図書新聞10月8日号にて住谷春也『ルーマニア、ルーマニア』の書評が掲載

図書新聞10月8日号にて、住谷春也『ルーマニアルーマニア』(松籟社)の書評が載っています。エリアーデをはじめルーマニア文学翻訳の第一人者として知られる著者の訳者解説や評論、翻訳者となった来歴を語った文章などを集成した貴重な一冊です。書評本文にも援用した『「その他の外国文学」の翻訳者』という本がありますけれども、その拡大版という趣もあって、日本のルーマニア文学翻訳の重要な一断面だろうと思います。こういう本が出るというのもかなり貴重だと思いますし、〈東欧の想像力〉叢書のスピンオフとも言えます。

全体の半分を占める分量でエリアーデについての論考がまとめられているのも貴重ですけれど、東大仏文出身で辻邦生とのかかわりがあったり東欧革命のさなかに現地にいた著者自身のエッセイも面白いです。

以下書評に使ったり使わなかったりした本。

白水社編集部『「その他の外国文学」の翻訳者』

ヘブライ語チベット語ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語タイ語ポルトガル語チェコ語の翻訳文学としてはマイナーな言語九人の翻訳者それぞれにどうしてその語を選び翻訳者になったかその翻訳の仕方などを取材したもの。

学ぶ言語を選ぶ理由はそれぞれだけど、他の人が選ばないもの、まだ訳されてないものを読みたいといったマイナー指向の持ち主が多く、辞書や文法書など語学学習の重要な教材すら手ずから作ったりといったバイタリティもあって、そうした訳者の個性を導き手にしたブックガイドにもなっている。

私がこのなかで読んだことがあるのはチェコ語阿部賢一の訳書くらいで、訳者解説などで文章に触れていてもここに語られた訳者の背景は知らなかったし、チェコ語以外にフランス語で論文を書いていて、三言語での立体的な見方を試みていることは知らなかった。そしてチェコではチェコ語学習者に暖かく、現地ではどうしてチェコ語がそんなに上手なのかと人に驚かれることが毎週のようにあったらしいけれど、フランスにいた二年間では一度もなかったというから面白い。各言語の話者がマイナーメジャーをどう自認してるかが窺われる。

マイナーどころかスペインのバスク語などある時期禁止された言語もあり、翻訳されることでその言語の存在や価値が知られる機会になればとバスク語訳者金子奈美は言う。だから、バスク語作家が自らスペイン語版を出していても、直接バスク語から訳してきたという。この言葉は自分が初めてバスク語から日本語に訳しているのかも知れないと思うこともあるらしい。対して同じスペイン語と親和的なマヤ語の作家は自作のスペイン語を自ら出していることが多く、吉田栄人はスペイン語から訳して後から突き合わせるという方針の違いもある。翻訳は言語を置き換えるだけではなく、音・喋りを踏まえることで初めてわかることや、人の考え方、文化、歴史、その他の背景もあってのもので、文章からだけでは難しいということがしばしば語られている。

口に出すことで翻訳にも反映される経験を語るのは一人ではなく、現地に行ってみたりさまざまな体験を通して、翻訳される文章のそう書かれる必然性が見えてくる。読めない言語とそこから広がる世界を私たちに見せてくれる翻訳という営為の、普段は影に隠れた見えなかったものを見せてくれる。

翻訳者たちの異言語体験記でもあり、その飛び込んだ先から翻訳という形で私たちに成果を持ち帰ってきた。訳者たちが開いた異なるけれどしかし同じ人間の描いた文芸の世界への九つの窓がここにあり、その景色を見せてくれるように整えたその窓枠の形も込みで読める一冊になっている。

『「その他の外国文学」の翻訳者』、表紙を見ると『その他の外国文学』なんだけど、白水社のサイトや奥付では「その他の外国文学」になっててAmazonも同様だけど、hontoだと『その他の外国文学』とカギ括弧か二重カギ括弧かが統一されてない。

ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』

エリアーデの初期幻想小説二篇を収める中篇集。双方ヨガ、タントラを題材にしながら、こことは別の時間、別の世界の様相が垣間見える瞬間を描く幻想小説で、特に表題作での「時間からの脱出」は発想としてはほぼSFではないだろうか。

「ホーニヒベルガー博士の秘密」は実在したホーニヒベルガー博士という人物の事跡を追っていたゼルレンディ博士という人の妻とふと知り合い、ゼルレンディ博士の残した未完のホーニヒベルガー博士の伝記を完成させて欲しいと依頼され、家に通って博士の残した資料の調査を始める。タイトルのホーニヒベルガー博士より、基本的にはその後明らかになるゼルレンディ博士が突如消えた謎を追うのがメインだ。そして博士たちが渉猟した東洋文化、オカルティズム、神秘主義なんかの話が出て来て、さらに博士の手記が発見されその解読を続けるうちにその真実に突き当たる。序盤、「われわれの生活のなかにも神秘は生き生きと働いている」17Pという一節があり、これはエリアーデ自身の「聖と俗」にまつわるテーゼでもあるらしく、本作もそういう感じの展開になる。ゼルレンディ博士の顛末もSF的で、語り手の顛末もSFっぽい。

「セランポーレの夜」、ブカレストが舞台の表題作に対し、こちらはインドの地方が舞台。学者や資産家たちとの忘れられない付き合いを回想しながら、ある夜、迷うはずのない道から不可思議な場所に迷い込んだ経験は何だったのか、という謎を残す幻想小説。こちらはタイムスリップネタといえる。建物近辺には三人で迷い込んだような植生の場所はなく、そしてたいていの人は喋れる英語もそこで出会った人は理解できない様子で、そこで聞いた人名からはどうやら100年以上前のある事件に際会したのではないか、という論理的推理を行なっていくのだけれど、そうした近代的理性は最後に覆される。ヒマラヤの修道院で出会ったタントラの修行者にその旨を話すと、この世の全ては幻影で人は何一つ実在物を生み出すことはできず仮象のたわむれを作るのみだ、という理論によって理性的推測、言うなればSF的発想は退けられてしまう。そこで幻想小説としか言いようのないものになる感じ。

ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル』

異なる言語から翻訳するという行為において、時にさまざまな編集、歪曲が行なわれる事例をたどりつつ、メジャー文化への同化圧力に対してマイナーな異物としての異化的翻訳の重要性を説く翻訳研究の古典と言われる一冊。

翻訳が時にマジョリティ文化のステレオタイプの維持に貢献してしまうなどのメジャー/マイナーの権力の問題など政治性についての議論がベースにあって、ドゥルーズ=ガタリの「マイナー文学」が援用されるなど、なるほど九〇年代の本だけあって現代思想的雰囲気が随所に感じられる。

著者がイタリア語から英語に訳した翻訳を題材にした章や、「ビリティスの歌」というギリシャ語からの翻訳という体裁で出された創作を扱った章、翻訳がその言語の配列において原文とは異なる著作権を持つことを論じる章、英米の出版社が翻訳をほとんどせず多くは訳される側に立つ非対称性の章などなど。

アメリカにおける日本文学の翻訳が川端谷崎三島といった日本へのオリエンタリズムに偏っていることを論じながら、英語にとっては異化的な翻訳となった吉本ばななの『キッチン』に触れた章も面白い。futonなどの語彙を交ぜ、「アメリカナイズされた日本」を翻訳において実現する興味深い事例だ。

