚者の「四十歳」。

ただ、今読むと気になるところもあって、調査を名乗って女性の性生活を聞き出そうとする「怪電話」の話題で、迷惑だという妻に対して宗介は女性が楽しまなかったという証拠はないじゃないか、と反論して擁護の論陣を張るところがある。不倫しかけるところよりこっちが気になる。セクハラという言葉がない時代だからというのもあるけど。

こちらの旺文社文庫版は表紙が挿絵と同じ人で、表紙絵は人物の手前に置いてある本の表紙絵としても描き込まれていて、入れ子構造になってる。文庫版を持ってるけど、単行本版は挿絵がついてなかったというのは荻原魚雷の解説で知った。

なお文庫にはない後記で主人公の名が漱石からの引用とあり、同じく新聞連載小説の『めぐり逢い』ともども漱石オマージュなのがわかる。漱石と言えば新聞小説だからだろう。猫小説の『めぐり逢い』、『夢と夢の間』と、後藤の三つある新聞小説はさらっと書いた感があり、主要作品と見られてはいないんだけれどその分気軽に楽しめる系列になっている。

そういえば後藤明生ほど四十歳について語った作家も少ないのではないか、と思っている。初の連載長篇は『四十歳』(『四十歳のオブローモフ』)だし、題だけ見ても四十代について書いたエッセイが四つある。他に年齢を題にしたエッセイはないにもかかわらずの、この四十代に対する異様なこだわり。これはたぶん父が四十代で死んだことと無関係ではない。「父への手紙」の冒頭は自分が四十歳になって、父の享年、数え年47歳まであと何年、という話をしている。父だけではなく、ゴーゴリも、二葉亭四迷も、漱石も、横光も安吾も四十代で死んでいて……。後藤作品において父の主題が主軸になるのは、この72年から79年あたりまでで、ちょうど後藤が四十歳になってから父の享年を越えるあたりまでに重なることは、偶然じゃないだろう。

古井由吉『雪の下の蟹・男たちの円居』と『雨の裾』

二月末、古井由吉逝去の報があった*1。大学生時分に授業でお世話になっていた寮美千子さんに連れて行ってもらって、風花の朗読会に行ったことがあり、そこで寮さんの紹介で本にサインをもらったことがある。何か話したかも知れない。何も覚えてない。


古井風にいえば、以て瞑すべし、と言うべきだろう。

後藤明生を読み出した時には既に後藤は亡くなっていたけれども、読み出した頃の古井由吉は『忿翁』など(リアルタイムで新刊を買ったのはこれが最初かも)の連作短篇スタイルになって久しい時期でもあった。

私が古井について書いた文章では以下のものがある。
古井由吉 - 白暗淵 - Close To The Wall
東京SF大全29・30 『白暗淵』『終着の浜辺』 | TOKON10実行委員会公式ブログ
古井由吉 - やすらい花 - Close To The Wall
際限のない反復――古井由吉「辻」 - 「壁の中」から
読み返すと、『辻』についての記事が一番しっかり読み込んでる気がする。古井熱が特に高かった頃だと思う。『辻』は新潮文庫で手に入る。

小説本は概ね持っているのに十冊ほど未読が溜まってしまっているのと近作の追っかけができてないな、と思っていたところだった。訃報を聞き、『雪の下の蟹・男たちの円居』と『雨の裾』を読んだ。最初から二冊目の作品集と最後から三冊前の作品集になる。1970年と2015年、45年の時間を経た二冊だ。偶然にも『雨の裾』の「虫の音寒き」は金沢へ行く作で、「雪の下の蟹」で題材になった生活やその時住んでいた判子屋の下宿が回顧されている。

