まさに旧日本軍クオリティ

この前の記事は読んでイラっときたままをそのまま書いたが、考えをまとめておく。
格差社会って何だろう - 内田樹の研究室
私がなぜこれを読んでがっと腹が立ったかというと、以前に詳細にウチダの言説を批判したときと、まったく同じ詭弁が用いられているのが明らかだったからだ。こいつはまだこんなことをやっているのか、と。

そのときの記事は本家ブログの方の以下の記事で見て欲しい*1
働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」
内田樹の言説の批判的検討・1
内田樹の言説の批判的検討・2

具体的には以上の長ったらしい記事を参照してもらうとして、私はこれらの記事でウチダの言説が具体的事実やデータに基づかないこと勝手な想像に基づいていること*2使用する言葉の意味がころころ変わること、そして「つねに心理を問題にする」ことを指摘した。

それが今回の記事でもそのまま繰り返されている。今回のウチダ記事を詳細に検討した以下の文がきわめて丁寧に書かれているので、詳しくはそちらを参照して欲しい。
夕暮れの写字室 - FC2 BLOG パスワード認証
要点を引用する。強調引用者。

内田氏が批判者の意見としてパラフレーズしている表現に、私は両者の決定的な認識ギャップを見ます。

「お前は金があるから、そういう気楽なことが言えるのだ。金のない人間の気持ちがわかるか

金のない人間の気持ち」という表現がポイントです。その後の「わからないね」のインパクトによってついスルーしてしまいそうですが、このパラフレーズによって内田氏は、
自分に対する批判意見のポイントは、私が金のない人間の気持ち・心情を理解していないという点にある

という認識を、批判意見に対して持っていることを明らかにしています。つまり内田氏は、自分に対する批判を心情倫理レベルでの批判として受け取っているわけです。

もともと批判意見での格差社会」は、上にも書いたように唯物的・生物学的な生死、あるいは経済的・社会的な生存条件を問題にするものですが、内田氏の文中の流れで「格差社会」のエートスの本質として規定された「金の全能性」がもっぱら個人の内面的契機に還元された結果、「格差社会」もまた内面的問題としてその意味内容を変換(翻訳?)させられて、個人が自分の内面的認識において「金の全能性」尺度に基づく格差・劣位を感じ取ることが「格差社会」の本質なのだ、と解釈されているようです。

最初に自分でも、金があるかないかつまり年収の問題であると規定していたが、それが後半になると、金のことを配慮するかしないか、という主観の問題にスライドさせられている。

社会問題というのはだいたい、社会の構造的変質を原因として生まれるものだと思うのだけれど、ウチダのこのつねに心理的側面を問題にするやり方は、その構造的変質を隠蔽し、すべてを精神論の問題に収斂させてしまうきわめて悪質な議論だといえる。

これは後藤和智氏が指摘する俗流若者論のパターンそのままだということも私は前に指摘した。

ウチダにとっては、現実とはすべて気の持ちようでなんとかなる世界のようだ。格差社会も、貧困も、過剰労働もニート問題も、社会的構造の具体的現実は捨象して、すべては精神論で片が付くような程度のものでしかない。

お嬢様女子大の哲学のセンセイらしい、ずいぶん観念主義的な世界観にお住まいのご様子。

社会問題にたいして私だって特に知識も知性もないわけだが、ウチダの場合は根本から向かう姿勢が間違っている。自分の経験や社会に対する鋭い指摘と自分では思いこんでいるものを、イイ感じに自己肯定しながら酒の肴にしているだけだ。

しかも、去年の記事でも、今回の記事でもそうだが、「パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマン」といった、社会的な苦境に立たされている人間たちにたいして、それは気の持ちようだ、といわんばかりの議論を平然と垂れることのできる神経というのは想像を絶するものがある。最後にモルデカイ・シュシャーニ師がどうとかいっているが、辻潤は生活できる程度の金もなかったから餓死したんじゃないのかね(精神異常のせいとも言うかも知れないが)。

恥知らずとしか言いようがない。


そこで持ち出される自分の経験にしても、「何を学べるか」による一律の格付けを行っていると言い出している。なんだ、人を格付けすることにかんしては拝金主義者となんらかわりないじゃないか。格付けの基準は自分の方がまともだという格付け。ものすごい気味が悪い、というか気持ち悪い。