1994年のアメリカでは書籍の総出版点数における翻訳は3パーセント弱という低さで、解説での補足によれば翻訳大国と呼ばれた日本も2004年の7.7パーセントが2019年には5.7パーセントへと急減している。

多国籍企業が組み込む翻訳は、根本的にヨーロッパの植民地主義と同じように機能するものである」333P。

といったポストコロニアリズム的な問題意識もあり、帯にある通り翻訳において「世界の文化、政治、経済を覆う不平等」が現れる場面を抉りだし、それを「スキャンダル」として露わにする。

直野敦、住谷春也共訳編『ルーマニアの民話』

住谷春也の最初の訳書なのかな。恒文社の東欧民話シリーズの一冊で、美童子ものの色々なヴァリエーションを読んでると道中で誰かを助けて後のボス戦でみんなが集まってくる展開、構造が露骨かどうかの違いくらいで今も物語ってそうだよなと思える。民話を読んでると物語の原型、構造を意識することになってそれがなかなか楽しい。童話の採取者というか記録者のなかにルーマニアの詩聖といわれるミハイ・エミネスクのものもあって、この人の翻訳って珍しい。

「馬鹿のグーラ・カスカの物語」という一篇が前近代の発達障碍者か何かの話に思えてなかなかつらい気持ちになる。悪意がないけど、要領が悪くてミスをしてキレられるし、寝過ごしてやることが一杯になった時一度に片付けようとしたら全部ダメになって固まってしまう。「哀れな馬鹿を、目から火花が飛ぶほど、みんなでひどくなぐりつけた」ってラスト。馬鹿を殴ってすかっとするようにもその悲哀を語っているようにもとれるけど、笑話として並んでる。

2022年9月末 幻戯書房より『後藤明生の夢 朝鮮引揚者の〈方法〉』が刊行されます

honto.jp
別記事でも書きましたけれども、先年一部を雑誌連載した後藤明生論が『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』として刊行されます。九月末に入手できるのではないかとのことです。

本書は2017年から未來社のPR誌、季刊「未来」に六回連載した「『挾み撃ち』の夢――後藤明生の引揚げ(エグザイル)」を第一部とした、全三部構成の評論です。「未来」でのタイトルは主題が第一部のタイトルで副題が全体のタイトルになっていて、これまでは「後藤明生の引揚げ(エグザイル)」として言及していたと思いますけれど、第一部タイトルを生かしつつ諸々協議の上、『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』と改題しました。

内容は表題の通り、詳細は下記の目次をご覧頂ければと思います。後藤明生の作品を植民地朝鮮からの引揚者という視点を重視しながらおおよそ通時的に追っていくものとなっています。後藤明生といえば蓮實重彦による『挾み撃ち』評価や、渡部直己芳川泰久らによる初期短篇の分析が批評としては存在感があり、『挾み撃ち』『夢かたり』、引揚げ三部作などについてのポストコロニアルの観点からの研究も朴裕河西成彦らのものや論文等も書かれていますけれど、後藤の作家活動全体を概観したものは今までありませんでした。

もちろん『挾み撃ち』や引揚げ三部作なども重要ですけれど、「異邦人」などの初期の短篇や『使者連作』、『スケープゴート』といったほとんど言及されることのない作品も朝鮮・引揚げという文脈からは重要ではないかということなどを論じています。大阪に朝鮮を見出す『しんとく問答』も然り。

文学評論に必要な素養や、そもそも後藤が言及している作品をきっちり読んでいるかと言われればまだ全然というところの私が後藤明生論を書くのに相応しいかと言われれば我ながら疑問に思うところもあるのですけれども、誰も一冊通して書いていなかったのだからしょうがない。何か忘れていないか、この論じ方で良かったのかはつねに考えることですけれど、私なりにひとまず一本線を引いたので、これからの後藤論のとっかかり、叩き台になってくれれば良いと思います。

本書の原型は「未来」連載以前に、岡和田晃さんと未來社編集さんとで執筆が始められ、私が書いた原稿を三人で集まって意見や感想を述べ、ここはもうちょっと書いた方が良いとかこれならこの文献があるなどの助言を元にリライトして、という過程を経て書き上げられたものです。この三人での会合で2017年には終章まで書き終えられていたのが、紆余曲折あって現在のかたちになりました。このお二方がなければ本書は書かれませんでした。

以下、細かい目次を載せておきます。

目次

序章 私という喜劇――後藤明生の「小説」

第一部 『挾み撃ち』の夢――〈初期〉
 第一章 「異邦人」の帰還――初期短篇1
  日本ポストコロニアル文学の裏面
  「赤と黒の記憶」の喪失感
  「異邦人」とは誰か
  「関係」の多重化される〝関係〟
  「無名中尉の息子」の恐怖
 第二章 ガリバーの「格闘」――初期短篇2
  「わたし」への遡行――「笑い地獄」
  記憶喪失の現在――七〇年連作1
  健忘症者の戦い――七〇年連作2
  漂着と土着――七〇年連作3
  「挾み撃ちにされた現代人」
 第三章 「引揚者」の戦後――『挾み撃ち』の夢1
  上京の「夢」
  「土着」からの拒絶
  「挾み撃ち」の戦後
 第四章 「夢」の話法――『挾み撃ち』の夢2
  「とつぜん」と「当然」のあいだ
  夢の話法
  「わたしの『外套』」
  『挾み撃ち』のその後

第二部 失われた朝鮮の父――〈中期〉
 第五章 故郷喪失者たちの再会――『思い川』その他と「厄介な問題」について
  忘れられた朝鮮語――「虎島」ほか
  父を訪ねる旅――『思い川』
  故郷喪失者たちの位置――後藤明生、李浩哲、李恢
  「厄介な問題」と「わたしの記憶」
 第六章 引揚者の傷痕――引揚げ三部作1『夢かたり』
  「不思議な別世界」――日本人と朝鮮人の境界
  民族共存の(悪)夢―― 映画作家日夏英太郎
  引揚者たちの戦後――植民地主義の傷痕
  二色刷りの絵
 第七章 それぞれの家/郷――引揚げ三部作2および『使者連作』
  今と過去の家/郷――『行き帰り』
  「居心地の悪い場所」――『噓のような日常』
  死者たちの追悼――『使者連作』
 第八章 「わたし」から「小説」へ――一九七九年・朝倉連作と『吉野大夫』
  亡父という呪縛――朝倉連作
  「小説」の「小説」――『吉野大夫』
  「小説」への問い――方法としての「異説」

