- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,中島康裕,遠藤彰,遠藤知二,疋田努
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2004/03/24
- メディア: 単行本
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進化にとって重要なプロセスはふたつ、突然変異と自然淘汰だ。突然変異は生体に変異をもたらし、その変異は、自然の状況の中で子孫を残すのに有利であれば、その子孫を通じて広まり、定着していく。突然変異自体はランダム(というと実は語弊がある)、無方針なのだけれど、自然環境の中で淘汰されることによって、有利な形質が残る。それを後から見ると、まるで目的を持って進化していったようにも見えるのだけれど、それは錯覚だ。
進化論に対する批判として、目という複雑な装置が突然変異によって出来ることなどあり得ないというものがある。目のように光学的に精妙な仕組みを持つ装置が、一回の突然変異で出来るはずがないというのだ。この意見自体は正しい。目が何もないところから一足飛びにできるはずがない。そこでドーキンスは累積淘汰という概念でそれを説明する。
キリンを例に取れば分かりやすい。首の短い状態のキリンが世代を経るうちに変異が起こるとする。あるものは足が速くなるとか、模様が精巧になるとか、様々な方向の変異が起こったかも知れない。彼らが居る生態系のなかでは、そのなかでも首の長い個体の邦画より生き延びやすい状況だったとする。そうすると、自然淘汰によって、首の長いもの以外のキリンは子孫を増やすことができず、逆に首の長いものはより子孫を増やしていくことになる。その環境では首の長い個体が有利なので、キリンの首は、変異と淘汰によって生体そのものの限界と環境への適応のバランスがとれるところまで首が長くなっただろう。このように、淘汰は累積していき、種はその環境に適応していく。
と、私は、これは別に目新しい概念ではないと思う。ありがちな進化論への誤解を分かりやすく解きほぐすために導入されているんだと思う。これは同時に眼についても言える。まったく見えないより、少しは見えた方が捕食にも、捕食回避にも有利であり、少し見えるよりはよりよく見える方が有利だ。そういった淘汰圧があれば、眼点のような光のくる方向ぐらいしか分からないものから、どんどん光学的に精妙な眼に進化していくのは至極当然と考えられる。もちろん、人間の眼のように精妙なものではない眼は、視力がきわめて弱いだろう。しかし、だからといって機能しないわけではない。少しでも機能するならそれは非常に有利な武器となる。
アンドリュー・パーカーは「眼の誕生」で、暗黒の洞窟内部の魚などはかなり早く眼が退化すると指摘している。眼は、きわめて「高くつく」器官なので、暗闇では真っ先に退化してしまうらしい。逆に言えば、光のある世界では、そのような高くつく器官を我先にと進化させねば生存に致命的に影響する、ということを証明している。
眼が、きわめて精妙で複雑な器官である、ということは神の介在を証するのではなく、それだけの進化を要求するほど視覚が自然界において重要な感覚であることを示している。それに、進化というのは何万、何百万、何億年というスパンのなかで進むものなので、変異と淘汰というメカニズムによる器官の進化は、それはもう我々の想像を超えるクリエイティビティを発揮してもまったくおかしいとはいえないだろう。「眼の誕生」でも、眼点から眼に進化するには、かなり控えめに見積もっても、五十万年で充分だ、というシミュレーションが紹介されていた。五十万年とは、地質学的には一瞬より短いくらいだけれど、人間にとっては想像を絶する。それが進化のタイムスパンだ。
ドーキンスは、このような進化という自然によるメカニズムを、盲目の時計職人、という卓抜な比喩で説明している。ただ、この比喩は、職人、というデザイナーを想定させてしまう点でちょっと微妙かなとも思う。まあ、だから比喩なんだけれど。
この本、なかなか面白いのだけれど、創造論への批判が大きな比重を持っているため、記述が妙に細かくてサクサク読めないところがある。一つのことをそんなに何行も費やして書く必要なくね?というところが多い。創造論との緊張関係がそうさせているので、無駄な訳ではないのだけれど。日本でも創造論を信奉している人が実は結構いるみたいなので、案外と人ごとではないかも知れない。
しかし、この書名は格好いいな。ザ・ブラインド・ウォッチメイカーが原題(旧版はそのタイトルだった)なんだけれど、何かの必殺技とか、スタンド名とかそういう感じ。ストーンオーシャンあたりだったら、ブラインド・ウォッチメイカーってスタンドが生物をクリエイトする能力とか持っててもおかしくなさそうだ。時空が一周するくらいだから。