隠蔽の手段としての陰謀論

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

「文藝」笙野頼子特集号を、とりあえず通読。
中身の濃い特集で、非常に面白い。特に笙野インタビュー二つと、佐藤亜紀小谷真理対談は読み応え充分で近作についての興味深い示唆が多い。意外なメンバーによるQ&Aや笙野ファンクラブ会長による二つのマップなども楽しく、詳細な自筆年譜は近作を読む際に混乱しがちな論争、事件などを整理するのに役に立つ。
内容の紹介については、
こちらのdozeoffさんの記事や
http://d.hatena.ne.jp/dozeoff/20071006/p1
Panzaさんのこちらの記事をどうぞ。
笙野頼子ばかりどっと読む


●本題は以下。
仲俣暁生がその笙野特集の「文藝」について妙なことを書いている。
【海難記】 Wrecked on the Sea -続々・小説のことは小説家にしかわからないのか
一読して奇妙な批判だと感じた。良く読むと微妙なつっこみどころが満載だ。

まずもって、冒頭で引用されている笙野を群像から追放したI編集長がパーティの二次会で、田中和生らの評論家に対する期待を述べた部分に対しての解釈がちょっと変だ。文章のこの部分では、笙野は群像に復帰できたものの、その編集長は異動になり、I編集長が出版部の局長として復帰し、「だいにっほん」第二部が彼の元で出版されることに危惧を抱いていることが読みとれる。群像の編集を巡る状況が微妙になってきていることを笙野は感じ取っているということだ。三部作の完結編を書き終えようと言うときに、田中和生の「おんたこめいわく史」に対する根本的な誤読を含んだ批判(フェミニズムを越えて)が群像に載り、笙野は危機感を募らせた、というのが群像のエッセイの経緯だろう。
笙野の側からすれば、I編集長と田中和生の存在はそうした状況の具体的な事例だ。だから、今回の件には関係ない「他二名」の名は出てこない。そう読むのが自然だと思うのだけれど、仲俣暁生はこの記述を、笙野の「悪しき「文壇政治」」だと呼ぶ。むしろ、仲俣暁生の批判の仕方の方が、ある状況に危惧を感じそれを批判することに、「文壇政治」というレッテルを貼って、その批判を無効化しようとする働きを持ちつつある。

というように、この記事で延々話題になっているのは、文壇における「政治性」であり、笙野頼子蓮實重彦らが田中和生を叩くことで、文壇政治を擁護しようとしているという主張がなされている。

今回の田中和生批判の「大合唱」は、その裏にもっと大事なものを隠蔽している。もはや誰の目にも明らかなように、文壇システムは崩壊しつつあるが、隠蔽されているのは、それが外部からの挑戦によるのではなく、むしろ内側から崩壊しているということだ。

私に言わせれば、田中和生が批判されるのは、ただ単に彼の仕事ぶりがひどい代物だからだ。笙野が批判するのは当たり前で、「フェミニズムを越えて」で見せたような程度の低い読解など、いくら叩かれてもしょうがないようなものだった。

私にはあそこまでの罵倒が正当だと言えるほど酷いとは思えなかった。少なくとも田中和生は、批判相手に対して「フェア」な書き方をしている。

バカを言うな。なぜ「おんたこ」を読んでいない段階でそんなことがいえるのか。それともこの部分を書いた段階では「おんたこ」を読んでいたのか? 読んでいながらそういえるとしたら、相当なものだ。

それに、「フェア」な書き方をすれば、さほど問題ではないみたいな認識もどうかしている。見た感じ「フェア」な振る舞いの裏にある抑圧をずっと書き続けてきた笙野にそれを言うなんてあまりにも無神経。仲俣暁生はそうやってお上品な振る舞いという抑圧の再生産に加担するつもりなのだろうか。ただの天然なのか。

いや、そんなことはどうでもいいとしよう。些細なつっこみどころが多すぎて前に進まない。私がこの記事を読んで思ったのは、これは見事なシャドーボクシングだということだ。ここでの仲俣暁生の書きぶりは、蓮實の文章から中原昌也への賞賛を読みとったり、院政構造がどうだのと見立ててみたり、どこか陰謀論的な匂いを感じさせる。

往々にして、陰謀論というのは自分のダメさを否認するために、自分以外の連中が結託しておれを取り囲んでいる、という妄想だ(日中戦争から現代の慰安婦問題における「中国の情報戦」がわかりやすい例だ)。陰謀論が語られるときは、何か隠したいものがあるときであり、私は仲俣暁生のこの一連の記事ではある一つのことが徹底して隠されていると思う。それを隠すがために、ご託を並べていたら、無茶な陰謀論ができあがってしまったのではないかと思う。

