加藤聖文『海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」』

1945年の敗戦によって一挙に植民地を失い発生した数百万の日本人の引揚げをめぐって、その総体的な研究を試みる一冊。和文、欧文、露文、中文等関係各国の資料を使った国際政治的な引揚げ過程の研究と引揚者の記憶の歴史を描く。敗戦時に六百万を超える在外日本人がいたものの、本書の対象は敗戦を期に引揚げが始まった三百五十万近い民間人に限定されており、軍人と敗戦以前から引揚げが始まっていた南洋、東南アジアは対象外となっている。

前半では各地域ごとの引揚げの国際関係を絡めた背景を叙述し、後半では引揚げの歴史認識や慰霊碑の様相を通した記憶の歴史を問う構成になっている。特に、引揚げと言っても一面的ではなく、ソ連、中国、アメリカとその植民地にどの国が来たかによってかなり状況が異なる点へ注意を促している。

敗戦後、日本政府は当初住民の現地定着方針を指示していた。しかし国際的な状況の変動のなかで日本政府は受動的な振る舞いが目立ち、引揚げがアメリカの協力もあって予想よりも早く完了できたために、そうした日本の不作為や見通しの甘さが検証されずに来ていると指摘されている。満洲開拓民の慰霊碑にはしばしば「拓魂碑」というものがあり、これは当の満洲移民政策の立案者で悲惨な事態の原因にほかならない加藤完治の命名と揮毫によるものだという驚くべき話がある。どちらも加害者の責任が曖昧なまま問われずにいるという点については同様だ。

その悲劇と怨嗟の象徴ともなるべき『満洲開拓史』には、戦前における満洲移民大量送出を実行し、その悲劇の責任をもっとも負うべきであるはずの加藤完治をはじめとして満洲移民政策の遂行に直接関わってきた官僚が多数編纂に参画し、満洲開拓政策そのものの批判的検証が試みられることはなかった。すなわち、入植計画の杜撰さや半強制的な移民割当、省益優先の場当たり的な対策など満洲開拓政策が抱えていた本質的な問題は、敗戦時の悲劇によってすっかり覆い隠されてしまったといえよう。そして、この書の刊行以後、府県や開拓団、義勇隊ごとに編纂された開拓史もほぼこうした歴史観に沿ったものとなっていった。こうして、開拓団員の怒りの矛先が巧みにかわされていったまま、悲劇性のみが強調されていったのである。167P。

同様のことを引揚げの歴史全体についても指摘している。

戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。2P

戦後引揚者が冷遇されると同時に1990年代まで引揚げ研究がほとんど行なわれてこなかったのは、冷戦構造に囚われ「反共」の材料として政争の具とされていたこと、さらに植民地研究は日本の「加害性」を明らかにすることが主流だったため、被害者性の強調はそれを曖昧にする点があったことなど、さまざまな政治的背景があったことを指摘し、今ようやく政治問題ではなく「歴史として客観的に検証すべき段階に入った」と最初に著者は言っている。しかし、元々政治が絡むために史料閲覧が容易ではなかったロシアの絡んだ歴史研究は今よりいっそう困難になったのではないか……。


満洲引揚げの悲劇性が強調されることでソ連への反感が強まり、戦後日本の政治的傾向に影響したという見方や、戦勝国なのに日本の戦争犯罪を曖昧にせざるを得なかった政治的状況を見落として蒋介石の以徳報恩演説を温情としてばかり見る感傷的な態度が見受けられることへの指摘なども重要だ。

さらに、沖縄戦や広島長崎の犠牲者については国を挙げて慰霊祭が行なわれているのに、満洲引揚げの犠牲者は約二十四万五千人と数の上で言えばはるかに多いにもかかわらず共同体の記憶から弾き出されてしまった。日本国内最後の地上戦としての樺太が忘れられていることも、共同体の記憶の象徴となる慰霊碑の歴史をたどりながら論じている。

 しかし、こうした引揚者の無念を刻んだ記念碑が訴えるのは、あくまでも同じ日本人を対象としたものであって、その他の民族を対象としたものではなく、また記念碑に刻まれる人びとも日本人のみであった。ここからはじき出されたサハリン少数民族の記念碑は、帝国という記憶をたやすく忘れ去った日本人と戦後日本社会への告発である。また、浮島丸の慰霊碑も同様の意味を持っている。
 海外引揚は、単に日本人だけの問題ではなく多くの民族を巻き込んだ一大社会変動であったが、こうした視点は戦後日本において完全に欠落してしまった。引揚者は自らのことのみを語り伝えようとし、対する日本社会は彼らの存在も歴史も忘却し引揚という歴史的事実を顧みることはなかった。そうしたなかで、海外引揚をめぐる記念碑は、戦後日本社会のなかで忘却されていった大日本帝国の歴史をかろうじて伝える記録であった。しかし、その記録も関係者が減少するなかで社会から忘却されつつある。200P

と、少数民族ウイルタのゲンダーヌの事跡を通じて指摘しており、それ故にこそ「単なる悲劇の検証にとどまらない日本の脱植民地化の姿」4Pを検証することが必要だというわけだ。

終章は東アジアや世界史のなかでの脱植民地化について触れていて、中東欧で起きた移住、住民交換、ソ連強制移住などの「脱混住化」に対して、北東アジアでは朝鮮半島、中国・台湾でのように同一民族が別の国家に分断されていく点に大日本帝国崩壊の影響を見ている。第二次大戦後、欧州でも植民地を抱えていた国における植民地支配についての歴史認識は揺らいでおり、さらに引揚者の悲劇や苦難に焦点を当てることで植民地支配の相対化や肯定などのバックラッシュは2000年代以降に顕著になっているのも国際的な流れとしてあると指摘されている。

多民族国家としての大日本帝国を忘却して単一民族国家としての被害の物語ばかりが記憶されていく状況において、その加害と被害が引揚者ごと共同体から弾き出されてしまった引揚げについての研究はやはり重要な意味がある。帝国の忘却と単一民族国家という幻想はアイヌ朝鮮人をはじめとする日本の差別とも密接な関係があるように。

収録に際し削除や加筆がされているけれど本書収録の論文は幾つかネットでも読める。
「引揚げ」という歴史の問い方(上)
「引揚げ」という歴史の問い方(下)
ソ連軍政下の日本人管理と引揚問題 : 大連・樺太における実態

読書人の書評では研究の限界についても指摘がある。
海外引揚の歴史化の新たな試み 読書人WEB


以下は特に整理してないメモというかほぼ抜き書き。

具体的には、イデオロギー対立である米ソ冷戦が南北朝鮮や南樺太からの引揚、または同じイデオロギー内部での対立である中ソ対立が大連からの引揚、中国の正統性をめぐる国共対決をめぐる国際政治の複雑さが満洲や中国本土・台湾からの引揚に影響を及ぼした。しかし、日本国内は実質的に米軍の単独占領下に置かれたため、国内の日本人は引揚者と異なり、複雑な戦後国際政治を直接体験する機会がなく、結果的に引揚者との意識ギャップが戦後認識に大きな影を落とすことになる。
 そして、こうした日本人間の意識ギャップは戦後復興のなかに埋没し、引揚問題は関係者の体験談のかたちでのみ語り継がれることとなった。だが、戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。しかし、現在の日本と東アジアとの関係は、戦前と戦後を断絶したかたちで捉えるべきものではなく、植民地・占領地という要素を欠いては成り立たないのである。2P

●第一章 引揚問題の発生
GHQ主導で南朝鮮、太平洋からの引揚げが実施され、日本政府は政策の実施機関としての役割しか与えられなかったこと。36P
戦後処理が外交専権事項だと思っていた重光と、全的な裁量がいると考えた緒方との政府の内紛。
国際情勢に対する無感覚と受動的態度は日本政府の政策余地を狭め、最終的に米国主導で引揚体制が構築され、日本政府は受動的な立場でしかかかわれなくなる。39P
満州の総司令がソ連軍に拘引され、居留民保護の司令塔が不在になった。
対中政策の転換にともない、アメリカ船舶の引揚げ貸与が実現し飛躍的に進んだ。

●第二章 満洲引揚げ
ベルリン陥落でのソ連軍の行状の情報があるにもかかわらず、現実を直視せず、居留民の現地定着を支持する。
ソ連は無関心で、国際的に認知されてない中国共産党は外交には関与できず、東北での支持基盤が脆弱な国民党政府は具体的な行動を起こせず、在満日本人の引揚げを取り仕切る政治権力が存在しなかった。64P これが満洲引揚げの悲惨さの一因で、スナイダー『暴政』の解説で指摘されていることを思い出させる。
ソ連軍の暴行略奪などの悲劇性が強調されることで、戦後日本において革新勢力の伸長を妨げたとの著者の見方がある。

●第三章 台湾・中国本土の引揚げ
平穏な終戦
満州や朝鮮では日本人自らが引揚げ組織を作るほかなかったけれど、台湾では総督府が健在だったのと方面軍が折衝に当たったこと、そして台湾社会が混乱する前に引き揚げられたことで、自分たち主体で生き残りを図る必要がなかった。86P
無傷の支那派遣軍は徹底抗戦を主張したけれどポツダム受諾を受けて降伏準備を始めた。しかし武装解除において、弱体の軍に対して降伏する抵抗感、国民政府の低い治安での武装解除に抵抗を示している。88P
中国各地に集められた日本人は食料も支給され引揚げ実施も早かったため、さしたる混乱もなく、一方で技術者の留用が積極的に行われた。96P
台湾引者には旧総督府官吏が多く、経済界との結びつきが強く、戦後関係者の活動に恩恵をもたらした。そして実質的に一つの国だった台湾を対象にした協会は、外交関係にも深く関与する背景となった。98P
蒋介石の以徳報怨演説や日本人への対応が戦後の蒋介石神話の形成を促し、親台派のバックボーンとなり戦後の日台関係に影響を与えた。

●第四章 ソ連と引揚、大連、朝鮮、樺太
北朝鮮残留日本人問題は、ソ連内部の構造的問題が絡み、状況が深刻になっても迅速な対応ができないというジレンマに陥っていた。113P
避難民の増加と三十八度線の封鎖によって、狭い領域で飢餓状態に陥った。咸興では二十パーセントの死亡率を出した。115P
公的に日本人送還の決定がなされず、技術者などを除けばソ連軍にとって救護されるべき存在となる一般市民を抱えておく必要はなく、日本人の南下脱出は黙認という状態になっていた。
二十五万人が北から脱出し、二万五千人が途中で死亡したと推計されている。117P
南樺太へのソ連人の移入は、ウクライナからが多い。独ソ戦でのウクライナの荒廃の影響か。
南樺太朝鮮人は日本人帰還による労働力不足を補うために残留させられ、南朝鮮出身者の多かった住人も、朝鮮半島の南北分断によって政治的に帰還不可能となった。122P

●第五章 救護から援護へ
引揚げ女性の性病や不法妊娠に対応するための民間団体の活動。国家主権を失った日本に代わって民間団体が官民協同のネットワークを生かしていた。
外地からの食糧移入に依存していたため、戦後は国内で農地を確保しなければならなくなり、開拓事業を拡大するなかで、満州開拓団員が積極的に採用された。そのため食糧政策ではなく引揚げ援護対策の性質を持ち、急な選定で開拓適地ではないところに入植させて失敗した事例も多かった。144P
引揚者の生活権利や保証を優先したため、植民地支配への問いは後景に引いた。148P

●第六章 満州引揚者の戦後史、歴史認識
保守政権は歴史問題に概して冷淡だった。
満史会の開発史の非イデオロギー的な歴史叙述。援護会による満州国史イデオロギー的な叙述。
政府は植民地への賠償問題を恐れて、開発したインフラによって賠償に代えるためにも植民地近代化論を強調した。
林房雄大東亜戦争肯定論や中国韓国への賠償放棄が確定し、政治的にためらう必要がなくなったことで満州国史イデオロギーを前面に出すことが可能になる。161P
戦後関東軍関係者があまり語らなかったため、満州のマイナス面はもっぱら関東軍の責任とされた。また、ソ連や中国で中途半端に裁かれたため、その責任問題もあいまいなままになった。164P
満州に対する歴史認識は、戦後歴史学の裁断に対する当事者の反発にもつながったけれども、後者もまた特定の抽象性の正当化に終始した。

●第七章 記念碑に見る表象
戦前の日本が広大な植民地帝国だったことの忘却について。
外資産補償要求運動に対し、満州引揚組は在外資産などなく、国家による慰霊と顕彰の要求が強かった。
南樺太講和条約ソ連が調印しなかったため帰属不明の土地のままになっており、返還の可能性をもった場所で、ほかの外地引揚げ民との違いがある。
満州引揚者にとって慰霊碑は過去を振り返り死者を慰霊するものだが、樺太引揚者にとっては過去だけではなく、現在と未来を見据える希望でもあった。192P
ウィルタニヴフといったサハリン少数民族の慰霊碑は北海道に局限され、その記憶も日本全体の共有事項とはならなかった。

●終章
東アジアの脱植民地化の一例としての日本。現地民による抵抗ではなく、突発的な事態としての脱植民地化。
2000年になってもくすぶる中国残留日本人問題。

薄い本を読むパート3

薄い本を読むパート2 - Close To The Wall
一年おきにやってる気がするこれ、三回目。今回は厳密ではなく本文200ページ前後、とややゆるめに選んだ20冊。冊数も記事も分量が増えて行っている。

フリオ・ホセ・オルドバス『天使のいる廃墟』

スペインの作家による中篇小説。自殺者がやってくる廃墟の村パライソ・アルトへやってきた語り手が、ある心変わりによって自殺者を見送る「天使の務め」を果たすようになり、さまざまな人たちの最後の話を聞いていく。自殺者を描きながら晴れやかな雰囲気に満ちた奇妙な物語。天使の務めとは自殺を思いとどまらせることではなく、ただ話を聞き最後のちょっとした頼み事を頼まれるというようなものになっていて、訪問者の話も切迫した陰鬱さというのとはまたちょっと違う。

死なんて、ひとつ隣の家を間違えて訪ねようなものでしかないんじゃないですかね。110P

と言うように。「この胸の痛みほど人生で愛おしいものはない」という繰り返される歌のフレーズがあるけれども、だからといって自殺を否定するわけではなく、生の賞賛も死の否定もしないような描き方になっている。生から死への途上の場所、現実と幻想のその中間地点、そういう灰色の領域だ。見送っている語り手の元に最後にやってきた人物は元恋人のアンヘラつまりAngelということは最後に見送られるのはそもそも自殺しようとして村にやってきた語り手だったのだろうか。そこは明確にならずに終わっている。天使もまた天使に見送られて、という締めだとは思うけれども。

日本では優しいファンタジーとして受け取られてる印象だけども、キリスト教の自殺の禁忌があるとまた違った意味がありそう。スペインでどれだけそれが強いかはわからないけれども、その禁忌がもたらす抑圧や遺族のダメージを和らげようとして書かれた可能性を考えている。天使というキリスト教的なイメージを使っているのはそのためではないか。穏やかな作風には案外闘争的な側面があるんじゃないか、と思っているけれどもどうだろうか。登場人物では、逆立ちで現われて首から血を吸う吸血鬼みたいな少女が印象的で、逆立ち、コウモリの真似かよって思った。

ミルチャ・エリアーデ『令嬢クリスティナ』

ルーマニア宗教学者にして小説家エリアーデの最初の幻想小説と言われる長篇。ルーマニアのある村に滞在する画家と考古学者は、その貴族の館で不気味な怪奇現象に見舞われるようになり、それには十数年前の農民一揆で二十歳前に殺された令嬢の影響があるようで、という怪奇幻想小説

吸血鬼ものというかゾンビものというか、死んだはずの人間が若い男を欲するあまりに現世に侵食しつつある異様な雰囲気が立ちこめており、過去と現在、異界と現実が重ね合わされるような描写は「一万二千頭の牛」での異なる時間の重ね合わせを思い出させる、著者通有のものだろうか。結構ストレートな恐ろしくもエロティックな幽霊譚という雰囲気だけど、一等印象的なのはやはり九歳のシミナだろう。クリスティナの影響を受けて底が知れない雰囲気があり、ある時には画家にキスがヘタねと言い放ち、靴にキスさせて、ここには鞭がないのと嘆くこのサディスティックな振る舞い。幼いシミナのエロティックな場面を描いたことで非難を受けたというのもなるほどなと思わせるものがある。石川淳の「鷹」のラストを思い出した。貴族の一族が滅ぼされる結末は、過去の農民一揆の貫徹によるんだろうけれど、何故そこまでこの一族が疎まれているのかちょっとわからないところがある。

夜と月、すみれの匂いが雰囲気を盛り立てている幻想譚。サキュバス的なイメージがあって、締め方も含めてちょっとミソジニーな印象もある。ミハイ・エミネスクの詩の引用があり、金星ルチャーファルというのはなるほどルシフェルか、と。

フランツ・カフカ『変身』

チェコプラハのドイツ語作家の中篇、角川文庫の川島隆による新訳。カフカ詳しくないけどすっきりしてて良いと思う。長文の解説も丁寧で、本篇では冒頭の貴婦人の絵が中盤で固守するものだったところや、ラストシーンでグレーテの身体を強調する倒置法になってるところが再読して印象的だった。厄介な虫も消えてラストは妹の結婚を考える将来の明るさという風に覚えてたけど、妹の若々しい身体にそれを見出しているところは失念していて、倒置法でそれを強調することでグレゴールの虫と化して埃まみれで傷つき死んでいく身体との対比が鮮烈になっている。

古典新訳丘沢訳以来十年ぶりとはいえまあ話は概ね覚えていた感じだけど、仕事に忙殺されて鬱になったら家族から害虫扱いされて死んだらお荷物が下ろせたって感じで家族みんなが喜んでる、という自虐的にもほどがある話で、なんかちょっとゴーゴリ「外套」を思い出す悲哀とユーモアがある。解説では三人の紳士が人間とは思えないと書かれていて、これは学生時代読んだ時にコメディタッチな描写として印象に残っていた箇所だった。紳士は明らかにコメディリリーフって感じ。冒頭出てきて、中盤で人間性の証しとして守ろうとする毛皮を着た貴婦人の絵が、マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』を踏まえたものという説があるらしく、これは結構驚いた。で、持ち去られる毛皮の貴婦人の絵を守ろうとする虫の行動が、絵に股間を押しつけていて自慰だという説もあるらしい。そうすると人間性と性欲の関係が皮肉な形にも読めてくるか。「こっちへおいでクソ虫ちゃん!」の家政婦は印象に残る。グレゴールを看取った人。音楽と人間性、妹のヴァイオリンのくだりはやっぱり悲しいね。

解説が翻訳史や研究史の概説になっててここは最新の研究を踏まえたものだろう。そういえば自分はあまりカフカの伝記等は読んでこなかったので、プラハでの生活の様子や恋愛関係での面倒くささ、特に作品からは父の強権的な印象があるけれども実際はかなり違っていたというのは面白い。そうするとカフカ作品の父親像というのはかなりの部分、カフカ自身の不安や妄想に近いところがあり、じっさいカフカはかなり実務能力もあり有能だったらしいけれど、残された文章には相当自己否定的な側面があって、こうした気質が作品に繋がっている印象だ。恋人に一日に何通も手紙を書いて、返事を催促しまくる面倒臭さのうえに浮気性で色んな女性と親しくなっていくくだりは、かなりメンタルが不安定でさみしがり屋というか依存的というか、不安や被害妄想の強かった人物のようで、そうした根拠のない「不安」が作品化されることでカフカ世界ができている気がする。特に婚約者がいるのに他の女性に面倒な手紙を出し続けた件で婚約者らと話し合いの席を設けられて婚約破棄に至った「ホテルの法廷」事件というのがあり、これは『訴訟』(審判)でKは本当に何も悪いことをしてないのか、という説がありじっさい作中ではKは女性に対して節操がないという指摘がある。

しかし、背景として語られる二十世紀前半、カフカも罹患したスペイン風邪第一次世界大戦での情勢の不安定さや、カフカが亡くなってからのナチスドイツの台頭とドイツ系住民保護を口実にズデーテン地方を割譲させその後チェコ全土を併合、そしてユダヤ人迫害によって叔父や姉妹らが収容所で亡くなり、ブロートがパレスチナへ亡命といった歴史は、コロナ禍でのロシアのウクライナ侵攻という戦時下で、あまりにも「今」になってしまった。

翻訳について、池内紀訳を「大胆な意訳と省略によって劇的に「軽い」訳文を作り出し」154P、と評するあたり、あまり良くは思ってないのかなと思った。池内紀が明るいカフカを押し出したことはまあ功罪あるんだろうな、とは。集英社文庫のポケットマスターピースカフカの巻に川島訳の『訴訟』が収録されているほか、公文書や書簡の抄訳がある。まだ読んでない。

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』

イタリアの作家によるアソーレス(アゾレス)諸島をめぐる掌篇、断片で構成された一冊。幻想的、隠喩的な紀行文だとはじめにことわりがあるとおり、見知らぬ島を虚実のゆらぎのなかで経巡るような不可思議な雰囲気が楽しい。

アルベルティーヌとマルセルという名前が出てきてどうやら『失われた時を求めて』を示唆しているらしい男女の会話や、古い様式を保持している捕鯨に同行した様子、島出身の詩人アンテールの生涯などがたどられ、メルヴィル『白鯨』、ミシュレ『海』などが参照され、そして島の男から聞いたというある陰惨な事件を描く短篇が、重みをもって巻末を締めることでふんわりした雰囲気のある本書全体をまとめる形になっているのが印象的だ。最初の一篇が「手紙の形式による夢」と題されていて、「ただ、そんな夢を見たに過ぎなかったのだ」と終わる。そして「世界も難破しかかっているのだが、だれもそれには気づかない」44Pなんていう一文や、「隠喩としてのクジラ」が本の主題で、リアリスティックな紀行文にはしないというまえがきのように一種夢幻的な雰囲気が漂う。

クジラや捕鯨やらの知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだメルヴィル『白鯨』の逆を行くような断片性があり、切れ切れの男女の会話にプルーストが匂わされているように、あるものを総体的に描くのではなく小さな断片に大きなものを想像させるような方法が、「隠喩としてのクジラ」なのかも知れない。海の下に巨体が隠れているような一つ一つの断片。そういえば、「アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ」には、岩とクジラを見間違えた男と、その男と背格好が似てもいない男と見間違えた女が出てくる。ずっと男のことを考え想像していたからという彼女の言葉は本書においてとても示唆的。

イタロ・カルヴィーノ『ある投票立会人の一日』

イタリアの作家による、戦後イタリアでの投票立会人を描くリアリスティックな初訳の中篇小説。救護院の投票所を舞台に、司祭らが自由意志を疑われる障碍者に投票を誘導している不正に対して共産党員の主人公がささやかな抵抗を示しながら人間と愛について考える。

コットレンゴというその施設は「たくさんの不幸な人たち、身体障害者や知恵遅れの人や奇形のある人たちや、さらにさらに裏側の、知ることをまったく許さない隠された被保護者に至るまで保護するもの」ながら、選挙期間中では「ペテン、誤魔化し、背信行為と同義の場である」(10-11P)。ここで権利を尊重すべき左派政党に属する側が、特定の政治勢力によって搾取されているとはいえ障碍者らマイノリティの参政権を阻止するという皮肉な構図がある。事なかれ主義のように自由意志の確認プロセスを蔑ろにしていく状況に抵抗し、事態を把握してない知的障碍者の投票を阻止する一幕。

彼、アメリーゴは、政治の世界の変化は複雑で長い道のりを経てもたらされることを知っていた。幸運なめぐり合わせでいつの日にかはと期待すべきものではないと。だから彼にとっても他の多くの人たちと同様、経験をつむことがペシミストにならないですむことを意味していた。8P

こうした政治参加の意味を問いつつ、救護院に暮らす人々を目の当たりにし、また自身の恋人との繋がりを考えていくシリアスな政治的小説で、代表的なカルヴィーノ作品からは印象が異なる。その辺、本の半分ほどを占める訳者の三つの評論が文脈を補完している。

知恵遅れの若者がゆっくりとおやつを食べ終えたいま、父と息子はベッドの両サイドにずっと座って、二人とも骨ばって静脈の浮いた手を膝の上に置き、互いに頭を――父親は帽子を深くかぶった下から、息子は徴兵適合者のように丸刈りした頭を――ねじって曲げ、目の端で見つめ合ったままじっとしていた。
 そうなんだ、アメリーゴは思った。あの二人は、ああしてあのままで互いに必要なんだ。
 そして思った。そうなんだ、この在り方こそが愛なのだ。
 さらに思った。人間は愛が届くことで人間なんだ。そして我々自身がつくり出す境界以外に、愛に境界はないのだ。103P

「むずかしい愛」というと作者の別の短篇集を思い出す。括弧や「――」を多用していて入り組んだ文章構造はするっと読めないものになっていて、これは翻訳の問題なのかなと思ったら、元々がそういう「過剰な」文章で書かれているらしい。1953年から63年にかけて書かれ、これ以後通常のリアリズム作品を書かなかったというカルヴィーノ作品の結節点だとも評されている。15の掌篇を連ねたような中篇で、この形式はカルヴィーノらしい感じ。そしてこの作品は「いま、この瞬間、どの街にも「街」がある」と終わるけれども、この「街」は『見えない都市』の都市と同じcittaという単語だと。政治的な作品では「ポー川の若者たち」は未訳か。

カルヴィーノ、まだ五六冊積んでるし評論集をそういやまだ読んでない。『なぜ古典を読むのか』なんてみすず書房版を持ってるのに。訳者の柘植由紀美が評論を載せていた「葦牙」という雑誌、確か文学フリマで見たことあるような、と思ったら幻視社で出展してた時にも出展していて、それで見たことがあったようだ。

スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』

アメリカの作家による中篇小説。アメリカ南部、半世紀ほど前のコネチカット州の海辺の街の夏の夜にさまよう子供や大人たちばかりか、月明かりの下でマネキンも人形も動き出す、魔法のような一夜を描いた作品。ミルハウザー作品でも特に雰囲気特化型の感がある。

訳者あとがきでは原文はhotとwarmが半々に使われているとあり、温度感が伝わる。今のようにだだ暑いわけではなく、暖かな夏の夜、外を出歩きたくなるような時間、一人出歩いて森のなかで裸になったり、三人で図書館に潜入したりというちょっとした非日常の解放的な雰囲気が良い。マネキンや人形が動きだすファンタジーでもあり、そうしたもろもろの醸し出す月明かりの夏の夜の空気は確かに良いんだけど、いささか物足りなさもある。というより、雰囲気を味わうために物語性をあえて除いてる気配があり、まあまあ好みが分かれそうだと思った。何も起こらないわけではないけど特に何かが起こったわけでもない、中間的な空気。グループもあるけど出てくる人はみなどこか「普通」から外れた、居場所を探す人たちで、そうした一人一人が夜の街で対面したりすれ違ったりしてあなたは一人ではない、という呼びかけのようでもあり、月の光でお読み下さいというのは読者もまたその一人として包みこもうとするような仕掛けか。

ミルハウザー入門にと訳者は言うけど、個人的には入門には向かないと思う。私は『イン・ザ・ペニー・アーケード』が初手でこれが良かったから他も読んでるけど、本書からだと他に進むかは疑わしい気がする。読んでいてこの話はアニメなり映像なりで見たい気がした。一つの街で遭遇したりすれ違ったり、同じ場所を別の視点から見たりといった交錯や、幻想的な雰囲気は絵にしたら映えそう。

パーヴェル・ペッペルシテイン『地獄の裏切り者』

honto.jp
ソローキンも属したロシアのモスクワ・コンセプチュアリズムのアーティストにして作家による短篇集で、トンデモ宇宙理論、天国における永遠の生を保証する「慈悲深い」兵器など、奇想SFを通して死を断絶としてではなくどこか楽天的、親和的に描く作風が特色。ソローキンほど壊乱的ではなく、また別の何かに似てるなと思ってたらケネディ暗殺ネタの作品があり、J・G・バラードっぽいところもあるんだと気づいた。死んだピカソを蘇生させる一篇にはロシア宇宙主義のニコライ・フョードロフへの言及があり、死生観の影響はそこか、とも。

最初の「太陽の冷たい中心」が「宇宙の新しい地球中心モデル」というトンデモSF理論から始まる掌篇なんだけど、出てくる固有名がホーキング、パールマンペレルマン)、ジョン・リリー、そしてロジャー・ゼラズニイという並びになってて哲学的SFコントという感じがある。その続きにあたる「黒い星」では、 「アメリカ人たちはこれらの英雄たちに関して 「アストロナウト」という語を用いたが、ロシア人たちは「コスモナウト」という語を好んでいた。どちらもギリシア語の単語だが、二つの単語の違いはそれぞれの志向の違いを正確に記述している」(30P)とあり、アメリカ人は星に魅了され国旗にも星がありスターへの崇拝があったのに対し、ロシアでは闇と神秘を崇めており、星ではなく星々の間の暗いスペースに魅了されたというのがその志向の違いらしいけれど、なかなか興味深い対比だ。これ以外にもアメリカとロシアの対比は本書に多く見受けられる。

自分をアガサ・クリスティー作のミス・マープルの孫だと思いこんでいる女性がスパイ活動を行なう「音」という短篇では、耳という無防備なところから入り込んでくる音の怖ろしさについて語りつつ、周囲の人間がどんどん死んでいく妙な話で、この主人公が殺しているのかとも考えてしまう。

表題作「地獄の裏切り者」は1994年クリミア半島で語り手が自分のまぶたの裏で見た映画について語るという奇怪な形式を持つ短篇で、その語り手の脳内にしか存在しない映画のなかで、米ソ東西冷戦がずっと続いている二〇二〇年代を舞台に、「慈悲深い」音響麻酔兵器の開発について語られる。科学者は無痛で無害の大量殺戮兵器では満足せず、ついには「死後の世界のコピーと言いうる、魂の人工的な不死を作り出したのである――人工の永遠、人工楽園という、ヨーロッパの錬金術師の夢を実現したのだ」(87P)。近年の仮想世界で生きるSFにも近い設定だ。帯にある「音響麻酔兵器」と言う言葉が本文にあったか忘れてしまったけど一つ前の「音」が今作のフリにもなっている。表題は神と天国を裏切った天使に対し、地獄あるいは地上で生まれたものが地獄を裏切って天国に寝返るのを意味し、この生死の反転と米ソ間での裏切りが交差する。

快楽と死については「オルギア」という短篇がまさしくそれで、どこからともなく乱交する大勢の男女が現れ、という怪奇譚。「左右の思想のジンテーゼ」には他の作品にも出てくる「エコ社会主義」という資本と環境の対立をめぐる資本主義の終焉のイメージなどが語られる。環境の武器庫には自然現象だけではなくウィルスもある、と語るアクチュアルなスピーチが展開され、作者のコンセプトが結構素で出ているようにも感じられる。

この世界で無料なのは、夢と広告だけです。夢は欲望の世界と呼ばれています。広告も同じように定義できるでしょう。137P

本物の革命は安らぎの革命、眠りの革命となるべきです。人類の眠りを制限するものは全て――スターリニズムであれ資本主義であれ、学校であれ、幼稚園であれ、工場であれ、強制収容所であれ、オフィスであれ、軍隊であれ、労働であれ――全て呪いを受けるに値します。141P

「サソリの影。ジャッキー・Oの秘密の絵」というケネディ大統領夫人を名乗る語り手によって描かれた絵を題材にして実際に絵を挿入しながら、ケネディを題材にしてロシアの作家によるアメリカへの幻想が描かれたような一篇。

「3111年のパブロ・ピカソの復活」、作者と同名で経歴も似ている語り手の元に、「ニコライ・フョードロフ記念研究所」で行なわれている死者の復活に関する実験に協力しないか、と始まる短篇で、性欲旺盛だけど水も飲めない蘇生したピカソが様々な影響で画風を変遷させていく一年が描かれる。ペッペルシテインのパーヴェルという名はピカソのパブロに由来しているという作中の記述は現実でもそうなんだろうか。芸術家を復活させて作品を作らせるのはソローキン『青い脂』を思い出すけれど、作風は相当違う。新ピカソの絵を挿入しつつ、PPという同じイニシャルを持つ二人が合作に至る交流を描く。なるほどソローキンと同じ流れにあるだけはあるなと思うけどこちらはより落ち着いていて、交流の描き方もなかなか良い雰囲気がある。ピカソは何故か3111年とか言うけど舞台は2016年ということになってる。表題作とこれが本書では特に印象的。

訳者は、「不真面目なユーモアと快楽によって死を克服しようとする真面目な本」と評している。ソローキン、ペレーヴィン、ペッペルシテインでロシアポストモダンの三傑らしく、そういう流れもあるし奇怪なSF小説としても読める興味深い一冊。終末を安らぎに見る作風は今どう読まれるか難しくはあり、さらに戦時下の今だとあまり気楽に読めなくなる気もする。80年代的空気を感じないでもない、と思ったら訳者の人が「80年代のスキゾの亡霊のような本」と言っていた。

作者の代表作『カーストの神話生成的愛』は全二巻の大著で、独ソ戦を幻覚的に描いた小説らしいけど、ソローキンの『ロマン』を思い出した。読んでないけど。結構作品同士で同じ言葉や似た要素が出てくるので、訳書で省かれた短い作品というのがどういうのかは気になる。

イマヌエル・カント『永遠の平和のために』

ロシアのウクライナ侵略を機に読んでみたその一。学術文庫の丘沢訳。読んだことがなかったけど薄めだしざっと読んでみた。冒頭の部分を「平和とは、あらゆる戦闘行為が終了していることであり」として「敵意」という内心に踏みこんでた既訳から変えたことがまずひとつの眼目らしい。そこに空想的な平和論から現実的な計画へという訳者の意図がある。本文に対してはへーという感じで、共和制と連邦主義によって常備軍の廃止に至る平和へのプロセスというか。本文と同じくらいの分量の解説が欲しいね。歴史的意義や現在からの評価その他。まあそれは政治学の本でも読めってことか。

第一章「国どうしが永遠の平和を保つための予備条項」の「その2 独立している国は(国の大小に関係なく)、相続・交換・売買・贈与によって別の国に取得されてはならない」なぜなら国というものは所有物や財産ではないからだ、というのが印象的。

