コナン・ドイルの本とコティングリー事件本

岡和田さんにドイル『妖精の到来』を恵贈されたので、ついでにと氏の編集する「ナイトランド・クォータリー」の増刊号を読み、他にドイルの積んでた小説を幾つか読んだのでまとめて記事にしておく。『失われた世界』と『妖精の到来』は去年読んで一度ブログ記事にまとめたけれど、本当は増刊号などもまとめて一つの記事にしようとしたのに時間がなかったために中途半端なものになってしまったものなので、最初の二冊は過去記事とも同一文章。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』

ホームズ三つ目の長篇。濃霧が立ちこめ、底なし沼や荒れ野もあるダートムアという土地を背景に、バスカヴィル家の当主が急死したそばに巨大な猟犬の足跡があり、二百年前から伝わる魔犬伝説がにわかに真実味を帯びて、という怪奇ホラーの雰囲気に満ちた作品。特に人気のあるものらしくなかなか面白い。

ホームズ長篇といえば話のなかで別の物語が始まる二部構成の印象があったけれども、ロンドンとダートムアという舞台転換はあれど本書ではそこまで明快な分節はない。多忙なホームズをおいてワトスンが一人現地捜査に乗り出す状況は良い感じに心細さを煽ってくる。ホームズと再会するところでは大長篇でドラえもんが出てくるところみたいな安心感があり、なるほどヒーローの貫禄。内容を知らないときに「犬」と聞いて子犬みたいなものを想像したけれど、原題はハウンドとあるように猟犬、あるいは魔犬というほうが内容には見合っている。

繰り返し映画化されたというのは二部構成でないストレートな進行だからというのもありそう。しかし光文社文庫版訳者解説ではロビンソン代作説もあることを示唆しながら慎重な触れ方をしているけど、島田荘司のエッセイでは代作説を完全に前提にしていてなかなかの温度差がある。

アーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズ最後の挨拶』

1908年から1913年に発表されたホームズ隠退前の事件と、1914年8月の第一次世界大戦開戦の渦中60歳前後になったコンビがイギリスのために活躍する1917年作とを収める第四短篇集。

「瀕死の探偵」はほんとホームズらしくて笑える。「瀕死の探偵」もそうだけど、「ぼくが犯罪者でないというのは、この町の人たちには幸いだな」とか、危険薬物を自分たちで人体実験するバカみたいな場面のあと「ぼくらは、毒なんか使うまでもなく狂ってたのかもしれないな」とかなかなか面白い。

グロテスクさから恐怖はほんの一歩だという「ウィステリア荘」や、恐怖に歪んだ死に様と未知の死因が不安を煽る「悪魔の足」などのホラー系統のものや、死体の発見場所のトリックなど推理小説らしい展開「ブルース・パーティントン型設計書」なんかも印象的。

さっと読んで面白いけどあんまり書くこと浮かばないな。でもこのレトロな時代背景とキャラクターの強さでもっとずっと読んでいたいと思える作品で、未読はあと『恐怖の谷』と『事件簿』だけか。

『ナイトランドクォータリー増刊 妖精が現れる!』

同社のドイル『妖精の到来』や青弓社の『コティングリー妖精事件』と連動した企画で、コティングリー事件や妖精にまつわる様々な記事や複数の現地訪問記のほか、妖精テーマの小説作品が和洋どれも面白くて読み応えがある。

『妖精の到来』は既読だけど最近の新事実を踏まえた論考があるらしい青弓社本は読んでないので、井村君江の所持しているエドワード・ガードナーの鞄から発見された文書がどういうものなのかは分からないけれど、本誌には青弓社本から漏れたガードナー自身の文章が訳載されている。30頁超の長文のガードナーの原稿はドイル本の別視点という感じで事実関係を述べたところはなるほどなとは思うけれど、やはり途中から神智学、心霊主義の正当化のロジックが強くなってくるな、というドイル本と似た味わいがある。写真を広めた当事者の貴重な証言ではある。