文芸文庫の元本『男たちの円居』は『円陣を組む女たち』に続く古井二冊目の本で、男女の「円」で対になったタイトルを持つ。

金沢の豪雪の経験を描いた「雪の下の蟹」は、雪で川があふれるのじゃないかという危惧のなかでどっちの岸が雪を下ろすかの対立が段々と極まってきて、「たのむで」「そやかて」のなしくずしになっていくやりとりにある笑いが面白い。外から聞こえる声の描写が古井らしい。分身のモチーフがあって、『雨の裾』にも時間軸的な分身が出てきたりする共通点がある。戦時下、山村にやってきた物言わぬ孤児を描く「子供たちの道」は冒頭、何気ない出来事が妙な雰囲気を帯び始めて危機的な何かが露出するような不穏な叙述がいかにもの感がある。孤児と孤児を保護する女、それを執拗に観察する少女ともども、女のもの狂おしさを描く一作。「男たちの円居」は山中で雨に閉ざされた数日、職のある男たちと職にあぶれた男たちという二組が同じく食にあぶれる状況が描かれる。「職」と「食」、「円居」と「惑い」の掛け詞だったりするんだろうか。

雨の裾

雨の裾

これら初期に比べると、『雨の裾』はほぼエッセイのような作や聞き書きのような作やら、物語性や虚構性があったりなかったり混在しつつ文章の密度はいやに濃くなっていて、そのなかで老いと死についての語りが延々と続く、煮詰まり切ったその果てのようだ。

いつものことだけれどとにかく死の匂いが瀰漫していて、八篇中全部か七つかで死が描かれる、というくらいで、義母の死の直前に見舞った一篇の一年後に一周忌に行った一篇があったりもする。最初の一篇と最後の一篇がほぼエッセイ的な古井本人と思しき「私」の語りに終始するんだけれど、なかほどになるにつれて伝聞が増える印象がある。この構成は意図されたものだろうか。中盤のほうで、ある男の話とか知人の話などが途中で始まって、いかにも古井的な語りで見てきたように語るんだけれど、最初がエッセイ風なだけにそういう構えで読まされるうちにいや、これは小説だし虚構では、と判然としなくなる。

最初の一篇は辞典を引くところから始まるくらいいかにも随筆、という感じでしかし次第に随筆と小説が渾然となった得体の知れないものになっていくところがある。作中15歳の時に大病をして、という記述があったので自筆年譜を見たら16歳でのことだと書いてあった。校閲で指摘されそうなものだけれど、この間違いはつまり、これが虚構だ、というサインなんだろうか。後藤明生も自分の住居の階数を小説のなかでは変えて書いていた。近作になると微細な身体感覚を丁寧にたどりながらそれがある種の逆説にも通じたりする不穏さはよりいっそう強まり、文章の「認識の構造」としての純度を高くしていくなかで初期のような小説っぽさは消え、随筆・エッセイに近似していくけれど、そのなかでやはり虚構性が迫り出しても来る、ということだろうか。

近作はその語りの技法にもよるけれど、何を読んでいるのか不分明になるところがある。しかし小説っぽいほうがなんとなくわかった気になる、読んだ気になるというのは、物語、お話を追うことでわかったような気がするだけで、じっさいは何もわかっていないということだろう。

それはともかく「雪の下の蟹」では「私にとって昼間の仕事は、どんなに神経を張りつめていても、しばしば眠りに似ていた。それにひきかえ、夜の眠りはこわばった目覚めに似ていた」11Pとあり、『雨の裾』の「死者の眠りに」では「人は覚めながら眠っている。眠りながら覚めている」56Pとある。似た感覚を書いてもこの短さ。物語性を排していき、文章の密度が異様に上がっていっている。

そういえば「雪の下の蟹」の分身のモチーフは近年では老いのなかに堆積する時間として、連続する背中、のようなイメージで出てくる。自身の後ろにもうひとり、その後ろにもうひとり、というように、過去の時間のつらなりがあり、ドッペルゲンガー的な対面のものではない、背中を見せる分身。

雨に降られた女が出てくる一篇の後で、高層ビルから降る雨脚の裾を眺めながら、あの雨のなかで男女の間違いが起こっているかも知れない、と男が呟くのは視点の移動が鮮やかなんだけど、セリフが決めすぎというかわざとらしいというか、ちょっと笑ってしまった。この二冊では「握り飯」も共通して出てくるものだけど、初期では微妙に戦争の記憶をまとって出てくるものという感触があり、それはあるいは現在もそうなのかも知れない。


