木村友祐『イサの氾濫』『幸福な水夫』『聖地Cs』

ため込んでいた木村作品をまとめて読む。

『イサの氾濫』

イサの氾濫

イサの氾濫

表題作は、東京で転職を繰り返してた男が震災を機に地元東北で荒くれ者として知られていた叔父イサについて調べながら、東京からもこぼれ落ちる「まづろわぬ人」として己を自覚し北からの怒りを叫ぶ叛逆の狼煙だ。切り捨てられる地方からぶつけられる濁音の響き。

イサが乱暴を働くようになった原因は他人にもイサ自身にもあるいはわからないかも知れないけれども、父親の苛烈な躾けとともに、里子にするかどうかの試しとして親戚の家に預けられたという捨てられかけた経験は本家への強い憎悪の一因になっていると思えるし、社会から脱落しつつある男自身とも重なるくだりだ。男自身が東京でも転職を繰り返し無職となり、死にたいと感じるような境遇で、家族のなかでも社交的な弟に比べて父親にいっさい褒められた記憶がない。しかし父もまた外からの規範ばかりを気にする「空っぽ」という点で男と重なる視点がある。イサと蝦夷を繋げて考える英雄への期待、だけではなく「無言の民」としての東北民でいてはならない、と自らが「身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり叫(さが)べ」と声を出すことへと逢着する。

本作の重要なくだりはルビを使って方言を記した本文をそのまま見てもらうのが良いだろう。50P。

後半、同級生からマルチビジネスの「銀河の破魔水」を売りつけられそうになる下りがあるけれど、このトンデモ素粒子物理と水、といえばまさに震災で大きな被害を被った原発津波と重なるのが気に掛かる。放射能の被害を逆転させたかのような効能をうたっていて、ここには密接な関係があると思われる。話を持ち出した小夜子は東京の人に自分たちが「お荷物」と思われているんじゃないかと気にしているんだけれど、「銀河の破魔水」でマルチ商法に取り込まれている彼女は、原子力と金をめぐる植民地主義的な思考に飲み込まれた存在でもあるだろうか。

併録の「埋み火」も面白くて、これは東京で成功している四十代の男の所に子供の頃の親友が電話を掛けてくるところから始まり、汚い身なりのその幼馴染みが男も忘れていたような子供の頃の経験を微細に延々語り続ける、東北弁に満ちた小説になっている。話を盛ったり幼馴染みが知るはずのないことを語ったり、信頼できない語りに見えるんだけれど、読んでいるうちにその東北弁の語りに飲み込まれそうになるうえに、男の父の会社がその地方で公害を撒き散らしたりした疑惑や男の罪の告発をも含んだ不穏なものになっていく。信頼できないのはいったいどちらかが次第に逆転していく仕掛けがあるわけだ。津波の被害とともに敷地にあった違法な猛毒物もまるごと流されてしまったという皮肉な話とともに、幼馴染みはそれでも流されない罪を問う。東北弁による地方を食い物にしていった企業への訥々とした告発の声の響きがいっそう印象的な一篇。

『幸福な水夫』

幸福な水夫

幸福な水夫

第二作の「幸福な水夫」と「突風」とあとがきエッセイを収録。東京で定職にない主人公が東北地元の荒くれた親族のことを知るとともに搾取するものへの怒りの声を上げるという話を著者が繰り返し書いてることが改めてわかる。

表題作は八戸から下北郡への原子力、軍の土地を目の当たりにする道中が描かれるロードノベルで、ウマの合わない乱暴な父親と兄弟の東北北上道中、この土地がどのようなものかということと同時に父親の歩んだ不自由な人生の一端も見えてきて、子猫の世話をする主人公も含めた、爽やかさと悲哀とおかしみに満ちた家族小説でもある。強権的な父が足を切断し脳梗塞の後遺症で口も回らなくなってもなお生命力、行動力にあふれいていて、しかし過去には諦めざるを得なかったアメリカへの憧れや恋愛を知って、土地と生活の帰結として自分もまたある、ということが立ち現れる、自分たちを蔑むものたちへの怒りの瞬間。著者自身が語っている改稿箇所は喧嘩の下りだ。ハッタリをかまして退散させるのではなく、小説に書き続けてきた方言の意味をより強調するように、「標準語」で喋れ、という東京者に対して「南部語」、「津軽語」を対置させてその傲慢さを批判する、というかたちに変わっている。そして自分の頭を瓶で殴るのは、傷ついた自分=土地を見ろ、ということだろうか。

