「論争結構」、でもブログではやりませんと?

まあ、いい加減しつこいと思う人も多いんじゃないかと思うけれど、どうも俺を含めた笙野読者に変なメッセージを送っておられるので、一応反応しておくことにする。以下のエントリで、12月のイベントについてこんなことを言っている。
『双調平家物語』完結 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

よかったらぜひ、笙野頼子ファンのブロガーの方もいらしてください。論争、大いに結構。

いやいやいやいやいや、何言ってんの? なんか、自分が当事者じゃないみたいな感じなんだけれど。どういう意味、これ。

どうせ誰もイベントになんかこないだろうからってタカをくくってるわけ? イベントの場ではまともな議論にはならないだろうとか、そういう打算? で、そういう場でだけ自分は論争にもちゃんと応答しますよっていうパフォーマンス?

なめてるわけ?

別にさ、相手は一応プロのライターさんですからお忙しいでしょうし、ブログで真面目な議論を展開するつもりがないということもあるでしょうから、自分の文章が基本スルーされるのは全然かまわないんですよ? まあ、なんか一応読んで気にした感じのことも書かれてましたけれど、内田樹なんかもコメントやトラバは基本無視だからね、気にはならない。自分としては、対象そのものよりは、それを読んでいる人に対して対象の突っ込みどころを明らかにしていくことが重要なわけです。笙野批判のいくつかは、明らかにアンフェアなやり方で書かれてましたからね。引用の仕方がおかしいとか、自分の正当性しか主張しないとか(笙野の田中批判をテロと評するに当たってその前に田中の笙野批判が先行していたことを書かない、とか)。

でも、笙野ファンのブロガーに「論争大いに結構」って言うってことは、俺とかPanzaさんとかのトラバ(いくつかの笙野記事にトラバしている笙野ファンってそれだけだと思うけど)について、何か応答すること、反論することがあるんでしょう?

じゃあさ今まで俺が書いてきた批判について、すぐにそのブログで返事書いてくれません? 一貫して田中和生の笙野批判の中身に言及しないのはなぜなのかとか、座談の発言について致命的な誤読の上に的外れな批判を加えたことについて、自分が誤読していたことを訂正するか、あるいは私の解釈が間違っているとそちらが考えるならその理由とか、そういうの。

ライトナウ。

まさか、イベントの場に来ないなら応答できないって言うわけ? どうして?

笙野は大塚英志との対談を断った理由として、対談に応じるとなんか仲直りしたみたいなことになりかねないとか、対談記事を勝手に編集されてしまいかねないこととかを懸念したんだけれど、イベントの場で論争大いに結構っていうのは、すごくそれに近い懸念を覚えるんだけれど。

俺、そのイベントに行けそうもないから、何か言うことがあったら、ちゃんとブログで応答するか、公開されるのがイヤならメルアドとかでもいいので、お願いしますよ?


というか、今までのブログでの流れで、どこか論争だった部分が少しでもあった? 繰り返されるボケにずっと俺がツッコミ入れてただけだった気がするんだけど。ボケとツッコミってのは漫才であって論争ではないと思うんだけど。突っ込まれたら論旨変えて、そこでもまたボケて突っ込まれて、っていうのを繰り返しただけでしょ?

で、今回だってまた、源平になぞらえて作家をキャラクター化して、それが自分のイメージ通りにならないからって「間違ってるんじゃないか」って、間違ってるのはあんたの頭の中身だよ。現実を勝手に自分の脳内文壇打倒闘争に見立てて、それが思い通りに行かないと批判するって、正直思いっきりキモイんですけど、御自分のなされていることがおわかりですか? 

つうか、実際笙野頼子は文壇と戦ってると思うよ。もっと具体的で現実的な対象としての文壇と。脳内源平合戦の脳内文壇しか頭にない誰かさんとは違って。まあ、文壇と戦って文学を守るっていうスタンスだから、文芸誌っていう文学が流通する場(古くからの文芸誌読者とかを非常に大事にしているというのは笙野読者なら知ってるはず)を非常に重視してるのは確かで、それが文芸誌を文壇という制度と同一視する人には、奇妙な振る舞いに見えるんだろう。その違和感自体はわからないでもない。けれど、まあ、源平合戦で世界を解釈した気になってる人にはそこら辺の機微は分からないんだろうね。