第三部 混血=分裂の近代日本――〈後期〉
 第九章 分裂する日本近代と「転向」――『壁の中』
  『挾み撃ち』を書き直す
  「ゼンキョートー」と『悪霊』――ロシアの百年後の日本
  「舶来のマドンナ」――キリスト、マルクス、近代日本の「転向」
 第十章 メタテクストの方法――八〇年代1
  汝、隣人ソクラテス――『汝の隣人』1
  言葉と愛――『汝の隣人』2
  「ふるさとを取り上げられる」――津軽連作『スケープゴート
  手紙というメタテクスト――『謎の手紙をめぐる数通の手紙』
  「超ジャンル」としての小説
 第十一章 戦・死・墓――後藤明生の〝戦争文学〟・八〇年代2
  模倣という戦い――『蜂アカデミーへの報告』
  不参戦者の〝戦争〟――『首塚の上のアドバルーン
  失語の危機との闘い――『メメント・モリ――私の食道手術体験』
 第十二章 日本(文学)を分裂させる――九〇年代
  文芸学部という場――教師としての後藤明生
  志賀直哉天皇共産主義――『この人を見よ』
  混血=分裂=増殖のメカニズム――『しんとく問答』
  「模倣」という方法――『日本近代文学との戦い』
  異邦人の見た日本

終章 自由と呪縛――引揚者という方法

引用・参照文献
後藤明生略年譜
あとがき
索引

詳細な年譜は講談社文芸文庫や『日本近代文学との戦い』などでの乾口達司氏によるものがあり、『後藤明生コレクション』にもそれらを元にした年譜が載っていますので、本書では本文を読むのにガイドとなるよう既存の年譜を縮約した略年譜をつけました。

また、索引は人名索引、事項索引、題名索引と三種あり、私の要望で人名索引をできるだけ充実させました。「針目城」のなかで出てくる歴史的人名などはともかくとして、訳書の訳者も全てとはいかなかったのですけれど、できるだけ。事項と題名は編集の方からの草案にいくらか私で追加したくらいです。網羅的なものではありませんけれども、なかなか面白いのではないかと思います。

後藤明生『挾み撃ち』オリエンテーリング参加の記

はじめに

www.kawariniyomuhito.com
もう二週間以上前になる2022年8月6日土曜日に行なわれた、代わりに読む人主催の後藤明生『挾み撃ち』オリエンテーリング企画に参加した。

参加者もそうでない人もハッシュタグ付きでリアルタイムにツイッター投稿していて、当日の模様はそちらで見られる。せっかくなので、ツイッターでは投稿してなかった写真も含めてブログでも私の視点から色々書いておきたい。
#後藤明生オリエンテーリング - Twitter Search / Twitter
チェックポイントとルートは『挾み撃ち』で主人公の通ったルートから往復行程などを省略したもの。松原団地からはじまり、蕨、上野、亀戸を経由して御茶ノ水がゴールだ。しかもスタートとゴール以外は各人個別行動推奨だった。

ただし、正しい意味でのオリエンテーリングではありません。なにしろ、速さは競いません。速さより遅さです。すべてのチェックポイントを回りきらなくても構いません。訪ねた街で、あるいは横道にそれてよその街にも足を伸ばしてください。気楽に、しかし、時に現実と作品との距離、現在と過去との距離を確かめながら、偶然飛び込んでくるものを見つけてください。

趣旨は引用の通り、後藤作品になぞらえたものになっている。

まあそうは言っても誰かについていけば良いだろうくらいに思っていたのだけれど、結局単独行動することになった。私は今年ようやく携帯をスマホに変えたのだけれど、これがなかったらかなり厳しかったと思う。多くの土地が訪れたことのない場所で、乗り換えや目的地がどこかなどに始終スマホを活用した。

撮った写真をツイッターに投稿し、ハッシュタグで各参加者の動向を見ながら、ここはさっき誰かしらが通った場所だと後追いしたり、すれ違いをしたり、一人だからこそ適当に歩いていくこともできる自由というか適当というか、なんとなしの探検の雰囲気があった。

各人個別の行動がSNSでの連携による緩やかな繋がりによって成立する、これは個々の読書とその連携としての読書会を思わせるイベントだった気がする。街のなかで何に注目するかが人によっても違うわけで。

草加松原団地

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最初の目的地は元「松原団地駅」、現在「獨協大学前駅」。草加での乗り換えにミスって10分遅れたらまだ時間内だったけれど私が最後だったようで、友田とんさんが待っていた場所には既にほかに誰もいなかった。わかしょ文庫さんが配っていた塩タブレットをもらって、まずは友田さんと松原団地を歩いた。

駅前のURコンフォール松原は団地を高層化して棟数を減らし、空間を広く取る設計になっていて、見ての通りかなり開放感がある。そしてこの曇り空は助かった。気温が30℃程度に抑えられ、この酷暑のなかでもまだマシな天気だった。



この藤幼稚園は後藤明生長女松崎元子さんが通っていたところだそう。「草加藤幼稚園」という表記を見て最初「加藤幼稚園」かと思った。ほかに団地周辺ではいくつもの幼稚園や小学校、保育園に出くわし、なるほど子供が多い場所だ。昔隣に郵便局があったりしたけれど、藤幼稚園のまわりはいまは団地の外縁で、更地になって道路だけが整備されていた。下の写真は幼稚園の裏手にあたる。



まだ新しい道を進む。

すると団地とその外の境界になっている草加バイパスに出る。

ここに見える歩道橋は後藤明生の小説で言及されたり、写真に映ったりしたもの。当時はフェンスで覆いがされていた模様。 この写真は「創」1975年2月号より、佐伯剛正撮影。

往時のこの道を逆から見たのが下のグーグルマップのリンク。草っ原の写真と見比べてみると面白い。ストリートビューで撮影日時をずらすと団地の建物がどうなったかがわかる。
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URの隣にはソライエシティという別企業のマンションが建っていたり建設中だったりするんだけれど、URのものが上に載せたように空間が広いのに対して、別企業のものは建物と駐車場だけで構成されていて、設計思想が如実に違う。

壊れた時計。演出がわざとらしいぞって思った。何かしらの電子部品が散らばってもいた。

団地の境界には味わい深い商店の並びがあった。小学校脇にリサイクルおもちゃと薬局が一体の商店。

これは駅に近い公園にある謎の遊具。

駅前の地図。駅からほぼ真っ直ぐ下に降りていって公園を左横にそれて下へ行き、草加バイパスに突き当たってから引き返した。獨協大学の方には行っていない。
駅前のハーモネスタワー。指写っちゃってる。

このタワーの隣には草加市立中央図書館があり、そこに後藤明生コーナーがあるという話を後で知った。

スマホカメラの使い方に慣れておらず、縦固定の設定を戻すのに難儀したりしてた。

『挾み撃ち』当時の団地はすでに更地になるか建て替わっており、かなり雰囲気が変わっているけれど、なるほどこういうところだったのか、と実地に歩いてみてなんとなく雰囲気を感じとることはできた気がする。ここで友田さんと別れ、さてどうしようか、と思って別の参加者の方が近くにいたので合流しようとしたのがうまくいかず、結局一人で蕨に行くことに。

獨協大学前駅から隣の新田駅に行く途中で「草加明生苑」という建物が目に入り、何だと?と思って帰ってから調べたら老人ホームだった。
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核兵器廃絶のメッセージを広島原爆の日に眺める。

その日は機(はた)まつりという織り姫と彦星にまつわるお祭りがやっていた。偶然行き会ったお祭りだ。しかもよく見ると「さよなら私のクラマー」という去年やっていた女子サッカーアニメの舞台だったらしく、市の後援があるのか幾つもの幟が立っており、商店には色あせたポスターも貼られていた(写真を撮らなかったのが痛恨)。このアニメは見ていたので、おお、お前か!そういやワラビーズだったわ、と不意の再会をした気分だ。



