殺人者の善意の論理

●ALSを告知せずに見殺しにする

すでにいくつかのブログで取り上げられている以下のニュース。

ALS告知せず死亡 長岡京の医師 義母の患者、呼吸器説明もなし

ALS患者にたいして、自分がALSであること、また呼吸器をつけるかどうかの選択肢があることすら明らかにせず、死ぬに任せた医師がその経過を雑誌に投稿しそれが掲載されたという。その患者は担当医師の義母だったという。

ALS=筋萎縮性側索硬化症(Amytrophic Lateral Sclerosis)という病気について、私は以前立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」についての記事を書いたことがある。「不動の身体と息する機械」は間違いなく名著なので、ALSに、あるいは自己決定などについて少しでも興味があれば是非とも読んでみてもらいたい。

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械

生きることが肯定される条件・1――立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」 - 「壁の中」から
生きることが肯定される条件・2――立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」 - 「壁の中」から

ALSについての概説的なことは上記記事である程度まとめてあるので、ALSがそもそも何かよく分からないという人はまずそちらを参照してください。

さて、上記記事の繰り返しになるけれど、「ALS 不動の身体と息する機械」にはこういう事例が載っている。

【195】≪ある高齢のALSのご婦人Aさんは、家族の強い希望によって、病名を告知されることなく、人工呼吸器もつけることなく亡くなっていかれました。/主治医の市原医師は、最後の最後まで、人工呼吸器をつけてはどうかと、ご家族に説得されましたが、それは受諾されませんでした。[…]/今でも、あのときご家族の反対を押し切って、Aさんに「あなたの気持ちは…」と話していたら…もっとよい結果がでていたのではないか…と、考え込んでしまうことがあります。≫

この場合、本人に先立って告知された家族が、本人への告知を断ったということだ。その理由はおそらく、患者の介護を家族が拒否した、ということなのだろう。ALSは24時間体制の看護が必要で、その労力は計り知れない。しかもその負担は否応なく家族にもたらされる。そのとき、家族は患者の生存に対して利害関係を形成してしまう。立岩氏はだから、ALSの告知の際には家族を介するべきではないという。

つまり家族は最大の利害関係者である。それはなぜ家族が告げられるかの理由でもあるが、家族だけには告げられてはならない理由でもある。

「(本人に告知せず)家族だけには告げられてはならない」。これは重要なことだ。主治医が親族である今回の事件では、まさにこの最悪のパターン。「家族だけには告げられてはならない」ことの大きな理由は、本人の知らぬ間に他人に生殺与奪の権利を握られてしまうからではないか。

この医師は「自己決定の過酷さを避け、近親者が総意として望んだ結果」などと語っているが、すさまじい論理だ。自己決定が過酷なのはそうだろう。家族などに迷惑をかけることになるという可能性や、身体が動かなくなるということへの恐怖などは当然あるだろう。そのなかで生きる選択をできるかどうか。その問題は大きい。だが、その自己決定の過酷さが、まさか死ぬよりつらいことだとは寡聞にして知らなかった。死ぬより過酷な自己決定。

その医師に対して(きわめて正当な)怒りを表明している以下の記事では、京都新聞に掲載されたらしい医師へのインタビューが引用されている。ネットの記事よりは詳細だ。
許さん!絶対に許さん! - Stiffmuscleの日記

−なぜ告知をしなかったのか。

「このまま死ぬか、地獄の苦しみのまま生きるかを自己決定させることになる。動けなくなるけど五年は生きられるとか、医師が患者にためらいなく言ってしまうのが通常だ。家族にしてみればためらう。言うに耐えない。(義母は)普通の人。患者の性格の強い、弱いをみて告知を判断すべきと言っているのではない。選択を本人にさせるのは過酷だと言っている。」

