ダニロ・キシュ - 若き日の哀しみ

若き日の哀しみ (海外文学セレクション)

若き日の哀しみ (海外文学セレクション)

キシュの「家族のサーカス」三部作のうち、第二作になる「若き日の哀しみ」。1970年発表。書かれたのは二番目だけれど、著者によれば三部作の順序のなかでは第一に位置するものとなる。この事情にかんしては奥彩子が詳細に語っているのでこちらを参照して欲しい。
ダニロ・キシュの自伝的三部作における : 『庭, 灰』の位置
三部作は内容の時間的順序で構成されているのではない。ほぼ同じ時期を扱っているけれど、それぞれ語りのスタイル、パースペクティヴにおいて違いがある。「若き日の哀しみ」は「庭、灰」における、母、生命の側面とされる「庭」の方面を、抒情的文体で語った短篇連作集で、雑誌「婦人之友」に連載されていたというようにポピュラーな魅力を持った作品集となっている。

三部作のうちではもっとも技法的にシンプルな本で、それゆえに三部作の序盤に据えられている。つまり、「庭、灰」「砂時計」と進むごとに凝ったものになるわけで、図書館などにあればここから読むのも良いと思う。短篇それぞれはどれも数頁(最短は1頁)から十頁程度の短いもので、本自体もかなり薄いのでさらっと読める。

序章的な一文の後、語り手が数十年ぶりに自分の故郷に帰ってみると、自分の知っている町の面影がほとんどなくなっていることを知る切ない話からはじまり、息子がユダヤ系の確かな血を引いているということを両親に印象づける話や、寝小便をしたり、主人公と仲の良い少女が婚約者とまわりにからかわれる話、預かった雌牛を逃がしてしまっておののく話などなど、さまざまな風景を切り取ったスケッチが続く。それぞれ、いくらかは「庭、灰」でも語られてはいるけれど細部、視点が異なるもの、あるいはここで初めて語られることなどが混在している。細かいところだけれど、犬のディンゴがクニッペルばあさんに似ている、と言い出したのが、「庭、灰」と今作ではそれぞれ、弟と姉になっているという違いがあった。

抒情性が中心的な作品集ではあるけれど、親戚が一人の伯父以外誰も戻ってこない、という事実に基づく記述や、市民による略奪の様子などが描かれていたり、「従兄弟たちが強制収容所に連れて行かれたままなので、僕が一人きりで庭と家畜小屋の仕事をまかされていました」という家族の貧困の描写があったりして、背後にユダヤ人などの置かれた厳しい状況が示唆されている。

時間軸的に父の死後となる「ビロードのアルバムから」と題された短篇中の一節に母親が貧しい生計を立てるために手編みの手芸品を売る話がある。そこでの母の仕事ぶりは、「同じ技を二度と使わない」、「繰り返しのきかないものを」作るとても丁寧なもので、一品限りの替えの利かないものだった。そのうち偽物の大量生産品が出回ってしまうのだけれど、表面は完璧な模倣で、見る目のない人には違いが分からず(でも、裏地をきちんと見れば違いはある)、そのうち母には注文が来なくなってしまう。ここで語られる母の編み物の技法と、キシュの小説技法との相似性は明らかだろう。キシュもまたつねに異なるスタイルで作品を書く作家だった。この下りはキシュの自作への自註でもあり、上記論文で奥氏がいうように母への賞賛でもあり、「繰り返しのきかない」、唯一無二のものという「死者の百科事典」でも示された、キシュの大きなテーマでもある。

そして「「少年と犬」この一編だけはどうしても読んでいただきたい。」とのキャッチコピーがある*1、「少年と犬」は動物と子供という卑怯な題材を使って、さらに技巧を凝らして全力で読者を泣かせにかかってくる一篇だ。ディンゴはここで人語を解す犬として語り手となり、ファンタジックな視点から少年との別れが語られることになる。

同時にこの犬との別れは少年の父親との別れと重ねられているようだ。父親の喪失を描いた三部作の一作のさらに短篇としてこの作品があるというのは意味深だ。人形の中に人形があるマトリョーシカ、あるいは紋中紋というのか、そういう構造になっている。

いや、僕の人生は小説ではない。それは小さなお話の集まり、楽しい出来事、悲しい出来事、たくさんの小さな出来事の集まりだ。そしてその話のなかには、いつも少年がいる、僕が少年の話のなかにいるように。
143P

少年は残してきた犬を預かるおじさんにこう手紙を書いている。

それから、もうひとつお願いがありますが、笑ったりなさらないでください、この手紙をディンゴに読んでやって、僕のせいじゃなかった、どうしても連れていってやるわけにはいかなかった、けっしておまえのことは忘れないと話してやってください。それから、僕がいつか詩人になったら、おまえのことを詩か寓話に書くつもりだということも、話してやってください。その寓話では、犬は口がきけるのです。そして、もちろん、ディンゴという名前です。
146-147P

「庭、灰」と同じように、ここでもアンドレアス少年は詩を書こうとしている。そしてこの約束、予告によって書かれた作品が今読んでいるこの短篇になっている。ここら辺引用してみるだけでもぐっと来るのだけれど、ベタもベタな話でもこの見事な構成で短篇としても出来がいい。

そして、犬との別れが父との別れの似姿でもあるように、〈実現された作中での予告〉と呼べるこの手法は全面的に父を対象とした三部作の掉尾「砂時計」で反復される。この短篇はまるで次作「砂時計」を予告しているようにも読めるところがある。

一作だけではなく、三部作にわたるこの技法の反復(「庭、灰」では詩人の誕生は予示されても、作中での予告は欠けているのだけれど)は、三作を貫くひとつの核心だろうと思う。キシュは「作家の運命においては、偶然のものは何もない」と語ったことがある*2

十数年後に書かれ、選集を編む際に本作に付け加えられた「風神の竪琴(アイオリスのハープ)」は電柱と六本の電線をハープに見立て、電柱から聞こえる音に耳を傾ける少年らしい空想と遊びの感じられる短篇で、これにも〈実現された作中での予告〉の表現がある点が興味深い。

*1:東京創元社の海外文学シリーズの巻末広告より

*2:http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39237/1/55-003.pdf この論文の註釈17参照