とりあえず駅前通りをずっと歩いていったんだけど、旧中山道に突き当たるまで続くこの商店街がとにかく長かった。しかも一キロにわたる商店街にずっと屋台が並んでいて、歩いても歩いても屋台が終わらないエンドレスフェスティバル、これは凄かった。20分は歩いたけれどそのあいだで屋台のバリエーションが三周くらいはした気がする。スパイファミリーのグッズ売ってる屋台が三つはあった。


中山道に突き当たったあと祭の終端の警備の人に道を聞いて、小説にも出てくる蕨郵便局へ。この時点では乗り換え以外でまだグーグルマップを使うことに気づいてない。何故か郵便局の写真を撮る不審者の私。下のは駅前の郵便局。ただ、『挾み撃ち』に出てくる郵便局は中山道に突き当たったあと右に曲がったところにあり、その先に中村質店があるという記述になっている。今の蕨郵便局は中山道を左に折れた先にある。建物だけではなく立地も当時とは違う。


先行する参加者の方が写真を上げていたのを見て自分も、と蕨市立歴史民俗資料館を訪れた。入館無料。

新しめの展示にはカメラマークがあって撮影可なんだと思って館内のを色々撮ったけど、もしかしてそれ以外は禁止だったのかも知れない。戦争関連の展示があって、色んな代用品とか千人針の実物とかもあった。ここを出た後に友田さんがここに入館していったのを見つけ、『挾み撃ち』の語り手がせんべいを買ったところではないかと思われる店を見に行って戻ってきたらちょうど出てきたところに行き会った。手を振って私は別の道へ。


友田さんはきっちり店の人に話を聞いていた。私は警備の人以外誰とも喋ってない。

せんべい屋から戻る道で呉服屋とネクタイ屋が向い合う場所があった。中山道沿いゆえだろうか。たぶんこのあたりに質店もあったんじゃないか。

『挾み撃ち』では駅前通りから右に折れるとたどりつく蕨神社こと和楽備神社。私は中山道から引き返しながらだったので、左手に見つけて進む。


ここを通り抜けた先に下宿があったらしいけれどもどぶ川も見えず、下宿の場所は判然としない。

屋台のなかを引き返しながら何か買って食べるのも良いかなと思ったけど、ゴミの処理とか面倒だなと思ってたらそのまま駅前についてしまった。駅前には松屋、マイカリー食堂、松のや、と同系列チェーンが三つ並んでて何なんだと思った。松屋で牛丼食べて昼にした。通りすがったところに無人馬肉販売所というよくわからない店があり、看板から色々怪しい店のようにしか見えなかった。



これはただの良い感じの路地。この向かい側に古書店の看板があり近くへ来たら休業だった。

蕨は古い宿場町なのもあって歴史資料館もあり、街並が自分の住んでるところとはやはり違うなあという感触がある。

草加のハーモネスタワーに似てるなと思って撮った高層マンション。似てる、か?

『挾み撃ち』と蕨と言えば一つ面白い記事があって、それがこの潮地悦三郎「蕨市を舞台とした長編小説・後藤明生著『挾み撃ち』について」という文章。前読書会にも持参したやつ。

蕨市立図書館の職員の人が書いたもので、蕨郷土史研究会から出ている「ふるさとわらび」第五号(1975年6月15日)に載っている。面白いのは、作中で石田家とあるのはこの著者の教員時代の教え子「I君」の家だと書かれていること。石田家の門の前に停まっている黒い車という『挾み撃ち』の描写について、著者は「日本一流の大会社の管理職になっているI君が、上司にゆずり受けた外車のように大きな黒い車で、一昨年、同窓会が終った夜、I君は筆者をその車で自宅まで送ってくれたのだった」(91頁)とコメントをしている。ただこの記事、誌面に紹介するためか蕨の描写を小説から長々と引用していてしかも引用と本文との区分もできてなくて読みづらい。引用しながら住民の見地からのコメントが時々あってそこは興味深くもある。なお、著者は台湾からの引揚者だそうだ。あと、『挾み撃ち』自体ははあまりお気に召さなかった模様。この記事、どこで存在を知ったのか覚えてないな。

上野

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アメ横ってここで良いのかな。
『挾み撃ち』では上野の銀行に勤める久家に電話し、映画館の思い出を回想する上野。『挾み撃ち』作中の記述がいまいちどこなのかわからないけれども、三件並んだピンク映画館といえばこのオークラ劇場なんだろうか。公園の地図で言えば風俗資料館の近くにある。

これを見たら特に用事がなくサクッと次の場所へ向かった。


途中よくわからんもんが見えた。どうでもいいけど、このあたりのどこかの電車内のドラマの広告で「対象的な二人」っていう誤記があったのを覚えている。

亀戸

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左の地図はちょっと範囲が狭すぎて亀戸天神や三丁目あたりが入っていない。右上の広域図はちょっと小さいか。下のいり豆店は地図にある四丁目の交差点にある。

但元いり豆本店、『挾み撃ち』読者にはお馴染み、かな? あの外套のポケットから転がり出る豆。

この店を写真に収めようとしていたところを参加者のわかしょ文庫さんとオルタナ旧市街さんに目撃されていたということをゴール地点で合流した時に聞いた。あの店を撮ってる人なんてオリエンテーリング参加者しかいないだろうと声をかけるか迷ったらしい。あとで写真を見返したら豆を買っているお二人の姿が私の撮った写真に写っていた。見ていると思ったら見られていたし実は見ていた。お二人とは御茶ノ水で初対面だったので、松原団地で顔を合せていたらここで双方気づいた可能性がある。

亀戸天神に寄っていく。「和魂漢才」、後藤明生がよく言ったのは「和魂洋才」。亀戸天神の亀も見た。


境内に「国産マッチの創始者 清水誠の頌」という石碑があった。そうなんだ。
清水誠 (実業家) - Wikipedia
石碑の前を通って行くと亀戸天神の裏手に出る。亀戸三丁目は昔花街だったといい、『挾み撃ち』にも出てくるけれども、うろついていてもそういう雰囲気は感じられなかった。住宅街と古い建てものはちょくちょくあったけれど。後々聞いてみると私が歩いたのとは一つ違う路地がそうだったらしい。知らないと分からなかっただろう。

横十間川に突き当たり、親水公園になってるところには釣り人がいた。スカイツリーを眺めて引き返した。

御茶ノ水

そしてゴール地点、御茶ノ水駅へ。すぐ近くの山の上ホテル河出書房新社文藝賞贈賞式でおなじみのところ。松崎さんによれば後藤明生もたいそう気に入っていたらしくよく使っていたという。阪神大震災の時、「しんとく問答」の原稿を持って大阪から脱出し、山の上ホテルで続きを書き上げたというのが年譜に載っている。


駅前の丸善で少し時間を潰す。白水社〈ロシア語文学のミノタウロスたち〉という新しい叢書の一冊をふと手にとって、何か馴染みのある感じだなと装幀者を見たら仁木順平。〈東欧の想像力〉叢書の担当者だったのでなるほどなとなった。