生前からこうまで死について書いているというのも「来たるべき死」というか、生きていることのうちにある死、というか、古井的に言うと生きながらすでに幾分死んでいる、というか、まことに古井由吉らしいとしか言いようがない。死と生の表裏一体というのは古井由吉がおそらく『水』以来ずっと書いてきていることだった。

しかし古井由吉のここ二〇年とかずっとこういう短篇連作による本を書き続けていて、折に触れて読んできてはいるけれど、古井由吉古井由吉しているのを読んでいるという憾みを拭えない部分もある。熱心に読んでいた十年前ほど古井由吉をちゃんと読めてないだけだろうか。近作個々の試みや特性というのはどう分析されているんだろう。


後藤明生は最初の小説集を69年に同時に二冊出して、翌年に古井由吉は最初の小説集を一月違いで二冊ほぼ同時に出してて、後藤も古井も叙述のスタイルは対照的ながら揃ってヌーヴォーロマンとかアンチロマンとか言われるあたり似たもの同士な感じもある。九十年前後に揃って首まわりの手術をしていたり。後藤が最後まで仲良くしてたのが古井だとも言う。これは酒飲み同士だからというのも大きいかも知れない。また、高層住宅に住み続けたのも一緒だった。

*1:二月十八日に亡くなったことが二十七日に発表された

木村友祐『イサの氾濫』『幸福な水夫』『聖地Cs』

ため込んでいた木村作品をまとめて読む。

『イサの氾濫』

イサの氾濫

イサの氾濫

表題作は、東京で転職を繰り返してた男が震災を機に地元東北で荒くれ者として知られていた叔父イサについて調べながら、東京からもこぼれ落ちる「まづろわぬ人」として己を自覚し北からの怒りを叫ぶ叛逆の狼煙だ。切り捨てられる地方からぶつけられる濁音の響き。

イサが乱暴を働くようになった原因は他人にもイサ自身にもあるいはわからないかも知れないけれども、父親の苛烈な躾けとともに、里子にするかどうかの試しとして親戚の家に預けられたという捨てられかけた経験は本家への強い憎悪の一因になっていると思えるし、社会から脱落しつつある男自身とも重なるくだりだ。男自身が東京でも転職を繰り返し無職となり、死にたいと感じるような境遇で、家族のなかでも社交的な弟に比べて父親にいっさい褒められた記憶がない。しかし父もまた外からの規範ばかりを気にする「空っぽ」という点で男と重なる視点がある。イサと蝦夷を繋げて考える英雄への期待、だけではなく「無言の民」としての東北民でいてはならない、と自らが「身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり叫(さが)べ」と声を出すことへと逢着する。

本作の重要なくだりはルビを使って方言を記した本文をそのまま見てもらうのが良いだろう。50P。

後半、同級生からマルチビジネスの「銀河の破魔水」を売りつけられそうになる下りがあるけれど、このトンデモ素粒子物理と水、といえばまさに震災で大きな被害を被った原発津波と重なるのが気に掛かる。放射能の被害を逆転させたかのような効能をうたっていて、ここには密接な関係があると思われる。話を持ち出した小夜子は東京の人に自分たちが「お荷物」と思われているんじゃないかと気にしているんだけれど、「銀河の破魔水」でマルチ商法に取り込まれている彼女は、原子力と金をめぐる植民地主義的な思考に飲み込まれた存在でもあるだろうか。