第二章の「国と国のあいだで永遠の平和を保つための確定条項」は「その1 どの国でも市民の体制は共和的であるべきだ」と「その2 国際法は、自由な国と国の連邦主義を土台にするべきである」「その3 世界市民の権利は、誰に対してももてなしの心をもつという条件に限定されるべきだ」で構成。

臣民が国民ではない体制では、つまり共和制ではない体制では、戦争は、浮世で一番お気楽な案件なのだ。なぜなら元首が、国のメンバーのお仲間ではなく、国の持ち主だからである。戦争をしても元首は、自分の食卓や狩りや離宮や宮廷や祝宴などなどを、何一つ失うことがないからである。30P

平和な状態は、民族と民族が契約を結ばなければ、つくり出すことも保障することもできない。――というわけだから、特別なタイプの連盟がぜひとも必要になってくる。それを平和連盟 (foedus pacificum) と呼んでもいいだろう。それは講和条約 (pacturn pacis)とは違う。講和条約が終わらせようとするのは、*ひとつの*戦争に過ぎないが、平和連盟が目ざすのは、*すべての*戦争を永遠に終わらせることだからだ。40P(*内原文傍点)。

「民族」が主体になってるのは英語で言うnationにあたる単語の訳の問題だろうか。しかしNHKの番組で『永遠平和のために』の解説してるのが萱野稔人なのが苦笑してしまう。ヒトラー発言はヘイトスピーチで違法なんでしたっけ。

閻連科『年月日』

日照り続きの村から人々がみないなくなっても、一本のトウモロコシを育てるために残った七十歳の老人「先じい」と盲目の犬「メナシ」が、食糧も水もなくなりつつあるなかで懸命に生き抜き自然や野生動物と戦う、中国の作家による寓話的な中篇小説。犬文学その一。

閻連科は初めて読んだので、この作家にまつわる反体制、禁書の作家という攻撃的なイメージはそんなになくて、ぬくもり、詩情に拠った本作は各国でもほとんど論争的な評価はなかったというのはそうなんだ、という感じだった。限定された状況での老人と盲犬だけの孤独な自然との闘争を描いていて、この二人の関係の親密さや、陽差しの強さが実際に重みとして観測できるという不可思議な設定によるリアリティの描写など、なかなか面白い。ただ、この犬文学の一作、冒頭部分でトウモロコシが栄養のあげすぎで枯れかけているのを見つけた先じいが小便をかけているメナシを蹴り飛ばすシーンがどうにも飲み込みづらい。貴重な食糧を譲り合う無二の関係なのは良いんだけど、そこは気になる。

宮内悠介『黄色い夜』

エチオピアに隣接する架空の「E国」では砂漠のなかに立つカジノタワーがあり、最上階の国王との勝負に勝てば国が手に入るという。中篇の尺に旅、ゲーム、国と言語、精神医療など宮内作品テーマや後期バラード問題などが詰まっているけれど、やや物足りない。

「先進国の人類をトランキライザーの浅い眠りから覚ますのは、たぶん犯罪だ」128P、これ見た瞬間後期バラードだって思って、精神医療と開放病棟といえば火星がそんな感じだった『エクソダス症候群』じゃんと思ったらインタビューでまったく同じ話が出ていた。それはそう。
宮内悠介さん『黄色い夜』 | 小説丸

宮内作品のエッセンスが詰まっているといえるけれど同時にどれも展開しきれてないような印象がある。私が咀嚼できてないだけ、とも言う。色んなギャンブルの仕掛けはエンタメ的に楽しいし、危険地帯を旅する空気感は出てるし、一人しか話せない言語のくだりは良いんだけども。ルイの夢見る「個々の狂気が、ただそこに現存する世界だ」129P、というのはフーコーの言う狂気の「大いなる閉じ込め」の逆をやるという話かもだけどフーコーは読んでない。その意味ではタワー内部は博奕狂いの狂人だらけということでもあるだろうし、言語と塔はバベルだろうか。

『狂気の歴史』は持ってないから『フーコー・コレクション』の一巻開いたら、「狂気は社会のなかにおいてしか存在しない」と言うインタビューがあった。これ、狂気は社会が作る、という意味だと思うけど、これを社会のなかに狂人を共存させる、と読み換えると、という話なのかも知れない。

ヴァージニア・ウルフ『フラッシュ』

犬文学その二。コッカースパニエルのフラッシュという犬を語りの中心に置きながら、その飼い主となったエリザベス・バレット、後にロバート・ブラウニングと結婚する女性詩人の生涯を語る、イギリスの作家による奇妙な伝記。バレット嬢が犬とよく似てると書かれてて写真を見たら本当に似てて笑った。

エリザベス・バレットがどういう見た目なのかを説明するのに、コッカースパニエルみたいな髪型、と言って良いレベルなのでネットで検索して写真が出て来た時に吹いてしまった。

夫人の顔の大きな口、大きな眼と、豊かな巻き毛は、奇妙なことに今もフラッシュの顔に似ていた。別々に分かれてはいるが、もとは同じ鋳型で作られて、おそらくお互いがお互いの中に隠れているものを補い合って完全なものにするのだろう。181P

まあそれはともかく犬視点で血統の高貴さを誇りながら人間がそうではないことを批判する皮肉な語りから始まり、自然の豊かな田舎でミットフォード嬢のもとで育ち、主人とともに散歩しながら歓びのなかで飛び回る幸福な幼少期から、友人のバレット嬢に譲られる巣立ちのもの悲しさが第一章。その後、家から出ないバレット嬢の部屋で暮らし、彼女が心待ちにする手紙の主の男性が訪れた時には噛みついたり、治安の悪い場所でフラッシュを繋げずにいたら犬泥棒に攫われて、家族に反対されても身代金を出して取り戻したり、犬と飼い主とその恋人の関係が描かれる。

エリザベスとロバートの秘密裡の結婚は、何かが起こっているらしいけれどそれが何かは知らない犬の視点から描かれているので、描写をたどっていくとはじめて、あ、これは、となるところがあり、犬の視点での謎解きのようで面白かったりする。二人が結婚し、イタリアへ行って鎖に繋がれなくて良くなったという解放感や、二人の赤ちゃんと仲良くなる犬と子供のちょっとした描写がやっぱり良い。本書は犬の視点を取っているけれど、序盤でバレット嬢の考えが述べられているところは関連したものだろう。

結局、言葉で何でも言いあらわせるのだろうか、と彼女は思ったのかも知れない。言葉は、何かひとつでも言いあらわせるのだろうか。言葉は、言葉の力では言いあらわせない象徴を破壊してしまうのではないだろうか、と思ったのかも知れない。少くとも一度はバレット嬢はそう思ったらしい。48P

終盤の方での以下の叙述は前掲部との応接として書かれているのだろうか。

フラッシュが生活しているのは、たいがいは匂いの世界なのだ。恋は主に匂いである。形も色彩も匂いである。音楽、建築、法律、政治、科学、すべて匂いである。彼にとっては、宗教そのものも匂いなのだ。毎日の骨つき肉やビスケットを食べるというきわめて簡単な経験を述べることも、われわれ伝記作者にはできないのだ。148P。

赤ちゃんとフラッシュの経験の相似性と、それが言葉を得るにつれて乖離していくという叙述が続き、しかしフラッシュの「彼の肉体には人間の情念が流れている」。赤ん坊が言葉を知るうちに、「ものの裸のままの魂が裸のままの神経にふれてくる楽園」(151P)から去り、犬はそこに留まっているかと言えばそれも違うと語られる。ともに長い時間を過ごし、裸のままのものには触れられずとも、同じ感情を共有するものとしての人間と犬。

もちろん犬の視点から描くというのは別の側面を提示することでもあるけれど、よく似ているばかりか情念をも共有するフラッシュを語ることはエリザベス・バレット・ブラウニングを語ることと同じだ、という意味が込められているのかも知れない。

ティモシー・スナイダー『暴政』

戦争関連読書その二。ナチスホロコースト、中東欧をフィールドとする歴史家がトランプ大統領誕生にともなって発表した、暴政から民主主義と自由を守るための20箇条を記したパンフレット。文庫とライブラリー判の中間のような独特の判型の小さい本だ。20箇条は以下の通り。

1 忖度による服従はするな
2 組織や制度を守れ
3 一党独裁国家に気をつけよ
4 シンボルに責任を持て
5 職業倫理を忘れるな
6 準軍事組織には警戒せよ
7 武器を携行するに際しては思慮深くあれ
8 自分の意志を貫け
9 自分の言葉を大切にしよう
10 真実があるのを信ぜよ
11 自分で調べよ
12 アイコンタクトとちょっとした会話を怠るな
13 「リアル」な世界で政治を実践しよう
14 きちんとした私生活を持とう
15 大義名分には寄付せよ
16 他の国の仲間から学べ
17 危険な言葉には耳をそばだてよ
18 想定外のことが起きても平静さを保て
19 愛国者たれ
20 勇気をふりしぼれ

トランプ大統領をきっかけとしながら本文では「現大統領」などとしか呼ばず、固有名を出さない書き方をしていてやや不思議だけれど、トランプを独裁、暴政のある象徴としながら歴史的な教訓を抽出する20世紀の歴史の素描という側面もあるからだろうか。

今読むと、トランプ大統領プーチンにかなり密接な関係があったことや、クリミア併合にともなってウクライナが情報戦に力を入れていることなどが指摘されていて、クリミア以後トランプの現在というアメリカの東欧史家の危惧がまさに現実となったことになる。本書でのロシアの影は特に印象的だ。今後の暴政が現われるとすればどこか、というときに中露を強く意識している叙述があり、現在に際してもこのウクライナ侵攻を見過ごせば次は中国の台湾侵攻に繋がるという危機感がしばしば言われている通り。本書は予見的とも言えるけれどもむしろ普遍的なんだろうと思われる。

本書の20箇条はいくつもの点で日本においても重要な示唆を含んでいて、プーチン的なもの、プーチンと同じ未来を見ようとすることへの批判意識を持つ上でも参考になる。一党独裁による忖度、服従の強要と制度の破壊への警戒など、非常に重要。

ウクライナにおいてロシアの支持する体制を作ることには失敗したけれど、アメリカにおいては成功したと指摘しているのは経済支援を取り付けた日本もまたそうだ。ウクライナ戦争がトランプ大統領のときに起こったら果たしてどうなっていたか、かなり恐ろしい。日本でも安倍晋三の時だったら、果たして。

あなた方が、「耳にしたいことと実情のあいだの違いなどどうでもいい」と考えたら、あなた方は暴政を甘んじて受けいれることになるのです。この現実放棄は自然で悦ばしいことに感じられるかもしれません。けれどその結果はどうかと言えば、あなた方が個人としての存在を失うことであり、それゆえに、個人主義に立脚するいかなる政治制度も崩れることとなるのです。61P。

スナイダーの他の本を参照しながら、解説で国末憲人がホロコーストの条件を挙げているけれど、組織や制度の破綻したところに虐殺が起こるということも含めてこの箇所は生々しいものがある。

愛国者たれ」は、トランプのやったことがどれだけ愛国心に悖るものかと延々と羅列する章で、トランプ大統領ナショナリストでも愛国者ではないと言う。「ナショナリストは私たちに、私たちがなりうるいちばんひどい存在になれとけしかけ、そのうえで君らは最高だと私たちに告げるのです」と。アーレントを引いて全体主義とは公的なものと私的なものとの境目をなくすこととして情報戦とプライバシーの問題に注意したりしているのも重要かな。

「9 自分の言葉を大切にしよう」の「言い回しをほかのみんなと同じようにするのはやめましょう」、これは結構ツイッターでは気をつけてることだったりするけどどれだけできているかは疑わしい。使ってしまう言葉もあるけど使わない言葉もあり、ある程度意識して線を引いているつもりだけど、どうしたって言葉は感染してしまうよなとも思う。

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

犬文学その三。廃村に一人残った老人と犬の滅びの予兆のなかで、ポプラの枯葉が混じる黄色い雨という象徴表現とともに、終わりの雰囲気のなかで生死が曖昧になる世界が描き出された、寂寥感ある抒情が漂うスペインの作家による中篇小説。孤独な死の安息という印象もある。読み始めると文末が「だろう」で終わる独特の文体になっていて、これは何なのかと思うと語り手が既に死んでいるらしいことがわかる。面白いのは、本作では語り手が死んでいる時は文末が「だろう」になるようで、推測表現と同時に死者が未来を語っているようにも聞こえること。

閻連科『年月日』の後書きで挙げられてて積んでるこれ犬文学だったのかと思って読んだのだけれど、あっちが自然に抗する生の力を描き出すのに対して、こちらは死や滅びに親しくなりながら言葉を残そうとするような対比ができる。日照りに殺される村と雪と雨に沈んでいく村と。あらゆる点で対照的。

私の身にも間もなく同じことが起こるだろう。考えてみれば、私も犬と同じだ。長年の間この村でひとり暮らしをつづけてきた私は、この家とアイニェーリェ村にこの上もなく忠実に仕えてきた犬以外の何ものでもないのだ。177P。

生と死のみならず、人と犬もが同化する。

その母が今、昔のように火のそばの木の長椅子に座って黙りこくっていたが、その姿はまるで本当に死んだのは自分ではなくて、時間なのだと語りかけているように思われた。111P。

時間が死んだので死者と生者が同じ場所に現われるということなのかも知れない。

1961年という年号が出てくるように、半世紀以上は前のスペインの山村という舞台での孤独な終末への旅路という感じで、冒頭からその詩的な文体から色濃く漂う終わりの雰囲気が良い。妻も自殺し語り手も死に親しむような感じで、自殺者の訪れる村を描いたオルドバス『天使のいる廃墟』にも通じる。

読んだのは単行本だけど、リャマサーレスはこれが文庫化した以外の二冊は古書価が高くなってて手に入らないなと思ったらこれから短篇集が出るらしいのは良かった。既刊の文庫化が続いてないのは売れなかったということなのかな……

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム

戦争関連読書その三。ナチズムやスターリニズムのような精髄や本質をもたないことで全体主義の代名詞として使われるファジー全体主義としてのファシズムについて、その特徴を「永遠のファシズム」、「原ファシズム」と名付け列挙する表題講演ほか政治的発言を集めた一冊。

「永遠のファシズム」で、1945年パルチザンの勝利によってエーコ少年は「ことばの自由とは、修辞の自由を意味する」ということを知ったという。解放されてはじめて「独裁体制」と「自由」という言葉を目にした少年期の回想をたどりつつ、確固とした哲学のないファシズムを捉えるべく、特徴の列挙を試みている。伝統崇拝やモダニズムの拒否、非合理主義や対立意見の排斥、よそ者の排斥、経済危機や政治的屈辱への訴え、何も持たないものにとって唯一の特権としてこの国に生まれたことというナショナリズムへの語りかけなどなど、項目は14に及ぶ。

第八項で、敵の脅威を過度に表現しつつも倒せる相手だと思わせなければならず、「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」ため、「さまざまなファシズムがきまって戦争に敗北する運命にあるのは、敵の力を客観的に把握する能力が体質的に欠如しているからなのです。」54Pという箇所は現今示唆的だ。

平和主義は悪、エリート主義、一人一人が死を栄誉とする「英雄」となるべく教育される、戦争ごっことマチズモ、質的ポピュリズム、そして新言語(ニュースピーク)。

ナチスファシズムの学校用教科書は例外なく、貧弱な語彙と平易な構文を基本に据えることで、総合的で批判的な思考の道具を制限しようと目論んだものでした。58P

第九項、

ファシズムにとって、生のための闘争は存在しないのです。 あるのは「闘争のための生」です。 すると「平和主義は敵とのなれ合いである」ということになりま す。「生が永久戦争である」のですから、平和主義は悪とされるわけです。こうした考え方がハルマゲドンの機構を生むのです。敵は根絶やしにすべきものであり、また それが可能であるとすれば、最終戦争は避けられません。54P。

などなど。ヨーロッパは今後、政治的に統制できる「移民」ではなく、自然現象としての統制できない「移住」は今後より進んでいくだろうとして、攻撃的な大人たちへ涵養の教育を施すのは無駄だとして、「野蛮な不寛容」を撲滅するための教育の重要性を訴えてもいる。

戦争、メディア、ファシズム、外国人排斥などについての時事的な発言集で、20世紀の本なので色々構図が変わっているところもあるだろうけれども、遍在する原ファシズムへの警戒としてはやはり今なお参考になるだろうし、日本の教科書についても「思考の道具を制限しよう」という気配がないか、と。

アレホ・カルペンティエール『時との戦い』

honto.jp
20世紀ラテンアメリカ文学の代表格の一人のキューバの作家による短篇集。ニグロの老人の杖の一振りによってある男の死の床から生まれるときまで時間が逆行していく「種への旅」や、メビウスの帯のような円環的時間など、表題通り時間操作を特徴とする作品集。

印象的な表題で前から知ってて集英社ラテンアメリカ文学全集版を積んだままだったけど、新訳短篇を加えた水声社版で読んだ。ディックの『逆まわりの世界』を思わせる「種への旅」も良いし、欧州から新大陸へ旅した音楽家の旅路が円環的に回帰する「聖ヤコブの道」は読み応えがある。ボルヘスを思わせると思ったら実際に敬愛する作家だったらしい。

「カテドラルの二本の塔が垂直に交わり」「庭のバラが飛び立ち、川から逸れた溝や小川に落ちる」と街を描くシュルレリスティックな表現が面白いなと思っていたら地震の描写だった「闇夜の祈祷」も印象的で、カルペンティエールはパリ在住時にブルトンらシュルレリストらとの親交もあり、時間をテーマとする作品性ともども、幻想文学やSFに近い作風と言える。ノアの方舟伝説を踏まえた「選ばれた人たち」では選民思想が相対化されるのとともに無為な徒労としての時間が描かれてもいる。

最後の「庇護権」はラテンアメリカの架空の国を舞台に、内閣秘書官が軍事政権によるクーデターから逃れて小国の大使館に政治的迫害からの庇護を求めて逃げ込むという話が、「聖ヤコブの道」のような円環を描いていく一篇で、作者がキューバ政府から冷遇された話とあわせて色々と面白い。大使館から見える外の金物屋の商品が、「先史時代から電球時代に至る人間産業の歴史」を表わす、時間の空間化として描かれているけれどそこにある人気商品のドナルド・ダックが買われる度に「同じだが別の」ものと入れ替わる示唆的な描写が結末と併せて印象的。

同じものが際限なく次々と入れ替わり、同じ台座の上でじっとしている姿を見ていると、永遠について考えさせられる。実は神も同じではないか。時代ごとに少しずつ強い姿に入れ替わり(神の母、神々の母、ゲーテがそんな話をしていたのではないか?)、おかげで不死の存在となれる。157P

曜日にまつわる章題が「月曜日の金曜日か次の火曜日の木曜日」といった狂った表現になっていくのはゴーゴリの「狂人日記」を意識してのものかどうか。トロイアの戦いを前にしたギリシャの兵士から、戦いの直前のさまざまな時代の兵士の内心を繋いでいく「夜の如くに」なども。

時間テーマがしばしば宗教的なテーマとともに現われてる気がするけど、ここら辺はどういった文脈があるんだろうか。まあなんにしろ、円環的な構成ってともかくも一篇を読んだ気にさせてくれるところがあるから良いね。最後で最初に戻ってでもちょっと違うっていうやつ、堅い締めでもあるね。

中井英夫『幻想博物館』

とらんぷ譚」という作者の短篇シリーズの一冊。薔薇園で知られたある精神病院は独特の幻覚や妄想を持った病人のみを収容し「反地上的な夢」を収集する幻想博物館だった。それを枠として13の怪奇・幻想短篇を連ねた短篇集。一篇がさらっと読める簡潔さが良い。古い文庫だと一篇ほぼ13ページでこれもトランプの数に合わせたのかと思ったけどさすがにそれはないか。

概ね七〇年代に書かれた幻想短篇で、「反地上的な夢」や、流刑にされた薔薇を意味する「流薔園」という設定など、この時代らしいと言うか、そういう叛逆のロマンティシズムが感じられる。全13篇で200ページもない本というで、さらっと読めてどれも良くて満足感があり、一篇の短さもちょうどよく、それでいて幻想博物館の枠を使って各篇の現実性を宙吊りにしてみせる構成にもなっており、そういう全体のテンポの良さというものが大きな美点でもあると思う。

なんともスタイリッシュ。集中では「聖父子」や陽気な変身譚「牧神の春」が良かったかな。「大望ある乗客」はどっかで読んだ気がするけど錯覚かも知れない。『虚無への供物』は、まだ読んでいない……。「牧神の春」にはこんな箇所もあった。

春はいつでも汚れていた。桜は全て白い造花の列だった。150P

ジョルジュ・ペレック『パリの片隅を実況中継する試み』

honto.jp
パリはサン=シュルピス広場が見える場所に陣取った語り手が金土日の三日間の観察を箇条書きのように100ページほど書き記したフランスの実験的作家による奇妙なテクスト。注目されない平凡なものを観察しようとしてしばしば書き手が疲れたと書いているのが面白い。

訳者解説が冒頭についており、「本書が再現しようとしているのは、某日某所の〈現実そのもの〉というよりも、その現実を把握しようとする〈体験〉なのかもしれない」19P、など本文を読むのに参考になる文脈を幾つか提示している。ほとんど箇条書きで書き手の簡潔な観察をとりとめなく書き留めたようなテクストで、本文自体は別に読みづらい文章ではない。時折このような観察も差し挾まれる。

見ることだけを目標にしていても、ほんの数メートル先で起きていることが見えていないのだ。たとえば、車が駐車するのに気づかない 74P

デッサンの訓練を文章でやってるようなものだろうか。

面白いのは日本人観光客の存在が頻繁に書き留められていることだ。1974年10月18日の日付があり、この頃はパリに行く人が多かったんだろうか。もっとも多く出てくる外国人が日本人という印象で、しばしばカメラを提げているとも書かれる。そして、「青リンゴ色のドーシーヴォー」など、青い車が頻繁に言及されており、日本人と青い車が書き手に固着した結果が「九十一台のオートバイに先導されて、青リンゴ色のロールスロイスに乗ったミカドが通る」121Pという本書唯一の非現実を記したと指摘されている妄想か冗談かの場面になる。

俳優なり知人なりにちょいちょい会って挨拶したりする場面があり、ポール・ヴィリリオと遭遇したりしているのもちょっと面白い。友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』で言及されてて興味を持った本なんだけれど、そういやなんて書かれてたのかなと開いたら名前が出るだけだった。

後のアートなどに影響を与えてるらしく、どのような可能性をくみ取れるかが試されるようなコンセプチュアルな作品という印象。当時の記録としても日本人の描写など面白いところがある。

ニコルソン・ベイカー『ひと箱のマッチ』

ある時朝四時頃に起きることを決めた語り手が、毎朝夜明け前の暗い家のなかでマッチを灯して暖炉に火を付け、コーヒーをいれて燃える火を眺めながらさまざまなことに思いをめぐらせる時間を33本分繰り返す、些細な日常を描いた、アメリカの作家による一冊。

妻子があり医学書の校正を仕事にしていて、朝には子供を送ったりしている男を語り手に、明かりをつけて意識を覚醒状態にしたくないがために夜明け前の暗い部屋で手探りでマッチを探して火を付けるという変なこだわりを丁寧に描く序盤はベイカーの初期作品を彷彿とさせる。

他にも便座に座って小便をするという発見について語ったり、自殺する妄想で寝入ることなど、小説や物語を語ろうとするときには抜け落ちてしまうだろう日々の小さな具体的な場面に着目する、『中二階』『室温』などのベイカーらしい一作で、こちらはより時間が広く取られて一月に及ぶ経過も刻まれている。妻子のある男性の一人になれる時間はまだ誰も起きてこない早朝のひととき、そういう隙間の時間を描いている。靴下の穴を気にしたり、へそのゴマを火に投げ込んだり、電気をつけないままなんとか小便が便器に収まるように苦闘したり、そうした下らないことや日々の思索が渾然となっている。

語り手は電車でこう考える。

そこではっと気づいたのだ。私は非常に重要な商業中心地を、道一本すら見ることなく通り過ぎているのだ、そして私の人生にも同じようなことが起こっているのだ、と。118P

暗闇のなかでメガネをかけると何がよいかって、明るいところでメガネをかけると周囲がくっきりするのとは違い、暗いので何も変わらないところだ。29P

私は一気に読んでしまったけど、この語り手に一月付き合った気分になったので、一日一篇ずつ読んでいくのがより良いかも知れない。

確か私の初めての商業原稿はbk1というネット書店で読者投稿書評を書いてる人を集めた本にベイカー『中二階』について書いたものだった。白水社からではなかったのでこの本がでているのに気づいたのは結構経ってからだったけど、知ってからも読むまでずいぶん経ってしまった。ベイカーの小説作品の翻訳が止まっていて、アップダイクについてのエッセイが出てるけどアップダイク未読なので未読だ。

ウクライナ難民の件で狂犬病の話が話題になったけど、本書にも家にコウモリが入り込んできて、狂犬病のおそれがあるので、閉じ込めたあと警官を呼んで殺して処分した話が出て来て、なるほど清浄国でないとそういうことになるのか、と。

シュテファン・ツヴァイク『過去への旅 チェス奇譚』

オーストリアの作家による二中篇。第一次大戦勃発で10年のあいだ離れ離れだった男女の再会を描く未完の「過去への旅」と、ナチス侵略を背景にチェスをめぐる想像力の二つのありようを描く「チェス奇譚」は評判に違わぬ傑作だった。これまで未読だったけどツヴァイクと言えば評伝で知られていて読ませる作家なんだろうなとは思っていたので、「過去への旅」良いなと思ってたら「チェス奇譚」が圧巻で流石と思わされた。

第一次大戦による断絶と戦後に軍人たちの愛国デモを見て「もう一度なのか、もう一度やろうというのか?」と唖然とする「過去への旅」も、監禁下において精神の平静を保つために棋譜からチェスを想像し自己相手に指し続け狂気に近づく話を亡命途上の船内で聞く話も、今読むと生々しい。ツヴァイクの「内心の自由」のロジックは自殺にも至るもので、戦争によるヨーロッパの黄昏のさなか、亡命先のブラジルで日本軍によるシンガポール陥落の報にさらなる絶望を感じて自殺したといい、解説にあるコロナ禍以上に20世紀前半や戦間期の文学がにわかに身近に感じられる一冊となった。

未完の中篇「過去への旅」は、貧しい青年が枢密顧問官に取り立てられ住み込みをし補佐役として頭角を現わしメキシコへの派遣を任された時、その妻への愛を自覚し妻もまた青年への愛を告白することになり、二年の約束だったものが戦争の勃発により帰国を断念し現地で家族を作り、10年の後再会する。二人の待ち合わせの場面から小説が始まってそこから二人の来歴がたどられ、乗り込んだ鉄道の旅は回想とともに二人が昔訪れたハイデルベルクへと向かっていく過去への旅となり、彼女は「まだ何時間でも乗っていたかったわ」と郷愁に浸るなか、駅舎を出て愛国デモに出くわす。「狂気の沙汰だ」と唖然としながら、本篇のもう一つの題として考えられていた「現実の抵抗」と言うとおり、デモとともに現地のホテルが満員で、空いたばかりのベッドが寝乱れたままの部屋に案内されるなど、二人の熱は現実の細々としたものによって冷まされていく。

彼女も、彼ももはやあの頃と同じではなく、それでもむなしく懸命に探し求め、おのれから逃れつつも無意味で無力な骨折りのうちにおのれを引きとめているのだ、この足元の黒い亡霊たちのように。69P

未完というけれども書くべきことは書かれているとも思える。

「チェス奇譚」は「チェスの話」として既訳がある中篇。ニューヨークからブエノスアイレス行きの船にはミルコ・チェントヴィッチというチェスの王者が乗っていて、南スラヴの貧しい水夫の息子として生まれた彼は学習が進まず本を読むのにも難儀する知的能力だけれどもある時チェスに才覚を示す。ミルコの特質はチェスを「目隠し(ブラインド)で」プレイすることができないことだった。

チェス盤を想像界の無限の空間に作り出すという能力が、彼には完全に欠けていたのである。79P

彼が同乗していることを知ったある男がミルコに金を払って対決を挑み、窮地に追い込まれた時助言者が現われる。B博士という男の的確な助言でチャンピオンとの対戦を引き分けに持ち込み、語り手はもうチェスはしないという彼に再戦を頼みに行って身の上話を聞くことになった。

B博士は弁護士業務において教会や修道院の資産がナチスに押収されないように立ち回っており、ナチスによって参考人としてホテルに監禁され聴取を受ける。ホテルは一見人道的だけども、情報から遮断されいつも同じものを見ている状況が次第に彼を追いつめ、ある時看守のポケットから本を盗むことに成功するもののそれはチェスのチャンピオンの棋譜集だった。熟読し暗記し再現するのみならずいつしか彼は自分自身を相手にチェスを指すようになる。ミルコとは逆に、博士はチェスのすべてを想像で指していた。亡命中のツヴァイクの経験が投影されていると言われるそのその極限状況の描写が本作の肝とも言えるけれども、ここにツヴァイクの「内心の自由」をめぐるテーマがチェスと第二次大戦を結びつける形で展開される。

かといってこの短篇が単純に想像力を称揚しているとも言いがたく、博士の想像上のチェスは狂気と分かちがたいものになっている。外界との繋がりをもたない想像力は狂気と見分けがつかない危ういものになっており、精神の平静を保つためのものが精神を狂わせていく皮肉がある。遺作となった本作は訳者解説において「人生というチェス盤から自らの意志で間もなく降りることを決意していた、ツヴァイク自身の告別の言葉でもあったのかもしれない。」(208P)、と評されてもいて、ツヴァイクの「内心の自由」のありようがうかがえる。「あの独房の中でしていたことがなおチェスであったのか、あるいはすでに狂気であったのか」(139P)。それぞれ人妻との恋愛、チェスが戦間期と第二次大戦を背景にして展開されていて、二十世紀をやり直しつつある戦時下の現在、その書かれた背景がやたら身近な小説になっている。

チェスというのは、天と地の間を漂うムハンマドの棺のように、学問でもあり芸術でもあり、これらのカテゴリーの間を漂う、あらゆる対立項のまたとない結びつきなのではないか。太古の昔から存在しながら永久に新しく、機械的にできていながら想像力によってのみ働き、幾何学的に固定された空間に限定されていながらその組み合わせにおいては無限であり、常に発展を続けながら何も生み出さない。何ものへも導くことのない思考、何も算出しない数学、作品のない芸術、実体のない建築、そしてそれゆえにこそ、疑う余地なくそのありようと現存性において、どんな書物や芸術作品よりも永続的である。すべての民族、すべての時代のものであるただ一つのゲームであり、いかなる神が退屈を紛らわし、感覚を研ぎ澄まし、精神を張りつめさせるためにこの世にもたらしたものか、誰も知らない。84P

ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』

バルカン半島南部の架空の小国で民族の誇りとされた画家が架空の存在だったことを暴露する手記のかたちで、公的には死んだとされる語り手がおじの仕掛けた詐術の手の内を明かす、虚構と真実、偽物と本物がくるくると入れ替わる、ドイツの作家による軽妙な長篇小説。

小説という虚構のなかで架空の国家を作り上げ、そこで怪しげな人物が国家規模の画聖捏造を企図し、画家の来歴を創作し画家の贋作(?)を作り、画家の権威を選定し、さらに死んだと思われた甥を悲運の画家に祭り上げて贋作を作成し、甥本人がそれを見て自分の絵を画商に見せたら贋作と判定され……

まあたいへん楽しい小説で、虚構としての小説が偽史の真実を暴くという皮肉なつくりもそうだけど、贋作師が名画の贋作のみならず、架空の画家を捏造し作成するそれは贋物の本物ともいえ、そして贋作師が感知しない本当の贋物が出てくる事態はいったい何と呼べば良いかわからなくなってくる愉快さ。贋作師が破滅するきっかけになるプラットとの場面も贋物と本物が入れ替わって鮮やかで面白い。怪しい俗物たちと美術をテーマにした「コミックノヴェル」としても面白いし、解説で言うように当時の世相を背景にした諷刺小説でもあるだろうけれど、国民国家、民族の物語の恣意性の寓話にも読める。

舞台となるプロチェゴヴィーナ公国はギリシャルーマニアアルバニアなどと国境を接するバルカン南部の小国で、隣国と領土争いをしてもいる。そこに取り入ったおじが国王に「私は閣下に古典期のある偉大な画家、民族の誇りたるべき一人の巨匠を進呈いたします」(76P)、と進言する。ここにプロチェゴヴィーナのレンブラントといわれるアヤクス・マズュルカなる画家の捏造計画がスタートする。ここで国王が要求するのが13世紀の民族的英雄の絵で、「民族的画家には民族的英雄を描く責任がある」という。国家の威信を画聖の捏造によって高めようというわけだ。プロチェゴヴィーナはブラヴァチアという隣国との小競り合いを繰り返しており、ある日の越境攻撃によって国境近くのアトリエで絵を描いていた語り手アントンは向こうの領土に連れ去られてしまい、反撃に出たプロチェゴヴィーナによって逆に敵国住民と見なされブラヴァチアに逃げ込むハメになる。連行されるのを見ていて殺されたと思った現地の報告を受け、おじによりアントンは夭逝の画家として祭り上げられ、先述したように自分の絵に似せた贋作を見てそれを知ったアントンは自分のスケッチを持っていって資金にしようとしたら、それこそ贋物だと言われる事態になる。アントンが巻きこまれた真作贋作の真実性の反転とともに、国境付近での喜劇的な顛末は両方の国家から弾き出されたダブルアウトサイダーでもあり、国に拠り所のない、死んだものとして偽名の放浪者となる運命は、そういえば作者はユダヤ人家庭に生まれたことを思い出させる。

贋作によって民族的英雄を飾り立てる詐欺師たちの跋扈する楽園としての架空の公国、プロチェゴヴィーナのありようは、国民国家という制度・物語の基盤を露呈させているようだ。それがバルカン半島を舞台にしているのも示唆的。しかし民族が嘘という話なわけではない。捏造のはずのマズュルカ作品が増えていくように物語は広まり、生きられる。贋作だろうとそこで得た情動は「嘘」ではなく、民族の物語がいかに恣意的だろうとも現実にその物語を生きてしまえばそれは「真実」にほかならない。贋作を題材にした虚構を通して本作が描くのはそのことではないか。