ここでこの日三本目の500mlポカリスエットを買って、一日で計三本1.5リットル飲んだんだけれど、トイレに行ったのは一度だけだった。どれだけが汗になったのか。陽差しがさほど強くないこの一日でもそうだった。

外語大へ出て行くバスはこの並びから出発していたのだろうか。

作中待ち合わせ場所になっていた喫茶タイガーはこの通りにあったのかなと思う。

個別行動でハッシュタグの繋がりだった人たちが揃い、谷保の『挾み撃ち』読書会で会った人たちも集まった。これにてオリエンテーリングの終了。

私はこれ以上帰宅を遅らせると翌日に響くのもあって打ち上げには不参加。松崎さんが持参したという『挾み撃ち』の生原稿を見ることはできなかった。まあ、それはまたいつかの機会があれば。

おわりに

小説の舞台を訪れることはほとんどしたことがなかったので、実地に歩いてみるのは貴重な経験になった。ストリートビューでどのような場所かをチェックすることはあるけれども、自分の足と目で土地を歩いてみることはそれとはやはりかなり違った経験だった。


「大人の夏休み」、まさに、という表現。汗をだらだら流しながら見知らぬ土地をスマホと小説をたよりに歩き回って、ふと面白いものに出くわしたりする探検。

参加者の方によるブログ。
tubeworm37.hatenablog.com


一日の歩数は二万五千ほど、歩数アプリを入れてから歴代一位だった。

後藤明生の近所に住んでいたこともあるという忍澤勉さんの番外レポートのツリーも参照のこと。

大阪では『しんとく問答』のワークショップが行なわれるとのこと。『しんとく問答』は私も小説を読みながらストリートビューを見てルートを確認しながら読んでいた。

そして、ツイッターでは告知してましたけど、うまく行けば来月末に私の後藤明生論が刊行される予定です。

季刊「未来」に2016年から2018年まで連載した第一部に加え、未発表の二部と三部もあわせた長篇評論です。朝鮮引揚げを軸に後藤明生の主要作品を俎上に上げて初期から後期にいたる変遷を追っています。書きはじめてからは七年近く、図書新聞の対談で刊行予告を出してからは三年が経ってしまいましたけれど、めぐりめぐって『この人を見よ』の幻戯書房からの刊行となりました。略年譜や索引もついて思った以上にしっかりした本になりそうです。よろしくお願いします。
honto.jp
genkishobo.exblog.jp

コナン・ドイルの本とコティングリー事件本

岡和田さんにドイル『妖精の到来』を恵贈されたので、ついでにと氏の編集する「ナイトランド・クォータリー」の増刊号を読み、他にドイルの積んでた小説を幾つか読んだのでまとめて記事にしておく。『失われた世界』と『妖精の到来』は去年読んで一度ブログ記事にまとめたけれど、本当は増刊号などもまとめて一つの記事にしようとしたのに時間がなかったために中途半端なものになってしまったものなので、最初の二冊は過去記事とも同一文章。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』

ホームズ三つ目の長篇。濃霧が立ちこめ、底なし沼や荒れ野もあるダートムアという土地を背景に、バスカヴィル家の当主が急死したそばに巨大な猟犬の足跡があり、二百年前から伝わる魔犬伝説がにわかに真実味を帯びて、という怪奇ホラーの雰囲気に満ちた作品。特に人気のあるものらしくなかなか面白い。

ホームズ長篇といえば話のなかで別の物語が始まる二部構成の印象があったけれども、ロンドンとダートムアという舞台転換はあれど本書ではそこまで明快な分節はない。多忙なホームズをおいてワトスンが一人現地捜査に乗り出す状況は良い感じに心細さを煽ってくる。ホームズと再会するところでは大長篇でドラえもんが出てくるところみたいな安心感があり、なるほどヒーローの貫禄。内容を知らないときに「犬」と聞いて子犬みたいなものを想像したけれど、原題はハウンドとあるように猟犬、あるいは魔犬というほうが内容には見合っている。

繰り返し映画化されたというのは二部構成でないストレートな進行だからというのもありそう。しかし光文社文庫版訳者解説ではロビンソン代作説もあることを示唆しながら慎重な触れ方をしているけど、島田荘司のエッセイでは代作説を完全に前提にしていてなかなかの温度差がある。

アーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズ最後の挨拶』

1908年から1913年に発表されたホームズ隠退前の事件と、1914年8月の第一次世界大戦開戦の渦中60歳前後になったコンビがイギリスのために活躍する1917年作とを収める第四短篇集。

「瀕死の探偵」はほんとホームズらしくて笑える。「瀕死の探偵」もそうだけど、「ぼくが犯罪者でないというのは、この町の人たちには幸いだな」とか、危険薬物を自分たちで人体実験するバカみたいな場面のあと「ぼくらは、毒なんか使うまでもなく狂ってたのかもしれないな」とかなかなか面白い。

グロテスクさから恐怖はほんの一歩だという「ウィステリア荘」や、恐怖に歪んだ死に様と未知の死因が不安を煽る「悪魔の足」などのホラー系統のものや、死体の発見場所のトリックなど推理小説らしい展開「ブルース・パーティントン型設計書」なんかも印象的。

さっと読んで面白いけどあんまり書くこと浮かばないな。でもこのレトロな時代背景とキャラクターの強さでもっとずっと読んでいたいと思える作品で、未読はあと『恐怖の谷』と『事件簿』だけか。

『ナイトランドクォータリー増刊 妖精が現れる!』

同社のドイル『妖精の到来』や青弓社の『コティングリー妖精事件』と連動した企画で、コティングリー事件や妖精にまつわる様々な記事や複数の現地訪問記のほか、妖精テーマの小説作品が和洋どれも面白くて読み応えがある。

『妖精の到来』は既読だけど最近の新事実を踏まえた論考があるらしい青弓社本は読んでないので、井村君江の所持しているエドワード・ガードナーの鞄から発見された文書がどういうものなのかは分からないけれど、本誌には青弓社本から漏れたガードナー自身の文章が訳載されている。30頁超の長文のガードナーの原稿はドイル本の別視点という感じで事実関係を述べたところはなるほどなとは思うけれど、やはり途中から神智学、心霊主義の正当化のロジックが強くなってくるな、というドイル本と似た味わいがある。写真を広めた当事者の貴重な証言ではある。

そのほかに面白いのは、2018年にコティングリーを訪れた旅行の参加者ら五人ほどがそれぞれに現地訪問記を執筆していることで、建物裏手の小川(ベック)を写した、画角は違えどほぼ同じ写真が複数枚載っていて、同じ事態をそれぞれ別の視点から語っているのが読めること。コティングリーやリーズ大学のコレクションなど、複数視点の叙述で見てるものの違いなどより立体的にわかることというのはあるにしろ、妖精という現象は見えるか見えないかという視点の差異による違いが大きな特徴でもあるわけで、この複数筆者というのが妖精テーマの一環にもなっていると思う。

創作では、タニス・リー「エルフの眷属」は人間の子供を攫う妖精と母子家庭の姉弟の物語で、あちらの世界と取り引きをすることで富を得る代わりに、という異界との関係が描かれる。苦しい境遇のなかにあって妖精物語が求められる理由を描いたような物語にも思える短篇。