しかし、精神論で片を付けるというこの種のパターン、非常に良く目にするものでもある。

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

たとえば、以下の記事では私も前に紹介した岩田正美「現代の貧困」について、こう書いています。
貧困の再発見 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

未婚と少子化に関しては、報道では「結婚したくない人」や「子供を作りたくない人」がクローズアップされ非難対象となることがありますが、むしろ貧困層の増大と貧困の進行により「結婚したくてもできない人が増えたため」と考えた方が正しいのではないでしょうか。

引用に付け加えることとして、たとえ結婚したとしても、一人で家族を養うほどの稼ぎがない人が増えているということがある。共働きの夫婦の場合、子供を産むとなると共働きのまま子育てするのは保育所の充実度からいって困難なので、どうしても片方が仕事をやめることになる。そして成長していくに従って金がかかっていく子供の養育費などの金銭的リスクを考えて出産を計画できない場合が増えているのだろう。

このことは、「現代の貧困」の記述からも言える。

若年期から中年期にかけての女性の貧困は、学歴や就業のほか、婚姻関係や子どもの数とも結びつきが強い。結婚して子どもがなく、本人が常用で働き続けている場合がもっとも貧困経験から遠く、単身継続、離死別、子どもが三人以上で貧困固定化の危険が大きくなっている。

夫婦共働きで子供を作らないのが、もっとも安定した生活を送れる状況だ。本の中でも、人生の中で経験する主要な貧困リスクのひとつとして出産を挙げていた。

非正規雇用の拡大はその意味で、結婚、出産に対する明確な障壁として立ちはだかっているのにもかかわらず、政府要人やメディアでは、それは女性の身勝手としてとらえられる。ここでも、社会構造の問題を精神論に収斂させることで、社会悪を捏造する手法が見て取れる。

この手の精神論というと、やはりその帰結として戦死者のうち過半数を餓死という状況に追い込んだ軍隊のことが思い浮かぶ。

ウチダも旧日本軍も発想法が同じと言うことですね。絶対に自分の発想法を反省できないところもそっくりだ。ウチダセンセイ、骨の髄まで日本人なんですね。是非ともその資質を旧日本軍で発揮して欲しかったところです。一兵卒として。腹がいくら減っても、病に倒れても、たとえ死んだとしても、あきらめの心を抱かなければ決して負けることのない無敵の兵士になれたことでしょうに。


参考に。

NHKスペシャル「ワーキングプアII 努力すれば抜け出せますか」の感想
すでに数百ものブックマークが付いている人気記事だが、参考に。痛ましいとも言えるいくつかの実例には「うわーっ」となる。こういう実例を踏まえてもなお、ウチダは前掲記事のような世迷い言を言えるのだろうか。というより、たぶん踏まえてなおああいっているのだと思うが。

引用。

格差がいくら広がろうともそれ自体は問題ではない。生活できない、あるいは人生を犠牲にするほど働きづめの人間が生まれ貧困が再生産されてしまうほどの貧困が広がっていくことが問題なのだ。

あるいは、上記の観点から私の非難について、ウチダが議論しているのは格差についてであって貧困についてではないというかも知れないが、ネットカフェ難民という明らかな絶対的貧困層についても言及しているので、その言い訳は通じない。

大企業は大量の非正規雇用の活用(キヤノンや松下の偽装請負活用を見よ)と成果主義賃金による正社員締め上げで、これまで労働側に引き渡す富を吸血しながら成長している。そして、法人税などのくり返しの減税によって再分配機能がマヒしつつある。どんなに好景気が続いても国民全体に実感が乏しいのはそのせいである。これを続けていっても「解決」はしない。むしろ、ワーキングプアのような存在を前提として成長があるのだ。

こうした状況を踏まえてウチダの議論を見返してみると、そこには見事なまでの財界(というか金を持っている側、格差の上にいる方)に都合の良いお説教が垂れ流されているのがよくわかる。ネオリベラリズムのイデオローグと以前私は書いたが、全く変わっていない。御用学者ばりの体制順応ぶりに何の疑問も抱かないのだろうか。

*1:今見るとかなり乱暴な議論を行っているところもあるので、あまり見ないでも欲しいが

*2:想像されるのは主に感情、心理になる