併録の「埋み火」も面白くて、これは東京で成功している四十代の男の所に子供の頃の親友が電話を掛けてくるところから始まり、汚い身なりのその幼馴染みが男も忘れていたような子供の頃の経験を微細に延々語り続ける、東北弁に満ちた小説になっている。話を盛ったり幼馴染みが知るはずのないことを語ったり、信頼できない語りに見えるんだけれど、読んでいるうちにその東北弁の語りに飲み込まれそうになるうえに、男の父の会社がその地方で公害を撒き散らしたりした疑惑や男の罪の告発をも含んだ不穏なものになっていく。信頼できないのはいったいどちらかが次第に逆転していく仕掛けがあるわけだ。津波の被害とともに敷地にあった違法な猛毒物もまるごと流されてしまったという皮肉な話とともに、幼馴染みはそれでも流されない罪を問う。東北弁による地方を食い物にしていった企業への訥々とした告発の声の響きがいっそう印象的な一篇。

『幸福な水夫』

幸福な水夫

幸福な水夫

第二作の「幸福な水夫」と「突風」とあとがきエッセイを収録。東京で定職にない主人公が東北地元の荒くれた親族のことを知るとともに搾取するものへの怒りの声を上げるという話を著者が繰り返し書いてることが改めてわかる。

表題作は八戸から下北郡への原子力、軍の土地を目の当たりにする道中が描かれるロードノベルで、ウマの合わない乱暴な父親と兄弟の東北北上道中、この土地がどのようなものかということと同時に父親の歩んだ不自由な人生の一端も見えてきて、子猫の世話をする主人公も含めた、爽やかさと悲哀とおかしみに満ちた家族小説でもある。強権的な父が足を切断し脳梗塞の後遺症で口も回らなくなってもなお生命力、行動力にあふれいていて、しかし過去には諦めざるを得なかったアメリカへの憧れや恋愛を知って、土地と生活の帰結として自分もまたある、ということが立ち現れる、自分たちを蔑むものたちへの怒りの瞬間。著者自身が語っている改稿箇所は喧嘩の下りだ。ハッタリをかまして退散させるのではなく、小説に書き続けてきた方言の意味をより強調するように、「標準語」で喋れ、という東京者に対して「南部語」、「津軽語」を対置させてその傲慢さを批判する、というかたちに変わっている。そして自分の頭を瓶で殴るのは、傷ついた自分=土地を見ろ、ということだろうか。

「突風」は自衛隊国防軍となり徴兵制が始まった日本を舞台に、祖母の危篤、硫黄島で戦死した祖父、そして徴兵制を進めた保守政党を支持し続けた親たちの、子供たちが徴兵される事態になるとは思っていなかった、という保守性の一側面を描くような一篇。家族のつながりと戦争によるその切断。興味深いのは「幸福な水夫」で和郎が落ちる、落ちると危惧し続けていた家のなかの物干し竿が、今作での死んだ祖母を家に運び込む場面で落ちていること。物干し竿が落ちるのは死ぬ時で、「宇宙船ほどの巨大な物干し竿」の幻想がここに響いている。

書き下ろしのエッセイでは硫黄島で死んだ祖父の手紙が発見され、それまでの死亡日時と齟齬を来すことになり、戦死というものが死体も日付も曖昧にするということが描かれる。同時に、嫌われる地域猫を通じた地域社会との関係が描かれてもいて、捨てられたものへの視線が小説と重なる。

造本が非常に美しく、本体の浜辺の絵が半透明の表紙の裏側に描かれた老人と重ねられて、表から見ると一枚の絵になるようになっているのも凄いけれど、二つの短篇とあとがきのエッセイとで三種類の紙が使われているのも凝っている。装幀佐藤亜沙美は新体制文藝のアートディレクションの人。

『聖地Cs』

聖地Cs

聖地Cs

表題作と「猫の香箱を死守する党」の中篇二作による動物小説集ともいうべき一冊。いずれも人間の都合によって生を左右される牛、猫を通じて、力を持たぬ動物たちが虐げられる社会は人間もまた虐げられる社会だとの認識から、政治と動物と人間の関係を描いている。