呼吸器をつけた生が、なぜ死ぬより苦しいことになっているのか。これは明らかに偏見に属する見方だ。大変は大変だが、なにより生きられるのだ。呼吸器をつけたまま二十年を生き、ALS協会の会長として世界を旅している人までいるというのに。

そこで、この医師はまた信じられないことを言う。「選択を本人にさせるのは過酷だと言っている」と。これは、心底ぞっとする物言いだ。だって、選択を本人にさせるのは過酷といいながら、家族が患者を殺す選択をしている。

これは、人殺しの論理だ。殺すことが最初から結論においてある論理じゃないか? 犯罪者の弁明を聞いている気分になるのは、たぶん間違っていない。最初から生きるという選択肢が存在していない。

それに加えて恐ろしいのは、どうもこの医師の雑誌投稿とかの行動からして、この告知せずに死なせた行為を、あくまで善意でやっているつもりらしいことだ。地獄への道は善意で敷き詰められている。生きることが死ぬよりましだという他人の勝手な判断で知らぬ間に殺されてはたまらない。

医師によると、主治医になってすぐ、インフォームド・コンセント(説明と同意)をしないことや人工呼吸器を装着しないことを決め、義母以外の家族の同意を得た。義母は四肢まひが進行し、昨年10月に呼吸困難で死亡した。死の前日まで判断能力や意思もはっきりして、よく会話をし、笑顔も見せたという。

前日まで会話をして笑顔を見せていた人を、なぜそのまま死なせることができるのだろうか。ここがきわめて不可解だ。家族全員が呼吸器をつけないことに同意したという話も不気味だ。非常に不謹慎な言い方になるが、その義母は厄介な年寄りとしてALSをこれさいわいと病の中に廃棄されたのではないのか。

そういう悪意が「本人に選択させるのは過酷」というような訳の分からない厄介な善意によって装われているように見える。

今度は立岩真也氏のサイトから今回の件にかんするページがあったので、そこから医師の投稿を引用する。
http://www.arsvi.com/0p/et-2007n.htm
上記リンクによると、

日頃それとなく「呼吸器などはつけたくない」と言っていたことから,患者本人からはこれ以上のインフォームド・コンセントは求めない

と書かれている。患者本人の性格と、こうした発言を根拠に、家族によって死ぬことが決められる。

以下括弧内は私の註。

10月30日夕刻,家人はずっと見守っていましたが,誰も死亡に気づかないほど文字通り寝入るような最後でした.そして,私を含めた近親者は悲しみの中にも,「できる限りのことをして,ALSとしての自然な天寿を全うさせてあげることができた」との満足感をもつことができました.
(中略)
(このような対応ができたのは)呼吸器装着に関する自己決定の過酷さを遵(避)け,あくまで患者の穏やかな死を,近親者が総意として望んだ結果と考えています.

近親者の望み通りに患者は死んだという満足感。こうパラフレーズするのは卑怯だろう。しかし、そういう雰囲気をにおわせるものはある。「ALSとしての自然な天寿」とはいったいなんだろうか。これは、ALS患者が呼吸器をつけて生きている状況を「不自然な延命」と考えていることを示している。バカな。「自然な天寿」も「穏やかな死」もまわりの人間の勝手な偏見に過ぎない。周りに人間にとっては、そりゃあ自然で穏やかだっただろうが、本人は死んだ。周りの人間が総意として望んだ結果として、患者は呼吸困難で呼吸器をつければ生きられる生を閉じた。

この光景に何の疑問も抱かない人間が、医師だとはまるで信じがたい。私には殺人者にしか見えない。他人の生を勝手な偏見で左右してしまう傲慢きわまりない憐憫を善意と取り違えた人間。


ALSについていつも思い出すエピソードがある。これも立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」から。

これは余談ですが、呼吸器をつけないと言っていた人が、呼吸困難になったとき、奥さんの要請で呼吸器をつけた。/もちろん、患者は怒って毎日のように奥さんをなじったが、ある時奥さんが用事だかで患者のそばを離れている時間が長かったら、患者が「おまえは、俺を殺す気か?」と怒ったそうだ。

