誤読の達人

初対面の人たち〜近況・その他 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
もう話題になることはないかな、と思っていたら、Panzaさんのブログ経由で、またぞろ仲俣暁生こと誤読の達人がすてきな読みをご披露なさっておられたのを見てかるく切れる。

なんでも達人の読みによると、笙野頼子は自分の相手に対する個人攻撃やスキャンダリズムによる批判を自らゲリラ、テロになぞらえているが、むしろそれは文芸誌や文壇という制度を用いた「国家によるテロリズム」にこそ似ているんだそうだ。

へえええええええええええええええええぇぇぇえええぇええぇえええぇぇぇぇえ。

なぜか達人には笙野頼子という存在は、文芸誌や文壇という巨大な後ろ盾を持った権威ある存在として映っているらしい。ここはどうしても私には理解できないし、事実としてもそんな権威が笙野にあるとは決して思えない。笙野が制度の側であるとするなら、「群像」から追放されるなどと言う事件が起こったのかが説明できなくなる。

群像においては某編集長と某評論家が結託して、笙野頼子の文章から理のある批判部分を全削除し個人攻撃しか残らないようにした上で、その論争文が事前に相手に読まれるという経緯をたどったわけで、これなどは明らかに、笙野が制度の側から閉め出されたことを示している。

そこで群像に書けなくなったから、他の文芸誌や文芸誌でもない雑誌などにそのことの顛末などを発表していくという、ゲリラ戦法に出たわけだ。相手は自分をフェアなように見せかけることについては筋金入りで、そのフェアなルールでこちらの発言も制限しようとしてくる。それなら、こちらはそんなルールにかまわず、徹底的にゲリラ的なテロ戦法を用いてでも反抗しますよ、という笙野の戦法は、後ろ盾がなく、いつ雑誌を追い出されるかわからない(というか現に追い出された)というような個人として寄る辺ない存在でしかないことから来ている。

達人は、笙野の論争のそういう経緯をどうやらまったく理解していないようだ。群像に一度追い出された笙野がどうして「文壇という制度」の側にいるというのだろうか。今度の田中批判だって、会社の重要な位置に笙野を追い出した編集長が就任したことと、彼が田中を応援したことに危機感を持っての文章だということは書いてあったはずだ。読んでいないのかそれとも読めていないのか。

しかし、達人の文章の書き方は嫌らしい。

彼女自身、自分のやっていることが「テロ」であることを認めているわけだが、それはゲリラ的であるというより、むしろ文芸誌とか文壇という制度をつかった、国家によるテロリズムの方に似ているのだ。そして、多くの文芸誌はいま、そのような言論テロに手を貸している。

テロ的な戦法を「テロ」としてしまうこともアレだが、それがイコールで言論テロとなってしまうのは妙な展開だ。ことは田中和生を徹底批判しただけだというのに、それのどこが「言論テロ」だというのか。

ここでもまた自分を被害者の立場におくことで自分たちの責任を免れようとする態度が現れている。そもそも、笙野が田中批判の文章を書いたのは、田中の論文があまりにもひどかったからだ。その田中の攻撃に対しての反撃であって、それがどうして国家テロと名指されるのかさっぱりわからん。笙野が国家テロなら、田中も等しく国家テロであり、唯一ゲリラ的なテロなのは達人のブログでの文章だけなんですか?

で、田中の笙野批判と笙野の田中批判とを並べてみたとき、笙野だけをことさら批判するのはなぜなのか。達人の欺瞞がここに究極的に現れている。表向きフェアな論文の体裁を取っていながら、極端な歪曲が見える田中を擁護しつつ、実質妥当な指摘を元に相手を罵倒する笙野を指して、個人攻撃のテロだ、と攻撃することの醜悪さはここに明らかだ。

こうした状況こそが、笙野の批判がゲリラ的たらざるをえない原因でもある。そして、個人攻撃みたいなあまりお上品でないやりかたは良くない、という表向き正当なルールに則って、現実の力関係を無視した抑圧を加えること、これこそがむしろ国家テロの方法に近い。

テロは良くない、とテロとの戦争を大義名分にしてアメリカは何をしたのかを考えればわかりやすいだろう。達人が一貫して田中和生の笙野批判のまずさが笙野の攻撃の原因(まずもって笙野の攻撃は反撃だ)であることに言及しないことは、そのアナロジーの正しさの証左だ。原因の一端が自分の側にあることを徹底して隠蔽している。それが攻撃を正当化する。