パトリシア・A・マキリップ「ウンディーネ」は、扉に載った『ヒュラスとニンフたち』という妖しい絵に着想を得たものらしく、人間・定命者をかどわかして水に引きずり込むニンフが逆に現代の地上に招かれ汚染された川の保護運動に駆り出される皮肉でユーモラスな現代妖精譚。

フーゴ・ハル「鈍色の研究」は、ホームズがドイルの妖精本を批判的に検証するという大変愉快なパスティーシュメタフィクションになっているだけでなく、得体の知れない著者の出くわしたオレオレ詐欺が虚構と事実というテーマにも絡み、何が事実かという現代的な問いにも繋げている一作。ホームズ自身は以下のように言っているのを読んだばかりなのでことに面白かったしこういう企画もの雑誌の場を生かした快作だなあと思った。

「まず初めに、人間の世界に悪魔だか何だかが手出しをするなんてことを、ぼくら二人とも認めるわけにはいかない。そんな考えはきっぱり頭から追い出すこと、それをはっきりさせるところからスタートしようじゃないか」、ドイル「悪魔の足」、光文社文庫シャーロック・ホームズ最後の挨拶』146P

ジェフリー・フォード「イーリン・オク一代記」、浜辺に作られた砂の城に居を構え、崩れるまでのあいだだけ生きる妖精の短い生涯を描いたもので、淡々としながらもそこに確かに十全に生きた人生を感じられる、小さいものに大きな存在感を見出す視点がことに印象的な一篇。ラファティの「スロー・チューズデイ・ナイト」をなんか思い出す。新訳とのことだけど既訳は未読。

石神茉莉「左眼で見えた世界」、取り替え子ものテーマで、左目と弟を妖精に奪われた少女がかわりに弟のフリをしたおじいさん妖精と妖精を見る目を手に入れる。妖精事件を踏まえてカメラが出てきたりしつつ、少女の一人称で異界に半歩足を踏み入れ帰ってくる経験を描いている。

高原英理「縞模様の時間」、〈精霊語彙集〉という連作に属するけれど私はこれが初遭遇。ポストモダン思想華やかなりし頃の学者と関係があった語り手が、詩を一つも文字に残さず死んだ詩人の録音を求めて寺に向かう、という話で妖精は出てこないけれども現実と縞模様を形作る異界を垣間見る話。妖精にまつわる記録や異界という西洋的なテーマを妖精を用いず、仏寺を絡めて東洋的な解釈を通して描くようなアプローチになっていて、それは件の学者がポストモダン思想の輸入と紹介を行なう哲学者だったことにも示されている。同作者の芸術家小説で『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』と通じるのは、八〇年代の裏面史の要素で、ポストモダン・オカルティズムとでもいうような雰囲気がある。ちょっと三輪太郎『あなたの正しさと、ぼくのセツナさ』や倉数茂『名もなき王国』あたりを思い出したけど時代がやや違うか。

マンリー・ウェイド・ウェルマン「取り替え子」、アメリカの作家による文字通りの取り替え子、チェンジリングものの短篇で、死人が続出している小さな町で疑惑の家族のなかに花を贈る子供がいるけれど、死者の傍らにはつねにその花があった、という怪奇よりの解釈という印象。

妖精テーマの文学のガイドやコティングリー事件にまつわる小説の紹介、コティングリー本の立役者による背景事情のエッセイ、映像面からのアプローチなどもあり非常に充実した一冊。ただ校正が甘いのが惜しい。多くの記事に助詞やら一字脱落してたりする箇所がある。

書肆 海と夕焼けでの『挾み撃ち』読書会

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六月十八日、書肆海と夕焼けにて開催された後藤明生『挾み撃ち』読書会に参加してきました。『代わりに読む人0』刊行記念として、社主友田とんさんと後藤明生著作権継承者の松崎元子さんを迎えての会でした。

コロナもあって対面イベントというのも数年ぶりでしたけれど、初めて読む、再読してハマった、ずっと読んでいた、そういう色々な読み方からの感想がうかがえて、たいへん面白い体験ができました。私も季刊「未来」の連載で何十枚も既に書いているわけですけれど、それでも再読してイベントにきてみて、自分が論じた箇所などごく一部でしかないしこの不可思議さを捕まえてはいないなと思いました。

こうした一見要約できない作品だからこそ色々な注目箇所が生まれて話が尽きない状況になっていて、友田さんたちも仰ってましたけれど、読書会向きの作品という感じがあります。演劇と引きつけた意見が面白くて、例えば今作の語りは後藤明生が「わたし」を演じているものでもあって、限りなく後藤明生自身に近いけれどもそこにはズレがあります。推敲、日和という言葉で文章を連ねている上手い箇所もありつつ、「紅陵大学の丘の上は、荒涼としていた」式の完全に滑ってるダジャレも意図されたものではないかという話にも繋がっていき、二等兵の格好の下りで出てくる「演技」と「仮装」の違いというのは何なのかと考えさせられます。「演技」と「仮装」の区分は「笑い地獄」にも出てくるもので、歴史への「不参加」とも重なる意味があって、ここでの拳突きの停止というのが戦後における軍人=暴力の消失と絡むものという文脈もあります。

一番面白かったのは松崎元子さんの父後藤明生の九州弁は非常にわざとらしかった、という証言でした。チクジェン訛りはともかくバッテンゲナバイはマスターしたという話が『挾み撃ち』にはありますけれども、それは装ったポーズだったわけです。演技か仮装か。文字からは読み取れない情報でたいへん貴重でした。

もう一つ、後藤が「とつぜん」とひらがな表記をするのは、それが子供の時間感覚だから、という松崎さんの指摘はまさしく、と思いました。何が起こるかわかっている大人の「当然」とわからない子供の「とつぜん」という構図は八章の核心なわけで、その「「とつぜん」論」からして確かにそうです。言われてみれば確かにその通りだけれど、そういえばそういう表記なのはそういうものとして通り過ぎてしまっていたな、と。

友田さん以外に『代わりに読む人』執筆者のうち三人が参加していて、名前が私のツイッターのフォロワーにいる人じゃんと思っていたら、現地にいた人が実はフォロワーだったのを帰ってから気づいた人もいたりとなんだか間接的な知り合いが多い会になりましたけど、私もツイッター後藤明生についてよく書いてますし、いま後藤明生で何かするというとそういう密度になるのはそりゃそうでしたね。

現地では作中に出てくる石田家の人の教師をしていた、という人が蕨の雑誌に書いた記事や、季刊「未来」で私が書いた後藤論が載っている号の残部を持っていきました。「未来」の残部は連載全部が載った六号分の揃いはだいたい全部配ってしまいました。あとはバラのものがまあまああるくらいですね。


書肆海と夕焼けのある谷保駅は初めて降りましたけれど、高層の建物が少なくて、色々な個人商店が点在していて、団地脇のアーケードの前には公園が広がっている立地が面白いです。ローカルな住宅街という感じ。こんな小さいアーケードのなかにあるお店に山尾悠子のピンクの本とかがあるんだ、という。よく行く街の大きな本屋にはないですからね。打ち上げで寄ったカレー屋はチーズナンが抜群に美味かったです。