本書は贋作を扱った喜劇的な諷刺小説としての面白さとともにそうした射程も持っているように思う。そういえば語り手の名前アントン・フェルハーゲンはイニシャルをA.V.と書き、180度ひっくり返せる形になっているのは、幾度も真実性がひっくり返る本作らしいところだろう。

20冊も一つの記事にまとめるべきではなかったかも知れないけどこれでひとまとまりなのでしょうがないね。

図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

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図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載されています。アイヌ民族初の近代小説の書き手としてのみならず、アイヌの経験を通して現代の「人間」が被る経験を描いた現代文学として読まれるべきではないか、という感じのことを書いてます。

イベントなどでいくらか一緒になった私から見た岡和田晃山城むつみ両氏の鳩沢再評価の流れを振り返りつつ、和人の立場からアイヌを描いた向井豊昭の『骨踊り』(幻戯書房、収録鼎談には私も参加しています)を紹介しました。大筋を考えた後で岡和田さんの『向井豊昭の闘争』(未來社)を見るとだいたいのことはより精度高く書かれていてしまったと思いました。その点去年出たばかりのリチャード・シドル『アイヌ通史』(岩波書店)を組み込めたのは良かったかなと思います。また、本書が女性の経験を集中的に書いている一冊になっているのは編集のめぐりあわせとも言えますけども、そうなるだけの必然性が鳩沢に既にあったと思います。

そういえば、鳩沢佐美夫は1935年生まれで、文学世代としては内向の世代と同世代だったりします。

以下、ツイッターに書いていたアイヌ関連書籍の感想をまとめておきます。

リチャード・シドル『アイヌ通史』

博論を元にして1996年に刊行された英語圏初の本格的なアイヌ通史で、今も参照されるという古典的著作の邦訳。原著タイトルにあるように、主眼はアイヌ民族をめぐる「人種化」のプロセスとそれに対するアイヌの抵抗の様相を描くことにある。思えば「蝦夷」から先住民族へ、という副題は、劣等人種と見なされていく近世から近代にかけての外からの眼差しに対する、国際的な先住民族問題と連携して自らを「先住民族」として確立していくアイヌ民族の主体的な目線への移行、という本書の構成を反映したものだ。

アイヌ差別の言説をまとめた第四章「滅びゆく民族」に対し、その転換点となる第五章が「瞳輝く」というアイヌ側の視線を指す題になっていて、しかもそれが違星北斗の短歌から採られているのは非常に重要かつここぞという引用になっている。

滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ
違星北斗の瞳輝く

「通史」とあるのに内容は近代に偏っているというのは確かで、それについては訳者が以下のツイートで理由を述べている。これまでの近代以前のアイヌの本来の姿を復元することに注力する動きは、アイヌ近現代史を喪失の歴史とする、差別にひきずられた歴史観ではないのかということで、訳者解題の「アイヌの創造性は圧力や差別にもかかわらずあったのではなく、それゆえにあったのである」354P(太字は原文傍点)、という交差的な関係に重点がある。民族の境界線は交流によってこそ生まれ、差別に直面したことでアイヌアイデンティティを打ち立てる必要が生まれる。

この、圧力や差別「ゆえに」という部分、本書を読んでいても、どうしても「それでも」というモードで読んでいたので、なるほどそうか、と非常に目を開かされた。序文で著者も「社会的周辺化とレイシズムへの創造的応答として、アイヌの「民族性」を考察する」(xiv)と書いている。差別への批判は、差別以前の前近代の姿を復元することだけではなく、差別に抗して創造的にアイデンティティを打ち立てていった同時代人としてのアイヌの検討においてもなされなければならない、ということだろう。それに応じてこちらで訳者も指摘するように、「「日本人」「日本国民」の自らの人種化の過程は、アイヌの人種化を必須とし、ともなった、ということです」ということは、現代アイヌの民族性のみならず、日本人の民族性もまたアイヌ抜きではありえないわけだ。

日本が日本として成立し、大和民族大和民族として境界を画するときに、日本人の「最初の『ネイティブ』な他者」としてのアイヌの歴史は、上掲で訳者が言うように、その存立の基盤そのものでもあるという挑戦的な意図が含まれている。

日本という国の姿が北海道や沖縄なしではありえないように、植民地化していく過程で取り込んでいく他民族との交錯が「日本」の拠って立つ基盤になっている。これは沖縄、朝鮮などにも同じことが言える。同一性と差異の根拠として。朝鮮総督府から北海道庁樺太庁に、アイヌの名前の日本化政策に関する情報提供の要請があったという話が紹介されており(193P)、当然アイヌの先例が朝鮮での同化政策の参考になっている。アイヌの「撫育」と文明国日本が後進の朝鮮に訓育するという植民地支配の論理。

差別に抗してアイヌが民族性を確立したように、他者に優越する自己としての「日本人」もまた形作られていく。先住民族は国境線に画されていく近代国民国家の確立とともに生まれるわけだけれど、それと同様に近代的な民族観念もまたこのようなプロセスと同時進行の相似形を描いていく。危機に際して自らの民族とは何か、伝統とは何かを改めて見出していく過程があるわけだけれど、明治の日本人も同様の事態に置かれていたわけで、この時期に様々な今に続く伝統が創られた、という話は有名だ。アイヌもまた同様、と考えればわかりやすい。

ちょくちょく参照されているケネス・パイルの『欧化と国粋』が、この日本人の人種化の過程を扱ったものなのかな、と思ったけどやたらプレミア化している。大雑把な話をしてしまったかも知れないけれども、当時の新聞や議事録なども参照して詳細に調査された濃密な叙述の一冊だ。

1997年のアイヌ文化振興法成立に際して書かれた論文を補章として加え、訳者解題とここ20年のアイヌ関連年表が付され、現在までのブリッジになっている。このなかの2014年の「アイヌはもういない」発言、それへの抗議として編まれた『アイヌ民族否定論に抗する』に寄稿したのがもう八年前になる。

「人種化」という概念はこの前書き部分が端的な説明になっている。
人種神話を解体する【全3巻】 - 東京大学出版会

茅辺かのう『アイヌの世界を生きる』

京大を中退し労働運動などに関わっていたのち北海道で季節労働をしていた著者が、アイヌの女性からアイヌ語を口述筆記して欲しいという依頼を受け、二十日足らずのあいだ家に住み込みながら、聞き取ったアイヌ語と女性の生涯がまとめられた一冊。

トキというこの女性は和人の生まれだけど生後一年たらずの頃に殺されかけたためにアイヌの女性に貰われた子だという。北海道に行った夫と離れて暮らす間に実母が別の男性との間に作った子供だったトキさんは、北海道でお守りをしていた五歳くらいの異母兄に川に投げ込まれかけた。そうしてアイヌの養母のもとで育っていったトキさんは、成長するまで自分が和人の生まれだとは知らないまま育ち、家ではアイヌ語で喋る生活を送った。養母が亡くなりアイヌ語での生活から離れたあと、それでも記憶にあるアイヌの言葉を残したいと、著者に聞き取りを依頼することになる。そうした来歴を持つ女性との暮らしの様子や、生活に根付いた独特の考え方が描かれている面白い本で、特に「北海道旧土人保護法」における給与地を得るために期限までに急いで開墾を進めた様子やら、次第に馬などの農業とかかわる動物を手放し、農業から離れていく時代が描かれているのも興味深い。このくだりは鳩沢佐美夫の「休耕」ともリンクする。

その人の個性、生活習慣に根づいたものとしての言葉と文化を知っていく様子が描かれている。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか、というイメージ。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか。

井上勝生『明治日本の植民地支配』

本書は植民地支配全体の概観というのではなく、95年北海道大学古河講堂で見つかった東学党農民戦争指導者の遺骨をめぐり、当時北大にいた幕末維新史を専門とする著者が報告書をまとめる過程で見えてきた、朝鮮での東学党虐殺にまつわる日本植民地史の一断面を描いたもの。

珍島から「採集」された東学党指導者の遺骨を持ち出した「佐藤政次郎」とは誰なのかというミステリーをたどる過程で北海道大学やその前身札幌農学校が植民において果たした役割や、日本と朝鮮での農業のあり方の違い、戦史から削除された東学党「剿滅」作戦とその戦死者など、さまざまな植民地支配の側面が見えてくるという叙述になっている。そこで確かに「明治日本の植民地支配」の様相が見えてくるとはいえ、「東学党首魁」遺骨問題を書名か副題にしておくほうが良いような気もする。

見つかった遺骨には三体のウイルタ民族も含まれていたという。ウイルタについては著者が報告を担当しておらず本書の記述範囲外とのことだけれど、ウイルタ協会会長の田中了という人が出てきて、積んでる『ゲンダーヌ』の著者で見覚えのある名前だった。小川隆吉の名前も出て来て、氏のアイヌ民族共有財産裁判で著者が証言したこともあるという。

本書では遺骨にまつわる、東学党の乱や甲午農民戦争と呼ばれてきた東学農民戦争での数万人に及ぶ虐殺の歴史が日清戦争の戦史に記載されておらず、その隠蔽に巻きこまれて日本ただ一人のその掃討作戦の戦死者が靖国神社戦没者名簿で、別の戦争での死者として数えられている改竄を指摘している。

戦前の『アイヌ政策史』でアイヌ民族共有財産について道庁を批判した高倉新一郎も、自身が勤めた北海道帝国大学の前身札幌農学校の校長だった橋口文蔵が共有財産の管理に於いて責任者だったことを著書では一切触れずに橋口を開拓功労者として顕彰する文章を書いているという。その高倉が触れなかったもう一つとして、1890年代に十勝のアイヌ民族が、共有財産を取り戻して「財産保管組合」を創ったという自治自営運動について触れられている。この後、その実態を無視して旧土人保護法が制定されていったおりに、高倉らがその運動を知りつつ保護法を正当化したことを批判している。

「農民戦争」のきっかけともなる日本の朝鮮の農業への蔑視を論じる過程でその農業形態の違いにも触れ、植民学を講義していた札幌農学校の佐藤昌介と新渡戸稲造の議論を対比させつつ、新渡戸の植民論が日本を文明国として後進国へ文明を伝播する立場に置くために朝鮮を未開視するものだと指摘する。この札幌農学校で遺骨を「採集」した佐藤政次郎と同期生、一九期生蠣崎知二郞が、上野正による保護法批判の趣旨に賛同するという文章を書いており、この蠣崎は有島武郎の親友だったという。そして有島武郎の遺作『星座』は一九期生(蠣崎は柿江として)をモデルに保護法制定の年を描いているという。

朝鮮に動員された兵士たちは四国出身者が多く、東学農民戦争に従事したうちで二名の自死者が出たことや、戦史から消えた戦いに参加した兵士の陣中日誌での記録を見つけたり、香川の地方新聞での東学農民軍との戦いへの批判が当時あったことを見つけたり、日本側の動員にも著者は紙幅を割いている。

古河講堂から遺骨が見つかった件は北大人骨事件としてWikipediaにも項目がある。著者はその件の北大の報告者として遺骨返還で韓国の現地へ赴き謝罪したことなどを踏まえ、ある一つの事例を通じた植民地支配の様子を描いている。北大と言えばアイヌの人骨を盗掘した件は未だに尾を引いているわけで、本書ではそうした帝国日本の植民地支配に関与した「帝国大学」の歴史が遺骨を通じて抉り出されている。佐藤昌介、高倉新一郎以来続く北海道大学史におけるアイヌ民族共有財産にかかわる橋口文蔵非職事件の隠蔽といった件もあわせて、北大の歴史の暗部を鋭く指摘する一冊だ。著者は北海道大学の名誉教授。
北大人骨事件 - Wikipedia

坂田美奈子『先住民アイヌとはどんな歴史を歩んできたか』

100ページもない小冊子だけれど、近現代のアイヌをめぐる歴史を簡潔に概説していて、シドル『アイヌ通史』とはまた別の視点もあり興味深く、違星北斗を画期とする点が両著に共通しているのも面白い。「旧土人保護法」の問題点として、アイヌという狩猟民が農耕民化されたという語り方は不正確で、狩猟の問題もあるけれどそれ以前から農耕をしていたアイヌはおり、「自主的に近代化の努力を行なっていたアイヌが不当に扱われている」という和人と政府の不正義だと指摘してる点が印象に残る。三章では「同化か、文化変容か」という問いを設定し、近代日本のアイヌ差別のなかでアイヌ自身はどのように対処したのかという点で、強要された「同化政策」と自発的な「文化変容」を対置して、さらに北斗は国民と民族を区別してアイヌで日本人という道を開こうとしたと論じる。これは『アイヌ通史』でも論じられた点で、ややアプローチが異なるものの違星北斗を差別に抗してそして日本人にしてアイヌというアイデンティティの道を選ぼうとした画期として描くところは同様。

ラシュディとヴィリコニウムと山野浩一その他

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

1947年8月15日インド独立の真夜中零時に生まれた特殊な力を持つ子供達の一人、サリーム・シナイが自らの生涯を語ることが、同じ日に生まれたインドの歴史を語ることにもなるというギミックを用いて主人公とインドの歴史を描く千ページを超える大作。

冒頭、ドイツで医学を学んだ祖父と敬虔なムスリムの祖母との関係から話を説き起こす三代にわたる歴史が始まり、近代と信仰の軋轢を提示しながらインドにおけるさまざまな混淆――イスラムヒンドゥー、植民者イギリスといった諸要素を身にまとう主人公サリームの数奇な運命がたどられ、インドがパキスタンバングラデシュに分離していくなかで巻き起こる惨事の歴史をまのあたりにしていく。サリームの奇妙な生まれがイギリスの血を引くボンベイ生まれのムスリムという混淆的なものになると同時にある時目覚めるテレパシーの能力は、人の心を読むだけではなく、当初一〇〇一人いたインド独立の真夜中に生まれた「真夜中の子供たち」との交信を可能にし、真夜中の子供会議という離れ離れの者たちをつなぐ場を成立させることにもなる。しかしサリームは同じ時間に生まれた双生児ともいえるスラムで暮らす下層階級の暴力的なシヴァを会議から除こうとしてしまう。

会議におけるサリームの未熟さは同時にインド政治の未熟さでもあり、サリームとインドとが比喩的に結合しているという誇大妄想的な枠組みは、独裁政権を樹立したインディラ・ガンディーの合わせ鏡のようで、この二者はじっさいに正面からぶつかりサリームが排除される結果になる。比喩や超常的なSF設定によるものと、独裁政権という現実の政治的な要素の双方で個人と国との結びつきとその解体が描かれるのは文学による総合も独裁による強権にも批判的な態度にも感じられる。子供達にしても独裁にしても若きインドの政治的蹉跌の歴史から未来への希望を語るものだろう。

サリームまわりのメロドラマ要素は血縁の相対化になっていて、それでもなお家族たりうるところは良い。真夜中の子供会議という即時的な大規模遠隔通信のアイデア、ネット時代に読むと普通だけどこれ1981年の小説で、そこでの主導権争いと排除がリアルでの暴力に帰結したりするのはなんか今っぽい。「誰しもたえず目を開けたままでは世界に立ち向かうことはできない」(岩波文庫上巻281P)というのは、眠ること、夢見ること、想像することを含んだものだろう。「精神を蝕んで幻想と現実に分裂させてしまうこの暑さのなかでは、どんなことでも起こりうるように思える」「暑い国で最も良く育つのは何か。幻想と非理性と欲情である」(同380P)とあり、ここで語られているのはボンベイ州を言語によって二つに分割せよというデモだったりする。言語圏独立の幻想がもたらす分離と敵対。こうしたさまざまなものの分裂は本作の核心的な部分でもある。

インド、新しい神話――それはどんなことでも可能にする集合的虚構、他の二つの強力な幻想である金銭と神のほかには、比肩するもののない寓話なのだ。(上巻251P)

ラシュディもまたインド出身のムスリムだけれど14歳でイギリスに留学して英国籍を取得しており、本作も英語で書かれている。英領植民地独立の歴史をSF設定を用いて語る手法など面白いし、移民作家による文学として重要な作品というのもなるほどと思うけど、正直読んでてそこまで楽しくはなかった。興味深いし重要なのはわかるし良い作品だなとも思うけどなんだろうな、一枚ベールの向こうより近づけなかった感じ。波瀾万丈、メロドラマ的でもある話は面白いんだけど、どうしてか。というかこれマジックリアリズムなのか。SF設定やファンタジックなところはあるけどあんまりそうは感じなかった。まあでもかなり読みごたえのある、掘り下げ甲斐のありそうな濃密な作品だとは思うし、インドのことを調べてから再度読むとまた違ってくるんだろうな。グラス『ブリキの太鼓』が踏まえられてるみたいだけど、グラスも読まなきゃだな……。

らんま1/2で水を被ると性別変わる設定がすごいって感じのツイートを見かけたけど、本書には能力者のなかに水に入ると性別を変えられる子供がでてくる。邦訳は89年だけど、影響あるかどうかは。

花田清輝『新編映画的思考』

映画雑誌に載った文章を中心に編んだ映画論集。1950年代中頃の原稿を集めたもので、題材になってる映画もほぼ知らないし背景にはマルクス主義や革命、大衆の問題というのが横たわっているのは窺えるものの、空いた時間に読む軽いエッセイ集として面白かった。この人の口癖として「まあ、そんなことはどうでもよろしい」という花田流の閑話休題の言い方が昔から記憶に残っててちょいちょい使った覚えがあるし、これを読んでるあいだ真似して使った言い方がいくつかある。どこで使ってるかは秘密。笑劇について政治的批判を行なう批評家に対して、「笑いにたいしては相当の抵抗力を示すこういう人びとにかぎって、涙にたいしてはいたってだらしがなく(中略)悲劇映画に出くわすと、さっそく、お得意の批判精神など、どこかへおっぽりだしてしま」う傾向を批判したり(210P)、「もともと、カメラによってとらえられた「本当らしい嘘」にあきたりないために、われわれは、漫画映画の「嘘らしい本当」におもむくのである。この根本のモティーフを忘れて、漫画映画の「嘘らしい本当」を「本当らしい嘘」に近づけようとひたすらつとめることは、まったく愚の骨頂というほかはない」(158P)とか、「演劇を否定し、小説を否定するところから映画がはじまる。あらためてくりかえすまでもなく、セリフによりかからず、観念や心理にとらわれず、ひたすらアクションを描こうとするところに映画の本質がある」168P、なんかが面白い。アニメの「嘘らしい本当」の箇所は結構思ってることに近い。花田清輝安部公房の関係で興味を持ったけど、『復興期の精神』とちくま日本文学の一冊しかまだ読んでなかった気がする。後藤明生の関係で読んだものもあったか。文芸文庫で五六冊まだあるから追々、と思って十年経ったものがいくつもある。

M・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム パステル都市の物語』

サンリオSF文庫で出ていた絶版だった長篇『パステル都市』に関連短篇を加えた一冊。『パステル都市』は古代文明の遺物を兵器に転用している騎士と女王の世界で戦争が起こり、鬱屈した剣士の過去の仲間達との関係と古代文明の遺物の謎が描かれるSFファンタジー

パステル都市』は今読むと多くの人がこういうのに見覚えがあると思うのではないか。『風の谷のナウシカ』の元ネタだと言われてるのもそうだけど、何者をも切り裂くエネルギー剣と騎士と女王の物語はスターウォーズっぽいし、飛行艇やら殺戮機械やらメカニカルなファンタジーはFFぽくもある。原書は1971年、初訳は1981年。主人公テジウス=クロミス卿の造型も、帝国最強の剣士と言われながら詩人を任じて塔にこもる隠遁者で陰のある性格なのは、この世界の砂漠から古代の遺物を掘り起こして活用技術がないから兵器にでもするしかない退廃的な雰囲気と軌を一にしている。

塔にこもっていたクロミス卿のもとにある日飛行艇が落ちてきて、という冒頭もナウシカっぽいと思ったけどそれはともかく、そういう導入から戦争の始まりを知り、騎士団の仲間と合流したりする冒険が始まるわけで、シンプルなストーリー展開と独特の世界観の描写が良い。ファンタジー風に見えてパステル都市ことヴィリコニウムのSFっぽい建築や、主人公に行き先を示す使いの鳥が人工知能機械仕掛けだったりする部分は素直に楽しい。小人と呼ばれる技師がパワードスーツを着込んで活躍したりして、メカメカしさとファンタジーの絡みが印象的。

ここからはネタバレしていくことにするけど、
二人の女王をめぐる戦争のなかで現われる殺戮機械の存在が後半の鍵になっていて、技術レベルが低くて滅んだ文明の遺物を武器にするくらいしか活用できないという状況から、殺戮機械の謎を解くことで死からの再生の技術が手に入ることになる。幸福な結末に見えて、クロミス卿が「死について思いなやむことはなくなった」ヴィリコニウムを後にするのは、妹の死に罪悪感を持ち続けるからでもあり、再生という死を無化する技術に対して背を向けるのは、科学技術に対する文明批評の意味合いもあるだろう。ここらへんなるほど宮崎駿っぽい。

不死への拒絶が根底にあるように見え、遺物の別様な活用も、昔の仲間達との再会が裏切りの悲劇になるのも、死を思うクロミスのラストの態度もその現れと言えないか。ヴィリコニウムが通常のシリーズとは異なりパリンプセスト的だと言われるのもその一環ではないか、と。一度終わったものはそのまま続くわけではなく改鋳される遺物のように似た素材をシャッフルして新しく別の物が作られる、というような。併録の短篇群が同じ時間軸を共有しているかどうかも定かではないし、「ヴィリコニウムの騎士」はそうした万華鏡的なシリーズ性のマニフェストに見える。

「ヴィリコニウムの騎士」のタペストリーから見えるヴィジョンはこちらを見返してもいるようで、複数の別の時間軸を見せてもいるようだし、「俺は人生をどう生きればよいのか?」に対して「これまでと同じように生きる必要はない」「われらはおのれの生きる世界を自ら作るものだ」(30P)という返答はその都度その都度作り直されるものとしての生、まるでゲームのプレイのような複数の可能性としての世界を示しているように思える。パリンプセストといえばそもそもこのヴィリコニウムという地名はスコットランドにあるらしく、それに虚構を重ね書きして作られたものなわけで。

以上ネタバレ含んだ感想。

このシリーズをまだ読んだことない人はまず長篇『パステル都市』から読むのを勧める。最初の短篇群から読むと設定や何やらが説明されずに出てくることになるし、短篇は『パステル都市』の描写を踏まえたものがあるので、最初に読むとわからないことが多い。話が一番わかりやすいのも『パステル都市』だと思う。『パステル都市』という主軸を据えてから短篇群を別側面からのアプローチとして読んで行く方がわかりやすい。私は雑誌で短篇を先に読んだ時は今ひとつ掴めないなと思っていたし、執筆が後になる短篇のほうが文章が入り組んでくる印象もある。

山本貴光編『世界を読み解く科学本』

科学者25人の100冊という副題があり、さまざまな研究者を中心に、ライターや編集者やSF作家なども含めた面々による科学本ブックガイドを集めた一冊。原本も七年前だけど最近科学系の本を読んでないので、今勧められる本は何だろうと思って読んだ。素粒子物理、宇宙、進化、生物その他さまざまなジャンルのさまざまなブックガイドになっていて、各人の原稿の書き方もさまざまで一人が全部を書いたものとは違った多様性がある。この多数の本のなかで別々に二度挙げられているのがドーキンスの『進化とは何か』で、これは気になった。ドーキンスは『進化の存在証明』も積んだままなんだけども。積んでる本も数冊挙げられてて、やっぱあれは良いやつなのかと思ったのも多い。ウィルス進化論を説いた『破壊する創造者』はタイムリーな、と思いつつしかし文庫版が品切れ高値になってるな。しかし、八章の記述は胡散臭いところがあった。子供との体の触れあいは発達障碍の症状を軽くさせるという記述も、そういうもんだったっけ、と疑問符が浮かんだ。

岡和田晃編『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』

NW-SF誌やサンリオSF文庫の監修など日本のニューウェーブSFの立役者として知られる著者の単行本未収録作を主に集めた一冊。資本や権力の旗振り役となりかねない「未来学」的なものを徹底的に否定する反SFのSF。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などの短篇はポストアポカリプス的な雰囲気が漂っており、その手の作品が数多く出ている今ではおなじみの風景ともいえるけれど、未来への希望や人間性の賛美を徹底して拒絶するようで、人間性や恋愛をも拒否している点はJ・G・バラード以上にドライにも思える。

「死滅世代」は恋人が惨殺される様子を傍観していた主人公は生殖を拒絶してもいて、そして廃墟と化した都市は「人々の怠慢のおかげで静か」(47P)ですらある、緩やかな終焉の様子が描かれる。「都市は滅亡せず」はむしろこのスローガンへの否定によって綴られていく終末SF。破壊的なアンモラルさのシュールな短篇「グッドモーニング!」のナンセンスは、「宇宙を飛んでいる」での「私は何の目的もなく宇宙を飛んでいる。ただ宇宙を飛んでいるだけであって、原因もなければ結果もない。全てのことが論理的ではなく、でたらめなのである。ただそれだけだ」(100P)と、宇宙船というSFガジェットの意味の転倒にも繋がっている印象がある。未来に対する終末、SFガジェットの意味性の反転や、外宇宙が内宇宙へ転じるように、外への志向が内へ反転し屈折するのがニューウェーブSFの特徴のようにも思えるし、そうしたところが上昇が下降になり、地と図が反転するパターンを多用するM・C・エッシャーと非常に相性が良いんだろう。荒巻義雄エッシャーネタで一冊書いているし。そうした意味でエッシャーの絵を題材にショートショートが二十数本連ねられる連作掌篇はこの作者らしさが簡潔に現われているようで面白い。

私小説的と言われる「子供の頃ぼくは狼をみていた」もしみじみとした良さがあるけど、狼、革命の象徴か何かのようにも思える。反SFのSFとは言ったけれど当然そこにはそもそもSFへの関心があるからなわけで、読んでいると結構ダイレクトに非日常への渇望が感じられる部分も多い。印象にある限りだと、どうやらそういうときに青や水色が関わってくるように見える。「X電車で行こう」の別バージョンともいえる短篇は「ブルー・トレイン」。

ブルー・トレイン、青い列車。ぼくの前に一度は姿を現わしていながら、再び消えてしまってあばれ廻る奇妙な列車である。それはやはりぼくの、それ迄の生活環境の中では考えることのできないような大きな存在であり、自分の好きな、走りたいレールを平然と走り抜ける楽しい自由な列車なのだ。(136P)

「嫌悪の公式」では「日常的な生活サイクルから出てみたい。ただそれだけのことなのだ」(242P)という主人公を誘うのが「水色のワンピースの女」だった。青、水、それは空なのか海なのか宇宙なのか。『裏世界ピクニック』でも青は特権的な色だけれど、これは外、非日常の象徴にも見える。「ギターと宇宙船」には「宇宙は素晴しい、それは夢なのだ。それが生活であってはならない。船乗りなら誰でも宇宙で生活する故に、宇宙を冒涜しているような罪悪感にかられるのだ」(161P)という記述がある。宇宙という夢の反転と屈折、革命の似姿なのか、とは思ってしまう。

「地獄八景」は死後の地獄をコミカルに描いた最後の小説で、天国への階段で昇天していく姿が描かれるのだけれど、地獄の現状とともにネット網の整備によって、「地獄はもう一つのグローバルな世界となった」わけで、もう一つの現実になった地獄から再度脱出する話だったんだろうか。天国へ昇ってゆき「おやすみやすらかに!」で閉じられる最後の小説、あまりにも最後の小説らしすぎてそこに強烈な悪意すらあるのか、ないのか、そんなアンビバレンスな気分にさせられるところもこの作者らしいのかも知れない。

60年代から2010年代まで、作者のキャリア全体をカバーするように多彩な作品が収められていて、入門篇にもなる一冊だろう。せっかく持ってるのに積んだままになっている長篇や刊行が予告されている時評集など、他の文章とあわせて読んでみたくなった。

ヴァーツラフ・ハヴェル『通達/謁見』

松籟社〈東欧の想像力〉叢書第20弾は、チェコスロバキアおよびチェコの大統領としても知られるハヴェルの1965年と1975年の戯曲二作を収めた一冊。戯曲家から大統領になったハヴェルだけれども、日本では肝心の戯曲の翻訳が少なくまた手に入りづらい現状を鑑みて訳出されたものだという。人工言語と官僚組織、表現弾圧の社会といった言葉と政治をめぐる状況が描かれ、堂々めぐりの反復によるコミカルさが楽しいけれど同時にそこに不穏さが忍び寄ってくる。

160ページに及ぶ十二場の戯曲「通達」は、ある役所で人工言語「プティデペ」を導入しようとする顛末を描いたスラップスティックで、人工言語のデタラメな冗長性の反復や、役所らしいたらい回しのなかで描かれる人間性の疎外が主題と言っていいだろう。カフカ以後の戦後文学らしいというか、例えば安部公房も迷宮的なものを通じてこうした不条理と人間性の疎外を描いていたのを思い出す。人工言語「プティデペ」は「自然言語では到達できない精確さ、信頼性、一義性を、あらゆる発話において保証する」ことを目的として作られ、単語同士の類似性を限りなく少なくするため、「言語の冗長性をできるかぎり高める」ようになっているという極端な代物だ。この長ったらしい人工言語の講習風景もかなりギャグタッチだけれども、通達の翻訳をするには許可が要るのにその許可を出す人間がプティデペを翻訳できないため、誰も通達の内容を知ることができないという不条理な状況に陥る。

バラーシュ ヘレチャ! どうして、この個人登録証明書を発行しないんだ?
ヘレナ 通達に書いてある結論と矛盾のないことがわからないと、その書類の発行はできないの。でもその通達はプティデペで書いてある。あたしがプティデペを翻訳できないの、みんな、知ってるでしょ。レモン、まだかしら。
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの!
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしてやらないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの! (131P)

極端に冗長な人工言語によって自然言語から疎外されるのとともに、行政のシステムが迷宮となり誰もゴールにたどり着けない堂々めぐりをもたらすことと重なって、あまりにもバカバカしくも不条理な状況が出来することになる。この喜劇性は権力に対しても向けられていて、局長の席をめぐる権力争いも描かれているんだけれども、局長の席に座る者が入れ替わったら入れ替わったで今度はその新しい局長に対する軽い扱いが始まり、権力者もまた疎外される状況に陥っている。この単独の強力な権力者がいるわけではないという描写は、後述するエッセイでの「ポスト全体主義」への言及に繋がるものだ。

行政、権力、言語や監視といったモチーフがちりばめられながら、人間が言葉から乖離し本心を言葉にできなくなる状況が描かれるドタバタ喜劇というものは当然、相当に政治的な意味合いがある。また、ある人物が解雇されたままになるラストが腑に落ちなかったけれど、こうした人間を疎外する場所から逃れ出て演劇の世界に入る、というのはそのままこの戯曲の始まる地点にたどりつくということだろうか。


この思った通りにものを言うことができない状況の不条理を喜劇的に描くと言うことでは併録された一幕劇「謁見」も同種だろう。あるビール工場での酔っ払った醸造長と青年の堂々めぐりの会話から、社会主義政権下で作品の発表が禁じられた劇作家とその監視を命じられた者の奇妙な関係が見えてくる。堂々めぐりになる会話はただ酔っ払っているのではなく、言いづらいこと、公にはできないことがあるためでもあり、その極点に醸造長が劇作家ヴァニェクに自分で自分の密告書を書いて欲しいという不条理な話が出てくることになる。このような社会では自己監視が常に行き届いているという諷刺か。ビール工場が舞台になる点でボフミル・フラバルを思い出すチェコ文学の伝統という感じもある。

堂々めぐりの喜劇のなかに本当に言いたいことが言えなくなる、本心からのコミュニケーションが阻害される状況が描かれる、言葉と人間性について書かれた一冊。これらは戦後チェコ社会主義政権における言葉による権力への抵抗でもあるだろう。

表紙には戯曲で最初に読み上げられる「プティデペ」が印字され、醸造所らしい樽のイラストとタイトルはラベルを模して描かれており、ユーモラスな表紙デザインになっている。

『力なき者たちの力』

ハヴェルが78年に書いたエッセイで、古典的な独裁制に対して、個々人がそれぞれに「嘘の生」や「ゲームの規則」を生き、「自発的な動き」で従い作られる現代の「ポスト全体主義」のありようを分析する小著。『通達/謁見』で描かれているものと共通している部分が多く、相補的に読める。

つまり、記号は、従順さを示す「低い」基盤を本人から隠すことを手助け、それによって、権力の「低い」基盤をも隠す。何か「高い」もののファサードの影に、それらを隠している。
 この「高い」ものこそが、イデオロギーである。(17P)
 
イデオロギーは体制と人間のあいだの「口実」の橋となり、体制の目指すものと生の目指すもののあいだの大きな亀裂を覆い隠す。体制が求めているものは、生が求めているものであると装う。それは、現実として受け取られる「見せかけ」の世界である。(20P)

こうして「疎外、現状への迎合を隠すことができるヴェール」、「口実」こそがイデオロギーだとし、自身の「真の生」を覆い隠すものの分析を進めていくのだけれど、現代において非常にわかりやすいのは以下の部分だろう。

非常に単純化して言えば、ポスト全体主義体制は、独裁と消費社会の歴史的遭遇という土台のもとで作り上げられたのである。「嘘の生」がこれほど広範にわたって適応され、社会の「自発的全体主義」がこれほどまで容易に拡大したことと、精神的、倫理的高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくはないという消費時代の人間の後ろ向きの気持ちのあいだには、何か関係はないのだろうか?(33P)

体制からはみ出ない「記号」を共有し、消費社会における安定志向によって維持される下からの全体主義というのは古典的だけれども、今以て、あるいは今こそリアリティがあるのではないか。記号が意味するゲームの規則によって「真実の生」から疎外され、維持される全体主義社会への抵抗は『通達/謁見』で描かれたものの背景そのものでもあり、例えば71ページで語られるハヴェルのビール工場での経験は、「謁見」の元ネタでもあるし、この政治エッセイの基盤にもなっている。