そのことというのは、仲俣暁生および田中和生の「評論」が単にレベルが低いという可能性だ。この記事では仲俣暁生は評論の質に言及することを避けている。評論家の意義について語りつつ「その仕事ぶりのレベルはさておき」などとしている。中身に触れずに周辺状況のみを穿鑿しているため、むしろ仲俣暁生の文章の方が悪しき政治性を発露させているのは笑えない皮肉だ。

笙野頼子田中和生を批判したのは、何よりもまずその読解のレベルの低さにあるはずだ。創作合評においても、「フェミニズムを越えて」においても、素人ブロガーの読解に劣る程度のひどい単純化と図式化を見せつけてくれた彼に対して、笙野頼子が批判するのはまあ、当たり前だ。そして、笙野が保坂-高橋対談での「小説のことは小説家にしか分からない」という発言にまずは違和感を感じつつも一定の同意を寄せたのは、評論は必要だが田中和生の論のようなくだらないものは不要だ、という判断からだとちゃんと読みとれるように書いてある。

仲俣暁生の引用では、そうした部分が分からないようになっている。そしてまた、笙野のいう二次元評論家(ニュー評論家)にはおそらく仲俣暁生も含まれているだろうことについては特にコメントはない。それどころか、記事においてはニュー評論家が外部から文壇を崩壊させるものと認識されている、と書いている。違うだろう。それに、ニュー評論家がまるで企業のために使い捨てされる非正規雇用であるかのような認識を記している。妙な被害者意識が感じられるが、ニュー評論家や二次元評論家と笙野が呼ぶのは、その評論がひどい代物だからだろう。「おんたこ」を読んで「少なくとも男の読者がこの本を読んで快哉を叫ぶことはあり得ない」みたいな頭の悪い単純化をするような書き手のことを笙野は批判しているのであって、文壇の非正規雇用を気取って自分の読みのまずさを誤魔化すな。

蓮實重彦についても「レトリックだけで内容のない」ものだと断じているが、仲俣暁生がブログで書いている記事よりははるかに、丁寧に笙野作品を読んだ上で書かれているのは明らかだ。中身のない韜晦記事を書いているようなふりをしつつ、自分が笙野論を書けない理由を書いていくうちに、笙野が小説を書けないと書き付けながら小説を書いていることを分析し、それを小説そのものの特質として抽出するという、きっちり作品を読み込んでいることがわかる人を食った文章だ。蓮實はやはり作品を読むことをおろそかにしないな、と私などは感心したのだが、これが「レトリックだけで内容のない」ものなのだとしたら、仲俣暁生などはレトリックも中身も何もないではないか。

以前、笙野と阿部和重の作品における誤読を弁解しつつ、「この誤読のツケを今後の仕事で返していくことをここで約束したい」と言ったが、その約束はこうして果たされたということか。笑えるコントだ。


もうひとつ。

また、文芸誌に書いている「批評家」や「評論家」なんかより、ずっと小説を「読める」読者は現にやまほど在野にいるのだから、そうした人たちは「読めない」文芸評論家の批判なんかをしているヒマがあったら、自分でしっかりした評論なり書評を書けばいいのである。発表する場がない、なんて泣き言はいわせない。いくらでもあるでしょう。

へえ。こんな開き直りを書いて恥ずかしくないんですかね。素人の書評や感想はすでにネットにあるんだけど。ネットではPanzaさんが延々と笙野の仕事をフォローするブログをやっているし、
笙野頼子ばかりどっと読む
私も本家ブログでいくらか笙野記事を書いてまして。
News Handler[WEBLOG SYSTEM]
誰も別に発表する場がないなどと泣き言なんて言っていないわけで。その上でくだらんプロの評論は批判もする、というだけですがな。
ネットでの素人感想に比べてすら程度が低い、と笙野は繰り返し語っているのであって、そんな評論家なら要らない、と言っているだけだ。評論は必要だが、作品をきちんと読もうとする評論がない、という嘆きなわけだ。こんな開き直りを書いている暇があったら素人を黙らせるような仕事をするために作品をきちんと読み込めばいい。まずはじめに、「男」だから「おんたこ」には快哉を叫ばない、みたいな安易な男女対立図式化と単純化を反省すべきだろう。自分の感想を自分以外の人間の感想と安易に同一視できてしまう無反省な態度は論外だ。だから二次元だと言うんだ。

しかし、群像のエッセイには驚いた。

群像 2007年 11月号 [雑誌]

群像 2007年 11月号 [雑誌]

「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」に俺がhttp://d.hatena.ne.jp/Panza/20070903/p1でコメントした文章がPanzaさんのものと一緒に、「後藤明生リスペクトの男性」のものとして読みやすく編集されて引用されている。超びっくり。うひゃあ、と瞬間本を閉じてしまった。