周回遅れの田中和生

笙野頼子についての掲示板で、あの、田中和生三田文学の最新号で笙野についてなにか書いているらしいと言う情報をゲット。
Don Quixote BBS
ということで、田中和生ブログを開いてみると、おお、寄稿した論文の冒頭部分が載っている。で、読んでみるとこれがすごい。
「三田文学」2008年冬季号:郷士主義!:So-netブログ
おれが二、三ヶ月まえに仲俣暁生を批判したなか(実録・「おんたこ」とは何か - Close to the Wall)で、さんざん批判し尽くした(とおれが思っていた)主張が相も変わらず繰り返されているではないか。

二〇〇七年の「群像」十一月号に出た、小説家である笙野頼子の「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」という文章は、現在の日本文学における小説家と評論家の関係を象徴するという意味において、注目に値するものだった。なぜならそこで、小説家から評論家に対するほとんど恫喝に近い罵倒が公然と行われ、小説家の意に染まない評論は存在する価値がないと公式に表明されたからである。

ちょっと正直に書いていいかな。この文章を読んだときのおれの感想。

うぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ。二ヶ月遅れで大元が出張ってきたと思ったら周回遅れで仲俣とおんなじこと書いてやがる。

ブログでほとんどおんなじこと書いてた仲俣暁生が、さんざん笙野読者らに批判されまくっていたのをまさか見ていなかったのだろうか。仲俣ブログを参照しておきながら。なんといってもひどいのがこれ。

小説家から評論家に対するほとんど恫喝に近い罵倒が公然と行われ、小説家の意に染まない評論は存在する価値がないと公式に表明された

おいおい、笙野がどこでこんなこと言ってるんだよ。引用してみろよ。評論家に対する結論として書かれているのは、こういう文章だ。

評論家は必要但しニュー評論家はいらん。評論は誰がやってもエエが批評が出来る人で意図的な二次元化をせん人がエエ。

笙野は田中和生の「おんたこ」評などのような作中の重要な諸要素を無視して勝手に男女図式だけで作品を斬って捨てる安易な批評を罵倒しているのであって、評論一般に対して、ましてや「小説家の意に染まない」評論に対して評価を下しているのではない。個別の具体的な論点(田中のおんたこ評)をスルーして、勝手に評論一般に対する小説家の評価、に話を一般化している。

要は、田中和生の評論みたいなゴミはいらない、と笙野が言ったのを、田中は勝手に「笙野の意に染まない評論は価値がない」と読み替えている。評論の質の問題を、評論が作家の意に添うかどうかという問題にすり替えている。仲俣と同じやり口だ。いや、もしかしたら、田中や仲俣はこの二つの問題が区別できないのかも知れない。

しかし、仲俣もそうだけど、批判をしかけておいて反批判されると被害者気取りってパターンが好きだな、こいつらは。

また、こんなことも書いている。

小説家が自作を批判されて、それに反論するのは当然の権利である。しかしその反論が論理以前のしろものであり、相手の罵倒に終始しているというのはあまり生産的とは言えない。

田中和生の批評がどのようにダメかはきちんと書いてあるのに、それが読めなかったのか? 罵倒するにたる理由は文章の半分ほどを費やして書いているし、さらに私やPanzaさんらのブログでの書き込みを例示して、こんな普通の読者ですら読めていることがまったく考慮されていない、とまで書いているのになかったことにされている。


あとこれ、笙野が田中和生を二次元評論家と呼んだそもそもの発言は、「おんたこ」についてこんなことを書いたからだ。

「つねに被害者である女性とつねに加害者である男性という構図が固定化され」るという、現在のフェミニズムが陥っているものとおなじ悪循環に入り込んでいる

「おんたこ」は「水晶内制度」のウラミズモ(女が権力を握り、男が家畜扱いされる国)の明確な関係のもとに書かれているし、「おんたこ」世界にはウラミズモがきちんと存在していることが明示されている(過剰にグロテスクな男の国と女の国とを対比させている)のに、こんなことを言ってしまえる読めなさはすごい。

しかし、この人のフェミニズム観はいったいいつの話なんだろうか。私が生まれる前のものなんじゃないだろうか。女性のみが被害者なのではなく、性差による社会の制度化が問題なのであって、男性も女性もそれに巻き込まれているというような認識は、男性学ジェンダー論を生み出し、むしろ現在のフェミニズムはそうした認識が常識となったものになっていると私は思っているのだけれど。この人、ジェンダー論っていうのを聞いたことがないのかな。すごいな。


さて、どうしようかな。冒頭部分を読んだだけで、仲俣暁生レベルかそれ以下の主張の芸のない反復なのがすごくよくわかるんだけど、冒頭部だけで批判するのもアレだ。かといって、わざわざ相手のダメさを検討するためだけに雑誌を買って読むのも気が進まない。

あと、細かいことだけど、仲俣も田中も、なぜ蓮實重彦の名前を間違える? 仲俣は蓮見と、田中は蓮実って書いてるし。蓮實重彦がこの種の誤記を嫌っていることは知られた話だと思っていたが、彼らは知らないのだろうか。まさか三田文学にも「蓮実」って載ってないよな?