社会主義体制で誰も真面目な働こうとしないなか工場の経営が傾いてきた時に、ある男が真面目な仕事をしようと現状の分析と改善の提案をしたら、工場の実権を握った者たちは仕事に無関心だけど政治的な力を持っていて、男の業績向上のための提案は「中傷文」と見なされ追放されてしまう。ここに、マサリクの言う「慎ましい仕事」、ハヴェルの言う「真の生」をまっとうしようとした真面目な一市民がポスト全体主義体制の壁にぶつかった瞬間が現われている。心ならずも「ディシデント」、異論派、反体制派とされてしまったわけだ。本書の主題は「ポスト全体主義」と「ディシデント」にあり、ディシデントとは何らかの政治的職業などではなく、そして「背教者」という語源のように何かに背くことでもなく、「真実の生」を生きようと決意した姿勢にあり、それは無数の普通の人々だと論じる。

以下の箇所も非常に日本的な現状という感じで興味深い。

ポスト全体主義体制の社会では、伝統的な意味での政治的生活はすべて根絶やしにされている。人びとが公けの場で政治的見解を表明できる可能性はなく、そればかりか、政治組織を編成することも叶わない。その結果生じた隙間は、イデオロギーの儀式がことごとく埋めることになる。このような状況下、政治への関心は当然のことながら低下し、大半の人びとは、(仮にそのようなものが何らかの形で存在するとしても) 独自の政治思想、政治的活動といったものは現実離れした抽象的なもので、ある種の自己目的化した戯れでしかなく、強固な日常という心配事から絶望的に遠く離れたものと感じる。(51P)

以下のくだりも常套だ。

権力の代表者たちは、「真実の生」を目的のある動機――権力、名声、あるいは金銭への欲望――とつねに関連付け、そうすることで、自分の世界、つまり堕落が当たり前の世界へと引きずり込もうとする。(44-45P)

NHKの五輪ドキュメントで反対デモ参加者が金によって集められたという捏造字幕がつけられた問題そのもの、という感じですね。一部の人には、つまり「永遠の嘘をついてくれ」だといえば通じる気がする。


劇作家がチェコスロバキアの最後の大統領にしてチェコの最初の大統領というのはなかなか面白くて、そもそもチェコスロバキアの最初の大統領はトマーシュ・ガリグ・マサリクという哲学者だったわけで、面白い国だ。マサリクについては林忠行の『中欧の分裂と統合』という新書があり、十年前になるけどこの記事で触れた。
closetothewall.hatenablog.com

図書新聞にミルチャ・カルタレスク『ノスタルジア』の書評が掲載

図書新聞2022年2月5日号にミルチャ・カルタレスク『ノスタルジア』の書評が掲載されています。これまでにエッセイや掌篇集が訳されている、ルーマニアポストモダンの旗手といわれる作家の代表作がいよいよ紹介されたわけですけどこれがなかなか手強い作品でした。全五篇が収録されている本書は改行も少なくページ一杯に文字が詰め込まれていて、思った以上に内容がぎっしり詰まってます。とはいっても、最初と最後に収められている短篇、ロシアンルーレットをいくらやっても決して死なない男を描いた奇妙な味の「ルーレット士」や、車のクラクションを演奏することに取り憑かれた男の荒唐無稽なSF法螺話の「建築士」などは面白いです。中核といえる二中篇は、SFやラテンアメリカ文学の技法を持ち込んだ幻想小説ともいえるものですけれども、これがなかなかどういう小説かというと難しい。書評ではその難しさをテコになんとか書いてみました。

本文ではミルキィ・イソベの装幀に触れましたけれども、再読して全五篇のすべてに蜘蛛や蜘蛛の巣への言及があることに気づいてちょっとぞくっとしましたね。

本を二周するだけで時間のほとんどを使ってしまったので、参考文献は以下の二冊くらいしかないのですけど、『ぼくらが女性を愛する理由』には、所収中篇「REM」のモデルになった女性についての話があったり、そもそも非常に読みやすい本なので、ここから入るのも良いと思います。

『ぼくらが女性を愛する理由』の記事も参照。
ミルチャ・カルタレスク - ぼくらが女性を愛する理由 - Close To The Wall

2021年に見ていたアニメ

例年通り、今年見ていたアニメのなかで各クール10数作程度をピックアップして、ツイッターにその都度書いていたことを元にしたりしなかったりしながらまとめた。ネタバレを気にせず最終話の感想も書いてるのもあれば、ある程度未見に配慮しているものもある。いつものことだけど年始のものを年末にまとめたりしているのでわりと記憶が曖昧だったりする。基本的にクール単位で上にあるものほど高評価だけど上位数作以外は適当だし、ショートアニメは下の方に置いてる。年内に上げるために見直しが足りてないし、まだ終わってない作品もあるので後に追記訂正するつもり。いくらか各所見直しつつ、新規に項目を追記した*1

2021年アニメ10選

最初に挙げておく。たぶん放送クール順。

ゲキドル
装甲娘戦機
ウマ娘 プリティーダービー Season 2
BLUE REFLECTION RAY/澪
やくならマグカップ
スーパーカブ
かげきしょうじょ!!
チート薬師のスローライフ異世界に作ろうドラッグストア~
Sonny Boy
トロピカル~ジュ!プリキュア

こんなところでしょうか。通年アニメをここに入れることはあまりないんだけどトロプリはベースが高い上に29話があったので入れざるを得ない。

冬クール(1-3月)

ゲキドル

フッズエンタテインメントで上田繁監督というメルヘン・メドヘン系統の座組で制作され、なんと五年お蔵入りになっていて、赤尾ひかるの初アフレコだったという奇異な経緯を持つ。SF、アイドル、演劇、百合を掛け合わせた荷重積載アニメがかっとばす奇異な傑作。世界同時都市消失という大災害から五年を経た現在、主人公のせりあはシアトリカルマテリアルシステムというホログラムを使った演劇に魅せられ、小さな劇団に入ることになる。せりあは五年前の池袋消失事件でのトラウマを抱えており、また見た演技をまるまるコピーできる。その劇団には色々なメンバーとともに人の心に干渉するドールというロボットまでいて、序盤は貧乏劇団の集客のためにアイドルライブやってみたり元ジュニアアイドルで演劇に転じたあいりとの関係を深めたりしてるんだけど、四話くらいからあいり、ドール、せりあの百合三角関係が始まって俄然盛り上がってくる。あいりがジュニアアイドルという自分を削る売り方から転じて演劇を目指したように、災害サバイバーでアリスの影に囚われているせりあがコピーでない自分自身を生きるために演劇をやる、という筋をたどりながら、ドールの見せる幻想、虚構の眩惑なんかが絡み合う。四話でせりあとあいりがぶつかりざまにキスしてしまうくだりであいりが事故を上書きするように自分からもう一度行くのが良くて、この関係にドールやそれと入れ替わるように元あいりの仲間だったいずみが絡んでくる百合展開の盛り上がりとともに、時間SF的な要素が顔を出し始めるんだけど、ここら辺はなかなか複雑であんまり自分も把握出来てないところがある。SF展開の裏で、劇場も設備もないまっさらなところから演劇を立ち上げようとせりあたちが奮闘するところが微妙にSF方面とも絡み合いつつ、でもただせりあたちが演劇をしてるだけ、という絡み方が最終回の展開になるところはかなり面白い。最終回はなんと百合修羅場で世界が救われる!傑作!って感じで笑いながら見ていたし、SF百合演劇、全部必須の着地だった。世界の消失と演劇による虚構空間の創出が抗争しているのも面白いけど、補完計画的な人類の融合に対して、個人同士つねに和解を希求するアドリブで50億人の魂を取り戻す。「私のせりあに触らないでよ!」が笑った。かをるたちの悲劇に終わった日記を元にした劇中劇からせりあたちの物語を再演しつつ、本心からの主張と三人の関係を踏まえた実名呼びでのアドリブで和解劇へと転化させる、素材、戯曲、実演の三層での演劇がエンリの「台本」を凌駕する。せりあが完璧な模倣から脱して自己の表現を見つけたように、かをるを演じることがオーディションでの改変のように模倣に留まらない解釈を施していく作業でもあって、それが自分たちの未来を創ることに繋がるわけだし、演劇が観客を必要とするから人々が戻ってくるし、演劇が作品構造を規定しているアニメになっている。「夢の続き」というワードがやり直された世界で元の経験から未来へと繋がる接続も良い。「私たちの未来は私たちが取り戻してみせる」だ。震災後の芸術という要素もあった気もするけど、エヴァ的なテーマを継ぎつつ現代的な百合ジャンルで実演し果せた一作というか。災害後の喪失のなかで演劇が生きる気力を与えたり、せりあが模倣と虚構によって罪悪感に耐えて生き延びたそのポジティブな側面とともに、ドールや竹崎のように欠落を埋める見たいものだけを見せる幻想に埋没させる側面もあり、毒にも薬にもなるものとしての虚構って感じもある。自分を騙す虚構や他人に投影する幻想。演劇はもちろんアニメという表現自身とも重ね合わされたものだろう。巨大な傷痕に対してアニメ・演劇・フィクションはいかにありうるか、その活用と依存の二面性も感じた。挿入歌、EDとかが面白くて、地下アイドルとしての曲は確かにそういうB級感があるし、二つ目のEDの制服DOLLは聴いてて村下孝蔵を思い出す曲調に懐かしいデジタル感が添えられてたり、トーキョーロンリーガールもやっぱ懐かしい曲調だったり、主題歌集のアルバムは結構聴いた。あと、アリスインデッドリースクールも見た。ゲキドル劇中劇で舞台演劇のアニメ化でもあるらしいOVA。ゾンビに襲われる高校で仲間が一人一人噛まれて別のものになり殺され、それぞれの親友を失っていく夢と死の死別百合。生死のサバイバル、青春生き残りゲームとしての学校。がっこうぐらしを思い出す。極限状況で着崩れぼろぼろになった制服と頻繁に映る白い下着の制服フェチぶりが画面から滲み出ており、尺もないので接写の多さと状況説明を削って不安感や心情と雰囲気にフォーカスする近視眼的な設計を敢えてやる感じ。片割れを失う話とするとゲキドル本篇とも重なる。OVAの監督は本篇五話でもコンテ演出を担当した山内重保。これは今でも配信サイトで無料公開されている。

装甲娘戦機

ダンボール戦機というものの派生らしく、メカニカルな装甲をまとった少女を描く装甲娘としてゲームなども含めて展開されている作品で、本作の物語はオリジナルストーリーとのこと。スタジオA-CATで元永監督は超可動ガールと共通で、構成むとうやすゆきはローリングガールズやビルドダイバーズリライズの人。池袋で買い物をしていた少女が突然戦時下の異次元な日本に召喚され、そこでは少女だけが身にまとえる兵器で謎の敵と戦うことになる。異世界召喚もので玩具を前提にした美少女もので、子供が戦争に駆り出される極限状況を描いているアニメなんだけれども、一話で全員変身のバンク描写するトンチキな感じとか、主人公がまぐれで一体も倒せないという定型から外れた部分が実はメインテーマになっていて、非常に面白い傑作だと思う。普通に見ていると極限状況にもかかわらずなんだかのんびりしているし主人公は戦闘に習熟しないし、行く先々で観光じみたことを始めるし、とても不真面目な雰囲気とも言えるんだけど、そうした戦時下の日常において子供が兵士になりきらないというギャグ調で描写されていた要素こそが本作のメインテーマになっているのがわかるのはなかなか驚かされる。一話冒頭で主人公リコが友達と西武線基準で乗り換えがどうこうとローカルな話題を話してて、この質感が良いなと思ってたんだけど、異世界で集まった五人がみんな友達がいなかったり修学旅行行けなかったりという共通点があり、戦時下の緊張のなかでそれぞれができなかった「修学旅行」のリトライでもあるという仕掛けが面白くて、「世界の「希望」と「絶望」とを垣間見る命がけの修学旅行」という興味深いキャッチコピーがまさにその通り。三話でも、戦いのなかで犠牲になった人のことを思って食べる気力を失っても、腹の音は鳴るしカップラーメンを食べればメンマが鼻から出てきて、生きることのみっともなさを笑いあう日常で締める名作の香りがしていた。初めて会った五人がそれぞれの事情を少しずつ知り、心を開いていくなかで、戦いと裏腹の旅の楽しさを感じつつもその別れの予感が兆してくる。地元を出たことがないリコと転勤族のスズノの別れに対する感覚の違いが描かれながら、偶然のチームは必然的に別れの予感をもたらすけれども仲違いしても腹は減るしちゃん呼びは慣れるし習慣や惰性という過ごした時間はもう裏切れない七話なんかも印象的だ。いや、三石琴乃のおばあさんが装甲娘になるセーラームーンパロディの回とかも壮絶だった気がするし、三話の「装甲息子」なんかのセンスもかなり良かった。10話、総集篇のように見えた話数で五人を導く人工知能のネイトが、国の上層部の指示に対して抵抗し、「一人一人は紛れもないポンコツです」「それを職業軍人のように扱い、すべてを任務として頭ごなしに背負わせては彼女たちのメンタルが持ちません」と語るシーンは非常に良くて、訓練もしてないただの子供を戦場に投入することをかなり意識的にテーマにしていることがわかる。そのかいもあって、リコは最後まで射撃を失敗して「軍人」になり損ね続けるんだけど、それはネイトの彼女たちを普通の女の子のままにしようとした結果でもあるし、そんなリコたちが最後で装甲LBXをパージして元の世界に戻るのが、武器の玩具と人とのあるべき関係に戻ったみたいで倫理的でもある。異世界の過酷な状況とリコたちの空気の異質さというのはそうした戦争に慣れることや軍人になってしまうことへの歯止めとしてずっとある。最後、放り投げられるように終わるのは、挨拶もできずにもう二度と会えないみんなとの別れをあっけにとられながら受け入れていくリコの心情と視聴者のそれを重ねるもので、この喪失感とただいまの安堵感に異世界、旅、フィクションのその終わりを感じる。装甲娘戦機、放課後のプレアデスをあかねさす少女とジビエートでリビルドしたようなアニメ……と言って言えないことはないと思っている。これは褒めてます。

ウマ娘 プリティーダービー Season 2

監督はそのままに制作がスタジオ櫂に変わった二期、何度も故障し挫折して再起したトウカイテイオーを主人公にそのドラマティックな物語を描いてかなり良い。走り抜けた栄光に影が差すような黒バックサブタイエンドロールで、才能、努力、運と活躍について回る故障の悲劇を暗示する秀逸な一話からはじまり、特に良いのは二話。テイオーが骨折からのリハビリを目指すなかで、テイオーもトレーナーも、スピカの面々も、テイオーが出ていればなどとは言わせないと出走しているみんなも、全員がやりきってこの悲しさを塗り替える情熱のドラマが素晴らしい。松葉杖で歩道を歩いて応援される姿から、車にも勝てない走りしかできない描写や、医者へのテイオーの絶妙な表情とか、耳の芝居が細かく付けられてるところとか、レースで誰もムリと言わないところとか、とにかく真っ直ぐな話をこうもやれるのか。リハビリのイメージトレーニングがテイオーが出走したらどう走るかという「もし」の話へと繋がりながら、同時にそんな「もし」など認めない、という出走馬の意地をぶつけてくる最大のクライマックスがめちゃくちゃに強い。敬意で出走を辞退したテイオーへの最高の返礼。この二話がやはり自分にとっては二期でとても印象的。最初の夢をそのまま叶えられなくても、夢は形を変えていくという話を経ながら、出たくても出られなかったレースがあったテイオーが祝福されないレースを嫌がるライスシャワーを励ますというような関係を作りつつ、テイオーの夢が挫けていくさまを執拗に描いていくわけだけど、10話は二話の再演のようで、テイオーはツインターボのことを名前すら覚えてないし二人の間にほとんど会話が成立していないしレースも映像で見ているという明確な断絶があって、しかし話の通じる身近な人たちの言葉が届かない時、ツインターボが諦めないことを身を以てその足で示したことが届くというこの不在の相手への祈りがやはりとても良い。故障で出走できないことを繰り返した不在の相手をめぐるテイオーとメジロマックイーンのライバル関係そのものの縮図。11話のハロウィンデートの百合濃度の高い回も良い。そして最終話、この奇跡のレースのための二期だったという最終回。一話がウィニングライブの足の違和感から始まってブランク後の勝利のウィニングライブで終わる。この勝利への祝福のライブ作画。記録に残らない二人だけのレースをすべては映さずに終幕、これしかないという感じだ。涙ぐむ実況の言う通り歴史に残る奇跡の復活劇にライスシャワーが祝福の言葉をかけるのが、ライス勝利が祝福されなかったことを思い出すと印象的。勝つことが最大目標のなかで勝っても祝福されるとは限らないライスの存在はちょっと影を残す感がある。充分面白かったし非常に感動的な回も多かったけど、それ故にどうも二期は情緒に寄りすぎてる印象もあって、その弊害も結構あったと思う。勝つこと第一なのと観衆の描写への違和感が散見されるのは、そのためではないか。これは特にライス回あたりから気になってて、現実のギャンブルならライスの勝利を大穴当てて喜んだ人もいそうだけど、それがないアニメでは雰囲気に塗り込められてしまう。観衆の描写に立体感がないところは気になった。

ゆるキャン△ SEASON2

女子キャンプアニメの二期、穏やかな雰囲気なのに体感時間がやけに短いアニメで、安定した作りだけど、一期にほとんどなかった原作特有の広角レイアウトを採用してきたのは予算が増えたからなのかなとか思った。四話のそのままEDに突入して夜から朝への経過を描きながら車にカイロ置いてくなでしこ描いてのCパートの演出は良すぎた。ようやく買ったキャンドルが楽しみすぎて家で灯らせるのと、ことあるごとに世話を焼いてくれた姉への返礼をワンアイデアで解決するのは決まりすぎている。ED入りで切り替わると思ってたら切り替わらない、静止したままの画面に驚かされるのがなかなか珍しい体験だ。ED演出では抜群のものの一つだろう。六話は勢いと甘い見通しが死の危険に直結する冬キャンプが準備と経験の蓄積の賜物だということを描いてきて、なでしこのソロキャン相談に繋ぐ。先生、リン、他キャンパー、人に救われた話。危ない時はちゃんと人に頼ろうねって話だった。そのなでしこのソロキャンプではソロキャンを現地勢と一緒に楽しむなでしこと、なでしこを心配して様子を見に来て合流してしまう二人が近づけば圏外になり、距離を取ることで電波が繋がるというソロの聖域ぶりが面白い。この回、良い回だけどそりゃあ界隈でリン桜の関係妄想が捗るわな、と思えてしょうがなかった。九話での祖父との夜間ツーリングの無言の時間も良かった。3/4に3/4誕生日の二人が出てくるアニメ放送。してやったりか。最後のみんなのキャンプでも全員がいながらリンが個人行動しているのが今作らしいし「少し寂しい」、ソロキャンではそこまでではなかったかも知れないその感覚、集団の旅行のあとだからだろうか。同じことを言ってるのに、なでしこの楽しかったから、というセリフがリンにとって驚きを与えるのが、似たようで違う二人の関係の一端という感じだった。三話でソロキャンは寂しさも楽しむものというのが色々経て違うかたちで同じところに帰ってくる本作らしいポイントからリンのソロキャンプという二期一話にも繋げる最終回。しかし、曲は良いんだけど、ここは曲要らないか音が大きいのではというところ、結構ある。環境音だけでいいのではと思う時がある。

のんのんびより のんすとっぷ

三期にして原作完結と足並みを揃えた完結篇。ゆっくりした時間は背景の醸し出す空気感とともに、相手が話し出すまでのちょっとした時間を待つゆとりにもなるなどいつも通りの面白さで特に書くことがないんだけど、孤独な天才れんげとタメを張るしおりが現われるのは映画が夏海の同い年を出したみたいに、最年少のれんげのさらに下を出すとそれだけで大きな変化を生むということでもある。印象的なのは10話、ほのかが出てきたのはアニメでは八年ぶり?で、ここで前には言えなかったお別れが言えるのは涙腺に来る。一期のれんげの顔アップ長回しではなく、今度はれんげの見ている青い空を長めに映して爽やかに終わらせる。しかしこの話数の漫才が本気というか、ノーカットでこの長さをやる覚悟もあるし笑ったし、まえせつに欲しいのはこの覚悟だったなと思ったりした。れんげの「群青色」の追撃が卑怯。吹雪のなかで延々やるだけで面白いからずるい。「寒くなったりあったかくなったりした」、のサブタイ、寒いも重ねた吹雪コントと一期以来の心残りを「晴らした」れんげのエピソード、って感じで上手い。このアニメ故に最終回でも通常OPを流すことにきちんと意味がある。同じ川に二度入ることはできないという古代の哲学者の言葉を変奏して「日常もの」の最終回を提示するれんげ、見事な結末。廊下のバケツ、久しぶりに見た気がする。初期に卓が廊下を踏み抜いたんだっけ。卒業式で卓がピアノを弾くのも定番ながら自分のために自分で弾くギャグになる。高校一年生を見送って新一年生を迎えに行きながら新生児にも出会う、いつも通りの道の違った始まりを描いて終わる。装甲娘戦機は最後のセリフが、のんのんびより三期はED曲名が、ゆるキャン二期は最終話サブタイが「ただいま」だった。

SK∞ エスケーエイト

プリンスオブストライドかと思ったらボーイズはるかなレシーブな感じか、と思った沖縄スケボーアニメ。荒唐無稽だったり楽しさ第一だったり少年同士のライバル展開などのホビーアニメ的な要素を年齢層高めに向けて適切にチューンしてきて、すごく良いバランスに思える。なによりメチャクチャ楽しいアニメになっているのが強い。ボンズ制作でFreeの内海紘子監督が原作もやっている。父とやってたスノボをその死で辞めたランガと沖縄のスケボー好きのレキとが出会う物語で、二話が何も言うことはない眩しい青春の光景としてとても良かった。沖縄とカナダ、赤と青、スケボーとスノボ、大家族と一人親、新しいボード作り、停滞と無限の可能性、先生から逃げ、脱初心者の初オーリー、夕暮れの光、ぎこちない拳その他その他……。絵も音も有無を言わせぬものがある。スケートシーンが気持ちいい嘘でかっ飛ばしてくれる。それでいて無限に男同士のいちゃつきが流れてくるすげえアニメーションだ。才能で先生役を追い越していく劣等感での軋轢展開を経ながら、父との思い出も介しつつレキが教えたスケートの楽しさがランガを通じてアダムに伝わることでレキがアダムに教える関係ができるし喧嘩だって相手がいないとできないとレキとの喧嘩も楽しさの経験のうちに数えることで肯定していく。ランガとレキ、名前がLRで二人で一つみたいなところがある。

WIXOSS DIVA(A)LIVE

時間の支配者松根マサト監督、叛逆性ミリオンアーサーやぱすてるメモリーズの玉井☆豪構成によるウィクロスシリーズの新作。今までの作品とは繋がりのないポップな作風で、チームを組んで戦って、勝つとライブをやるというウィクロスにアイドル要素を加えている。特に一話は見ててこのアニメ面白いところしかないなと思った回で、Selectorを思わせる初心者狩りとか「墓集」とか横断歩道とかショップ「ヘブンズドア」とか、既存作では洒落にならないようなものがバシバシ出てくるのが差異化ギャグになってて面白いし、主人公が紙を食べ始めて『薔薇の名前』かよと思ったらEDのウィニングライブでトドメを刺された。すべてがアニメしてるアニメって感じだ。いきなり紙をムシャムシャいってしまう少女が主人公のアニメが面白くないわけがない。トンチキ力では今期トップレベルと言っていいし、特に九話のクソデカたいやきは、八男でヴィルマがクソデカマグロ持ってくるシーンにならぶクソデカ魚アニメで良かった。作中で巨大さに特に言及がないのにしれっと異常に巨大なたいやきがそこに存在しているというだけで無限に面白くなるのなにかのバグみたいだった。紙食ったのとたいやきと土下座で記憶に残るアニメだった気がする。ドカンと強いわけでもないけどだいぶ楽しさがある作品だった。OP曲はよく聴いてる。悪魔のリドル以来の負けたらデビューの伝統というか、ミニソングアルバムもよく聴いた。

無職転生異世界行ったら本気だす~

小説家になろう発の小説原作の異世界転生アニメで、この作品のためにスタジオを設立したという気合いの入れようが画面にみなぎっている破格のクオリティを持っており、とにかくも一見の価値はあるだろう。ワンクール目が冬で秋に二クール目が放送された。原作がなろう系のメルクマールらしく、異世界転生での人生のやり直しというフレームをかなり真面目に展開してみようとしている。いじめられた引きこもりが異世界転生して今度はまともな人生を生きることができるのか、という。ただ、前世の意識として杉田智和が担うエロガキクソオタク性というのがなかなか厳しくて、作品には本質的に重要だとしても見ていてこのノリがどうにも合わないというのも強く感じた。透明人間のように子供を隠れ蓑にしてタチの悪いオタクが好き放題してるみたいな感触があって、声優が別なせいでモノローグの主体がずっと安全地帯にいるような印象がある。映像としての出来は抜群ながらあまり上位ではないのはそこら辺も影響している。わりと好みが分かれる作風だと思う。前半は特にこの違和感が厳しいなと思ってたけど魔大陸に飛ばされたあたりからは状況の過酷さが先に立ち、そこまで気にはならなくなった。ただパウロとの再会の16話はパンツ仮面とかのはしゃいだノリがごっそりと裏返る仕掛けだけどそもそもそのノリ自体をどうかと思って見ていると軽口トークにしろなんにしろ展開がいやにわざとらしい気がしてしらけてしまう。その家族離散の憂き目に遭う父パウロと主人公ルーデウスの和解を描く17話は、マスターの助け船、前世で「次」がなかったことを思い出して今ここで父と仲直りすることに転生の意味があるけど同時に仕切り直そうという大人の対応を父に向けている大人びすぎていることも描かれてて、二度目の人生の複層的な描写がある。獣人の村でギレーヌの変化を描き、ロキシーの家族との和解も重ねて、家族と変化を描いていたわけだけど、22話ではそのテーマがメインヒロインエリスの家族が欲しいという願いとともに念願の性交に至る。この時ワインと杯の演出があからさまに性交の隠喩で笑ってたら、冒頭の「夢」のなかでこぼれるワインとともに失われる親しい人たちというのが、「現実」においても同じようにエリスを失うことと重なって、サブタイ通りの二重の意味が掛かる。最終話は、いじめられて引きこもっていた前世の家族の思い出から、今世でのまだ見つかっていない母ゼニスのことがルーデウスを絶望から踏み出させる、前世と今世の重ねられた一歩が感慨深い演出だった。ここは良かった。ただ、パウロオルステッドの回とかもそうだけど、しばしば話の都合でキャラが動かされてるようで違和感を覚える。主題歌がとても良くて、場所ごとに歌が変わるという凝りようだ。ベストはやはり初期OP、大原ゆい子の旅人の唄だろう。サビのメロディにトラッドな楽器の演奏が加わって涙が出そうになる。狼と香辛料のOPとか魔法使いの嫁のEDとか、Zabadak好きな人は好きなやつ。

IDOLY PRIDE

普通のアイドルアニメじゃないというような鳴り物入りのキャッチコピーで出てきたアプリ連動アイドルアニメで、一話で主人公牧野がプロデュースするアイドル長瀬麻奈が事故死して、しばらくしたらその幽霊が牧野の目の前に現われる、そして、というなかなかトリッキーな導入を持つ。監督木野目優はあそびあそばせの副監督、構成は髙橋龍也、QP:flapperキャラ原案、木野下澄江キャラデザ、制作はラルケ。多数のキャラが出てくるアイドルアニメのわりにメインの数人以外のキャラが覚えられなかったりどうにも手応えのないアニメな感じがしていたんだけど、牧野と麻奈の物語が終わり、さくら琴乃ほか麻奈の影を追っていた人たちがようやく自分たちの物語を始めるというのは良い。ほぼ四人の話だし、ゲームの前日譚なのかなと思ってたけどアプリゲームで読める話をなんとかワンクールに圧縮したものらしい。幽霊が見えてる主人公と幽霊が見えるアイドルとか出てくるユーモラスさというか、心臓移植のオカルト展開の面白さがなんとも不思議な味わいがある。ちょっと物足りないアニメだったけど楽曲は良くてサブスクで聴けるやつをよく聴いてたんだけど、年末に長瀬麻奈を演じた神田沙也加が急死するという報道があった。このアニメの伝説の歌姫アイドルポジションに早見沙織とかではなく神田沙也加を置くセンスや麻奈曲は良いと思ってただけに、とても悲しく思った。心臓ネタや根本のネタが他のアニメと被るなど色んな事故を起こしたアニメだ、とか言っていたらそういうことになって、2021年でも期せずしてきわめて記憶に残るアニメになってしまった。

ワンダーエッグ・プライオリティ

作画のクオリティでは無職転生とタメを張る野島伸司原案脚本、若林信監督、クローバーワークス制作アニメ。友人が自殺してしまった大戸アイがある日不思議なエッグを手に入れ、迷い込んだ異界で敵と戦う、魔法少女的な文脈がある。いじめを見て見ぬ振りするという悪意と戦うあたり、なるほど90年代ドラマ感がある。映像は凄いし音楽も面白い、距離の近い小糸の蠱惑的な百合っぽさもなかなかのものだけど、いじめ、自殺、友達の話と色々えぐいものを突っ込んでいく作風にどうもあんまり好感が持てないところもある。アイ、ねいる、リカ、桃恵という四人の関係が描かれるところは良いし、アイが見なかったことにしていたことに向き合う六話とか、二人ならファンタジーというねいるの過去篇九話も良かった記憶があるけど、色々な要素が消化不良で残ったのは何故なのか。12話の、自殺した世界のアイと向き合って、友達、親、大事なものから得た強さで戦うことを決意して、自殺テーマの作品で自殺した世界の自分と向き合うってのはなるほどなと思った。オッドアイの二つの眼が別の世界を見る。むしろここで終わった方がキリが良かったのではと思わないでもない。ちょいダサ決め台詞にあるトサカと肝ってどっちも鶏の部位だしワンダーエッグも鶏卵かも知れない。

ぶらどらぶ

押井守原作、構成、総監督、西村純二監督によるオリジナルアニメ。佐倉綾音日高里菜のホームレス美少女吸血鬼を拾って歓喜するするドタバタギャグアニメで、作画コストを省きまくる作りが面白い。実写背景、空撮、画面内コマ、画面が往年のテレビまんがって感じがする。ビッグネームからこれが出てくるっていうのが良い。押井作品は昔パトレイバーの映画を見たくらいだけど、衒学というかとにかく趣味で話作ってる感じで清々しいほどだ。トリュフォーネタをちりばめた話や、つげ義春で一話作ったり諸星大二郎の名前が出て来たり。九話のつげ義春パロは押井守が脚本コンテやって押山清高一人原画で作る回だった。しかしこんなにずっと映画パロで話作ってていいんだ、って思わせるアニメで、最終回も吸血鬼マイの悲しい来歴、インタビューウィズヴァンパイアと風と共に去りぬのごた混ぜパロなのかなって感じだった。単に個人的な印象だけど、庵野秀明はもう映画しか作らないようでちょっと遠くの人っていう感じがあるのに対して、押井守はぶらどらぶみたいなちゃんとくだらないアニメシリーズを作っている点、毀誉褒貶あれど嫌いじゃないなあって思ってる。

蜘蛛ですが、なにか?