公園から団地をつなぐ小さなアーケードを入ってすぐのところにお店があって、良い雰囲気のところでした。小鳥書房という看板があって、最初は違う店なのかと思いましたけど、一つの店舗に二つ書店が入っているニコイチのお店という変わったかたちのところでした。
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写真の一つも撮ってないのかよと帰ってから気づきました。

『代わりに読む人0 創刊準備号』

私も後藤明生について寄稿した新雑誌。創刊準備号として準備をテーマにした小説・エッセイ・漫画が寄せられた本篇と後藤明生小特集、そして寄稿者の2021年読んだ本の紹介コーナーで構成された一冊。編集長曰く試行錯誤や偶然の出会いの場としての雑誌が、まず準備として始まるのは納得感がある。

そもそも編集長(社主と言った方が良いのかも知れない)友田さんの『パリ闊』だって一巻はまだ歩き出さないのだし、後藤明生もまた迂回と脱線の作家だし、数学者のエッセイではグロタンディークを通して何の準備かが未確定な準備という考えが提示されていて、そうした予期と予想外の入り交じる、さまざまなものが隣接する中間的な灰色の場として「公園」という比喩が提示されている。

私は寄稿者の一人だけども他の執筆者については読んだことのある人が三人しかおらず、名前も知らない人ばかりで、他の文芸誌だったらもう少し見知った名前があるだろうところ、編集長が数学専攻だったことから理数系の執筆者がいたり、自費出版経験のある人がいたり、バラエティに富んでいる。編集長は雑誌の創刊の辞といえる「雑誌の準備、準備としての雑誌」のなかで、「いかなる失敗も許さないが故に、経験から学ぶことができず、失敗が本当に許されないものにまで失敗が及ぶ」社会になっていないかと危惧する。漫画や小説やノンフィクションも多くはまず雑誌連載という形で始められることが多いわけで、雑誌という場は練習を兼ねた本番でもある。

まあなんかそういう諸々が込められた雑誌のそれも準備号というこれから始まるor始まりつつあるなにか得体の知れない雑・誌で、とりあえず連載としては蓮實重彦論と後藤明生小特集がある。なぜこの二つ。そして2022年の雑誌だというのに内向の世代の話をしてる原稿が二つもあるのがちょっと笑ってしまう。


以下、各篇について。

二見さわや歌「行商日記」、オカメサブレという菓子を自転車で行商している人の日記で、自転車なのに電子マネー対応してたり、父親が落語家だったり、近くの家の人に怒られたり、淡々と進んでいくエッセイ。どこでもそこを商売の場所にしてしまえる移動販売は突然の出会いを生む。

陳詩遠「解凍されゆく自身とジュネーブ近郊の地下で起こっている乱痴気騒ぎについて」、粒子加速器のあるCERNにいた研究者のエッセイで、スイス国境近くの立地や日本国籍なのに名前で勘違いされる境界的な経験とともに、重力波の観測では心理バイアス排除のためニセデータを意図的に混入させる、というかたちでつねに観測に備えた興味深いシステムがあったと綴っており、そして著者はこれから新しい職場に移る新生活の準備をしている。

小山田浩子「バカンス」、あるカップルの休暇についていった主人公の視点から描く短篇小説だけれど、出てくる猪肉や鳥の死骸など、後味の悪く解決もされない不穏なものが充満していて、ホラーとまではいかないけれども無性に不気味というバランス感覚が味わえる。しかし鳥に空いていたという穴、そういや著者の芥川賞受賞作は『穴』だった。

伏見瞬「準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彦論」を書くことになったか」、一人の著者による一冊の蓮實論が未だ書かれていないことを理由にスピッツ論を刊行したばかりの著者が蓮實論を書くという挑戦を決断し、その事前準備として状況のおさらいをしていく文章。文章のリズムの観点でビートメイカーの側面を、他にインタビュアー、語学教師、物語作家、そしてとにかく明るい蓮實重彦、という五つの観点を提示して全体図を構想しつつ、自分の関心に繋げながら関連文献を読んでいる最中だという。著者も「天の邪鬼」だと言う通り蓮實の形容としてはそれが似つかわしいと思う。

田巻秀敏「『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと」、貨物船旅行エッセイを自費出版した作者がその準備として無線資格を取ったり、本を書店においてもらうための営業の手順がめちゃくちゃしっかりしててすごい。「丁寧に記された体験には小説に劣らぬ物語がある」、という信念も良い。

オルタナ旧市街「完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)」、アメリカで出会った全てに準備万端なリー・リーという人物をめぐる小説ともエッセイともつかぬ文章で、準備と予期し得ない巨大な出来事911について語られる。タイトルと人名に春樹と大江が連想される。

近藤聡乃「ただ暮らす」、ニューヨーク在住の作者がエッセイ漫画にとって準備とは何か、というのを制作工程を示しながらネタのために暮らしたり無理やりネタを探そうとするのではなく「少しだけ準備中の気分でただ暮らす」というあり方に求める。911が話題に絡むところは一つ前の作品と同様でそういう並びかな。

橋本義武「準備の学としての数学」、最初に触れたように現代数学において最も大きな準備を行なった人物としてアレクサンドル・グロタンディークを挙げ、明確な目的なき準備としての数学という観点から語られるエッセイで、半分開かれたものの準備だからこそどこか未知の場所へ行けるのではないかとも説く。

わかしょ文庫「八ツ柳商事の最終営業日」、ある会社の最終営業日での催しの幹事を任された新入社員が幹事は必ず流血するという不穏な話を耳にして、という短篇小説。完璧になされた準備は必ず予定された結末を招き寄せる。なんか『予告された殺人の記録』を思い出した。

柿内正午「会社員の準備」、労働の準備つまり社会性の一端としての洗顔から始まり、代わりに読むという言葉から分業に繋げ、プルーストなどを引きつつ話を近代社会への問いにまでスケールアップさせていく批評的なエッセイ。本書で一番「批評」っぽいのはこの文章だと思う。

海乃凧「身支度」、中学の友達からの久しぶりのメールを受け取った朝の出来事を描く短篇小説。長袖が隠していたものをめぐる過去の悔恨と身支度とマスクが隠すことで維持される社会性の話かも知れない。

太田靖久「××××××」、読み方が分からない中華料理屋の名前についての短篇小説かエッセイか、と思ったけどやはりこれはエッセイか。検索はしていない。リアルの出来事についてあえて検索せずに自力で思い出したりしたいということはある。突発的事態には準備ができない一幕。

佐川恭一「ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会」、犬の話かと思えばほとんどパワーストーンの話をしているしア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会がいったい何の大会なんだかまるでまったく何一つわからないままだった。

鎌田裕樹「オチがない人生のための過不足ない準備」、書店員から農家の見習いとなった著者が農業とは過不足のない準備だと言われた話とともに、精神病患者の集う家での「寛解」概念を知り、迂回もまた経験なのだし「準備をしても期待はしない」というゆるくとった態度を志向する。

毛利悠子「思いつき」、コンビニ帰りに飛行場で大阪に飛んだ経験をもつその場のぶっつけ本番での制作を旨とする美術家のエッセイで、国外での制作がコロナで厳しくなったけれどもリモートを駆使して周到な準備を行なうことで例年以上に展示の機会を得た顛末。計画的な遂行はしかし物足りないと言う。