「もうこんなに復興したんですよぉ、大丈夫、あんなことは忘れて、みんなでオリンピックを楽しみましょうってね」52-53P

表題作は福島の原発近くの居住制限区域内で牛を飼い続けている実在の牧場に取材したもので、DV夫から逃れて三日間その牧場で働く女性の一人称による中篇。語り手は、牛たちの食事と糞の泥にまみれた生活のなかで、社会から放置された場所が居心地が良いと感じてしまうような境遇にある。木村作品では主人公が演劇、小説などなんらかの芸術に携わっていることが多いけれど、今作では牧場主が牧場を「作品」と呼んでおり、牧場そのものが芸術性を与えられている。と同時にある人物から、抗議のために牛を巻き添えにしている、と批判されもする。これは当然今作への自己批判でもあるだろう。

そこへ語り手は牧場が「矛盾が矛盾のまま、ごろりと放りだされた場所」と見る。牧場主は、生かすのも殺すのもどっちも人間の都合ではないかと問われて「利用できなくなったら殺せばいい、というのは、いのちに対する礼儀を欠いてる」といい、牛に対する扱いは「棄民」「数減らし」として人間に跳ね返ると言う。礼儀、責任としての生そのものが国、原発の喉元に刺さるトゲなんだと牧場主の言うように、ここでは牛の生と牧場の経営と芸術と批判・抗議が一直線に繋がるものとしてあり、語り手は放棄される牛をまさに我となすことによってそこに連なる。前述の「芸術」批判を踏まえて、「喉元に刺さるトゲ」こそが自分の表現だということでもある。

「猫の香箱を死守する党」は政権に返り咲いた保守政党が矢継ぎ早にタブーを破って集団的自衛権の行使や武器輸出解禁、軍需産業の国家による推進といった軍国主義化した日本を舞台に、猫を飼い、野良猫に食事を与える語り手と右派カルト集団による猫の虐待とが衝突する。「ニッポン・イチ!」や「ジャパン・イズ・ナンバワン」と叫び続けて、「なんの役にも立たん猫」にかまう語り手に暴行を加える右派集団の滑稽なグロテスクさは笙野頼子作品とも一脈通じるものがあり、細部こそ異なってもほとんど現実そのものとも思える生々しさもそうだ。

クロタロの毛のやわらかさとからだのほのかなぬくみと息づかい。それを五感で感じるとそれまで冷えて無感覚になっていた自分のからだに気づかされた。からだが今ここにあるということをなんとなく意識させられる。この毛に覆われたちいさな生きものにかろうじておれは世界につなぎとめられているのか。P118

DVにさらされたり、定職につけなかったり、「社会のはじっこ」にいると感じる人間が、同じく社会の端で傷つけられる動物を自身のこととして認識し、そこに政治と社会と人間と動物の結節点を見いだす小説集となっている。

「いのちに対する礼儀」って文言を見て、あれ、と思って積んでる『いのちへの礼儀』のあとがき見たらやっぱりここから題を取ってると書いてあって、なるほどと。

上田早夕里『深紅の碑文』『夢みる葦笛』

『深紅の碑文』

『華竜の宮』の姉妹篇。人類に迫る、プルームの冬と呼ばれる地球凍結の危機を目前にしたなかで、救援団体、反抗する海上民、ロケット打ち上げ事業を軸に、血で血を洗う抗争、飽くなき交渉、空への夢、人間とは何か、さまざまなテーマを簡潔で淀みなくスリリングに、極限状況での言葉と交渉の意思とともに描く傑作。

海洋資源を奪取する陸上民と、それを襲撃する海上民の対立が激化し、前作『華竜の宮』主人公青澄は民間救援団体事業の理事長となって調停を試みる。同時に海上民の反抗組織ラブカのカリスマ、ザフィールがもう一方の軸となり、海上民という陸からの被差別者たちの尊厳をいかに受けとめるか、ということに作品の大部分が割かれている。陸と海の対立を描きつつ、オーシャン・クロニクルズという総題が示すのは、この「異質な他者」といかに向き合うかということで、じっさいそれに尽きると言っても良いかもしれない。