で、もっと単純に達人の誤読の達人ぶりを発揮しているのは後半の方にある。そこでは、

じゃあ、論争のレヴェルではなにをやるかというとーーここはブルデューと一番違うのですがーー個人攻撃とスキャンダル主義しか、対抗する方法がない時もある。すると攻撃するときの基準点となるのは何かといえば、俺、なんですよね。自己なんです。つまりタコグルメみたいに文芸誌は赤字だから潰せと言いながらそこで平気で連載をして、文芸誌を引き受けると言いながら食い物にする。そこで「俺」の中でつじつまが合わないんじゃないかと突っ込んでみる。モラルが低いというよりそれは非論理的ですよね。俺の中で違うことをしている。

という座談の発言を引っ張って、以下のように批判している。

この笙野頼子の発言には二つ問題があって、一つは言うまでもない、文芸誌の誌面で、少ないとはいえギャラをもらないがら個人攻撃の「モラルが低いというよりは非論理的」な文章を垂れ流すことと、文芸誌を「私企業による文化事業」とみなすことのあいだの「つじつまの合わなさ」である。でも、もう一つのほうがずっと問題だと私は思う。それは、なぜ笙野頼子は、「俺」という主語を使わないと個人攻撃=テロができないのか、ということである。

しかし、これ、引用文を見るだけでも明らかなんだけれど、この「モラルが低いというよりそれは非論理的」というのは「タコグルメ」が、であって笙野頼子が、ではない。「俺」=「自己」と先に言っているのでわかるけれど、この文章を整理すると、「タコグルメは文芸誌は赤字だから潰せと言いながらそこで平気で連載をして、文芸誌を引き受けると言いながら食い物にしている。それはタコグルメ自身の「自己」のなかで矛盾している、非論理的な振る舞いではないか」となる。ここでの「俺」という言葉は、笙野自身の一人称ではなく、個々人の「主体」の中での筋を通しているか、という問題提起だ。

それをなぜか達人は、笙野頼子は「俺」という一人称を使うことで個人攻撃の文章を自動生成している、という訳の分からない発言をしていることになってしまっている。あら探しが高じて文章が読めなくなっているとしか思えない。そんなに笙野頼子が憎いのか、それともこの座談の中で、水晶内制度をフェミだけで読もうとする人はロリコン入ってますよ、と笙野に言われたことがこたえたのか。

まあ、でも、ここらへんの笙野の発言は、主語述語目的語が明示されていなくて、下手に引用すると誤解を招きかねない文章になっている。だけれども、この直後の部分で、板東眞砂子を批判しつつ、「主語もなくて、雰囲気だけであって、一人の人間「俺」の中での行動として観測されていない」と言っている。一人の人間として、その主体「俺」を曖昧にしていくことでなされていくぐだぐだの状況が、「おんたこ」で一貫して批判の対象とされていたことを知っているなら、ここの文脈が分からないはずがない。文脈を誤解したとしても、ここの一連の文章から、笙野頼子は「俺」という一人称の語り口を採用することで、個人攻撃の文章を垂れ流すことが出来ると読みとることは逆にきわめて困難だろうと思うのだが。

常識的に考えて、自分の発言を「非論理的」だと言ったり、俺という主語を使うといくらでも相手を罵倒できるんだよ、みたいなあからさまに自分に不利な言い方をするわけがない。ここでは相手を攻撃する方法について喋っているのだから、順当に読んでいけばそんな変な自己批判をする場面ではない。

私には、ここでの達人の解釈は、誤読というより、悪意に満ちたレッテル張りだと認識している。しかし、本人としては悪意がないのかも知れない。田中和生の「おんたこ」批判ももしかしたら、本人的にはそうとしか読めなかったのかも知れない。

しかし、もしそうだとしら両人ともにただのバカだということになる。それはそれでうんざりする現実ではある。


なんか、「金毘羅」がノーベル賞級の傑作だとか世辞をのたまっているけれど、上記発言をああいう風に誤解してしまうということは、「おんたこ」や仏教などの、笙野の「自我」「自己」にかんする問題意識とかをまったく理解していないということに他ならない。それは近年の笙野作品においては核となるテーマなので、これが分かっていない達人がいったいどう読んで「傑作」だと判断したのか非常に疑問に思えてくる。