板垣伸監督ミルパンセ制作の悠木碧が喋り倒す異世界異種族転生アニメ。蜘蛛としてゲーム風な管理者やレベルアップシステムがある世界に転生した主人公が敵を食ったり生き延びてレベルアップして異世界を攻略していくのを基調に、クラス転生でもあって異世界で時には異性に転生したりしているクラスの人間たちが策謀に巻きこまれたりする様子を並行して描いてく。面白いけど人間パートが面倒な話であまり頭に入ってこないところがあった。それはともかく、特にテレビアニメっていかに少ない枚数で動いたかのように錯覚させるかっていうごまかしの技術なわけだから、今作の板垣コンテのような省力を尽くしつつ動きや迫力をあるかのように見せる工夫の数々こそがアニメの面白さではないかって思わせられることがある。最終回も延期しただけに作画が破綻するかどうかのギリギリのせめぎ合いを省力カットのさまざまな技法で見られるスリリングさはさすがのものがあった。

裏世界ピクニック

ストルガツキー兄弟『ストーカー』風の状況を用いてレム『ソラリス』を「実話怪談」を用いて展開する百合SF小説原作アニメ。ウィクロスアニメの第一作スタッフによって制作されたもので、空魚花守ゆみり、鳥子茅野愛衣といったキャスティングは良いんだけど、原作を知ってるだけにその面白さに対してアニメはやや精細を欠く印象。文字や漫画だと成立するものも映像にするとちょっと見えすぎてしまうところはまあ、難しいところではある。音の雰囲気作りはウィクロスっぽい。ホラー展開の不安感と展開を端折ったことによる説明不足感と小説の一人称でないことによる不連続感が合流して、初見の人にはなかなか難しいかも知れない。10話、原作者オリジナル回で小桜さんの活躍の場を増やす名采配は良い。ホラー要素増量で小桜さんの恐がり善人ぶりを提示してきた。しかし焼肉食いに行くだけのはずが命の危険に振り回されるの日常生活が無理ゲーすぎる。最後、一人になってしまった場所と一人になりたかった場所で出会った二人にとって裏世界は恐怖も怪異もあるけどなにより二人の世界なんだって感じの、百合アニメとしての良い締めだった。原作者が百合が俺を人間にしてくれたっていう発言と重なるものがある。

キングスレイド 意志を継ぐものたち

年をまたいだのでここでも。父を知る人たちからその意思を継いで主人公の少年が旅で得た経験と仲間とともに父を越える戦いに挑む王道ファンタジーで、旅の過程も含めて何十時間かかるRPGゲームのストーリーをちゃんと体験している感触がある。最終話でもOPもEDもCパートもあるという悠揚たるつくりが全篇にわたって貫かれてたような2クールアニメだった。地味だなあと思いつつも毎回なかなか悪くない、がどんどん着実に積み増されていくような。RPGゲーム的な定番のストーリーって感じだけど、アニメならではのダブル主人公でダークエルフ陣営とを交互に描きながら民族対立のプロセスを描いて、合流へと至る流れは盛り上がりがある。イリアの思いが届いたな、でリヒトが笑うけど、いつぶりだろうか。クレオの賑やかしも楽しい。

D4DJ First Mix

年跨ぎアニメその二、というかブシロードのアレなアレで一月に最後の三分の一が食い込んだワンクールアニメ。終盤のところだけまとめておく。10話、変わらないと言われたりんくと「壁の向こう」へ変わっていく麗のみならず、ピキピキでのたまには違うこともというセリフや、クールでスタイリッシュなイメージと曲がそれにぴったりだといわれて曇るフォトンメイデンなど、「らしさ」をめぐる描写がそれぞれ細かく重ねられてて良い。12話は些細なことで喧嘩になる繊細さと、ラップバトルからのデュエットで仲直りというリアリティを説き伏せるアニメ力が渾然一体となった回。約束を大事にするりんくと、約束を破ったことを気に病んでて「約束」でガードが破断してしまうむにの心情。ラップバトルとDJをこう活用するとは。最終回、人の少ないところから人の多いところへきて、一人で回ってたのがみんなと回れたというりんくの言葉から、そのみんなが関わったすべての人を示すために、登場ユニット同士を繋ぐメドレーライブで締めるの綺麗な終わりだし、真秀ソロEDの対になる全員登壇ステージは良い。アニメは良かったと思うけど、DJってこうなの?という疑問はあったな。

短評

幼女社長 一話から13話、元日に全話一挙配信をかました豪毅なショートアニメ。五歳児の社長日高里菜金元寿子が延々ツッコミを入れるアニメで楽しかった。五歳児が大人に「なんで喋るの?イヌなんだから返事はワンでしょ?」と冷たく蔑む日高里菜の貴重なドSシーンが収穫できる。「連日食パン200斤が届く地獄が始まった」も笑った。「野ワニ(やわに)」、そんな言葉があるのか。野ワニCV古賀葵、なんだこれ。12話で再登場して母の頭にかぶりついてる野ワニがおじぎでしなったのには耐えられなかった。

PUI PUI モルカー 新年の話題を攫ったショートアニメ。街中でモルカートレーナーを着た人を見たくらい世間的にも流行っているようだ。ファンシーなようでゾンビ回、バックトゥザフューチャーパロ、AKIRAポスターなど、色々趣味が混じってるし、空中サメ戦艦が出てくるSFミリタリー回もすごかった。空中サメ戦艦回、メカの描写がすごいしAKIRAブレーキまで突っ込んできて笑った。ヘリ墜落、爆煙のなかからサメ出現のシーケンスはキマってるよ。空中遊泳モードから羽根固定してビームの機構も凝っててすごい。

怪病医ラムネ 漫画原作でなんと音楽が織田哲郎というのは置いておいて、目からマヨネーズが出るとか、陰茎が竹輪になるとか、突拍子もない怪病を解決する過程でバカバカしくてちゃんと面白いアニメ。しかし主人公の名前がラムネだし、原作者の名前が阿呆トロだし、作中の怪異はだいたい人体が食べ物になるし、トータルコーディネートが徹底しててすげえよ。そうした怪病の象徴の食べ物を中心にした人の繋がりこそが重要だという落着も見事だった。

アイドールズ! シンエイ動画が原作・制作で81プロデュースがキャスティングを担当するショートCGアイドルアニメ。結成三周年で客三人のアイドルが100人の箱を埋められるかという導入でのちょいとアドリブを交えたらしいギャグが基調になってて、エクスメイデンを楽しんだ自分にわりと嬉しいアニメ。なかなか良かった。水野亜美という声優がいるのにみんなが驚いている。ED曲が良いな。

怪物事変 亜細亜堂藤森雅也監督、半幼や雪男子や吸血鬼やら乃少年少女が出てきて、怪異現象を解決していくアニメなんだけど、バラエティ豊かなショタキャラでお前らを萌やし殺す、みたいな作品すぎる。しかも諏訪部順一が従えてる。高い安定感があるアニメで面白い。

SHOW BY ROCK!! STARS!! ましゅまいれっしゅのキネマシトラス制作だけど監督や構成は無印のスタッフになっており、ノリもそちらに寄せられていて、その分ましゅまいれっしゅの良さがだいぶ減じているところがある。プラズマジカとましゅまいれっしゅメンバーが出会うオールスターアニメの楽しさがあり、ましゅまいれっしゅの田沢大典が脚本担当した回などはその面白さがあるので、まあまあ好き嫌いが分かれるところはあるけど、ほわんたちが出てくるだけで加点だとは思った。盗み食いした蟹にカニカマ詰めるましゅまいれっしゅの面々は見たくなかったといえばそれはそう……。最終話でましゅまいれっしゅの新曲に全ヴォーカルが繋がってくるところは良かった。このアニメそのものみたいで。

じみへんっ!!~地味子を変えちゃう純異性交遊~ 今期僧侶枠、三話でヒロインがちくま学芸文庫大澤真幸『恋愛の不可能性について』読んでるのかなり面白い。著者はセクハラで大学辞めた人。読んだことないけど、表題とそこも踏まえて作中に出してるのかな。手を出しておいて好みじゃないと言い張るアレな男を描く話だし、気の利いた小道具だ。

どうかと思ったもの

弱キャラ友崎くん

人生はクソゲーだというゲームのトッププレイヤー主人公が、ある同級生との出会いによって、人間関係をゲームのように攻略してステップアップしていくラノベ原作アニメ。Project No.9制作、キャラ原案がフライで矢野茜キャラデザ。いわゆる脱オタ的な流れがあると思うんだけど、勝ち組だとか負け組だとかリア充への僻みで話作るのキツいなと思った。会話も技術ではあるのでそこにはいろいろなノウハウがある、というのはそうなんだと思うけど、その人たちとそんな話をしたいか、というところに根本的な疑問が湧くところはある。初手で相手を否定してやるべき課題に誘導しメンターつけて実地に訓練させていく感じ、なにか……と思ったら自己啓発とかマルチとかサロンその他のカルト的なものを思わせるところがあり、それをラノベスクールカースト、モテテーマでやってる気がする。トッププレイヤーなのに今の時代、ネットコミュニティと関係なしにゲームでトッププレイヤーできる?っていう根本的な疑問とか、葵みたいに近づいてくる人がいるはずではとか、トップのわりに取り柄のないオタクっぽすぎてとってつけたみたいな設定だなとか思ってたけど、価値観を染める話だから別の人間関係があるとまずいんだなと思った。四話でもゲームと人間攻略を努力の尊さという点から同一視することで、片方のアレさを誤魔化す手続きに見えるし、このアニメのゲーム要素、だいたいそういうツールに見えてしまう。最後二話でようやくまともな場所にたどりついた気はするけど、いろいろ胡散臭いところがあって馴染めない一作。

春クール(4-6月)

BLUE REFLECTION RAY/澪

「だが私は信じたい、善とは名ばかりではなく、幸福は夢ではないと」、バイロン「私は世を愛しなかった」。
岸田メルキャラ原案によるガストのプロジェクトの一つで、原作ゲームのスピンオフ的なエピソードらしい二クールアニメ。吉田りさこ監督、構成和場明子、菊田幸一キャラデザ、J.C.STAFF制作。失踪した姉を探している平原陽桜莉が、転校してきた羽成瑠夏と出会い、直情的な陽桜莉と不器用な瑠夏と対照的な二人がリフレクターというものに目覚めて少女の「想い」を守る戦いに巻きこまれていく。魔法少女ものの文脈に連ねながら、母が消え姉も失踪した陽桜莉の境遇や、貧困や虐待など社会から零れ落ちた苦しみを描きながら、その助けを求める人の手を掴むことができるかという極めてシンプルで力強い主題を貫き通した二クールだったと思う。人の想いを守るために戦うリフレクターたちと、人の苦しみを花にして抜き取っていく敵チームとの抗争が基軸にあり、苦しみを抜き取るのは苦悩を癒すようでいながらその人自身の固有性を奪うことでもあり、苦しいこともその人自身の想いだという信念をいかに持ちこたえられるかという。非戦闘キャラの白樺都がネットを通じて人を助けることが出来た五話もとても良かったけど、圧巻なのは敵チーム山田仁菜の境遇を描いた六話だった。七夕の短冊の話から始まってバイロンの詩をちりばめながら「あたしののぞみ」を失うまで。貧困母子家庭の虐待、水を吸わせたティッシュを食べて空腹を紛らわす描写などの後、母が恋人に刺されたために住む場所を失った仁菜が行き着いた場所で、同じ言葉を返し詩をユニゾンする似た境遇の子の「望」と鍋を囲む一時の幸福な生活が描かれるけれどもその「望」もまた消えてしまう。この話数、悪いのは病気でママじゃないと言われて母が泣く描写に、母もまた孤立した被害者という視点を置いており、母子家庭の貧困のテレビニュースで「子供食堂などの民間による自助努力が求められることになっています」と流れるくだりは現代日本への痛烈な皮肉になってる。脚本水上清資。シングルマザーが貧困や精神疾患などに陥り、福祉への接続も失敗しているという社会的側面を描写しながら、ニュースでは「民間による自助努力」を言っているというすさまじい描写は今まさに政府や議員が子供食堂を支援とか言う状況の邪悪さを抉っている。社会問題を直接描くわけではないけど、物語の社会的位置づけにきわめて自覚的なのがうかがえる、大人の脚本だと思った。それでいて結構トンチキなところも多いコミカルさも好ましいところで、七話の主要キャラがコンビニで言い合いする場にかちあって、無言で気まずげに店を出て行く眼鏡客には笑ったしあの場面を入れられるセンスは素晴らしい。12話、仁菜の話をすべてにさよならをいう絶望から、善と幸福を信じる希望へのバイロンの二つの詩を使った応接で心情の反転を描くのが素晴らしく良い。望の部屋で知り、美弦にも褒められた決して捨てることの出来ない思いの象徴。六話から12話へ仁菜の軸を通して締めたワンクール目だった。後半戦は陽桜莉と美弦、両親のいない姉妹が貧しくもお互いを幸福の拠り所としながら生きていて、そして相手のための思ってしたことがお互いの絶望のきっかけになる悲劇を経ながら、22話では敵ボスにも見える紫乃の境遇が六話以上に陰惨な状況として現われる。老い、病、貧しさ、無知を弱者、悪として排除すべきだという弱者排除の思想を持ったカルト宗教を子供を教祖に立ち上げる話がメンタリストDaiGoの件のあとに放送されるのは時代とのシンクロが凄かった。スタッフは驚いただろう。紫乃の母は紫乃を子供教祖に仕立てつつその双子のもう片方加乃をていのいい身代わりとして利用し痛めつけ、果ては神の犠牲に捧げる。この苦しみ、悲しみ、痛みのない世界を説く教祖ネクナンこと紫乃に対して、「痛みこそ実存」と言い自傷癖のあるドMの変態キャラで「マゾっ子ウタちゃん」とも呼ばれ度外れた存在感を持つ享楽主義者駒川詩が、カルト教団の思想に対する徹底した対立者になるのは上手すぎてこのためにいるのかと感心してしまった。加乃と紫乃の分離を詩は否定している。トリックスター詩の存在が本作においておそろしく核心的ではないか。駒川詩が「詩」という名前を持っていることはたぶんとても重要で、仁菜と望や美弦との重要な絆としてバイロンの詩があったことと繋がり、痛みと教祖を分離させる生の軽視、優生思想的ファシズムに対する、汚れ、痛みのノイズを仕掛ける闘争としての「詩」になっている。この仕掛けには唸る。六話以上にヤバイ回でそうだろうなと思ったらやっぱりそうだったこのアニメのヤバイところ脚本担当水上清資。この人の回は明確に社会、政治的批判意識がある。失踪する親や虐待される子など、毒親的なもののテーマは元からあって、貧困に「自助努力が求められる」など社会的な問題と繋げてもいたれど、カルト教祖に担がれた子供という形で毒親社会福祉の問題を直結してくるとは思ってなかった。弱者への共感を悪として植え込まれた子供が弱さを罪とし、自らも排除すべき悪として自殺に至る展開のえげつなさ。「大人の悪こそが世界を狂わせた。老いることも、病むことも、貧しいことも悪いことじゃない。本当の悪はそれを弱い者呼ばわりする、歪んだ思いだ」という言葉。そして最終回、人一人を助け出すことを通じて、「変わらない現実、逃れられない運命」という拒絶から「この世界だって思いがあれば変えられる」という変革への意志を強く持つことへと至るのは、家庭の問題や社会福祉という背景に置かれた文脈を考えると非常にストレートな意図を思わずにはいられない。「想い」というとぼんやりしている感じだけど日常的な言葉としてはこれ以上言い換えられなくて、「私」の思いが他人と繋がるという個と連帯の最小単位なんだろう。それがバトルや言葉という対話、コミュニケーションの試行を通して繋がりうる、という希望の。他人を決めつけたりあなたのためにというような個々人の個性を蔑ろにすることを徹底して拒絶し(想いはその人だけのもの)、その上で繋がりうる誰かへ手を差し伸べることができる。このアニメは、畢竟ひとりで自殺なんてしないでという叫びにも似た祈りの話だったのかも知れない。そういうお節介な者たちの。ただ、自殺はダメでも駒川詩はあり、っていうラインがある。痛みこそ実存というのは逆に生への希望だから。詩は自殺なんてしないだろう。福祉などでよく言われる、人を助けるという側が陥る傲慢さについてもちょくちょく釘を刺していたし、最後に美弦が自分の思いを直接ぶつけていく覚悟が必要だということも、この世を否定し人の手を拒絶するまでに追い込まれた絶望や不信に対するにはそれが必要だと言うことで、その絶望に説得力を与えた上での描写は二クールあってのものだろう。非常に傑作だと思うけれど、なんか話が頭に入ってきづらいアニメだなというのが序盤の印象で、それ故に毎回二周するようにしていたくらいで、平坦だったり分かりづらいという意見があるのもわかる。数話ピックアップしてるだけなのにやたら長くなった。ゲーム版は胸が揺れまくるセクシーさも豊富に含まれてるのと対比的に本作は変身後が結構な露出度なのに全然エロく感じさせないなと思っていて、貧困虐待などの少女の社会的苦境を描きながら性的虐待やセクハラは本作では扱われておらず、それはかなり意識して採られた方針だと思っていて、この内容であまりにキャラクターがエロく描かれていたらそれは話と絵とで非常な欺瞞的な齟齬が生まれてしまうことを懸念してのものではないかと思った。
https://twitter.com/inthewall81/status/1395362890819928072


なお最初に引いたバイロンの詩はアニメで引かれたもので、本篇に出てくる彌生書房の阿部知二訳の本とは文言が二字ほど違う。

やくならマグカップ

焼き物の街、岐阜県多治見市を舞台にして美濃焼に取り組む高校生女子たちを描く作品で、30分番組をアニメと声優の多治見での観光や焼き物体験の実写パートとで半々という構成になっている。神谷純監督、荒川稔久構成は懐かしのブルーシードの組み合わせだ。吉岡彩乃キャラデザ、日本アニメーション制作。多治見の街や産業を支援する地域活性化プロジェクトの一環としてフリーコミックで頒布されていた漫画を原作としていて、いわば街おこしアニメとも言えるんだけれど、街の紹介、陶芸への取り組みには真摯なものがあり、登山、釣りなど連綿と作られてきた女子趣味ものアニメのなかでもきわめて出来が良い。15分に凝縮された密度がある。主人公豊川姫乃は父の脱サラによる転居で母の故郷多治見にやってきて、そこで一〇年前に亡くなった母が陶芸家として有名人だったと言うことを知り、陶芸の世界に関心を持つ。そういう導入から多治見を知り、陶芸を知り、母の仕事を知り、陶芸を経ながら母の凄さと残された父子との関係を描いている。二話では陶芸も直子という幼馴染みも、身近にあったものを再発見していくという話で、地元の隠れていた焼き物を発見して、幼馴染みの私を再認識してくれという二人の話になってるのも良かった。直子は焼き物にかかわらないけど隣の家で子供の頃の姫乃を知っていて、近くから応援する重要なキャラで、昔から陶芸をやっている十子先輩というキャラもいる。四話では、姫乃の思いを込めた一作も、長年やってきた先輩には敵わない歴然とした差があることを痛感して上手くなりたいという切実な動機に繋がるのが良い。この回では母の焼き物が割れたり十子の茶碗で食べても涙を流さない父や、悔しさで一杯の姫乃の顔を映さない代わりに雨が降っていて、ちょくちょく流れる水が映されるのもそういう、表に出ない底流の感情を示唆したものだろう。父も泣きそうなのを誤魔化すように茶漬けをかき込んでいたし、雨の降る窓をバックにシルエットだけ映すラストカットと、湿りすぎかねないところを背景にだけ映す演出が秀逸な話数でもあった。五話では、姫乃のスランプを先の見えない山登りに喩えつつ、先の見えない道でも時々休みながら歩き続けていけば何かが見えるかもと締める話、手堅い。先が見えないのは視聴者も同じでその不安が蛍の光景に溶けていく。六話は母の作った巨大なモニュメントで蟲師のような不思議な音が鳴る。そんな圧倒される創造物も土という自然から作られ、その点前話の蛍も含めて風と光と陶芸の融合の瞬間が描かれる。八話は夏の幻想、ファンタジックな話になるかと思ったら突然の水着回で他地域住民困惑のローカル番組ネタを突っ込んでくるカオス回だったのに意表を突かれた。終盤では姫乃の奇抜な発想で焼き物の座布団というアイデアを展開していて、身近なもの、使われるものというテーマが、四話の自分の作物が十子先輩にはかなわなかったことのリベンジとして、座布団が壊れても父に座りたいと思わせることが出来たという達成感も感動的だった。十子と姫乃で祖父or父に認められたい、という話になってるところはいくぶん気にならないでもない。作画、演出、脚本、非常にバランスがとれた作品だという印象がある。声優実写パートも結構面白いし、こういう観光案内があるからこそ市の支援などがあるのか、この良作の二期が作られることになるわけで足を向けて寝られないな。二期は10月に放送されたけれど、どうも一期の制作がかなり進んだ時点で二期が決まったらしく、15分アニメだからか放送前に二期が決まっていたけど制作当初から決まっている分割二クールではないらしい。二期は秋クールの欄で書く。

スーパーカブ

親が蒸発して地方都市の団地で一人で暮らしている趣味もない高校生の少女がカブというバイクと出会い世界を広げていくライトノベル原作アニメ。藤井俊郎監督、制作はウマ娘二期のスタジオ櫂。これはアニメの前にコミカライズ版を読んでいてある程度内容を知っていたので、だからこそアニメ版の仕上がりには驚かされた。一話はこの作品の縮図とも言えるエピソードで、とにかくも一話だけでも見てもらいたいような完成度になっている。高精細でくすんだ背景、環境音に絞った音響、セリフも少なくゆったりとした展開に寂寥を滲ませながらカブが世界を彩るのとともに劇伴が鳴る。閉じられていた方の部屋のカーテンがバイクを見るために開かれるのも印象的。二話も、主要な展開やセリフは同じなのに驚くほど漫画版(原作は小説)と違っていて、語りのスタイルが完全に変わっている。モノローグや説明やお約束な描写をバッサリ切って全体を完全に組み上げ直している。淡々としながら情感のある劇伴ともども、強靱な地味さに感動的なものがある。なんでもないことなのにちょっと涙が出そうな力がある。音、絵、時間の使い方に説得力があるというか。カブはどこにでも行ける、という礼子のキメのセリフに返答をしないまま時間を取って、交差点を曲がって知らない店に行くことで返事に換えるあたりの描写などもいい。四話では雨に降られてイヤーな顔してるのと雨具を買って嬉しそうな顔の対比が雄弁に語る。丁寧な過程の描写だけでしっかり見せるものを作れている。よく言われるように中盤あたりからは主人公小熊のアウトロースタイルが顔を出してきて結構賛否が分かれるようになる。風邪で諦めかけたけどすぐ治ったことで修学旅行にカブで行くというあたりとか。でもカブという自由を得た人間が学校のルールごときには縛られないわけでこれは良い。抜け出して二人乗りで海辺を走る、きらきらした二人の世界が百合めいて鮮やかでもあった。やめろって言われたらやめるか、と聞かれて「次からやめるかな」のしれっとした返しとか胆力があって笑ってしまう。ただ11話の冬の川に落ちた椎という子をカブの前カゴに入れて走るシーンはやっぱり殺す気かとしか思えなくて違法な二人乗りよりまずこれだろ、と思ったりした。アウトロー的なところよりも妙なカブ至上主義が出てくるのが気になる。アニメの後半はリアル寄りの演出や描写とそういう原作の厄介さとが齟齬を来していく過程という感じもした。かなり弱毒化に頑張っていたけど。最終話は冬に春を手に入れるために鹿児島佐多岬までカブで行く旅路で、いやにあっさり着いた感はあるけど、いつも行くことのない知らない角を曲がると本州の端までの旅になる広がり方は良かった。「自分で何かを望む」のを助けてくれる足、としてのスーパーカブ。気にあるところは多いけど、この作品はロボットを操縦して大きな力を得たり、プリキュアが化粧をして変身するように、カブに乗ることで変身する話だったんだろうし、それが友達の命を救ったり春を捕まえに鹿児島までするっと行けてしまう魔法の話だったんだと思う。何もない子に与えられるカブという魔法。シンデレラというにはクセがありすぎる気はする。魔法の機械じゃないとは言うけど、だって世界の色が変わるんだしね。OPで「まほうのかぜ」という曲名が出るときに世界が色づくんですよ。リアリスティックな描写で勘違いしていたけど、そう思えば終盤のアウトロースタイルも飲み込める気がしてきた。思えば監督は18ifの三話を担当した人で、急に良い話が来て驚いたのを覚えている。両親がなく世界の色を失った少女が色を取り戻すというところも同じだしドビュッシーが流れるところもバイクに乗るところまで同じだ。依頼を受けて原作を読んだ時に18ifの演出方針で行けると思って引き受けた、とある。
最近読んだ本 - Close To The Wall
原作小説一巻を読んだ時の感想はここに書いた通りで、「最初のバイクに愛着を持つこととカブというバイクが優れている、と思うことは違うし、カブ乗りに仲間意識を持つのはわかるけど、それが「優れた機械」という選民意識と繋がってるのがどうにも厳しい」、と思った。趣味ものとしてここら辺はどうかと思うし、原作のパンク少年のくだりとかはカットして正解だった。

ゾンビランドサガ リベンジ

死して後復活したゾンビアイドルが佐賀を救うために活動するアニメ二期。スタジアムでのライブが失敗して借金を抱えたという雑な導入がどうかと思うものの、普通に働いて地域に溶け込んでる面々が描かれる一話序盤は笑える。二話の、老いていくラジオパーソナリティホワイト竜とずっと大人になれないサキで、死者と生者の溝を改めて描きながら、人が入れかわっても守られるべきはぐれ者が再起する場所の話、作品全体のグランドデザインを提示したような回や、愛のもといたグループアイアンフリルと愛の争奪戦を描いた四話での、フリルメンバーが愛を「あの子は過去よ」と言うのと愛の「あの子たちは進み続ける」との対比。河瀬茉希の声が格好良くてグループを支える芯がある。ソロの象徴からグループを主導する存在になり、アコギをエレキに持ち替えて純子が愛を取り戻し初期曲がエレクトリックにreturnしてくるのも見事だった。五話では成長をめぐる絶対的な差を持つゾンビリリィと子役ライト、二人の子役の光と影、「さらなる未来へ飛躍する」勝負に勝つのはリリィではないんだけど、演じられた「ネバーギブアップ」をアドリブで打ち返すリリィによってライトもまたスポットライトへの道を歩むことになる。「今にしか生きてない」子役をライトは非難するけど、停滞を生きながらもアドリブによって全力で今を生きるリリィがいる。一時限りの子役を脱して「ビッグに成長」する、変わるものと変わらないものが光の当たり方で隔てられてるのは父とリリィの一期を思い出させるし、老いのホワイト竜との対比も感じるけど、フランシュシュという決して諦めない仲間が支えになる。六話の異常なのに地元に溶け込んでるたえ回は良いギャグ回だった。そうした生者と死者の対比を描きながら、フランシュシュに新人が加入する七話は、フランシュシュを生前懸命に生き抜いた人間として捉え、佐賀に絶望していた舞々に、怖いのは諦めて「動く屍」になること、何度でも立ち上がって死んでも夢を諦めないさくらの意思が生きる覚悟へ伝わる。一期一話のパロをしながら花澤香菜のゲストを介して、ゾンビという言葉を不屈の象徴として捉え直す。佐賀事変篇では明治において佐賀県が地図から消えた歴史を背景に、ゆうぎりの生前の姿を描きながら、佐賀という名前ひいては自分らしくある、自分を取り戻すっていうのがアイドルと接続される。現在から過去へ遡り、過去から現在へ繋ぎながら、曲のなかで生まれによらず「誰もが思うまま自由に生きる世界」が明治時代にも流れ込んでいるライブシーンが良い。終盤はギャグみたいな唐突さから現実にも存在した豪雨災害の記憶を呼び起こしてシリアスさのリアリティを保ちつつ、自分たちと佐賀の人たちの危機という逆境にアイドルとして立ち向かう展開に。11話はさくらがいるだけで永遠に持っている男、幸太郎が段上のさくらを見上げている構図にすべての原点がある。素の顔を見せても子供達にフランシュシュだと認められた場面と、さくらをアイドルに無理矢理した形になった幸太郎が、化粧を施した完全体のさくらから感謝されその行為が認められる上と下の構図が、フランシュシュとプロデューサーがその存在を双方の仕方で認められた回。最終回は窮地の佐賀にあって地道な活動によって人々の心を繋ぐ存在として認められた証のようにスタジアムに集い来る人々と、尺の半分をライブにあてて三曲を存分に描ききる充実ぶりが圧巻で、観客を意識したアングルには圧倒された。ゾンビゆえの飛び道具がまるでなしの純粋なライブパフォーマンスに徹しているのも底力をアピールしてて良い。最終回はとにかく良いライブを見た、という気分になる。おそらく震災を意識した話がコロナ禍でまさにこのようなライブが難しい時期にいつまでもリベンジし続ける永久不滅のゾンビアイドルのパフォーマンスで描かれること。ただ二期は全体に真面目というか振れ幅がそれほどなくて、ドライブイン鳥回みたいなギャグ回が足りないというか、一期の何が出てくるか分からない感じは減ったところがある。最後のことはとりあえず忘れておく。

MARS RED

朗読劇を原作とする珍しい一作。羽多野浩平監督、藤咲淳一構成、竹内由香里キャラデザ、SIGNAL.MD制作。大正時代を舞台にヴァンパイアとなってしまった特務隊の面々がさまざまな事件に対処する、というのがおおまかな話。特に第一話が出色。スーパーカブと並んで春クールでも突出した一話で、アニメの一話は大概どこかで無料配信されているので誰でも見れると思う。ヴァンパイアの悲恋をサロメと絡めて語っていて、この話数だけでも見てもらいたい。顔を見たことのない許嫁にひとめ自分の芝居を見せようと狂気に侵されながらも辛うじてその望みだけは叶える吸血鬼。練習中に死んで本番の舞台にはあがれず、吸血鬼となっても陽の光で消える、「陽のあたる場所」というサブタイが皮肉にすぎる。「芝居の終わりは夢の終わり」という通り。高垣彩陽の狂気のサロメが素晴らしい。この前田義信と中島岬の悲恋は作品全体にもかかわるところで岬の話はちょいちょい出てくる。主に、吸血鬼になってしまった軍人、陽の当たる場所では生きられない者と生者との断絶を描くんだけれど、三話では山寺宏一大原さやかの夫婦キャストで歌の引用で会話させる贅沢さ。良寛と貞心尼の歌の上での恋の歌で、盆の灯籠流しをバックに、死者と生者の断絶とつかの間の交流を描くロマンチックな夢の話も良かった。山寺宏一が演じてるこの山上さんというキャラが見た目の無骨さに反して?明治の趣味人という感じで芸術にも造詣が深くて良いキャラなんだ。日に当たれず水に沈み匂いに耐えられず年も取らないから同じところにいられない人間の100倍生きるのが大変なヴァンパイアという存在。11話での科学、文明の近代化のなかでヴァンパイアなど御伽話の住人の居場所が消えていくと思っているところに、科学技術に身をまとった栗栖という新しい「御伽話」が現われるのも良い場面だった。ケン・リュウ「良い狩りを」的な。最終話では狂気と正気の狭間を彷徨い、岬が一話で演じていたものをその内側から追体験して真の対面を果たす前田という応接。この二人の悲恋を描きつつ陽のあたる場所と日陰、現実と虚構の隙間に引き裂かれる栗栖と葵が後を継ぐ。前田を岬が迎えに来たアバンからもう既にちょっとじわっとくる。岬の劇を一人で見ている前田など、狂気のなかでの岬とのあり得た生活を見る夢幻劇が切ない。すべての時計が関東大震災の時間を指して止まっていて、震災で吸血鬼になった前田の時間も止まっている。「“陽のあたる場所”を探すんだ。僕たちには行けない場所だから」。朗読劇から始まって、画面設計や脚本にも演劇を活用した作品でさまざまな文芸作品の引用や示唆も多い。傑出した一話から始まり中だるみも感じたけど非常に良かったと思う。

スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました

過労死で死んだOLが異世界に不老不死の魔女として転生してスライムを倒しながら一人で暮らしていたらレベルがマックスになっていた、という異世界スローライフ百合ラノベ原作アニメ。 木村延景監督、後藤圭佑キャラデザ、髙橋龍也構成、レヴォルト制作。漫画版を読んでいる。転生した最強魔女アズサが力比べを挑んできたレッドドラゴンイカと対決して以後、スライムの精霊の双子やエルフや幽霊などどんどん色んな女性と新しい家族を作っていくゆるい異種族百合ハーレムを作っていく。新しい家族以外も主要人物ほぼ女性しかいないし恋愛もなかった気がする。そういうゆるさが徹底されてる。過労死が起点なのでホワイト労働へのこだわりがちょいちょいある。六話は、崩しや細かな仕草含めて妙に作画が良いなと思ったら制作協力にあるマッドハウスグロスだった。みんなのようにドレスを着せるための、幽霊の着替えに前半費やすあたりに作品性のコアがある感じが良い。どんなに緊迫感があっても人力SEで全ての気が抜けていくのが本作の作風を表わしている。10話の音楽家の話が意外な感動回になってて、失敗の過程も肯定しつつ「才能の順に成功するのではない」っていうのも良かった。家族が急に増えたから才能を活かして喫茶店をやろうとしたら客が増えて店員も増えて、人が人を呼ぶ場になっていくこれまでの日々の蓄積という最終回は、ドタバタからしんみりさせてこれから次の一日が始まる流れも完璧。コミカライズをずっと読んでてそっちも良いねと思ってたけどアニメもかなり良い感じで、異世界美少女百合ハーレムスローライフものの代表作じゃないだろうか。他にそんなになさそうだけど。くまクマ熊ベアーはそうかな。

SSSS.DYNAZENON

グリッドマンを原作とするトリガー制作のSSSS.GRIDMANに続く作品で、グリッドマンに出てきた合体サポートロボのダイナゼノンをモチーフにした作品。河川敷に住む正体不明の青年ガウマの持っているダイナゼノンのパイロットとして、蓬と夢芽や他の面々とともに、怪獣優生思想を名乗る敵の操る怪獣と戦うことになる、巨大ロボット青春アニメ。グリッドマンに続く自然な演技を重視した青春ものの雰囲気が良くて、夢芽役の若山詩音はビルドダイバーズリライズのヒナタの人で、また前作ヒロインの宮本侑芽と子役時代からの二〇年来の知り合いだというのがラジオで明かされてて驚いたりした。ユメとユメ。榎木淳弥安済知佳も親戚同士で物心つく前からの知り合いでもあるというのが驚いたりした。それはともかく、街中で怪獣バトルをしていることと日常の青春風景の取り合わせが見ていてどうにもずっと飲み込みづらいところがあったし、突拍子のない要素やらがうまくはまってないと思っていた。そこが最初バッチリとハマったのは四話で、トンチキさと恋愛、ダイナゼノンのパーツを日常に使っている雰囲気が上手く噛み合って、夢芽の「なんとかビーム」とかのコミカルな要素も良かった。夢芽を意識する蓬と姉の死の謎にこだわる夢芽のもどかしい距離感が良いんだけど、怪獣によって明らかに人がいるものが潰されてるのと姉一人の死因を追うという取り合わせの飲み込めなさとかがやはり気になる。特撮要素がドラマ部分と齟齬を来してる気がする。四話や八話などそこがうまくハマる回もあったけど。九話は夢芽のこだわりに一つの解決がなされる回で、一話で水門で蓬を待たせてて今回も水門にいたのは夢芽が香乃の「水死」に心引かれているからで、水に沈むイメージはバトルでも使われていて、水に落ちそうになる者に手を差し伸べるのが蓬、ゴルドバーン、ガウマで反復され、心が一つだと示されることで全員が合体できる流れは良かった。人を助ける気概があればヒーローになれるという絵。水に沈む死と空へ打ち上がる花火の生の対比も加わり、とても綺麗な流れが描かれている。浴衣姿で笑顔の夢芽で締められるのもとても良かった。一話の冒頭を見返すと橋を渡りながらいじめで自殺した生徒がいるという噂を蓬が言っている。蓬のいう「かけがえのない不自由をこれから手に入れていくんだ」というのは、怪獣をドミネーション=支配、しないことという選択か。似合ってないスーツ姿で会社勤めを始める暦と似合わない制服を脱いでタトゥーっぽいのを入れてるちせ、というのも自由と不自由の配置で、優生思想組が怪獣を利用して自由になろうとする態度と逆の、囚われることから関係を作ることへの青春物語の軸がある。