そのほかに面白いのは、2018年にコティングリーを訪れた旅行の参加者ら五人ほどがそれぞれに現地訪問記を執筆していることで、建物裏手の小川(ベック)を写した、画角は違えどほぼ同じ写真が複数枚載っていて、同じ事態をそれぞれ別の視点から語っているのが読めること。コティングリーやリーズ大学のコレクションなど、複数視点の叙述で見てるものの違いなどより立体的にわかることというのはあるにしろ、妖精という現象は見えるか見えないかという視点の差異による違いが大きな特徴でもあるわけで、この複数筆者というのが妖精テーマの一環にもなっていると思う。

創作では、タニス・リー「エルフの眷属」は人間の子供を攫う妖精と母子家庭の姉弟の物語で、あちらの世界と取り引きをすることで富を得る代わりに、という異界との関係が描かれる。苦しい境遇のなかにあって妖精物語が求められる理由を描いたような物語にも思える短篇。

パトリシア・A・マキリップ「ウンディーネ」は、扉に載った『ヒュラスとニンフたち』という妖しい絵に着想を得たものらしく、人間・定命者をかどわかして水に引きずり込むニンフが逆に現代の地上に招かれ汚染された川の保護運動に駆り出される皮肉でユーモラスな現代妖精譚。

フーゴ・ハル「鈍色の研究」は、ホームズがドイルの妖精本を批判的に検証するという大変愉快なパスティーシュメタフィクションになっているだけでなく、得体の知れない著者の出くわしたオレオレ詐欺が虚構と事実というテーマにも絡み、何が事実かという現代的な問いにも繋げている一作。ホームズ自身は以下のように言っているのを読んだばかりなのでことに面白かったしこういう企画もの雑誌の場を生かした快作だなあと思った。

「まず初めに、人間の世界に悪魔だか何だかが手出しをするなんてことを、ぼくら二人とも認めるわけにはいかない。そんな考えはきっぱり頭から追い出すこと、それをはっきりさせるところからスタートしようじゃないか」、ドイル「悪魔の足」、光文社文庫シャーロック・ホームズ最後の挨拶』146P

ジェフリー・フォード「イーリン・オク一代記」、浜辺に作られた砂の城に居を構え、崩れるまでのあいだだけ生きる妖精の短い生涯を描いたもので、淡々としながらもそこに確かに十全に生きた人生を感じられる、小さいものに大きな存在感を見出す視点がことに印象的な一篇。ラファティの「スロー・チューズデイ・ナイト」をなんか思い出す。新訳とのことだけど既訳は未読。

石神茉莉「左眼で見えた世界」、取り替え子ものテーマで、左目と弟を妖精に奪われた少女がかわりに弟のフリをしたおじいさん妖精と妖精を見る目を手に入れる。妖精事件を踏まえてカメラが出てきたりしつつ、少女の一人称で異界に半歩足を踏み入れ帰ってくる経験を描いている。

高原英理「縞模様の時間」、〈精霊語彙集〉という連作に属するけれど私はこれが初遭遇。ポストモダン思想華やかなりし頃の学者と関係があった語り手が、詩を一つも文字に残さず死んだ詩人の録音を求めて寺に向かう、という話で妖精は出てこないけれども現実と縞模様を形作る異界を垣間見る話。妖精にまつわる記録や異界という西洋的なテーマを妖精を用いず、仏寺を絡めて東洋的な解釈を通して描くようなアプローチになっていて、それは件の学者がポストモダン思想の輸入と紹介を行なう哲学者だったことにも示されている。同作者の芸術家小説で『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』と通じるのは、八〇年代の裏面史の要素で、ポストモダン・オカルティズムとでもいうような雰囲気がある。ちょっと三輪太郎『あなたの正しさと、ぼくのセツナさ』や倉数茂『名もなき王国』あたりを思い出したけど時代がやや違うか。

マンリー・ウェイド・ウェルマン「取り替え子」、アメリカの作家による文字通りの取り替え子、チェンジリングものの短篇で、死人が続出している小さな町で疑惑の家族のなかに花を贈る子供がいるけれど、死者の傍らにはつねにその花があった、という怪奇よりの解釈という印象。

妖精テーマの文学のガイドやコティングリー事件にまつわる小説の紹介、コティングリー本の立役者による背景事情のエッセイ、映像面からのアプローチなどもあり非常に充実した一冊。ただ校正が甘いのが惜しい。多くの記事に助詞やら一字脱落してたりする箇所がある。