友田とん「雑誌の準備、準備としての雑誌」、編集長による発刊趣旨ともいえるエッセイで、ユーモア、試行錯誤、関心空間の接続といったものを束ねて「公園」と呼ぶ趣旨は既に触れたけれども、類似を見出す数学の経験が今に生きていることなどの迂回、隣接、類似への注視は非常に後藤明生的。この雑誌に何故後藤明生小特集があるのかがよくわかる文章にもなっていて、まあじっさい後藤明生のことが出てくるわけだけれど。「果てしなく目下準備中である」というフレーズがなんともこの雑誌らしいとも感じる。


後藤明生小特集」
連載企画と言うことで毎号載るらしい特集。歩くこと、怪談、政治性、回想と失せ物、色々な側面から後藤明生を読んでいて、それでいてそれぞれの原稿が響き合う箇所もしばしばあり、このなかだと自分のゴツゴツした原稿も全体の硬軟のバランスに貢献できてるかなと思える。

haco「日常と非日常の境界線」、後藤明生「誰?」を起点にしていつもは自転車で通り過ぎるだけの近所を自転車から降りて歩いてみることで日常と非日常の境界を越えてみようとする、歩く小説としての後藤明生追体験。「日常は、見方を変えれば非日常にもなる」という帰結も後藤的な感触。

蛙坂須美「後藤明生と幽霊」、怪談作家が『雨月物語』の現代語訳と『雨月物語紀行』を題材にしたもので、後藤の論から時代の通念に抵抗するものとしての幽霊像と、喜劇と怪談を変換する文体についてを読みとるもの。「こと移動を書かせたら、後藤明生の右に出る者はそうおるまい」という一文がいい。しかし上田秋成の筆名の「和訳太郎」はすごいセンスだ。後藤明生訳の『雨月物語』はなかなかすごくて、長い文章を上手く切って連ねていき、とても明快で読みやすくリズムが良い。文中での雨月を元ネタにした小説があるのか、という疑問については、『首塚の上のアドバルーン』が作中で触れている。そのほかはどうだったか。『笑いの方法』も触れている箇所がある。

友田とん「後藤明生が気になって」、坪内祐三の小島論を思わせるタイトルで、後藤明生ゴーゴリ風の描写を散りばめてるなと思ったら「八等分」で笑ってしまった。八等官じゃないか。失われたものの探索で『挾み撃ち』を踏まえながら、まさに後藤明生を読みながら後藤明生を書いているエッセイ。後藤明生を知らなくても興味深いんだけど、後藤明生ゴーゴリなどの作品のパスティーシュにもなってて、読むと言うことが書くと言うことと表裏一体になっているメタ的な仕掛けは作者らしい。

自分の原稿についてはこちらで触れた。
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall


コバヤシタケシ「dessin (1)」、本誌デザイナーが描くデッサンとエッセイ。美大受験で落ちた経験があるものの、子供や妻がデッサン教室に通い始めたのを見て、別に自分も今から始めれば良いのではと始めたことと、自分の名前にまつわる嫌な記憶をカタカナ書きにするという新しい始まりの話。

「2021年に読んだ本」コーナーはそれぞれ興味深く読んで、読もうと思っていたもの、気にはなっていたもの、買ってあるもの、買おうと思ってるもの、全然知らなかったものなどいろいろあった。参考にしたい。記事投稿当時ジュンク堂書店池袋本店でフェアをやっている模様。私は梁英聖『レイシズムとは何か』とエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』について書きました。こんなフェアが開催されるのか、妙に注目度高くない?って思ってる。

毎ページに入っている佐貫絢郁の絵は具象抽象さまざまなスタイルで描かれており、美術家のページだとアルファベットを使ったスタンプみたいなのをじっさいに制作したのかなと思わせる。しかしこれとあわせて同じページが二つとないのは組版飯村大樹の労力が偲ばれる。


とりあえず一読したメモ。編集長自身が知っている人だけではなく、寄稿者からも情報を募って集まった多彩な書き手が混在する妙な空間の末席から、へえこんな感じなんだと面白くその場の空気を体感している。

『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました

「可笑しさで世界をすこしだけ拡げる出版レーベル」とうたった一人出版社「代わりに読む人」から出る雑誌、『代わりに読む人0 創刊準備号』に寄稿しました。文学フリマで先行販売されましたけれど、書店発売は六月十日とのことです。

連載小特集「これから読む後藤明生」に「見ることの政治性 ――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」という十枚程度の小論と、「2021年に読んだ本」のコーナーにエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』と梁英聖『レイシズムとは何か』の紹介を書いています。

後藤論の副題は依頼文での提案をそのまま持ってきたもので、面白い視点でしたのでそれに答えるように書きました。後藤明生の読まれ方についての話をしながら、七〇、八〇、九〇年代の後藤をざっと素描したものにもなっているかと思います。

読んだ本のコーナーでは、最初に選んだ時点ではそういう考えではなかったのですけど、饒舌な語りと脱線、日本と朝鮮という二つの点で後藤明生ともリンクするものとなってます。
以下目次を転載。

【目次】

◎特集「準備」
二見さわや歌……行商日記
陳詩遠……………解凍されゆく自身とジュネーブ近郊の地下で起こっている乱痴気騒ぎについて
小山田浩子………バカンス
伏見瞬……………準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彥論」を書くことになったか
田巻秀敏…………『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと
オルタナ旧市街…完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)
近藤聡乃…………ただ暮らす
橋本義武…………準備の学としての数学
わかしょ文庫……八ツ柳商事の最終営業日
柿内正午…………会社員の準備
海乃凧……………身支度
太田靖久…………××××××
佐川恭一…………ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会
鎌田裕樹…………オチがない人生のための過不足ない準備
毛利悠子…………思いつき
友田とん…………雑誌の準備、準備としての雑誌

◎「2021年に読んだ本」
近藤聡乃/太田靖久/佐川恭一田巻秀敏/柿内正午/蛙坂須美/小山田浩子/二見さわや歌/オルタナ旧市街/伏見瞬/東條慎生/海乃凧/陳詩遠/鎌田裕樹/わかしょ文庫/haco/友田とん/コバヤシタケシ
◎連載・小特集「これから読む後藤明生
haco………………日常と非日常の境界線
蛙坂須美…………後藤明生と幽霊 ──『雨月物語』『雨月物語紀行』を読む
東條慎生…………見ることの政治性 ——なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?
友田とん…………後藤明生が気になって

◎コバヤシタケシ…………dessin (1)
◎執筆者略歴
◎編集後記

◆装画・挿画・ロゴ◆
佐貫絢郁

◆制作◆
装幀・コバヤシタケシ
組版・飯村大樹
校正・サワラギ校正部
印刷製本・シナノ印刷株式会社

雑誌の内容詳細は以下のリンク先を参照して下さい。
www.kawariniyomuhito.com

社主友田とんさんは後藤明生に私淑する書き手で、作中でしばしば後藤明生オマージュが仕込まれていますし、後藤明生小特集も連載という通り毎号行なう予定とのことで、後藤明生リバイバルに繋がる場に呼んで頂いたのは光栄でした。