シャドーハウス

顔のない影のような姿の「シャドー」という一族とその「顔」として付き従うことになる「生き人形」との二人を基本要素とする謎の館シャドーハウスでの秘密を探る漫画原作アニメ。 大橋一輝監督、大野敏哉構成、日下部智津子キャラデザ、CloverWorks制作。漫画はざっと読んでいたので知っている作品だったけれど、画面がチープだと成立しないやつをきっちりやってきた。シャドーの「顔」として顔のないシャドーの感情を忖度して演技してみせるという構図が、ブラック企業なり全体主義社会なり非政治的志向なり、ものを考えずに人の表情を忖度するアイデンティティのない存在を描くわけで結構あからさまに抑圧された社会での抵抗というテーマともとれる。二人の関係が基本なので、いろいろなコンビのありようが描かれているのが面白い。エミリコの能天気な有能さやジョン様の直情的な暴力で解決していく面白さが軽快で楽しい。五話のダンスシーンでは、本当に操り人形のように扱ってるシーンなのにむしろ二人の個性が噛み合っているように描かれてるところも面白い。人間が積極的に他人の顔の役割を果たさなければならないというかなり非人間的な設定で、やっぱりブラック労働の館という意味だろうか。カフェインで覚醒させて働かせるわけで、洗脳にコーヒー使うのも黒という意味のほかにも適切な道具立てだろう。汽車、煤とかのイメージソースも産業革命あたりの工場労働なのかな。雰囲気のある作品をきちんと雰囲気ある絵で作ってて良かったですね。わりと力業で行くところも面白い。EDはReonaの曲と映像ともにとりわけ印象的なものの一つ。

86―エイティシックス―

無人戦闘機が戦っていると報道されるけれどもその兵器には被差別階級のモノ扱いされる子供達が乗せられていた、というSFラノベ原作アニメ。分割二クールだけれど、後半クールが制作の遅れで延期してラスト二話は2022年3月に持ち越された。A-1 Pictures制作で映像に相当に気合いが入っており、なおかつ演出もキメキメなんだけど、ワンクール目はそれがかなり裏目に出ていた印象がある。いいとこの理想主義者の少女とシビアな現実を生きる少年の対比があり、差別構造を維持したまま人間的関係を築こうとしても無意味どころか逆効果っていうのを対比演出で上手く描いてはいる。そして人間を機械と見なす共和国と機械が人間の脳を取り込んでいく帝国の遺物と、「無人戦闘機」がどちらも人を部材として永久戦争を戦う陰惨な構図があり、そこに粗雑に扱われる食べ物を生き物と比喩的に映す悪趣味な演出が塗り込める。終盤で印象良くなってるけど、話に進展がないなかで悪趣味な演出を丁寧にぎとぎとに塗り重ねる前半のアレさがある。ワンクール目はどうも、と思っていたけど後半クールは話の舞台も変わり、悪趣味な演出ばかり重ねられてた印象からはかなり良くなって見応えも出てきた。戦場を生き抜いた子供達を手厚く扱うギアーデ連邦の暫定大統領や連邦以前のギアーデ帝国最後の女帝フレデリカ、という久野美咲キャラがなかなか良い味を出してくる。元々演出力は高いアニメだったから、それが上滑りせずに噛み合うようになるとそりゃ強いという後半。人間を人間として遇する連邦の理想と正義が、彼らが戦場を生きる場所に選ぶとしても、戦い抜くというなら戦争の終わりまで生き延びよという生還の命令を出す、子供の主体性と大人の責任の話になり、子供を尖兵とすることへの共和国と連邦での対照的な態度が描かれる。19話での、人道にもとる手段以外に手がないなら「このまま僕の理想と心中してもらうよ」という大統領の発言は、倫理の狂気か狂気の倫理かという感じだけど、子供を特攻させてのうのうと生き延びる卑劣さへの抵抗の要素に戦後日本のフィクションという印象を受ける。いつでもどこでも演出をキメすぎててくどいとも思うけど、画面演出の勉強になりそうだし面白い映し方をしてるところもある。

EDENS ZERO

機械の島で育てられた少年シキがその島を飛び出してマザーという不思議な存在と出会うために冒険に赴く漫画原作アニメ。懐かしい少年漫画の感じもあるけど、機械に育てられた少年が、人間と機械に差なんてないんだとずっと主張するアニメで良かった。アンドロイドが人間には心がない、と言う。最後でも、「私に必要だったのは母ではありませんでした」「たとえ他人であっても機械の体であっても愛があれば必要な存在なのです」という人と機械の関係の真正性をずっと語る。シキの境遇もホムラのそれも血のつながりのない親と子の関係の真正さを語っているのはエデンと題してマザーを探すという大枠に対して既に回答を差し出しているようでもある。毒親を拒絶しても誰も実の親だからどうこうとか許してあげてとか言わないデリカシーがあるね。24話の権力者が強権的に決めたルールでもルールだから仕方ないという現実追認主義側の「現実を見ないガキ」に対して、「現実を見てる大人は世界をよくしてるのか」と返す少年漫画らしさも良い。総監督は別に居るけど監督鈴木勇士が急逝したという報があった。

セブンナイツ レボリューション -英雄の継承者-

元はゲームらしい作品の未来の時代を描いたオリジナルストーリーなのかな。英雄の力を宿した少年達のファンタジー学園もの、というか。メインヒロインのファリアが料理ができないけど唯一コロッケは作れるというのが面白くて何からでもカツカレーを作るジビエートの爆弾魔を思い出す。また、多くの人は百合アニメじゃないと思っているだろうけど、サブキャラの結構な百合展開があるので一見の価値はあると思う。エレンとシャーリーというキャラはシャーリーが吸血鬼でエレンの血を吸ってる関係。エレンはたびたび「主体性のない女」を自称していて、それは未来視の能力を持つからだったんだけど、未来視によって自由意志を捨て「主体性のない女」だったエレンが「見たことのない未来を見る」ことを望み、「生きてエレン、私のために」とシャーリーの望みを容れて未来視を視力とともに失って明日を得る最終回の展開は非常に良かった。五話でミナが宙返りしながらキックするアクションの描き方がかなり印象に残ってる。

カードファイト!! ヴァンガード overDress

キネマシトラスが制作するカードゲームアニメヴァンガードの新作。ヴァンガードを見るのはアイチが出てくる第一作?の序盤数話を見た以来だ。なんとなしに見てたら蒼井翔太声の主人公が女装したままずっと話が続いてて、女装と気づいてないお姉さんとなんか仲良くなりはじめたあたりでタイトルがオーバードーズじゃなくてオーバードレスなのに気がついて、まさか女装メイン要素かと思ったらそこはそんなに出てこない。夜の廃遊園地でデュエルに勤しむブラックアウトというグループとユウユという少年が出会うところから色々始まる。年内に分割二クールが放送されたけど続きも決まっているらしい。イメージ映像の作画が派手だ。キッズアニメと言うにはちょっと質感が違っていて、二クール目の最初の13話なんかはしっとりした描写でデュエルをしながら憧れの相手との別れを描いたりしてトレンディドラマのような曲がかかったりする。ワンクール目ラストで、「何かを捨てたことを覚悟なんて格好良く呼ぶもんじゃない」とダンジが言うんだけど、ダンジこそが過去を捨て名前を変えてブラックアウトに来た人間だったという二クール目では最後にユウユがオーバードレスということを今までの自分を否定しない、全部受けとめて前に進むこと、と捉えるダンジへの間接的な返答になっている。後半クールの盲目のミレイとのデートでの細かな描写とかも面白かった。

美少年探偵団

西尾維新原作のアニメで、最初どうかなと思っていたけど思った以上に楽しい、というか「美しい」アニメだったしOPアニメは今年随一だろう。推理パートや事件の過程に肩すかしな感じもあるんだけど、締め方の美しさはなかなかのもの。物語シリーズ化物語がわりと面白かった他は惰性で見てたしいつからか見てない気もしたし西尾維新に興味があんまりないんだけど、これは絵的な美しさともども良かった。結構良い性格している主人公眉美が「クズはクズでもきらきらきらめく星屑になろう」というのは笑った。

短評

黒ギャルになったから親友としてみた。 今期僧侶枠。これはかなりの良作。僧侶枠のなかでも上位のものじゃなかろうか。ナンパコンビの片方が女体化する現象を通しての女体化BL作品で、親友への大きく強い愛の持ち主と、自分の体に戸惑いつつ相手への感情の変化を渋々ながらも認めざるを得なくなっていく二人の清々しい恋愛ものになってる奇抜なようで王道な話。女になった親友にも「オスメスひっくるめて愛してやるよ」というのが強すぎる人格への愛が男の体でも女の体でも変わらないっていう根っこがあって、体は体で両方それぞれ良さがあるっていう組み立てになってる。友情と愛と性愛が渾然一体になってるというかそこに区別を付けないというか。

ドラゴン、家を買う。 泣き虫ドラゴンが家を探して魔王と住宅案内をしていく森本レオナレーションのファンタジーギャグ漫画原作で、序盤などのいじめギャグの雰囲気は好きじゃなかったけど、最終話の締めの良さは今期でも上位のものだった。家を出て世界の広さを知り、自分にも守るものができて父の考えに思いを馳せ、親子という家のことに帰着する流れ。空を飛べなかったレティが空を飛ぶということが世界の広さを知ることというのをこれまでの家々をおさらいしながら描くエンディングも良い。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術Ω 二期になって制作スタジオを手塚プロダクションに変更してのもので亜細亜堂藤森監督の時よりどうにもパワーダウンしている気がするけど、ある回終盤で危機的状況に陥ったなかでダンサブルなEDが空気を読まずに流れ出したところは耳を疑った異常場面ですごかった。

戦闘員、派遣します! このすば作者の三つ目のアニメ化作品でノリはかなりいつも通り。悪行をするとポイントを稼げて色々できるようになるピカレスクコメディって感じだけど、もう一つ弾けきらないところがあったし一時期制作ヤバそう感あったけどまあまあ良かった。富田美憂アリスとのコンビ感が良い。石原夏織リリスは最近漫画の方で召喚されてメイン格で活躍してるので漫画を読もう。

イジらないで、長瀞さん ギャルっぽいというかいじめっ子的な女子にキモオタと煽られる関係を通じたラブコメ。ドM向け感を出しつつ、意地っ張りと気弱男子のラブコメとして次第に落ち着いてきて、最後は長瀞を追いかけることは芸術と愛の追求だっていう恥ずかしいまでのベタな絵面を決める。ボタンを掛け違えば無限にズレていきそうなところを先輩が絵のモデルを見るように真っ直ぐ向き合おうとして成立する関係。自画像の部長に対して他人を描く先輩が「おれ一人でやってたらこうはならなかった」、で締められる、良い話だ。

転生したらスライムだった件 転スラ日記 転スラのほうはそこまで乗れなかったけど、そのスピンオフはそんなに悪くもないし、作画も安定して良くてこれを30分できるという豊かさを味わうのも悪くはないと思って見てた。七話のコンテだった望月智充氏の名前をツイッターで触れたら本人さまからリプライがあって、私が後藤明生という作家を研究していることをプロフィールから知って、氏の母親が九州の朝倉高校で後藤明生の同級生だったと教えてもらい、しかもやりとりのなかで代表作『挾み撃ち』に「大佐の娘」として出てくる、語り手の顔を赤らめさせる意中の人だったということがわかり非常に驚いた。私はライターで特に人に教えたりはしてないんですけど、その顛末が以下に記事としてまとめられています。
転スラ日記と後藤明生と母親と 《三題噺》 | 日本語あれこれ研究室

どうかと思ったもの

Vivy -Fluorite Eye's Song-

WIT STUDIO制作でリゼロの原作者長月達平が原案構成脚本にも参加している。歌姫ロボがターミネーターやる、というか未来から来た胡散臭いロボの助言で100年後の破局を回避するために云々という話なんだけど、歴史改変の前提になるはずの理屈が成立してるように思えず、AIに心が云々のテーマもどうにも古くさい気がして、アクションの作画はいいものの、心がないはずのAIなのに人間のために自己犠牲したり健気に働いたり……で泣かせようとするの、正直どうかと思ってしまう。ラストの思い出や記憶が心だという主張も、100年の旅という作劇都合の結論に見えるし納得感がない。「歌を流しながらのラストバトル」という盛り上がる絵をやりたいのもわかるけど、話の土台が溶けてる印象ばかりがある。設定が甘いのを突っ込まれるとそういう話じゃないからという人いるけど、そこの甘さが全体のぼやけた感じに繋がってると思う。全体に、作劇都合というか「エモい」話や絵になる場面が先行してるなあという印象。同じ原作者のシグルドリーヴァもVivyも不審な上位存在の言うままに動かざるを得ないみたいな設定で話作ってて、リゼロの死に戻りとか知ってることを話さない連中とかが出てくるのと似たり寄ったりでまたかよって感じ。

ひげを剃る。そして女子高生を拾う。

友崎くんに続くproject No.9制作アニメだけど、これもどうかなと思ったやつだった。家に居場所のない子供が子供らしくいられる場所が法外なところにしかないってのはお話としては良いんだけど。家出女子高生を部屋に上げて、体を代価に泊まり歩いてきたヒロイン沙優に手を出さない吉田は偉い、という持ち上げがガンガン続いていく。主人公の想い人こと後藤が吉田の告白を振る理由もわけがわからないし、出てくる人が全員なんかアレですごかった。OPはアニメの顔とも言いますけど決して出来が良いとも好ましいとも言えない異様でヤバイOPのようにマジで?という人物と展開で場を湧かせたという意味ではとても楽しいアニメだったのではないでしょうか……。そういう面白さは確かにあった。ただ、最後のエンドカードの「今度はあなたの家に泊めてよ」はさすがに作品を台無しにするセルフパロだと思うよ。OPは本当にせわしなくて緩急のない詰め込めるだけ詰め込んだような異様な映像で一見の価値がある。すごすぎて笑ってしまう。

究極進化したフルダイブRPGが現実よりもクソゲーだったら

慎重勇者の原作者の別作品のアニメ化作品。現実で挫折した少年がクソみたいな難易度のフルダイブRPGに挑むっていうだいたいタイトル通りの話なんだけど、最初に作中ゲームを勧めてくる胸の大きい女性店員の性格が悪すぎるし、慎重勇者が良かっただけに諸々を前振りかと思ってしまって単につまらないと気づくのに時間が掛かった。キャラを痛めつけて面白いでしょっていうのを今これだけやるとは思わなかったから何かの前振りかと思ってしまった。しつこく人の弱みをネタにするギャグ、笑えないし不快度だけが高い。ゲームの主人公だから楽しく簡単に強くなれると思い込んでるヒロを「現実」が思い知らせていくっていう構図のために悪辣なモブといつまでも学ばないヒロみたいな人物構築がなされてるし、この作品で言う現実とかリアリティって「理不尽」のことでしかないので、現実認識がそもそも狂ってる。なんですかね、不合理な規則を押しつけて社会とはこう現実はこうだ、といいたがる「現実主義者」っぽさがありますね。現実とゲーム、どちらにも本気で向き合うという最終回だけ見るとちゃんとしたアニメだったような気がしてくるけど過程がひどすぎた。制作のENGI、けものみちやフルダイブといったアニメ化作家の別の原作を後追いで微妙な出来でアニメ化しているように見えて大丈夫かなと感じてしまう。

夏クール(7-9月)

かげきしょうじょ!!

宝塚をモチーフにした歌劇学校を舞台にした漫画原作。ゲーマーズやJust BecauseのPINE JAM制作。米田和弘監督、キャラデザ岸田隆宏は同スタジオのグレイプニルと共通している。背も器も夢もデカイ規格外の渡辺さらさが学校に入るところから始まり、そこで男嫌いの元アイドルで男のいない場所を求めて入ってきた奈良田愛という少女と出会う。レッスンを受け、様々な選抜を通り抜けようともがくなかで先輩や同級生との関係を描いていくアニメで、序盤で鮮烈だったのは二話で流れたED曲「星の旅人」だろう。実際に宝塚にかかわったこともある斉藤恒芳によるさらさ、愛のデュエットによる曲はその後さまざまに歌い手を変えてとても良い。元々幼なじみとともに歌舞伎に親しみ助六になりたいと望んでいたさらさが、女だからそれは絶対に無理だと拒絶された経験が体の強さの背景ともなっており、そうした規格外ぶりが漫画的な爽快感をもたらしている。男嫌い奈良田愛の背景となる母の愛人のねっとりとした気持ち悪さもかなり印象的だった。そんななか印象的なのはやはり五話、飛田展男演じる小野寺先生の説得が泣けるのと佐々木李子演じる山田彩子の最後の歌唱が強い。声の説得力が圧倒的。居並ぶ才能のなかで劣等感に喘ぎ拒食症に陥る彩子に対し、校内では最下位でもその下には2000に及ぶ志望者がいたわけで、あなたに何の取り柄もないわけがないという説得と、それ周囲に歴然と示す歌。才能とタフさがものをいう世界の厳しさ。「ショービジネスは心が弱くちゃやってけない」が前提に組まれた場所で、ここは学校だけど学校じゃないことを示す。ゲキドルの主人公もコピー能力があったけど、さらさも人の真似が抜群に上手くて、でもそれではコピー元が必要な以上トップには原理的になれない現実も突きつけられる。そこを歌舞伎が先人の芸を完璧に模倣する芸術だという基本の先に、さまざまな現代的発展で今の人にも喜んで貰うことを志す道もあるのだと知ることで行き止まりではない一本の道が拓ける七話。八話は薫のサブストーリーが感動的だった。家族がそうだから、という自分の意志を蔑ろにされる鬱屈の共感から薫と野球少年のあいだで始まるロマンスが、自分は他人とは別だという最初の憤りによって破綻するけど、別々の道をたどりつつ同じ志を持っていることは伝わる、同情を峻拒した共感の話。「私の選んだ道」を歩く孤高な精神の一つの姿だった。九話は、双子姉妹が演じる双子姉妹が双子姉妹を演じる時はあるか?と思わせる声優松田姉妹が演じる沢田姉妹回。各組の熾烈なトップ争いを枕に、妹が落ちた年の入学を蹴った姉の貧乏くじを引いた感が妹への嫉妬として溢れだし、自らそれを言葉にして吐き出すことができるまでを描く。彩子や愛の成長を描きながら最後の最後、甲乙付けがたい演技をどう評価するかで、「渡辺ティボルトのほうが若干「萌え」が高かった!」というのは笑った。アニメも萌えですからねとすげえ説得力を感じてしまった。メインもいいけど飛田展男佐々木李子といったキャストが、漫画のアニメ化として絵にない音を乗せるという点で鮮烈な印象を残していたのはやはりとても良い。しかし奈良田愛が児童虐待を受けて男のいない学校に、という話なのに男性ヴォーカルの曲をOPにするのなんでそんなえげつないことするんだろうと思った。

チート薬師のスローライフ異世界に作ろうドラッグストア~

小説家になろう掲載作原作のアニメで、佐藤まさふみ監督はプリパラの助監督として長く携わり、また構成の金杉弘子もキッズアニメの常連脚本家でもある。普通導入として描かれる異世界転移のくだりがすっとばされてレイジというチート能力のある薬師がドラッグストアを開店して人々の悩みをその創薬能力で解決する、というパターンが最初から提示されているのはいさぎよい開幕だ。そして人名の看板、調合演出バンク、閉店挨拶、次回の客の紹介などの定型パターンが確立されていて、そこもキッズ向けっぽくて楽しく、そうしたアニメ作りの仕方が確かにスローライフというリズムを生み出している。幼い人狼少女の振る舞いや、幽霊の少女など周囲がだいたい女性ばかりでハーレムものっぽいんだけど、絶妙にキッズ向けアニメ的なラインを保持していながら、かと思えば媚薬が出てきたりする侮れなさもある。六話ではポーラというだみ声の少女の騒々しい回で楽しいなと思っていたら森脇真琴コンテで、プリパラつながりの人選だ。ポーラがラピスリライツのシャンペ役広瀬世華だったのも驚かされた。幽霊少女ミナの問題解決もちょっと感動的なお話だったりするんだけど、本音が聞こえるようになる薬でミナのキツい本音が聞こえてしまう回は面白かったけどこれはやって大丈夫な話だったのか?というラインも突っ込んでくる。色んなキャラの問題を解決して世界を広げていくなか、ラスト前の回ではアイテムを売った金でみんなが集まる場所を支え、そんなみんなの悩みを解決してきた薬師レイジ自身が次回の悩めるお客様として紹介されるラストは見事だった。次のお客様紹介という毎回の予告はここから逆算して作ったのかと思わせ、すっとばしたレイジの履歴をこう構成するか、と驚かされる。そして最終話、OPもEDも通常版が流れる最終回は、テレビアニメの定型、段取りを活かしきった設計を日常・スローライフとして構成し、それを支え支えられてきた皆とのパーティを一区切りとしながらレイジのみならず視聴者への処方箋とする演出が決まっている。スローライフというレイジを癒してパーティに出ても良いかなと思わせる「薬」が視聴者を癒すものでもあったらいいなという。テロップ妖精が視聴者だけじゃなくてレイジにも見えるんだ、という意表を突いた演出も面白い。こういうのも反復、枠の形式を重視したアニメならではのセンスだ。今期トップに「良い」アニメ、だと思っていて、やや語弊があるけど「話が面白すぎないのも良いんですね」とツイッターに書いたら監督からいいねが飛んできたのはびっくりしたけど、まあなんか、そういうことです。話の上下動が激しすぎない、というか。面白さもそれはそれで疲れることなので。最終話のエンドカード描いたゾウノセは高校生の頃からの知り合いだったのでびっくりした。

Sonny Boy

ワンパンマン、スペースダンディ、ブギーポップの監督夏目真悟が原作脚本監督を務めるマッドハウス制作のオリジナルアニメ。一クラスぶん全員が異世界に転移する漂流教室で、その世界でそれぞれが独自の能力を発現し、またほぼ不老不死で壊れた学校も自動的に治るし時間が止まったような世界に閉じ込められて、という不思議な閉鎖世界からの脱出を目指しつつ一話完結的にさまざまな世界を経巡っていくのはフリップフラッパーズを思わせもする。一話は、周りの見えない暗闇のなかの高校生たちの不穏なうごめきがラスト、黒い世界に景色が広がり無音だった世界に音が鳴る演出が鮮烈。銀杏ボーイズの主題歌も良い。イラスト的な絵柄や背景美術の面白さや、極力少ない音楽、声優の演技も自然な感触を狙ったもので悠木碧大西沙織のそれぞれも印象的で、そういう作りで少年少女のジュヴナイルSFアニメをやっている。主人公長良の能力は現実逃避の能力だという解釈がそうではなく世界を想像する能力だ、という反転はフィクションというものの意味を思わせるし、そんな長良にとって希という世界の外の光を見ることができる能力が、まさにこの世界の外へ、現実へと導く突破口になる憧れの話にもなる。「ぼくたちに世界は変えられないんだ。だから大丈夫だよ」、「ここじゃ明日はいくらだってある」という世界を背に最終盤の能力でスペースシャトルを作って打ち上げる絵の鮮烈さも良く、なんでもできる異世界から帰還する最終話は、抜けるような青の原色の世界の学校の門を出て、希のコンパスを手にして青い景色のなかを朝風の放った白い鳥を見ながら走って行く先の現実はくすんだ世界だけど、「あの島でのあんたがまだ少しでも残ってるなら、大丈夫だ」と、鳥を見捨てない長良は希の光を忘れてない。水たまりの光を踏んで、夜の道路の車の光、そして家々の光という夜の光のなかを笑顔で進んでいく長良の姿を映して終わるのがこの作品の光の意味を強く示しているようだった。一見しただけでは細部は色々分かってないんだけど、ただ雰囲気で見ていても何か楽しいし、根幹が明瞭なSF青春アニメとしてとても良かった。「どうせ僕たちに世界は変えられない」「だけどこれは僕が選択した世界だ」という夢、本の世界から覚めたあとの苦い現実を生きるという帰還の物語。宇宙よりも遠い場所マッドハウスの青春オリジナルアニメというラインがあるか。形容が難しいアニメだけど、とにかくも個性的な絵作りと一話ごとのバラエティとそれが最後に帰還へと収束していくのはとても良かった。挿入歌や劇伴を収めたサントラは結構聴いている。

RE-MAIN

西田征史総監督原作脚本、MAPPA制作による水球アニメ。これは非常に面白いスポーツものだった。主人公みなとが、全国レベルだった水球にかけた中学三年間の記憶を、母の運転していた車の事故でなくしているという結構な飛び道具なんだけど、記憶喪失とそれでも残るものを二転三転させながら、ワンマンとチームワークという対立構図をロジカルに操作していく脚本は唸らされる。元有名選手だけど記憶喪失の主人公に色んな人が言い寄ってくる序盤はちょっとどうかと思うところもあるんだけど、記憶喪失でも快活な主人公が再度水球を始め、不慣れな人も多い弱小水球部でみんなと一緒にやって行く序盤のよさが、中盤記憶が復活して記憶喪失以後の人格が記憶と共に失われてしまう、と反転していく。その復活した人格というのが自負ゆえにヘタな人に厳しいギスギスしたもので、同時にその自負を支えていた水球の上手さが失われてしまっている窮地にも立たされる。話としてはここからが本番で、性格アレでも極限の努力を続けられる才能を持つみなとをめぐって、ワンマンチームかチームワークか、というテーマを顔を出すんだけど、お前のワンマンをみんなが認める、という展開に持っていったのは面白いところ。そして、11話ではワンマンたる実力を認められたみなとが今度は妹の明日海はじめ、他人の努力を認め皆を応援する側にまわることで、少し前の自分も信じてチームワークの再構築に成功する。明日海らの演奏という集団行動が重なる演出も熱いし父の応援も良い。最終話の個々人のナイスプレイが連なってみなとにボールが来ての、過去のみなとのワンマンぶりをフェイントに利用してのチームワークという解決が見事で感動的。この回の楽曲演出が面白くて、アバンがエンディング曲から始まって「事故」で楽曲が中断して、目が覚めたあとに曲が再開して時間が再び流れるように「壊れた世界の秒針は」の曲名が出る。最後の「Forget Me Not」にみなとの名前を被せて、忘れないでということにミーノット=みなとという名前の由来なのかなと思わせる。消えた穏和なみなともみなとの一部になって、というか。最後の家族の光景に繋がっていくのも綺麗な構成だ。事故で時間が止まったのは母親もだったわけで。

マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-

マギアレコード二期は全八話構成。序盤から作画がトップスピードという感じでどうしたってくらい良かったけど、後半は結構息切れしていてシャフトの制作体制は大丈夫かと思わせるところもあった。二期はまどマギ無印組も多々出てきて、色々盛り上がりがあって、スタッフもまどマギでの挫折をなんとかしてやりたいと思っているのか映画でもマギレコでも正義の味方として活躍するさやかを超かっこよく描きがちなのはとても良い。神浜聖女が最高の登場をする六話も相当面白いし杏子がちゃんとコソ泥やってるのもいつも通りだった。やちよの自分だけが生き残ってしまったという後悔を描きながら、やちよが自らの救い主を助け出すまでを描いた三話は、女子大生が女子中学生に泣きついて慰められる図が面白い。「約束したでしょう、ずっと一緒にいるって」、やちよの重い愛を泰然と受けとめるいろはの器は夢のなかで黒江も落としかけてる気がしたし三角関係にもなっている。本作で描かれる魔法少女から魔女へという絶望の迂回路をいかに探るかというところや弱い魔法少女たちの連帯に対する弱さの否定あたり、フェミニズムや強さ弱さ、男性性周辺の問題を思い起こさせる。「どうして私たちはいつもいつも奪われてばかりなんですか」とみふゆが言うのもそこに関わるように見える。弱者としての魔法少女魔法少女が救われる噂というのが最初からの話だった。七話ではももことみたまの他人を知らないことを知り理解への歩み寄りを踏み出すことと、さやかとやちよが相手を知らないことを知らないコネクトの失敗を「何も知らないじゃない」のサブタイが締める相互(不)理解の描写が印象的だった。ももことみたまの、人に言いたくない自分の弱さを告げ、自分と相手に知らないことがあることを認めて相手のことを知ろうと恐れを越えて踏み出す勇気、百合だし弱さのテーマにもなっている。最終回八話の、自身の弱さを否定したり他人のことを決めつけたりという失敗を経て「私たちは弱いまま、支え合いましょう」、その人の思いはその人のもので、その上で連帯をというのはブルーリフレクションと同じなんですよね。ブルーリフレクションとマギアレコードは同じブロックを別の組み立て方をしている同士という感じがひしひしとある。魔法少女ものの文脈がある二作がこうも似たテーマで同時に放送されていることは示唆的だ。六話の「魔法少女が無自覚な人類の家畜でいつづけることを許さない」というフレーズ、まんま魔法少女=女性のフェミニズム視点ぽくて、やはり本篇に対してそういう視点でアプローチしてみるのが外伝の設計か。魔法少女が魔女になるというのも加齢っぽくてかなり気になるところだったし。

小林さんちのメイドラゴンS

京アニテレビシリーズ復帰作のメイドラゴン二期。とにかく動くしとにかく女性キャラの胸がでかい、それは良くも悪くも。新キャライルルの登場での異種族共存の話、体型の異質さをドラゴンの人化技術の未熟さに求めるのはうまいけど、手がドラえもんで身長低くて胸が巨大なのちょっと趣味がやばめだ。一見ほのぼのだけど根本的に成年漫画的な「性癖」のオンパレードで、でもそういや京アニってエロゲーのアニメ化に定評があったんだった。六話はトール以外の異邦の住処についてのそれぞれの話をやっていく回で翔太とルコア、ファフニールと滝谷の話をしたと思ったら二つのものが合流するところという二人にとっても象徴的な場所を目指したカンナたちの小さな冒険の旅を描いてくるのが良かった。遡るのではなく下るのは未来への旅で、龍は川の流れの具現化とも言うし、暴れ川をおとなしくした話は人間界に落ち着いたカンナたちの話と相似形。翔太と居場所の話をしているルコアも川に架ける橋の上、ドラゴンが人間のマネをした、ごっこ遊びに乗ってみたと言うファフニールがゲームというごっこ遊びをしている。最終話は花火と季節外れの花見と花で重ねられているのはドラゴンにとって人間の生がおよそ一瞬のうちに咲いて散る花に似たものだからのようにも思えて、別々のミラーに映るような二人の距離が一瞬重なるいまの貴い輝きのなかで永遠の契りを求めて縮まらない距離を走り続けるラストだった。しかしまあ仕草や動きや作画がとんでもないし細かな演出も効いていて豪奢なアニメだよ。

ラブライブ!スーパースター!!

ラブライブの新作は中国人も含めた五人組がメイン。音楽科と普通科が存在する音楽学校で歌うことが好きなのに人前で歌うことにトラウマを抱えた澁谷かのんを主人公として、その歌声を偶然聞いてしまった中国人唐可可に認められスクールアイドル活動に勧誘される。花田十輝構成は同じく、無印以来京極尚彦が監督に再登板。OPは模様が非対称の長めのスカートが印象的だし、虹ヶ咲監督コンテ演出のEDはPV的な見所ばかりなのは良い。しかしOPの冒頭が国立競技場なの、渋谷原宿舞台でNHKで放送されてることとあわせてこれぞ「中心」っていう感じでちょっと苦笑いしてしまう。サンシャインが周縁の話だっただけにまた戻ってきた感じだ。三話は、かのんと可可の二人の思いが通じ合ってさんづけをやめ、コードと手を繋ぐことでライブが始まる。手を繋いで始まって二人の手で小さな星を作って最後も繋いだ形で終わる。電気が消えても客席の小さな光、小さな星、Tiny Starのイメージはまだスーパーじゃないスター、という回は良かった。七話は、政治とアイドル、アイドル事変か? 生徒会選挙、有権者買収によるペナルティ、公約破りにリコール発議、めちゃくちゃ政治やってて笑ってしまった。可可が反体制運動関わってる絵面白いな。やはり革命的アニメだったか。八話あたりの葉月恋まわりの話はよくわからなくて、潰れそうだから音楽科だけで文化祭とかは全然意味がわからなかった。しかしクーカーが一番結果を出してるってヤジには笑った。そのありさまで音楽科単独開催やろうとしたのますますわからない。まあでもラブライブわりとそういうところある。11話は他人を励ますことができても自分自身を励ますことができていない、という序盤からのかのんの問題を五人との繋がりを経た上で、自分自身を自分で支える強さを得ることができる、過去との対話パートを経てソロで歌いきったことで五人の歌のEDへ流れ込むのはなかなか良かったけど、世界への扉を開ける話に百合ものっぽい「禁断のセカイ」というサイトへの扉をクリックした葉月の話があるのはいったい。最後は純粋な勝負に持ち込んでその上で負けることでかのんの新しい目標を打ち立てて次へ、という感じ。一貫して歌えなくなったかのんの物語だったのを最後にALLに開いて終わっていて、確かに全員一年生だからできる話だった。充分以上に楽しめるアニメだったけど、そこまでハマるアニメでもなかったという印象がある。ライブできちんと圧倒してくるパワーがあったのは良い。

女神寮の寮母くん。

家を失った中学生の少年南雲孝士が女子大学生の住む寮に寮母として暮らすことになる、というお色気おねショタラブコメ漫画原作アニメ。全10話。男嫌いで接触すると鼻血が出るメインヒロインあてなを中心にした寮生とともに、幼なじみの同級生も出てくる。お色気ラブコメで絵も良いし楽しく見られる。手の届くところにいた孝士くんが知らない人と親密になって混乱する幼なじみは良い。この一人称「俺」の暴力天邪鬼幼なじみヒロインすてあには懐かしさすら感じる。ちょっと富田美憂に聞こえたけど南條ひかると言う人だった。ちゃんと主人公が女装するし女装して女子大に行ったら女子大生に襲われかける性的な治安の悪さはなんなんだと思っていたら文化祭で媚薬の煙が巻かれてあたり一帯がエロ空間になって百合カップルが盛ってる絵面が出てきて凄味がある。ここ原作では普通に男女カップルもいるんですよ。六話で、コスプレをしながら押し隠した心情を聞き出す話のなかに、実写でコスプレしてる写真を貼りつけるという胡乱な画面を繰り出してくるのはなかなか刺激的。2.5次元の役者が設定されてて、OPEDを歌ってたりするんだけどそれが写真でアニメに映り込むのは怪奇で面白い。10話構成はもったいなかった。最終話、後半の襖を使った明暗の画面作りとか凝ってて、すてあが帰るときの間取りを使った距離感描写から、光を背にするあてなの看病、そして反対側の窓から差す朝陽というコンテ、こういう絵でやっていくぞってこだわりを感じる。熱が苦手なすてあと男が苦手なあてなで孝士くんに覆い被さる同じ格好をさせてるのも意図的な対比がある。コンテに大槻敦史が参加してて、To LOVEるの監督で正統後継者の文脈を感じた。

精霊幻想記

異世界転生ファンタジーライトノベル原作。一話はちょっと地味で描写なんかも意外な感触の異世界転生ものだと思ったらタイムトラベル少女のヤマサキオサム監督なのを見てへえと思った。突然前世の記憶を思い出した少年リオが母の仇を胸に、王女誘拐に巻きこまれて色々あって学園に通うことになる、というのが序盤。何はなくともセリア先生というキャラの萌えパワーが炸裂する作品で、作画も力が入ってる。二話では12歳で高校生相当の知能のセリアと精神年齢の半分は大学生のリオが、おねショタめいていながら精神的には逆でもあるのが面白く、前後半で身長が逆転してるのも良い。政治的な策謀が動き出したなと思ったら、リオにラブレターを渡す女生徒をセリア先生が目撃した心情に寄せてED入るの、この話数が誰を第一に魅力的に描こうとしているのかめちゃくちゃ明確で良かった。ED曲のイントロが本篇にかかっているのがかなり印象的なアニメ。原作の一巻分を三話で消費していくらしく、そのため数話ごとに新ヒロインが出てくる旅ものの感触が結構悪くなくて、獣人の村では元日本人の獣人に転生した少女を妹キャラにしたり、和風の村で自分の母の家族と出会って墓参りしつつ黒髪ヒロインに好かれたり。終盤ではセリア先生が意に沿わぬ相手と結婚させられてしまう展開で、一話掛けて憂いの花嫁セリア先生をかなり綺麗に力入れて描いてるのこのアニメの売りをわかってる感がある。しかし花嫁を攫っておいて「恩人」と呼ぶあたりリオもなかなか人でなしというか、お前が責任を取るんだよ、と思わせる。そして最後のダイジェスト新キャラ登場で出てきたのが原作のメインヒロインらしく、なるほどこれがあるからリオの態度が煮え切らないのか、とわかる。

ジャヒー様はくじけない!

