何が彼らを追い込むのか

昨日の記事に結構アクセスがあるみたいで、読んで頂けてありがたいとは思いますが、それを書きながら感じていた懸念も大きくなってきましたので、自分で自分の記事の相殺をしてみたいと思います。書きすぎたな、と思っていましたので。


そもそも、前回の記事では私はある医師についても、ある父親についても、殺人者という風に非難がましい調子で呼んでいる。これはやはりあまりよろしくない。実名が追跡できる人たちでもあり、彼らに対する社会的バッシングの風潮が高まり、彼らの生活に支障を来すような状況は決して好ましいことではない。はてなブクマでも、「処罰されるべき」と書いておられる人がいますが、そこまで言っていいものかどうか。私自身もそういう思いを持っていますが、「処罰されるべき」という予断が、「処罰されない」という帰結を前にしたとき、ならば違うやり方で糾弾されるべきとしてリンチにも似た状況を生み出さないとも限らないことは、最近の当て逃げ事件を考えてみてもありえないことではなく、慎重になるべきかと。二つの事件ともに、当事者にとっても悲しいことではあるのだから。

前回の記事では結果的に人を殺す状況に至る不気味な本人不在の意志決定のことを書きたくてああいう書き方になったけれどもが、彼らが全面的に批判され非難されるべきことをしでかしたとは一概には言い切れない。当事者でもなく事情に明るくない私ではもっとだ。彼らを悪だと規定して終わる問題ではない。

そもそも私が大上段から口出しをしていい事件ではないとも思うが、それは措くとする。


ALSを告知しなかった医師の行動には不可解な点が多いが、医師の存在をひとまず除外して、家族が患者へのインフォームド・コンセント(呼吸器をつければわりと生きられることを知らせること)を拒否する場合と考えた場合、事態は厄介だ。

いまの状況では、どうしたって家族が否応なく重い負担を担わざるを得ないうえに、呼吸器をつけた生がむやみな延命というイメージに浸食されているという状況がある。私だって、以前の記事ではこう書いている。

私がもし介護家族の側になったとしたら、それでも生きた方がよい、と言えるか、と問われればかなり言えないのではないか。というか、私ならたぶん言えない。言えないと思う。現実になったときにどうなるかはやっぱりわからないとしても。すべての負担を引き受ける覚悟で、生きろ、と言えるような勇気が私にあるとは思えない。だから、最初の方で家族にのみALSであることを知らされたとき、家族が本人への告知を拒否した、という事例の家族の人を非難したりする気にはなれない。本人に生きるという選択をされかねないという危惧がそこにはあっただろう。ただ、本人に事態を隠したままで死なせていくというやり方には疑問がつく。せめて本当のことをいったらどうだ、という気はする。殺すつもりなら殺すといえ、と。

もちろん、この医師の場合は少々事情が違う。この医師の行動はやはり非難されるべき点を多分に持っている。

しかし、家族の人たちが本人への告知を拒否した、というそのことだけをもって彼らを非難するべきではやはりない。

立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」が中心的な問題として焦点を当てているのは、患者本人が死を選んだり、家族が告知の拒否をしてしまうような、選択肢の天秤の傾きにある。家族に負担をかけることを心配して、死を選ぶ患者と、負担になることをおそれて生きることができる選択肢の存在を隠す家族とを覆っている、死を選ばせてしまう重い空気の存在がきわめて問題になる。

前回もリンクしたajisunさんのブログの当該記事のコメント欄では、単身者がALSに罹患した場合、端的に放置されて死ぬしかない、という現状が指摘されている。

立岩氏の本が述べているのは、そうした選択肢が一方に大きく傾いている状況を改善しなければならない(家族介護の負担を減らすとか)ということだ思う。

医師の行動には充分以上に問題があるとは思うが、そういう事情を考えれば、ただ単に医師を非難すればすむ問題ではないということがわかる。この状況を改善しなければ、ALSを告知されずに生きるという選択肢があることすら知らずに死んでいくALSの人たちは生まれ続ける。

無理心中の父親にしても、彼が遺書に書いた「大学にも行かせてやれない」という理由はそれなりに理解可能だ。以前に書いた「現代の貧困」でも、大卒か、高卒か、義務教育またはそれ以下の学歴とでは、三つそれぞれのあいだで大きな貧困リスクの差があり、後の人生に大きな影響を与えるということが指摘されていた。格差が拡大し、固定化する現在の状況では、「大学にも行かせてやれない」という懸念は相当の大きい不安として顕在化しているのは確かだろう。

その意味で、父親の危惧は相当程度実質のあるものだったと言いうる。父親の選択はいかにも極端だったとはいえ、そうまで彼の視野を狭めた風潮も確かに存在している。

前回の記事で書いた本人不在の意志決定という行為については決して許されないとは思うが、理解できる事情があるのも確かだろう。その意味で、どうにも惨い。

特に、中高生の三人の子供たちが悲惨すぎる。さらに彼らにも友人知人が居ただろうに。友人たちは、自分の友達が職を失って未来に希望を失った父親に殺された、という突然の知らせをどう聞いたのだろうか。なんともいいがたい。

彼ら個人に対する非難ではなく(あるいは、だけではなく)、彼らをそうさせた様々な事情の方にこそ目を向けなければならないんだろう。

しかし、それにしても、やはり、彼らを決して擁護してはならないとも思う。彼らをしてそのような行動に至らせたいかんともしがたい偏見や風潮を考えたとしても、「しょうがない」と言ってはいけないんじゃないか。

とりあえず、まあ、そんなところです。