「突風」は自衛隊国防軍となり徴兵制が始まった日本を舞台に、祖母の危篤、硫黄島で戦死した祖父、そして徴兵制を進めた保守政党を支持し続けた親たちの、子供たちが徴兵される事態になるとは思っていなかった、という保守性の一側面を描くような一篇。家族のつながりと戦争によるその切断。興味深いのは「幸福な水夫」で和郎が落ちる、落ちると危惧し続けていた家のなかの物干し竿が、今作での死んだ祖母を家に運び込む場面で落ちていること。物干し竿が落ちるのは死ぬ時で、「宇宙船ほどの巨大な物干し竿」の幻想がここに響いている。

書き下ろしのエッセイでは硫黄島で死んだ祖父の手紙が発見され、それまでの死亡日時と齟齬を来すことになり、戦死というものが死体も日付も曖昧にするということが描かれる。同時に、嫌われる地域猫を通じた地域社会との関係が描かれてもいて、捨てられたものへの視線が小説と重なる。

造本が非常に美しく、本体の浜辺の絵が半透明の表紙の裏側に描かれた老人と重ねられて、表から見ると一枚の絵になるようになっているのも凄いけれど、二つの短篇とあとがきのエッセイとで三種類の紙が使われているのも凝っている。装幀佐藤亜沙美は新体制文藝のアートディレクションの人。

『聖地Cs』

聖地Cs

聖地Cs

表題作と「猫の香箱を死守する党」の中篇二作による動物小説集ともいうべき一冊。いずれも人間の都合によって生を左右される牛、猫を通じて、力を持たぬ動物たちが虐げられる社会は人間もまた虐げられる社会だとの認識から、政治と動物と人間の関係を描いている。

「もうこんなに復興したんですよぉ、大丈夫、あんなことは忘れて、みんなでオリンピックを楽しみましょうってね」52-53P

表題作は福島の原発近くの居住制限区域内で牛を飼い続けている実在の牧場に取材したもので、DV夫から逃れて三日間その牧場で働く女性の一人称による中篇。語り手は、牛たちの食事と糞の泥にまみれた生活のなかで、社会から放置された場所が居心地が良いと感じてしまうような境遇にある。木村作品では主人公が演劇、小説などなんらかの芸術に携わっていることが多いけれど、今作では牧場主が牧場を「作品」と呼んでおり、牧場そのものが芸術性を与えられている。と同時にある人物から、抗議のために牛を巻き添えにしている、と批判されもする。これは当然今作への自己批判でもあるだろう。

そこへ語り手は牧場が「矛盾が矛盾のまま、ごろりと放りだされた場所」と見る。牧場主は、生かすのも殺すのもどっちも人間の都合ではないかと問われて「利用できなくなったら殺せばいい、というのは、いのちに対する礼儀を欠いてる」といい、牛に対する扱いは「棄民」「数減らし」として人間に跳ね返ると言う。礼儀、責任としての生そのものが国、原発の喉元に刺さるトゲなんだと牧場主の言うように、ここでは牛の生と牧場の経営と芸術と批判・抗議が一直線に繋がるものとしてあり、語り手は放棄される牛をまさに我となすことによってそこに連なる。前述の「芸術」批判を踏まえて、「喉元に刺さるトゲ」こそが自分の表現だということでもある。

「猫の香箱を死守する党」は政権に返り咲いた保守政党が矢継ぎ早にタブーを破って集団的自衛権の行使や武器輸出解禁、軍需産業の国家による推進といった軍国主義化した日本を舞台に、猫を飼い、野良猫に食事を与える語り手と右派カルト集団による猫の虐待とが衝突する。「ニッポン・イチ!」や「ジャパン・イズ・ナンバワン」と叫び続けて、「なんの役にも立たん猫」にかまう語り手に暴行を加える右派集団の滑稽なグロテスクさは笙野頼子作品とも一脈通じるものがあり、細部こそ異なってもほとんど現実そのものとも思える生々しさもそうだ。

クロタロの毛のやわらかさとからだのほのかなぬくみと息づかい。それを五感で感じるとそれまで冷えて無感覚になっていた自分のからだに気づかされた。からだが今ここにあるということをなんとなく意識させられる。この毛に覆われたちいさな生きものにかろうじておれは世界につなぎとめられているのか。P118

DVにさらされたり、定職につけなかったり、「社会のはじっこ」にいると感じる人間が、同じく社会の端で傷つけられる動物を自身のこととして認識し、そこに政治と社会と人間と動物の結節点を見いだす小説集となっている。

「いのちに対する礼儀」って文言を見て、あれ、と思って積んでる『いのちへの礼儀』のあとがき見たらやっぱりここから題を取ってると書いてあって、なるほどと。