大空直美が染み渡るアニメ。魔界ナンバー2のジャヒーが人間界に落とされ、魔界復興を目指しているけど、魔力を失うと完全に子供の姿になって四畳半一間の貧乏暮らしをしているというコメディ作品。原作というかこの原作者の漫画は大概読んでいたのでアニメ化すると聞いて驚いたし二クールやると聞いてもっと驚いた。全20話の変則二クールで、原作にほぼ追いついている。貧乏暮らしコメディで子供が不幸な目にあうというか、貧乏人が無軌道に金を使いまくるのあんまり面白がれないというかヒヤヒヤしてしまうところもあるけど二クールやって奔放な変態やら善性のかたまりの友達やら色んなキャラがいて、トータルで結構良かったねという感じになる。尺に対してネタの密度が薄いってところはあったけどそこはキャラと声優の力も入れて、最終的に愛着が出てくるから偉い。

ゲッターロボアーク

石川賢の漫画を原作にしたアニメで、ゲッターロボのアニメってたぶん初めて見る。一話、過去主人公の息子がゲッターロボに無理矢理乗り込んで頑丈な体で普通の人なら死ぬのに鼻血ブバーって出しながら空に飛んでいく力業の展開が面白い。コーラとおにぎりのディストピア飯持って乗り込んでるのも良い。粗暴なようで知的でもある主人公拓馬の描き方が面白くて、恐竜帝国と人間たちとの共闘関係とその破綻が混血のカムイをキーにして描かれる。後半、ハチャメチャにスケールをでかくしていきながらターミネーター的な時間戦争の因果の設定を据えて、選民思想と別種族殲滅作戦でどう見ても人類が邪悪に見えるなか仇の存在によって拓馬も身を投じざるをえなくなっていく盛り上がり方は良かった。宇宙スケールのゲッターエンペラーとかいうトンデモ兵器に守られたことで「人類はゲッターという神に選ばれた唯一の生物だ」という選民思想にかられダークデス砲で星ごと荒廃させて入植の地ならしにするっていう人類のヤバさ。それを見たカムイが仲間だった拓馬たちと敵対していく。そういうシリアスさと、特に五話での研究員が犠牲になるなか「だーれだ?ワシじゃあ!」と露出狂みたいな銃撃爺さん登場でドアがスーッと閉まる場面は笑う。頭に地雷が埋まってる博士、マッドなんてもんじゃねえ。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X

二期で何をするんだと思ったらキレのある回もあったけどさすがに蛇足感は免れなかった。二期での話の舵取りの難しさが出てしまった印象。新キャラの他は男性陣の掘り下げがメインで百合アニメとしての側面が後退したのもあるか。「きっとお腹を空かせているのですわ」、で餌付けされる公爵令嬢が完全に野生動物みたいな扱いなのとか面白いんだけど。親に卒業を諦められていたカタリナも晴れて卒業、将来への指針を探る二期だけど、フォーチュンラバー2は笑う。続篇の告知じゃねえか。話数単位ではやはり鮮烈なニコルの見合いを描いた八話の花がすごかった。無限に続く花畑のなかを二人で歩いていく幻想的な象徴性がかなり良い。散漫な見合いとたくさんの花、蝶。花は花嫁という女性の象徴に見えて将来を自分で掴む花開く未来でもあり、最終的には人の心そのものと見える。花のなかを歩いていくことで見えてくるもの。フレイとジンジャーを画面の隅に置いて世界、景色の広がりを映すレイアウトも良い。フレイ、ジンジャー、ニコルのそれぞれの今と未来を描いて絵や美術も気合いが入っている。コンテ演出戸澤俊太郎。

白い砂のアクアトープ

PAワークスの仕事アニメシリーズ、凪のあすからの監督のオリジナルアニメ。百合アニメと言えば水族館が出てくるもの(?)だけれど、その水族館を舞台にした二クールアニメ。前半後半でかなり色合いが異なり、前半では老朽化で廃館が決まっているがまがま水族館を守ろうと主人公海咲野くくるが奮闘するところに、アイドルを諦めて東北に帰る途中で思い立って沖縄にやってきた宮沢風花が出会い、二人で協力していくことになる。前半のOPや背景美術、ラピスリライツのU35原案のキャラデザや、ファンタジックな幻想やくくるの家としてのがまがまの存在など、良いところは色々あるものの、老朽化で廃館だというのにSNSやスイーツで集客して廃館阻止だ、という展開がいまいち飲み込めず、これが前半の視聴感に根本的なズレを生んでいた。くくるの未熟さを真っ向から指摘する南風原が出てくる九話は、これまで気になってたところをきちんと展開して、別の視点を交えた転機になって良かったんだけど。前半で感じたのはこのアニメは生き物に興味が薄いんじゃってところ。居場所としての人の繋がりとかファンタジー要素で故人に会えたりってのは水族館で生物以外のことがフォーカスされてしまう構造になってるし、水族館の展示から科学や自然が見えてくる感触はない。そしてこの感触は時に例外があっても全体には懸念通りだった印象だ。ワンクール目の終盤は、台風が襲い来るなか居心地の良いはずの空間に風や雨が吹き込んできて、もうすでにここが維持できないことを痛感する。がまがましか居場所がないと思い込むくくるがバリケードで外への移動を拒んでいるなか、風花やおじいたちが外からやってきて外への道を開いていく話で、がまがま=家=くくるの心、をめぐる大嵐と仲間たちのエピソードとして良かったと思う。過去の思い出にすがりつく子供が危機で魚たちの命に対する責任は自分より重いことを知って自分が子供ではないことを知るのは、両親が居ないくくるにとってがまがまという場所との別れを通じてやるしかなかったと思わせる。二クール目はティンガーラという大きな水族館を舞台に、厳しい上司と仕事の失敗などを経験するお仕事アニメの色を出してくるんだけど、この仕事がまた微妙で、人間関係が悪いというレベルではなく会社として成立しているか怪しい。ハードルの設定に説得力が欠けている。くくるをプランクトン呼びする副館長の厳しさとパワハラが混同されてる描写もだいぶアレ。ただ15話は、ウミウシの飼育という課題に挑む生物テーマから水族館がなんのためにあるのかという本質論に踏みこんできて、くくるの家だったがまがまという視野の狭さをここできちんと相対化してかつ飼育部と生き物が好きという共通の根を得る良い回だった。自然環境の研究と保護の入り口としての水族館。こういう回がもっとあれば終盤の風花の選択にも説得力があったのではと思う。シングルマザーの社会問題的なことを題材にしつつあくまでドラマの背景として扱うだけっていう感じがした話とか、どうも題材に対して浅い印象がある。色々問題はあるけど、がまがまという場所から外に出たくくるのもとにキジムナーの幻想が現われなかったのは、ティンガーラひいては沖縄を風花が真に帰る場所、ホームとしたことでくくるたちと一緒にいる家族になることを待っていたということだろうと思うし、全体を通して家を出て新しい場所で家を見出すくくるの成長を描いたんだろうとは思う。結婚式で終わるのもそういうことだろう。百合アニメの最終回で主人公たちじゃないカップルの結婚式が描かれるのは同性婚が認められていない日本において二人の関係を間接的に表現するやつなんですよね、と言っておこう。前半は気になるところはありつつまあまあ楽しかったけど、二クール目は面白いと言うよりは肴にして楽しむほうがメインになってた感じだ。魚だけにね。インタビューなどを見ても、青春群像劇の背景に水族館がある、という感じで題材への踏み込みの甘さはなるほどな、と思った。同年代の男子で女子と恋愛関係になりそうなポジション故に女嫌い要素を加えられた空也くんがだいぶ良いキャラをしてたのは良かった。「イケメンと飲む酒はうまい」って男がいうアニメ初めて見たかもしれん。まあ、だからか休日の話とかはわりと楽しかったりした。

短評

死神坊ちゃんと黒メイド 触れると相手の生命を奪う呪いを掛けられた青年と彼をからかうメイドのラブコメ。切ない距離感があるのは良いんだけど、死を感じさせるのはちょいちょいどうかと思う瞬間もあって、ヒロインのからかいに死属性を付与したせいで、添い寝だとか出されると設定覚えてるか?って気分になるので長篇に適した設定じゃないんじゃないか。良い雰囲気ではあるんだけど。キスで息を吹き返した白雪姫の逆でキスすると死んでしまう黒いメイド、なのかな。そして本当は死の恐怖を乗り越えてキスすると呪いが解ける、とか。

迷宮ブラックカンパニー 異世界召喚ブラック労働アニメ。悪辣なキンジがいろいろ非道な解決をやっていく異世界両津勘吉とか言われるアニメでわりと楽しく、小西克幸主人公に下野紘のヘタレ役、食いしん坊久野美咲ドラゴンのバランスがいい。中盤ダレたかなって感じはあるけど最後は本領を思い出した感じで良かったしキャラも賑やかで楽しくはあった。びっくりしたのは九話、嘘だろそんなコラボあり得るのかよという鷹の爪団のCM。アニメに実写入れ込むのは寮母くんでやったけど別のアニメ混ぜるのはちょっとないんじゃないか。OP曲は往年のサーフィスの曲みたいでよく聴いてる。

指先から本気の熱情2-恋人は消防士 僧侶枠初の二期作品、やっぱガタイのいい男子が強いのかな。高森奈津美ヒロインだ。現在時で当て馬キャラが勝利することはありえないから、高校時代に初めての彼氏を取られた男との再会で心にダメージを与えて、想像的に過去の彼女を奪還するテクニックや消防士の技術大会描写なんかがわりと面白い。ぶつかりあって自分が自分でいられる相手として恋人を選ぶ、なかなか良い締め。

どうかと思ったもの

ぼくたちのリメイク

芸大進学を諦めた過去を持つ主人公が突如一〇年前にタイムスリップし、そこで芸大に行きまだ才能を現わしていない伝説のクリエイターたちと一緒にエロゲを作ろうとする話なんだけど、リプレイものにまつわる倫理感がかなり奇妙。未来を知っているからまだ自分の才能を知らない彼女たちを励まし応援できるのは良いんだけど、そりゃ未来を知ってるならそう言えるし端的にズルでもある。リプレイものにはつきまとう問題だけど彼ら彼女ら自身が積み上げた達成をパクっている形になる。元々関わりがなかった色んな才能を「オレが育てた」していくみたいな話ですごい。

カノジョも彼女

漫画を見かけた時、ヒロユキ作品で複数ヒロインと付き合うと聞いて想像したものが悪い意味でそのまま出てきた感じで、読まなかったのは正解だったなと思った。この人がよくやる、バカだけど正直で熱意があるから男の欲望をだだ漏れさせても愛されるみたいな作風、だいぶ無理を感じる。主人公と二人目の利害が一致したことで最初の恋人の意に添わない関係を強要する形になってて、土下座すればやらせてくれるみたいなセクハラっぽい。こういう関係には繊細さや気遣い、抑制が重要だと思うんだけど、正直に欲望を発露すればなんとかなるみたいなだらしなさしか感じない。ネオスタンダードといってモノガミー規範批判を匂わせてるけど、すぐ3Pとか言い出すし、ポリアモリーというよりそうしたイメージをだらしなさの正当化に使ってる印象だ。まあ咲も欲望に素直なタイプで釣り合ってるって言いたいのかも知れないけど。バカな男の子の欲望ばかりがいたわられてて、ハーレムものの主人公としてあってほしい徳が感じられない。今作への違和感、二股を連呼しているのは二股が悪いことという「常識」に乗っかった上でギャグにしている感じがあって、ポリアモリーの話のようでいて本質的に「ホモネタ」と同じような扱いなんじゃないかって感じるからかな。ただ、ED曲、麻倉もものピンキーフックは今期トップに良い曲だと思う。

探偵はもう、死んでいる。

ラノベ原作アニメなんだけど、韻踏んだ人名とか西尾維新に影響を受けたような感じが生煮えで出てきているようで会話劇がだいぶ厳しいところがある上に、メインヒロインシエスタが死んで、という話なのに中盤で過去篇を延々やって全然死んでない未練がましさがどうにも乗り切れない。また、アニメとしていやに平坦で緊張感がないというか演出がないというか。劇伴の付け方が素朴すぎというか。シエスタ萌え萌えアニメーションやってるところとかキャラ作画は良いんだけどそれ以外がなんとも。フルダイブ、探偵と立て続けでこの会社への印象がなんともいえないものになっていく。

秋クール(10-12月)

やくならマグカップも 二番窯

冬クールの一期に続いての二期。それだけでも出来の良かった一期をさらに掘り下げ、十子先輩の伝統とプレッシャーの悩みの解決が姫乃の悩みへのバトンになり、予想外の結末から陶芸の伝統に新しいものをくわえ、身近な実用品としての焼き物、に結実する物語を主人公姫乃と周囲の人たちを丁寧に絡めており、一期から二期へと着実に積み上げ、本篇15分ながら今期トップのアニメだったと思う。母の才能なるものが無数の試行錯誤の上にあることを知って何が作りたいか自体を探すことが楽しみになってくる姫乃を描く一話で、母の作品とならぶ自分の作品を作る、という二期全体の目標が示される。二話は幼なじみ百合回で、家出してきた直子と姫乃が思い出を語り合いながら、何でもないことが相手にとってはとても印象的で、相手の側からしか見えないことが二人でいることの意味となり、思い出を共有することで違う視野を得て、それが親子喧嘩の仲直りのきっかけになるのが綺麗だった。OPのカップリング曲「君のそばに」はこの回のイメージソングとしか思えない曲なので是非聴いてみてほしい。他人の目から見えるものというのは二期ずっとのテーマにもなっていて、三話では美濃焼の伝統を百済、須恵器との連続性とともに時々に応じた変化も経てきたというのを異文化の受け入れという特色に繋いで、ブラジルから来たヒメナという異国の人が根付く話になる。別視点ということでは四話の、三華の奇抜なようで何度もやり直す熱心さや偶然・失敗を生かして個性にする作り方が、焼き物の河童という意想外な視点から語られる。この回は実写パートがボイスオブセラミックスという店に行く回で、だから本篇が陶器の語りだったのかも知れない。五話以降は幼い頃から陶芸をやっていた一番のベテラン十子の悩みが描かれる。祖父に認められないという悩みから正解=賞にたどり着くという目的ばかりに目が行ってたことを反省し、祖父と同じように陶芸道具のクイズを部員に出して、面白さや不思議さを感じることが大事だと祖父の受け売りをして教えながら教えられ、己の原点の動機に立ち戻る。太陽のような赤い陶器が自分には似合わないと思っていた十子にそんなことはないと姫乃が促し、吹っ切れたように十子は作りたいものを作ってみるようになる。十子と祖父との関係の帰結となる八話九話は二期でもとりわけ印象に残る話数で、死ぬまで子供に厳しすぎた俳優の「死ぬ前に仲直りしたかったよ」という言葉が、祖父に考えを変えさせ、十子を誘って陶芸の話はせずとも同じ目線で見る紅葉の景色で締める八話はとても良い。紅葉は、祖父の変化のみならずもう昭和の頑固親父でもないだろうという伝統芸能の変化の象徴だろう。それのみならず紅葉の赤は十子の皿の色を示していて、ここに誘ったのは十子の皿の赤という変化を確かに見たことと自らも変わるだろう予兆を言葉を使わず示唆する、変化の象徴としての「赤」にたどり着く。「綺麗だね紅葉」「ああ」という返答。五話から八話にかけての十子篇で一つの流れがあり、五話は夜の枯葉の吹きだまりから始まり顔を見せない祖父の背中を見ていたのが、十子の変化を経て美しい紅葉の景色を隣で同じ場所から見る祖父の変化へ帰結する。五話冒頭と八話ラストの夜から昼へ、枯葉は紅葉へという明瞭な対比。変わることの美しさとしての「赤」の肯定だ。九話は親族故に距離を取っていた祖父が十子にちゃんと謝罪と陶芸を続けていることに感謝を伝えて、焼き物の出来に悔しさまで感じたことを丁寧に言葉にしているのは、言葉を惜しんだ甘えへの反省だし、直子、十子、姫乃と言葉が人を動かすこととも重ねられていてとても良い。「青い夏もええが真っ赤な秋もええな」という十子の変化を迂遠に肯定するも、「わからんか、わからんわなぁ」。言葉にしなければ伝わらない俳優の親子のエピソードを経ての祖父の反省があり、この丁寧さは十子から姫乃へアドバイスが帰っていくことで姫乃自身の母親のプレッシャーという十子と似た悩みへの助言になる環ができている。二期のクライマックスといえるところではめ込んだようにOPの歌詞もぴったりだった。10話で秋から冬に。霜柱が火柱になる印象的なカットのように、色々な人の話を聞くなかで溜まっていた何かが急に自分のなかで形を得ていく変化の瞬間があり、直子の助言によって作るものが決まる姫乃が描かれる。父親に意見を聞かなくなり、ハイペースで作品を作り、「一度作ったものを捨てられるようになる」のは自信がついた証拠と言われる、着実に大人、一人の陶芸家になっていく姫乃が描かれてて充実感がある。最後、母に並ぶ作品をいかに作るのかという問いへの姫乃の回答はどういうこと……?という困惑を最初感じたものの、なるほどすごいな、となる驚きのものだったので、ここでは触れないことにする。一期では姫乃の涙で幕を閉じた物語が、父刻四郎の涙で締められる二期は、娘が自分より大きな考えを抱くに至る成長を目の当たりにしており感動的だった。物語ばかりに触れているけれど、作品全体も非常に良いと思うし内田彩による二期のED曲も良かった。なお、実写パートも芹澤優の作る尻と足の作品や、本泉莉奈の呪物的な怪奇オブジェなどインパクトがあり、自分たちの写真が印刷された声優ラッピング10トントラックを目の当たりにするなど面白い。自分たちの作品が街の至る所に貼られているというの『ドン・キホーテ』みたいだと思った。芹澤優が「あざとさがすごい」と言われる場面は実写パートの白眉かも知れない。

月とライカと吸血姫

米ソ宇宙開発競争を踏まえつつ、ソ連を思わせる架空の国での吸血鬼を利用した宇宙開発を描く改変歴史SFラノベ原作アニメ。横山彰利監督、原作者牧野圭祐が構成と一部脚本も担当し、光田康典が音楽を担当する。アルボアニメーション制作。宇宙に人を飛ばすにあたって、実験動物として被差別種族の吸血鬼を宇宙に飛ばすノスフェラトゥ計画に従事することになった主人公レフが、イリナという吸血鬼の少女の担当としてともに宇宙を目指していく。ワンクールでラノベ原作二巻分を費やすのはかなりじっくりと尺を使ったアニメ化で、進みは緩やかに、しかしじわじわと積み上げていく描写によってレフとイリナの接近と和解、そして打ち上げへしっかり惹きつけられる質実な作品だ。四話はこの二人が禁じられた敵国の音楽ジャズという自由のなかで触れあうのが良かった。また湖上のスケートはイリナの美とともに異質さや月との近さを描いてて、つまり人間と違う吸血鬼として月へ昇り、五話の降下訓練ではレフの名を呼び手を取り合って、つまり人同士として降りてくる、という今作における上昇と下降に込められたものがよく出てる場面だと思う。前半のクライマックスの七話は、ドラマティックすぎず、静かに染みこむような回だった。リコリスの料理ショー、という打ち上げ成功の隠語があるならば、二人だけに通じるグミのナストイカという言葉もあり、宇宙と地上の遠大な距離を言葉が繋ぐ。暗号、歴史のベールの下、銀色のシートのなかでだけ存在する二人だけの「真実」。暗号がイリナの存在を歴史から隠蔽するなら、暗号がイリナとレフの二人だけを繋ぐことができる。歴史の陰に隠される被差別種族をめぐる真実と嘘は本作の核となるテーマで、最終話で英雄レフの演説でイリナの存在を暴露しても、それすら予見していた最高指導者ゲルギエフが自分たちの吸血鬼差別を瞬時に反省してみせ、返す刀で自国の政敵や敵国批判の道具にしてしまう。レフの親が言う、「嘘は真実になり真実は嘘になる」というのはそんな本作の軸でもあり、人間と吸血鬼、昼の民と夜の民、表の歴史と裏の歴史の転覆・反転を示唆し、裏を表にひっくり返す革命が見据えられる。政治に利用される飛行士と政治を利用する飛行士。空を飛んだお前が祖国の大地に縛られることはないという言葉が背を押して、異種族との共存ひいては世界の壁を越えることを目指す新世界への夢。ラジオで監督がゲストに来てた時に、この作品は特定の国や制度などを非難するために作ってるんではなくて、どの国でも通用することだし、日本でも他人事ではなく、レフは自分たちだと思って見てもらえるとありがたい、という得てして忘れがちな基本的な話をしていた。イリナ役林原めぐみ、すごいんだけど微妙に趣味じゃないと思ってしまうな。内山昂輝木野日菜は良いんだけど。ラジオで林原めぐみがゲストに来たとき、彼女をキャスティングしたのは歴史的な出来事なので今の話し方でない人だからだったらしく、微妙に演技の質が違うなと感じたのは意図したものだったと聞いてなるほどなとおもった。

見える子ちゃん

ある時幽霊、化け物が見えるようになった高校生四谷みこが、見えていることを化け物に気づかれないように怯えながらも全スルーしていくホラー漫画原作アニメ。猪原健太構成は違うけど、小川優樹監督でパッショーネは異種族レビュアーズの組み合わせで、序盤はホラーにエロはつきものってイメージが何となくあって、これはホラーをネタにしたエロアニメという感じだなと思ってたら、ホラー、感動話、ギャグの振れ幅からかなり巧みな「見える」ことをめぐる中盤以後の展開は感心させられた。二話の幽霊が見えることによって良い人と悪い人を見た目からは違うところで判別できて、という話は感動的だったんだけど、そこで作られた悪者をめぐってそう見えたことを反省的に捉え返し、見えていることは分かっていることとは違う、という視点を差し出す構成にもなっている。四話、アニメでの叙述トリックとも言えるネタがあったのがそもそもの前触れでもあった。見えてるということはそう見えるだけ、あるいはそう見えるように演出されているだけという、見えることをテーマにした作品らしい批評性があり、遠野善をめぐる部分でそこを掘り下げていく。そしての11話では、見えないふりをしていたみこの決意としての見る、に今作の核心が掛かる展開がかなり良い。見えること見ないこと見せることをめぐってのミスリードから、見えないはずのものを見ることで解呪の一撃を食らわせるクライマックスが秀逸。遠野善がどういう風に見えるか、も二転三転してくる。化け物が見えるけどスルーしなきゃいけない、という一発ネタ漫画に見えて着眼点が良かったのか原作者が想定してたのかは知らないけど、「見える」ことを掘り下げていって見ないふりをしていたものを見ることに帰結する構成は相当見事だった。最後、作中と現実がバグによって繋がったのか化け物が視聴者に気づいて見える?と聞いてくるオチ、急にマジなホラーやってくるエンドだ。

吸血鬼すぐ死ぬ

吸血鬼と吸血鬼ハンターのコンビを描くチャンピオン連載ギャグ漫画原作アニメ。神志那弘志監督、菅原雪絵構成、マッドハウス制作。これは小気味よいギャグアニメで、一話冒頭ほんとにすぐ死んでて笑った。精神的な負荷で死ぬのでもアレなのにガキのローキックで一撃とは。圧倒的に軽い死の連打で怒濤のボケとツッコミを回していくギャグのうえに吸血鬼とヴァンパイアハンターのバディもので快調な楽しさがある。猥談やら変態やら、新横浜という場所に集う妙な連中のくだらない内容にベテラン声優を掛け合わせて最強の何かになってる。アルマジロのジョンが画面に華を添えている。最終話はOPを回収しないと思わせて二度OPを流しながらの実際に二人がOPみたいなダンス対決をするとこうなるという落差がひどいED、良い締めだった。集団戦ができるほどみんな連繋できるというところからハロウィンパーティでみんなを集めて、最後は二人に落ち着く。まあとにかく声優も強いし面白いギャグアニメだった。

テスラノート

リメインの西田征史が原作を担当している漫画を原作に西田自身が構成脚本を担当しているCGアニメ。福田道生監督、ギャンビット制作。ニコラ・テスラの残した強大な力を秘めたテスラの欠片を奪い合うスパイアクションで、鈴木達央のクルマと、忍者として育てられた小原好美の根来牡丹のコンビがバチバチやる感じも楽しいし、何より一話のラスト、CIAのミッキーが「存在意義(レゾンデートル)の社交的な集い(パーティー)」を始めよう!とかいう文字演出が出てくるところが面白すぎた。ルビありセリフを文字つきで表示させるまではわかるんだけど、両方声つけて読ませるのは明らかに異常な演出で、普通やらないからこそ異常な面白さが出ているのはなかなかすごい。ここは本作の性質をよく表わしている。シリアスな場面に急にくだらない流れが放り込まれるおかしさ、奇天烈なミッキー語録が毎回楽しみだし、CGの微妙なチープさがあいまって面白くてオモシロい、とても楽しいアニメになっていた。トンチキアニメの敵役が冗談が嫌いな人だったりするの、とても自分のことをよくわかってる作りだよ。終盤の敵組織の名前が「小さな家」で、最初英語で表記されたりしてたのに、「小さな家(UNA CASITA)」が「おなかすいた」呼ばわりされるのは笑ったし、こういう名前の青果店チェーンが実在しているのはもっとびっくりした。元ネタなのかも知れない。スパイ関連で裏切り者が誰かをグルグル回していく展開はなかなかやられたし、緊迫した場面でものんびりした音楽が掛かってたりする笑いを忘れない作りは大変楽しかった。

プラオレ!~PRIDE OF ORANGE~

日光を舞台に女子ホッケーを題材にしたオリジナルアニメで、C2C制作、安齋剛文監督、田中紀衣キャラデザ、ぼっち生活のスタッフだ。構成は待田堂子。一話のウィニングライブが始まる胡乱な感じは何かと思ったけど、本筋自体は幼馴染みの少女達がホッケーを始めていく物語を手堅く進めていく作品で、何故か監督が集客のために歌と踊りのライブをやろうとしていることはとりあえずスルーして見ていくこともできる。OPでメンバーがパックをリレーしていく演出のように、幼馴染みのチームワークを各回で掘り下げながら、新しく入ってきた清瀬優との関係も繋いで、パックを繋ぐことの重要さを描いていく。チームワークとワンマンプレイの対比構図はリメインとも似ている。ホッケー描写もなかなか見せるものがあり、なおかつヴィクトリーダンスという試合後のライブも作画でやりきった最終回はかなりの見応えがある。ダンス要素がうまく繋がっているとは言いがたいんだけど、それをもうわかっているのか堂々と正面から無理やり入れてくるので笑ってしまう。ただ、ホッケーは多数のメンバーが随時入れ替わっていく競技らしくて先輩達もしっかり参加してるっぽいのはわかるんだけど、紹介とかでも主人公たち六人しか描かれていないのが作品としての描写を絞るためもあるけどもったいない。田中秀和只野菜摘コンビのOPも良いんだけど、カップリングのbe Cuteも相当良くてよく聴いていた。

ビルディバイド -#000000-

新作のカードゲームを題材にしたオリジナルアニメ。カードゲームで全てが決まる新京都というディストピアめいた街を舞台に、照人のゲームの強さを見込んだ桜良が王への挑戦をかけたバトルへ誘う。押しかけ弟子のひよりも加わっての三人が中心人物。カードゲームで全てが支配されてる街、キッズアニメ以外でこれやってくるのすげえなと思ったら1600年代に日本に伝来したビルディバイドって文言の破壊力がなかなかのもの。照人の中二病めいたセリフの数々も面白い。前半で照人の中二マインドの復活をお土産屋で売ってるタイプのドラゴンの小物が水中から姿を現わすことで表現するところはだいぶ面白いセンスだった。挑戦する王というのが菊花という照人の妹で、その因縁が中盤から出てくるんだけど、兄としての照人がビルディバイドを教えた妹に上達され逆転されたことから妹に冷たく当たったという生々しい話になる。二期が決まっている一期の最終回、菊花、桜良という花に対して照人という太陽の存在を受け継ぐのは「日和」以外になく、桜良の服を抱きしめて残された照人の弟子が師匠の奪還を企てる第二クールへのブリッジがなかなか見事だった。照人は菊花という弟子に対する対応を間違えたことがあるわけだし、自分の弱さを認めて菊花と正面から対決することでけりをつけ、真に師匠となり弟子がその意志を受け継ぐことができる。菊花を救った照人を救うために立ち上がる弟子、良いね。菊花という名前は『雨月物語』の「菊花の約」由来じゃないかと思ってるんだけど自分以外に言ってる人を見ない。

takt op.Destiny

ゲームが展開されるらしいコンテンツの前日談にあたるオリジナルアニメ。マッドハウスMAPPAの共同制作。音楽を攻撃する敵性体のために音楽を奪われた世界で音楽を取り戻す旅を続ける内山昂輝演じるタクト、若山詩音のコゼット、本渡楓のアンナの三人のロードムービー。コゼットという少女が瀕死に陥り、ムジカートという戦闘能力を持つ音楽の化身「運命」になってから、コゼットに戻すために旅する話で、クラシックを題材にしてここぞという時に名曲を流せるのはかなり良い。展開が結構甘いなと思うこともあるんだけど、要所要所の主人公タクトの楽器演奏シーンはとても良くて、特に二話の引きこもっていたタクトが外に出て、人とともに楽しげに演奏される音楽のなかでコゼットと連弾して心を重ねる場面は印象的だし、六話のニューオリンズ地下のジャズバーに残る音楽、母親の記憶に残るマリア、運命の言葉にほの見えるコゼット、失われたものはまだ生きている、ここにあると描く老人たちの街の話も良い。「生きてて良かったじゃないか、今日僕の演奏が聴ける」、というタクトの自信は気持ちいい。八話の「運命」を受け入れるEDの変化、そして最後の音楽はいつだって人を救っている、僕だって音楽があるからここに立っていると言うタクトも良かった。

世界最高の暗殺者、異世界貴族に転生する

元は小説家になろうに投稿されていた異世界転生もの小説原作。シルバーリンク異世界転生幾つ目だという、田村正文監督高山カツヒコ脚本コンビで、第一話は原作にないという渋いおじさん暗殺者の前世でのミッションを描いててかなり見応えがあった。ワンクールで原作一巻分しか使ってないらしく、随所にオリジナル展開を入れているアニメ化ということでほぼオリジナルだという第一話から、女神によって異世界で勇者を暗殺するための転生を受け入れ、異世界の暗殺の裏の顔を持つ貴族に転生して、という物語。中身ベテランの少年が淡々と子供をやっていく序盤も面白いし、ディアというおねショタ展開は精霊幻想記ともちょっと被る。原作一巻分、ということもあって終盤の秘密兵器の部分はこれまでの色々な部分を生かしたキメの一撃になってて、あそこでそんなことしてたのか、という驚きが結構あって面白い。ゲイボルググングニル、とんでもねえ出力で「暗殺とは一体なんなのか」笑った、それはそう。

闘神機ジーズフレーム

中国から亡命してきたアニメと噂の、10月に入ってから10月放送開始と告知され、テレビ放送よりも先に無料配信が始まった色んな意味で異色のアニメ。四川省出身の主人公にイスラム圏出身ぽいキャラ、国際色を出しつつ人類の敵と発掘された未知のロボットに少女が乗って戦うSFアニメ。構成原案ヤマサキオサムで、脚本、コンテ、演出など日本人スタッフを主としながら中国人スタッフも共同脚本、副演出などでかかわり、作監原画など実制作を中国で行なっている模様。話もそうだしアニメの作りもだいぶ素朴というかレトロな感触のある美少女SFロボットアニメの感じで、中盤あたりからは結構盛り上がっていった。DGエネルギーという新興エネルギーの問題というのは原発にも似た環境問題SFぽさがある。八話の熱水噴出孔を利用した海底サルベージプロジェクトを描く地球サイドの描写とかもだけど、減圧で唾液が蒸発するとか、無重力での涙滴の動きとか、事実かはさておきピンポイントなSFネタの使い方が上手い。これでいいんだよ、というか。艦長はかなり良いキャラしてた。「兵器は動いてない時がもっとも美しい」とか。宇宙の敵としての人類という設定はゲッターロボアークとも似ていて、ちょっと古いトレンドだったのかな。