海上民や救世の子などさまざまな改変を施された人間たちとの関係があり、ザフィールはともかく、青澄はアシスタント知性との二人三脚の人生で理由があって家族を持たない独身者でもあり、そして星川ユイと救世の子マリエとの関係は、「女と生きる女」という沢部ひとみの定義で言うレズビアンだ。異者との関係がヘテロセクシャルな関係性とは異なるものとして現われる。そういえば「独身者たちの宴」とは渡邊利道さんの『華竜の宮』論のタイトルだった。資源を費やしてまでロケットを打ち上げるという夢に「リリエンタールの末裔」としての空への憧れがつながる部分も良い。

『華竜の宮』や「魚舟・獣舟」のシリーズなので、これらの設定やエピソードを既知のものとして進む部分があり(文庫で改稿したりしたかは知らないけど解説がついてるので補足できるかも)、いきなり本書から読むのは勧められないとはいえ、私も読み返さずに読んでいるのでなんとかなるのかも。いや、とにかく面白かった。危機が迫るなかでのどこまでも言葉での交渉を徹底しようという政治の貫徹にかなりのアクチュアリティがある。

『夢みる葦笛』

夢みる葦笛 (光文社文庫)

夢みる葦笛 (光文社文庫)

十篇を収める短篇集。多くが三十ページほどの短さながらぎゅっと凝縮されていて、『深紅の碑文』の諸テーマ――異民族や人間でない存在と人間との関係、空や宇宙への憧れ、そして国境を超える真理等々、が各篇に通底しつつ多彩な題材で展開されていて、作者の軸が強く感じられる。

表題作「夢みる葦笛」は合成音声を題材にし、不可思議な音楽の甘美さがもたらす人間でないものへの変身が人々に歓迎されているというファシズム全体主義を思わせる状況で、はぐれ者がひとり抵抗するさまを描く。百合っぽいなと思ってたら思った以上にストレートに百合でもあった。これは人間でないものへの変身が破滅的ホラーのタッチで描かれるけれども、「完全な脳髄」では合成人間が人間に近づくには人間を殺すことができなければならない、という皮肉な議論が展開される。ここにある人間とは何か、というテーマは諸篇でも随所に顔を出し、非人間の人間性にも繋がっている。

「氷波」では、遠い小惑星での宇宙現象を体感するため、実在の人間から抽出された人工知性と、宇宙開発用のより機械的な人工知性のコミュニケーションが描かれる。人間が宇宙へ出るために自身を非人間化し、しかしそれでもそこに人間の本質が現われるのではないかという逆説が鮮やかだ。「プテロス」では、「本当の意味で宇宙生物学者になるためには、科学者としての常識どころか、『人間であること』すら、捨てねばならない瞬間があるのかもしれない」(217P)とも述べられているように、科学的探究心は地球を、そして人間をも超え出るものとしてある。「上海フランス租界祁斉路三二〇号」は、戦前戦後の日中関係に翻弄された実在の科学者をモデルにとった平行次元歴史SF。エピグラフにある「真理は国家を超えるもの」の言葉が印象的で、戦争と民族で分断された過酷な状況における科学者の姿が描かれる。石井四郎が出てくるのも重要だろう。近作『破滅の王』は731部隊が関係するらしいので。

民族を、国家を、地球を、人間をも超えていくもの。「滑車の地」での作られた存在リーア、「アステロイド・ツリーの彼方へ」のバニラ、「氷波」の知性体などなど、地球環境に依存する人間にはなしえない彼方への旅は、人間でない存在へと託される。それは繁殖に因らない人間と科学の子孫たちで、どうも本書の登場人物達は異性同士で子をなしたがらないところがある。「上海フランス租界祁斉路三二〇号」も結婚が回避される展開があるし、人間でない存在を産むのは当然生物的繁殖ではない。上掲の青澄とアシスタント知性マキもこれだ。いや、「テクノロジーそのものも、人間の身体の一部なのだ」と「楽園(パラディスス)」にあるように、それをも含めて「人間」なのかも知れない。
そういえば、「石繭」は諸星大二郎の「不安の立像」っぽい。