当該事件にかんして以下も参照。
http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20070804

呼吸器をつけたまま二十年を生き、ALS協会の会長として世界を旅している人、というのは橋本操氏のこと。以下の本は買ってあるのだがまだ読んでいない。

帯より

車いすの脇に載せた人工呼吸器を装着し、常に2人以上の介護人を付き従え、ある時は国会へ陳情に、ある時は海外の国際学会に、さらにはSMAPのコンサートにと日々飛び回るALS患者・橋本みさお。一見、破天荒な彼女を突き動かしているのは、ALS患者のおかれた悲惨さへの悲しみか、無策な制度・政策への怒りか、これからの医療・福祉への期待か、それともただのわがままか。1人の人間としてALSを生きる、日本ALS協会会長・橋本みさおの半世をつづる。

●失職した父親による無理心中

もうひとつ。無理心中を起こした父親にかんして。もう記事は消えていたので、以下のブログを参照。

夢も希望もない - 非国民通信

この事件では、働いているふりをしていた父親が、子供たち三人を殺して無理心中しようとしたとのこと。父親は睡眠薬を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた模様。しかし、16才と14才と13才の子供たちは亡くなった。

「子どもに何もしてやれない。大学にもいかせてやれない」、そう遺書には残されていたそうです。そう、この社会は親の財力が子供の選択肢を限定する社会でもあります。親が貧しければ、その子供にはチャンスがない、きっと子供の人生もろくなことがないだろうと、そう思わせる社会であるとしたら、この事件の容疑者が自分の子供の命まで絶とうとしたのは当然の帰結かもしれません。自分の貧困が自分だけに作用するなら開き直ることも出来たでしょう。しかしそれが自らの家族、子供にも深刻な影響を与えると考えたのならば、なおさら逃げ道はなかったのかもしれません。

上記ブログではこうして父親にいくらかの同情を示しているけれども、それはやっぱり無理だ。子供たちだって中高生ともなれば一人前に判断して行動する。訳を話せば家族でがんばって生きていこうと協力できたかも知れない。なぜ、父親は、「大学に行かせてやれない」というような事情が、死ぬに足る理由に思えたのか。

あまりに視野狭窄に陥ってしまったからなのか、家族とはいえ勝手に人の不幸を想像して、そんなことになるならばと殺してしまう。子供の命、人生は父親のものなのか。長男なんか16才だというのに。仕事がなくなってしまったから大学に行かせてやれない、と息子に話してこれからどうするかを考えさせる余裕もなく殺してしまう。

他人の人生の幸不幸を勝手に決めて、不幸なくらいならと殺してしまう。

私には、この無理心中を起こした父親(やはり悲惨な事件ではあるのでそんなに非難したくはないのですが)とALSの義母を見殺しにした医者に、非常に共通した思考回路があるように見える。

本人の意志とは無関係に、勝手に本人の人生を決めつけて、お節介にも最終工程まで知らぬ間に完了している。

やっているほうは善意のつもりかも知れない。医師も父親も心底相手のためを思ってやっているのかも知れないが、偏見や思い込みに満ちた、勝手なお節介じゃないのか。最悪なのはそこに、本人の意志を決して介在させないことだ。本人が何を考えているかを尊重しない態度だ。それは決して善意の美名で飾ってはならない事態だ。

憐れみに満ちた善意は時に自己満足になってしまうこともある。そうならないためには、相手の意志や事情を充分に聞き出し、相手の存在と立場を軸足にして考えていくことではないのか。

一つだけ言えることは、周りの人間がやるべきことは、患者本人の望みを直接聞くことなく、他人の総意で死んでいく患者を看取りながら満足感を得ることではない。それだけは確かだろう。


しかし、なぜ医者の方には逮捕状が出されないんですかね。やってることにさして違いがあるようには見えないのに。