進化の実~知らないうちに勝ち組人生~

今期トップのバカアニメというか、原作者自身もなぜアニメ化したのかという困惑が七割だったらしい怪作。小説家になろうに投稿されてた異世界もののアニメなんだけど、メインヒロインが稲田徹の喋るゴリラから花澤香菜の人間に変身しているし、下野紘の主人公も太めからスリムに変身するし、ロバは人間の少女になるし、ルッキズムでもあるんだけど妙に由来に多様性がある。三話では今更「やらないか」、を変態たちととりまぜて「ホモネタ」の感じで出してくるのがだいぶ厳しいけどこの作品自体がタイムカプセルみたいなものだからしょうがない気にさせられる。原作者が声あてたのがそのモヒカンだったの、自分のやらかしたことをちゃんと責任とってて偉いかも知れない。しかし原作者が声優やる時の素人っぽさがないの何なんだ。アバンからまぶしっ、目がぁ、のいにしえのネタ連打、これ2014年から連載始まったって言うの嘘だろって思うね。見てて毎回嘘でしょ?って思う瞬間がいくつもあるんだけど、テンポが良くて基本的にバカバカしいので不快になるポイントもそんなにないというわりに優秀なアニメだったかも知れない。10話は奴隷解放リンカーン魔法というのもすごいんだけど、この世界でカツ丼尋問の概念があるの本当に狂っててすごい。現地人が言い出すんだから。訓練のところでプロレスのリングを平然と描いてるのも。アバンで要るかわからない振り返りやっておいて最後に時間がないと省いてくる高度なギャグ。11話も「キター」から始まってラオウネタ、この世界で横綱稀勢の里がいるらしいアバンから始まって無限に突っ込みどころと古いパロネタが流れてくる壮絶なアニメで見てると脳を蹂躙される気分になる。すごいぜ。クライマックスの戦闘がただの変態パレードなんだからな。ヒロイン勢も、ゴリラ、人間、ロバ、人間、猫耳と、狂ったり正気に戻ったりを繰り返して最後に定番的な猫耳出してくるバランス感覚が独特。見ていると毎回「すごい」と書いてしまうくだらなさで話を転がしていくとんでもないバカアニメをちゃんとバカアニメとして作ったなかなかの作品だった。原作者の声優が違和感ないのもすごい。進化の実に曲提供してるバンドリ、度量が広い。

逆転世界ノ電池少女

オタク心のときめきがエネルギーになるロボットで侵略者真国日本と戦うオリジナルアニメ。「空想の作り物に耽溺し、堕落するなど愚の骨頂」と夢想主義としてサブカルオタク文化を弾圧された人々が、レジスタンスを組織し、軍国主義を維持したままの「永生昭和」の並行世界からの真国日本という侵略者と戦う、オタク文化とは何か、をテーマにする。戦争に勝った真国日本とゲームやアイドルに耽溺する幻国日本、あからさまに虚構と現実で、戦争に勝った虚構の日本が娯楽に現を抜かすなという構図はなかなか皮肉な面白みがある。オタク文化が日本の敗戦から生まれている歴史観でもある。戦後民主主義オタク文化というとまたいろいろ議論もあるけれど、そうした基礎的な構図と、パイロットは電池少女の気持ちを利用するだけの軽薄なホストで、だから主人公細道だったという設定は面白い。オタク弾圧、というと被害者意識からオタク優位性を唱えるキツいアニメになるかと思ったけど、趣味のない空っぽの主人公を据えていてそこらに批判的な場面を入れてきたり、むしろオタク文化にとっては萌えの多様性と相手の嗜好への敬意と尊重がなくてはならないと自律の理想を語る作品でもある点は悪くはない。オタク弾圧に立ち向かうレジスタンスものだけどオタク文化に対して批判的な視点があるのは境界戦機よりもよっぽどまともだった。空想や趣味への耽溺を弾圧する国粋的なものとの対抗軸でまとめているのはいいけど、ただこのフレームはやはりかなりレトロなもので、今だとオタク表現をめぐる問題は性を含んだ複雑なものになってるからアニメでは難しそうだしそこは今作でも問われていない。個人的に良かったのは五話、アイドルは勇気や夢を作り出して人を励ますことができるという外向きなアイドル論に対して、何よりもアイドルをやる自分が大好きだからと主体性を取り戻し「あんたたちがあたしを輝かせて」とファンの応援を力にする順序、の描写が良かった。受け取ったもの、それを返せること、というアイドル描写も良いけどやり過ぎると重しになるように感じるので。

でーじミーツガール

沖縄で家業のホテルを手伝っている比嘉舞星が、すずきいちろうという名前で宿泊する客とともに部屋が水中に沈み魚があたりを泳ぎ回ったり、ガジュマルの樹がホテルを覆いつくしたり、不思議な現象に見舞われるショートアニメ。とても良い。アクアトープと並ぶ方言指導儀武ゆう子アニメだけど、幻想の使い方はこれが見たかったという感じがある。しかし90秒とは思えない密度を感じる。終盤では千と千尋感ある異界と化け物とボーイミーツガールで、少女が少年を助けに行く話になっている。すずきは俳優か新人アイドルかでこれからって時にコロナで公演中止になって、というかなり生々しいやつでぐっと身につまされる感じになった。しかもラベンダーも映ってて上富良野出身。北から南へ。そんなすずきを怪我で部活を辞めた舞星が励ましている構図も示唆されてる。すずきが図鑑読んでて魚に詳しいとか、舞星が怪我で部活辞めたとかは漫画版で描写されてるけどアニメでもちょっとした描写がある。魚にいやに詳しいとか、舞星が部活動の様子をじっと見てたり「優勝」シャツや「ハンド部一同」の黒板とかにそれがある。安野希世乃の沖縄弁の良さもあり今年の傑作ショートアニメ。

アサルトリリィ ふるーつ

去年末にアニメもやってたアサルトリリィのショートアニメで、本篇二分にかなり詰め込んだハイテンポな一作。EDにも出てくる四コマ漫画が一応の原案なんだろうか。アニメBOUQUETだと梨璃と夢結ら百合ヶ丘を中心にしていたけれど、今作では噂に聞いていた他の色んなグループも出てきて、アニメしか知らない身にはなるほどそういう人たちかという感触が得られる。四話、アニメに実写ドールが出てきてドールメーカーアゾンの名前が出る宣伝回かと思ったら特撮でアゾン工場爆発オチというとんでもない回があり、「特撮協力 高山カツヒコ」にびっくりした。高山カツヒコが乙種火薬類取扱保安責任者の資格持ちでシャフトアニメで度々爆破シーンやってる恒例のだったのは知らなかった。九話ではたかなほ回というやつらしく、共同財布とか支払いの主導権争いとかの話の後に仲直りした後は燃えるというセリフがあるとつまり主導権がどうこういうのは完全にエロい文脈で話してますよね、という同棲の話のような何か。そして13話が凄くて、脇役結婚式で終わった感を出すアニメが続いた秋アニメのなかで百合カップル主人公の結婚式を堂々とぶちこんでくるのが強すぎる。本物のアニメだ。梨璃は確か15歳だし、この作品世界の時代において、同性婚可能な設定かどうかも知らないけどそういうのは一切無視して主人公二人で結婚式をやってるの、合法かどうかも一切関係ない本当に二人の同意のみに基づいてる感じで、サブキャラの結婚式でお茶を濁すなんてことはしないのが百合作品としてパワーがある。法律が変わったかどうかとか関係ないんですよね。そういう点でもかなり強い百合アニメと言える。しかしこのふるーつの主題歌、人をフルーツに擬して食べてる歌詞……エロい歌じゃない?

鬼滅の刃 無限列車編

まあなんかすげえ興行成績をたたき出した映画版をテレビフォーマットに再編集しての全七話、映画は知らないけど、これを一本の映画にまとめたらなるほど結構な熱量がありそうだ。一話は新作らしく煉獄杏寿郎の顔見せと乗車までの過程。しかし爆売れした作品から放たれる異様なまでに描き込まれた蕎麦の作画、笑うしかない。金の掛かった蕎麦だよ。蕎麦ネギかき揚げ、線が多いものをこれでもかと。蕎麦と弁当、食べて始まり食べて終わる生の話って感じ。しかし無限列車の無限要素は名前だけっていう発言を見かけたけど、無限にして夢幻でめちゃくちゃ関係あるな。列車に無限ってつく理由がないっていうことだったのかな。夢を使った攻撃に対して、覚醒のためにポンポン自分の首切ってるのヤバイなって思ってたら炭治郎の異常さを鬼が逆手にとってきたの上手い。ここら辺ジョジョっぽい。魘夢の最期の尺が長いから復活するフラグかと思ったら、主人公たちの戦力の分析と兼ねて彼の嘆きが丁寧に描写されていくのがそういや鬼滅はそういうつくりだった。やり直したい悪夢、自分が見せていたものが自分の現実になってる。最後、逃げるな卑怯者、のあたりの炭治郎のセリフの独特さはなかなか面白い。ズレてるようでズレてないようで言ってることは子供にも分かるようなことで、戦いのロジックではない言葉のような感じ。遊郭編ちょっとたるいからアレもカットして一本の映画になるくらいにすれば良いのかも知れない。

SELECTION PROJECT

動画工房によるオリジナルアイドルアニメで恋する小惑星の平牧大輔監督、彼女お借りしますの平山寛菜キャラデザ、構成はラクエンロジック高橋悠也早見沙織のアイドルが事故死してその妹が、という展開でアイドリープライドと交通事故起こしてるのは笑ったけど、それ以上に心臓移植ネタというのまで被ってしまっているのは凄まじく、今年最大のアニメのネタ被りではなかろうか。モーニング娘が出てきた往年の番組ASAYANがスタッフの口から出て来た(広海がリーダーやるのは中澤裕子の引用かなと)けど、そうしたアイドル選抜リアリティショーを舞台に、九人の少女達の共同生活の模様が描かれる。絵作りは非常に良いし、四話の屋上の場面で上から顔を出した鈴音が上から目線と言われて目線を合せにしゃがんで、女の子らしくと言う広海があぐらをやめて座り直すくだりの、人物のセリフ以外の思考が行動から窺える描写になってるところとか良かったし、ライブとかで髪型が良く変わるところとか、九人のキャラがちゃんとわかるようになる個性の出し方も良いんだけど、11話からの展開はかなり悪い。10話は、メンツのなかで誰か落とす人間を自分たちで選べ、という悪辣な分断の煽動に対して、誰かを落とすくらいなら全員プロジェクトを抜けて一人も欠かさず路上から自力で始める、自立の物語が始まったのはこのアニメで一番評価が上がったところだった。各キャラの家族の描写を随所に入れてきているのが活きてる。そして11話は手ずから曲、衣装をつくり路上ライブで地道にファンを増やしていく活動の描写やその結実のライブも良いのに、番組サイドからの復帰要望を即答でOKするのが理解できなかった。二人落とせっていう決裂を招いた原因などがスルーされてるのは和解として不十分で、もっと交渉の余地がある。労働問題に強い弁護士を呼んだ方が良いと思った。もっとアレなのが12話で、倒れた鈴音が入院準備をしてるのにライブ間に合わせるための時間稼ぎを始めるのが本当に謎。社長がもう二度と失いたくないと、事故死のアイドルを思い出しているのに現時点で意識のない鈴音を出場させるための時間稼ぎ始めてるのすごくない? ステージに間に合うのかのライブ感演出はまあ定番だけどここまで乗れないやつそうそうない。殺す気か。心臓移植がその後体力にどう影響するのかは知らないけど、心臓の件知ってるみんなが倒れたことに危機感持たないでライブやらせようとしてるのマジで何? 最終話、倒れたのに病床からライブ直行?間に合う?とかの問題は裏では実はこうだったんです!みたいに解決するのかと思ったらいっさいなくてびっくりしてしまった。あのアナウンスからポーズ付けてスズレナ上がってくるの演出にしか見えないでしょ。作中の視聴者にどう見えているんだ。歌が届く、受け取ったもの、そしてそれを返す、というのはまあ良いけど「セレプロ」という番組とエールというシステムに乗せるのに失敗してる気がする。あとやっぱり九人でなければ、という説得力が薄い。史上初のみんな合格で共同生活というベースがあるとはいえ、ユニットに分かれてたし。ラストの展開がリアリティショーを演出するやらせ、という感じにしか見えなくなってた。路上ライブが物語に回収されてしまったのは、まんま22/7と同じでそれが悪辣なものとは捉えられていないのも。キャラで面白かったのが食の伝道師八木野土香で、大量にもの食べてるのに躊躇なくあの水着を選べるメンタルの強さはとんでもないし、ところどころで何の突っ込みもなく他人の数倍くらい盛り付けられた食事をしてるのに気づいて吹き出しそうになった。

短評

最果てのパラディン コミカライズを読んでいて、それは異世界転生もののコミカライズでもトップクラスに良い作品と思っているんだけれど、アニメは文字媒体との相性の悪さか、ちょっと冴えない出来にも思う。河瀬茉希の主人公は良いんだけど少年期はともかく肉体派の青年期も続投するとちょっとイメージと違うなって感じもしてしまう。序盤の旅立ちまでのところとかやはり良いんだけども。現代的な異世界チート転生という要素を使いつつ、オールドスタイルなファンタジーと組み合わせて現実的な実装を目指した作風という感じで、チートレベルの力を手に入れるまでを描いた序盤と、終盤はそうした強者故の病に至る過程を描いていて、もうあいつ一人でいいんじゃないか、と言われた方の憂鬱にフォーカスしている。

Deep Insanity THE LOST CHILD スクエニ原案でシルバーリンク制作アニメ。怪物の徘徊する地下世界に潜る任務に従事する小隊を描いたアニメで、二話の餅木スミレという元アイドルを描いた回や、小鳩麗香回などヒロイン回が結構良くて、本筋の話自体にそんなに興味持ててないところがあるけど萌えアニメとしては結構な位置につけてるみたいな感じで見てた。無機質なサブタイトルが反転するギミックがなかなかの見所。

ルパン三世 PART6 四話のヘミングウェイ『男だけの世界』収録の短篇名全部入れながら「殺し屋」の展開をなぞり、ヘミングウェイ稀覯本を書籍暗号の鍵にしたCIAといったネタを組み込んだ入れ子メタフィクション回や10話の「真贋のあわいを飛ぶ鳥」始祖鳥回といった押井守脚本回はなんだかんだ結構面白く見てしまう。

大正オトメ御伽話 家族に見捨てられた少年がポジティブな少女との関係から人間関係を広げていき、両親はともかく親族にも認められ、色々な意味で一人ではないことを確認して「人はどんなに絶望に叩きつけられても誰かが支えてくれたらまた立ち上がることが出来るんだね」と、世を拗ねたペシミストが一人の女性に救われて人の輪のなかに再び入ることになる、まー素直な話だった。マーズレッドに続く大正震災アニメ。

180秒で君の耳を幸せにできるか? 耳あたりの良い音というかそういうのを意味するASMRを題材に、耳元で音が鳴る感触を伝えるダミーヘッドマイクを買った少女がマイクに向かっていろいろやったり色んなキャラのダミヘマイクとの関係を描くショートアニメで、少女やその姉、母など以外に速水奨のキャラも出てきたりする。一番面白いのは夏の縁側に百万はするダミヘマイクがぽんと置かれてる場面で、陽光というキャラが出てきて「あ、マイクだ~」って言い出す場面は絵面が異常すぎて素晴らしかった。頭がおかしくなる。今期の名場面の一つ。

魔王イブロギアに身を捧げよ 今期僧侶枠一つ目。ゲーム世界に転生した主人公が憧れていた魔王に告白する異世界BL。主張がはっきりしてて言葉にキレがある上にドMというゴズのキャラがとりわけ良い。BL僧侶枠、打率が高い。

しょうたいむ!~歌のお姉さんだってしたい~ 今期僧侶枠二つ目。父子家庭のお父さんとテレビ番組の歌のお姉さんのラブストーリー。無理やりというのはなかったと思うし当て馬キャラの強引さとかスキャンダルとかで展開させたりしない話の回し方は安心感もあって非常に良いんだけど、ところどころでオイ!っていう突っ込みどころがある視聴感はなかなか面白かった。僧侶枠でも上位だと思う。

どうかと思ったもの

境界戦機

サンライズの子会社サンライズビヨンド制作のロボットアニメ。四勢力に分割統治されてる日本でレジスタンス活動をしている勢力に参加することになったアモウという少年が主人公。日本が没落し支配され、そんななかに日本を取り戻す、というどっかで聞いたスローガンが唱えられるのに不安を感じていたら、右翼思想的にどうこうよりも単になんともいえない出来という感じなのは良いのか悪いのか。ロボット戦闘の作画は良いけど、それ以外がどうもちぐはぐな描写に思える。特に五話の中国のウイグル弾圧を意識したっぽい話はあまりに雑で、これが原因で中国で配信停止されたみたいなんだけど、こんなピンポンダッシュみたいな話で停止されて喜んでる一部の反中オタクはどうなんだと思った。日本人が諸外国に侵略されてて弾圧されてる、というわかりやすくナショナリズムな話を上手く捌ける技量がなさそう。中国風姓名の人物が強制労働人身売買に手を染めてるっていうウイグルぽい話を、安易な勧善懲悪スタイルで国粋主義のネタに使うって言うの相当アレ。ただ、妙なトンチキさがあって、「e-sports左官部門でチャンピオンになったことがある」とかいうオモシロワードを電気のない村で携帯ゲームをやってる少年の口から出てくるのがめちゃくちゃ面白かった。あとは忘れられない「自治まんじゅう」。非公式の自治区がお土産に持たせてくれる名菓がそれなので驚愕した。危ない橋を渡っているとか言われてるのに宣伝みたいなお菓子を作ってるのどういうことなんだ。しかし境界戦機が取り戻したい日本ってなんなのかな。思想性が強い割に具体性に欠けている。侵略されてる差別されてると口々に言う割には占領されてる日本人が全然貧しくなさそうで、右翼と言うには思想的一貫性がないような「普通の日本人」が被害者意識を募らせながらも自国の豊かさを信じて疑ってない奇妙な二重基準の同居を思い出させる。「日本の伝統」がとってつけたようなのもそう。

サクガン

一話の映像の感触は良くて最初は期待できそうに思ったけど、親子関係の似たような話を延々繰り返していて、冒険を阻害する構成にしかなってない。親も子供も、話の都合で急に感情が上下動している印象しかないし、色々な設定も投げ出していてどうかと思う。単発話も手応えが薄く、冒険の期待感を削ぐ話しかしてないストレスは結構なものがある。

過去作品、映画、OVAなど

えとたま~猫客万来~

五月に配信で公開されたオーディオドラマ三話とアニメ一話で構成された80分弱の新作エピソード。多キャラ作品では声だけだと誰だか分からないと最初に自己突っ込みしたような弱点はあるものの、にゃーたん全肯定の新キャラを投入しての騒々しい日常からの泣かせに掛かる終盤と劇場版的な構成。六年ぶりのえとたま本篇、オーディオドラマパートはやっぱり絵がないと弱いところはあるけれど、起承転結の四話目、アニメパートからデフォルメキャラのCGパートでキャラ数でも絵のバリエーションでも多彩さがある画面はやはり楽しい。六年経ってもいつも通りで良かったですね。にゃーたんは早すぎたというセリフはこのアニメの生き急ぐ姿を思い出させる。封印の扉、アニメの二話や四話のカット番号まで出してきた。全然忘れてた。その時から設定はあったんだろうか。13分割画面笑うし戦闘方法でキャラを思い出させてくれるオールスターバトルだ。六年前にインパクトあったCGパート、今見てもこのデフォルメキャラで動かすの珍しい気がする。夕暮れのなかで二人が柱で分割されたカットのあと突然隣に座るの、存在の違いを超えたかかわりの今回を象徴するコンテだった。村川梨衣とにゃーたん、だいぶ同化してきてる気がした。しかし泣かせに掛かるクライマックスのキメで「秘儀 封神閼支」(ほうしんえんぎ)は笑った、そこにパロ入れてくるの覚悟がある。かなり変則構成の今回、元々劇場版のつもりで作った話にアニメ一話分の予算しか取れなかった、ってことだろうか。コロナも関係あるのかな。ラジオで聴いたし配信でもちょっと前に聴けるようになってたのでOPに聞き覚えしかない。

BLACKFOX

Studio 3Hzのオリジナル劇場アニメ。大地葉もいるしスタジオ3Hzが英国スパイの代わりに忍者で美少女アクションをやってみたという雰囲気で、終盤のアクションは良いけど話は特に面白いということもないのが惜しい。キャラデザ斎藤敦史、ラブライブスーパースターの人だ。父・祖父を殺された律花と毒親の父を持つミリアの二人の娘をキーにしてるんだけど、ローレンの凡庸な狂キャラぶりに作品全体が取り込まれてしまったよう。なんというか月刊連載漫画の増ページ一話目というか、TVシリーズの前日譚みたいな感じが。パイロット版という印象。冒頭の律花を下から登っていく作画はなかなか変態的。最後のバトルのまるでスケートのようなアクションは江畑諒真アブソリュートデュオOPを思い出したけど特にスタッフにはいないのかな。英字スタッフロールは滅んで欲しい。誰も分からん。劇伴スタッフにブルガリアのチームがいるんだな。

この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説

めぐみんが故郷で両親に挨拶して結婚への外堀が埋まってく話だった。いつものこのすばだ。しかしとにかく胸が揺れてて、一番胸が大きいキャラへの欲望が挫折して一番小さいキャラに戻っていく大小ヒエラルキーの逆転がギミックになってる映画だった。偽のそれとして扱われるシルビアのキャラはどうかと思うところあるけど。映画とはいってもキャラデザや画面は概ねそのままでとにかく動画枚数が増えてるし、かなりラフな感じの作画がスクリーンに乗ったのかと思うと笑ってしまう。それでこそこのすばという感じだ。クライマックスの巨大蛇はさすがに動きまくるし、爆発エフェクトも凝っててここらへんはさすが映画クオリティだった。ちゃぶ台返しの時、こめっこが死んだ目をしていたの、家庭内暴力の時の子供っぽくていやに生々しかった。めぐみん、ゆんゆんに返しきれない恩があるわりに対応冷たくないか……?

通年・キッズアニメ

トロピカル~ジュ!プリキュア

王女候補の人魚のローラが人間界にやってきて、まなつたちと出会い、人々のやる気を奪うあとまわしの魔女たちと戦うためにプリキュアに変身する。まなつのキャラがあるのもあってかなりアッパーなテンションのアニメで、悪役を作らない方針なのか、全然やらないとか後回しとかは誰にでもある怠け癖なわけだし、敵キャラも料理に対しては真面目だったりする。全体的に非常に楽しい作品になっていて良いんだけど、とにかくも今年は29話が抜群に良かった。近年でも突出して構図や動きがダイナミックかつ細かなアイデアにあふれていて見てて楽しすぎて感動的だった。鏡や水を活用した画面作り、状況設定もさることながら特撮的演出があると思ってたらウルトラマン風キュアサマーは笑った。序盤から構図が攻めてるし鏡を使った演出も多用されてて雰囲気が違うぞと思ったら、水中のダイナミックな回転とか、背動もバリバリ使って動かしていくし、震える水面から彼方に敵っていう特撮みたいなスケール感演出はあるし、くるるん発見のくだりのドタバタコメディとか、本体を喰った巨大ナマズみたいなのがうねっていく絵面も迫力あるし、空中の敵を踏み台にしてそのナマズの背中を滑りながらみんな格好良く顔を描くところも良い。鏡の魔力の話をしてやたら鏡を映してたのがドレッサーだから、でさらに変身し、どこの水からも出てくる敵のように鏡面が二人を繋ぐ。変身と人魚だから鏡と水はこのアニメの本質的なモチーフにほかならないわけで、その二つを絡めながら後回しの魔女の鏡が割れているというところにまなつとローラが二人でのぞき込みお互いの距離を繋いだ鏡との不穏な対比をのぞかせる。割れた鏡にはセルフネグレクトというのも感じる。最初に声を出してしまったばかりに挙句ビーム誤射されることになったくるるんは不憫だった。ローラが画面を切り替わっても一人だけ勝利ポーズやってる絵も面白い。こういう細かな面白さがたくさんある。そして、ピンクの象は、何……? 君世界観違わない? コンテ演出田中裕太。圧巻。この回のアクションパートの特徴って一つはタメの長さだと思う。ぐーっと溜めてからガッと動かしていて、空を飛ぶ浮遊感や動きのメリハリに繋がってる。遠近とか奥と手前の空間の使い方も画面以上の広がりを感じさせていて、このタイミングと空間の使い方が肝かな。同時期ではメイドラゴンの作画は確かに繊細、精緻で細かな仕草とか凄いんだけど、作画ではトロプリ29話は結構な時間映す絵も大胆に崩したり、視点も人も回り空も飛び回る様子に自由さがあって、はち切れそうな楽しさに満ちていてそのことがとても感動的だったんですね。アニメって楽しいんだ、ということをその絵でもって芯から感じさせてくれる回だったんですよ。あまりに楽しそうなので泣けてくる視聴体験ってのはそうはない。バトルで勝っての目一杯の笑顔で魔女も「なぜそんなに楽しそうに笑うのだ!?」というまさにその通りで。京アニのその崩れない整った絵や仕草の細かさをすごいと思いつつも、どこか気になってしまうのは、その圧倒的な描き込みに窮屈さを感じてしまうのが否定できないからってのがある。なんか話がズレましたね。とにかくトロプリは楽しかったってことです。

ミュークルドリーミーみっくす

一期終了してすぐ始まった二期は、実写回を定期的に挾むことで放映ペースを維持する体制になった。ゆめと朝陽の関係をゆめに憧れるアッキーをサブに配置しながら描いてて安定している。しかしことあるごとにジャコ・パストリアスそっくりのキャラが出てくるのは監督の趣味だろうか。28話は二期になっても改心してなかったゆに様がここにきて杉山先輩との再会で人の思い出は邪魔してはいけないと学んでまいらの夢をむしろ応援する、一期のまいら回とは別の仕方でちょっと泣かせる。35話、視力矯正の補助器具だけではなくおしゃれアイテムとしてそして現実を拡張するウェアラブルバイスとしての未来を展望するメガネ回、「うどんは二杯で十分」、ブレードランナーネタでサイバーパンクだと強調してくる回も面白い。

遊☆戯☆王SEVENS

今年になって30何話かで見始めたカードゲームアニメだけど、なかなかキッズアニメらしいクレイジーさがあって途中から見てもだいぶ面白い。60話、「そそり立て肩パッド、たなびけDCブランド、眠らぬ街のネオンの花すら羨むほどに、いざケツカッチンで咲き誇れ、逆玉の神ディアン・ケト」と「ロミンのカレーを起爆させろ!」は印象的なセリフとして書き起こしておく。爆弾としてのカレー、ジビエートか? 昭和ネタやらジュリアナ東京ネタやらを口にする安立ミミが結構良いキャラで子供のような見た目でも大人の器の大きさがあったりして良い。72話、「詐欺族」名乗ってカード偽造で稼ごうとするハントさんというキャラがいて、発掘捏造のゴッドハンドが元ネタなのもしかして、と思ってたら「ゴッドハンティングブラスター」だし名前が後藤ハントだった。対戦相手が新聞記者の真実バクローだし、完全に捏造事件ネタだったのも面白かった。キッズ向けカードゲームアニメ見てたら、日本考古学の歴史に残る発掘捏造事件を題材にしたデュエルが出てくるなんてことあるんだ……。ゾンビ回でマイケル・ジャクソンのスリラーネタってのもあったし、見始めたあたりでは響けユーフォニアムとゴッドフィンガーのパロディとかを入れてきてすごかった。パロネタだけではないクレイジーさや周到さもあって、カブトボーグっぽさもある。

アイカツプラネット!

シリーズの新作は実写とアニメの融合というなかなかの実験的作品。有名アイドルを演じている現実の人間がいなくなり、ハナというアイドルの中身を探していたマネージャーに抜擢され、主人公はハナを演じることになる。Vtuberの中身交代みたいな話。なぜか一話が抜群に印象的だった。実写の人間がアニメ空間に入ってステージに立つ、この接続がありえそうな未来を感じさせるし、なりたい自分になれる「夢のようで夢ではない」ステージのリアリティ。リアル世界を実写で、バーチャル世界をアニメで描写するという即物的なアイデアを実現させてみせるのはじっさいなかなか面白い。鏡のなかに入ることで「どんな私にもなれちゃいそう」と歌い出すわけで。実写の人間の「なりたい私」がアニメキャラなの、面白くない? この一話を見た時は実写とアニメを接続するアイデアに想像以上に良さを感じていて我ながら驚いた。一話が突出して印象的だったけど、そういう、変身によって自分になる回のあとに、体の動きすべてがセリフになる、表現と想像力の話になるのも、バーチャルな存在をまとってもそこに表現の基体になる身体がある、というのが四話と五話で描かれてて面白い。競技がダンス対決なんだけど、二人で向き合いながら一つのステージを作るのがなんとも百合っぽくて良い。最終回、アイカツプラネットは目標なりライバルなり夢なりの物語はもとより、ミラーインっていってアニメ世界に入っていくし、なにより「それより僕と踊りませんか」っていう歌詞があるのも、ライブがすべて二人で一緒に踊るこのアニメにとって「夢の中へ」ってサブタイはものすごくハマる。

ワッチャプリマジ!

プリティシリーズ新作。ワンクール目は魔法界からやってきた魔法使いみゃむと人間まつりが真にコンビを組むまでの話を結構な挫折も踏まえて描いた。挫折を経て「転んだっていいんだぞ」とみゃむがまつりを励まし、勇気を出して踏み出した先にマジが生まれる、という通りの不安を乗り越えて二人の関係がきっちりと固まるワンクールの締め。まつりとみゃむが同じ表情してる最後は良いなと思ったらただ名前を呼び合うだけの激甘描写になるのが良い。やる夫口調の女子が出てくる衝撃もなかなか面白いけど、ただれもんデビューの時の、髪切って目を見せてバキバキの化粧で出てきたあたりはおおーと思ったけど、曲や詞は案外歌い手系ソングの感じなのが違和感があった。漆黒の明星という名前で自分の世界を作り込んでない感じなんだ、って。今はそういう感じなのかな。

アイドルランドプリパラ

一話しか見てないけどここで。往年のプリパラ視聴者を殺しに来てる一話、あの頃の憧れを底に隠していたぼっち高校生が昔見ていたプリパラの記憶を取り戻して今度はステージの大舞台で嵐を巻き起こす、パワーあふれる素晴らしい一話だ。作中設定と視聴者側の時間経過が重なって、らぁらはじめプリパラメンバーとの再会の懐かしさがすごい。メガ兄の「お帰りなさい」に込められた意味。マンホールに飛び込むの不思議の国のアリスみたいだし、プリパラの風景のなかにとりあえずちゃん子とか居たのが見えた。森脇監督プリパラがまた見られるとは。「プリパラ、女の子なら誰でもアイドルになれる場所!」の時の目の前にいるレオナくんというね。あまりのライブ中の表情がどれも相当良いんだよな。失われた立体感とそして名物の汚えガヤ。「きっと輝ける!!!」の全濁点つきセリフとか、「いい汗かいたー!」もかなり面白い。ライブ曲も良かった。「スタイリッシュニューアブノーマル」もかなりいかれたセンス。

話数10選

ウマ娘二期二話
ゲキドル12話
装甲娘戦機10話
スーパーカブ一話
マーズレッド一話
ブルーリフレクション六話
ダイナゼノン九話
やくならマグカップも二期八話
ゾンビランドサガ二期五話
トロプリ29話

去年はアニメの10選に選んだやつ以外から選んでたけど、今年は普通に。最終回はあまり選ばないようにしているけれどゲキドルはこれで。

アニソン10選

SB69スターズ OP Plasmagica & Mashumairesh!!「ドレミファSTARS!!」
ウィクロスDA OP No Limit「D-(A)LIVE!!」
無職転生 OP 大原ゆい子「旅人の唄」
ゲキドル ED アリス「制服DOLL」
シャドーハウス ED Reona「ないない」
カノジョも彼女 ED 麻倉もも「ピンキー・フック」
かげきしょうじょ ED 渡辺さらさ×奈良田愛「星の旅人」(ver違い含む)
アクアトープ OP ARCANA PROJECT「たゆたえ、七色」
サニーボーイ ED 銀杏ボーイズ「少年少女」
マギアレコード二期 OP ClariS「ケアレス」

カップリング曲に良いのが結構あって、やくならマグカップも二期OPのカップリング「君のそばに」とテスラノートEDのカップリング「みっともない私なんて」とプラオレOPのカップリング「Be Cute」と幼なじみが絶対に負けないラブコメEDのカップリング「Baby Monster」とかも挙げておきたい。これらはA面曲も充分良いんだけども。

アルバム単位だとサブスクで聴けるSB69スターズの主題歌集、ウィクロスDAの主題歌集、ゲキドルの主題歌集、のんのんびよりの主題歌集、八月のシンデレラナインのアルバムなんかもよく聴いたけど、一番聴いたのはReonaのアルバム「unknown」だったと思う。シャドーハウスからの流れでReona楽曲総ざらいで神崎エルザ時代のアルバムも含めてよく聴いた。あとサニーボーイのサントラか。

終わりに
文中に触れた神田沙也加も悲しいけれど、スキャンダルで声優引退を余儀なくされた人や、自らが招いたことではあるけど鈴木達央という得がたい声が見知ったキャラから交代してしまうなど、悲しいニュースが年末に多く聞こえてきた年だった。来年は良い年になりますように。

*1:D4DJ、アサルトリリィふるーつ、鬼滅の刃無限列車編