続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見

(承前)

相対化という問題

もちろん、歴史修正主義の議論がすべて差別主義とイコールで結ばれるという訳ではない。否定論を少しでも認めることが、ただちに差別主義に加担することだなどと言われれば強く反発を覚える人も多いだろう。私もちょっと決めつけすぎだなとは思う。右派言論の多くが、そうした差別主義と親和的だからと言って、個々の修正主義的議論が必ずしも差別的認識を前提にしているわけではない。歴史的な問題についての議論に的を絞った洗練された南京事件否定論そのものは、必ずしも差別主義とはいえない。

だから、そうした差別主義的言動を脇におくとして、純粋に歴史的問題として考えようとすれば、素人目には一見判断が付かない厄介な問題なように見える。ただ、こと南京事件否定論にかんして大きな問題になるのは、ネットで蓄積されている議論というのが、否定論と反否定論だという事実に一因がある。

南京事件否定論はネットで非常な広がりを見せ、数多くのコピペ的主張が出回っていて、それを信用した人たちの議論がかなり膨大な数存在する。それを一種のオカルトと見なしてまともに相手にするに値しない、と多くの人間は判断していたのだけれど、そのあまりの盛り上がりぶりや議員などにもそれを信じる人間が続出するような事態になるにいたって、さすがにこれはやばいという危機感が広まり、否定論の定型的な主張に対する反論をFAQ化した、南京事件FAQが公開されたというのがここ数年の展開だ。だから、南京事件FAQは、基本的に以下のように、反否定論として存在していて、南京事件そのものの歴史的事実を筋道だって叙述するというものではない。
南京事件FAQ

ネットでよく見かける否定論に対して、ただちに反論できるようにFAQを作りました。事実と論理に基づいて否定論に反撃します。また、独自の資料庫やリンクを充実させて、反論の基礎を作ります。

また、以下のページやそのコメント欄を見ると分かるのだけれど、事件そのものの実証的叙述はいくつかの書籍に任せ、当該サイトでは反否定論の蓄積を旨としている。
南京事件の存在は実証されている - 南京事件FAQ
事件について、「あったと証明」するのは、すでに存在するそのような歴史学的な蓄積に譲っている。そのような事情になっているのは、ひとつには、南京事件否定論がその程度の入門書、概説書程度の基礎知識すら踏まえていないという代物だからというのがある。カジュアルな否定論は、ほとんどコピペ的なトリビアによって事件を否定しにかかるので、そのような人間に入門書をまずは読め、といっても通じないことが多い。しかし、歴史的実証は非常に手間のかかる仕事だし、分量も膨大になるので、基礎的な部分は書籍などに頼らざるを得ないという事情もある。

このことは、この南京事件FAQ的なやり方が、トリビア知識の応酬でしかなく、何ら本質的な議論を進めていないという印象につながりかねないという弊害がある。

その顕著な例が、最初に紹介したブクマの元記事に対する反応だろう。トリビアの応酬に見えるために、突っ込みどころ満載に見える人がいるようだ。(ただ、個人的には反否定論の人の議論はきわめて冷静で、根拠に基づいていて丁寧なので、これを見るだけでもどちらに理があるかは分かると思うのだけれど)

また、このような議論しか目にしていないような人たちが、否定論と反否定論とがどっちもどっちだという印象をもつことも、確かに一面しょうがない部分もあるだろう。しかし、だからといって、ある案件について、自分の主観的感想以上のかなり突っ込んだ議論をしようというときに、その件についての無知と勉強する手間を省こうという怠惰は決して許されるものではないだろう。
はてなグループ
上記のブログの記事では、事件について真面目に情報を集めようと言う手間を惜しみながらも(某所で、三十分で読めるサイトを教えてとかいっていた)、自分を賢明な振る舞いをする人間であるという風に印象づけることには余念がないような文章になっている。

傍観者がしばしば中立を自称し、両者の主張を相対化して、どっちもどっち、と言いたがるのはこのような賢しげな振る舞いを演じようとしていることにもひとつの原因があるだろう。さらにひどいことには、反否定論を印象操作であると断じ、否定論の主張の正しさがいかなるものなのかを具体的に説明せずに、否定論擁護へと走ってしまっている。

このブログの記事は、否定論者か否定論に感化された人間の反応のテンプレートと言っていいほど典型的な認識を示している。ほんと、何回こんな文章を読んだのか、というくらいおきまりの反応だ。「南京事件そのものはあった、けれど」という自分のポジションの表明から、事態の相対化を図るという文章の流れもそうだ。

知識人と呼ばれる人の間にもしばしばこうしたメタ的な視点に立った相対化をして自分は賢明であることをアピールしようとする人がいる。知的な人間であることを自認するような人物はしばしば、こうした相対化、相殺主義のエアポケットに落ち込んでしまう。

注目すべきなのは、記事タイトルからしてそうなのだが、この人は否定論の議論をなぜか一貫して「正しい意見」と形容している。否定論、肯定論に対してあまり知らないと自認するにもかかわらず、否定論がなぜか正しいことになってしまっている。
2008-01-01 - ▼CLick for Anti War 最新メモ
彼が上記記事について素人の立場に立つなら、上記記事で反駁されている意見が否定論のすべてとまでは言えないのではないか、と疑問を表明することは可能だ。しかし、なぜか彼は「正しい意見を間違っているかのように印象づけるテクニック」を使っていると断じている。これは不思議だ。こう主張する為には、彼はそこで反駁されている意見以外の否定論を知悉しており、なおかつそれ以外の否定論が正しい意見であることを確信していなければならない。説明しろ、証明しろとまでは言わないが、彼は否定論がなぜか一貫して「正しい」ものだとなぜか無根拠に前提にして書いている。そして否定論への反論をなぜか「間違った意見」とたとえている。

どういうことなのだろうか。素人ではなかったのか。ある一部の意見が否定論のすべてとは言えないのではないか、という以上のことは言えないはずだ。彼は、「ある正しい意見Aを主張している人が10人いたとする。」という部分は「ある意見Aを主張している人が10人いたとする」と書かねばならないはずだ。

「ある意見」の一部が間違っていたからといって、その意見すべてが間違っているとは言えないというのはその通りだ。しかし、だからといって、そこで反駁されている意見以外の意見が正しいことにもならない。そして、素人であるはずのfromdusktildawn氏は、なぜそこで反駁されている意見が否定論のうちの「一番的外れな議論をしている1人の意見」であると判断できるのか。そう判断するためにはやはり否定論をかなり知悉している必要がある。私見では、そこでの否定論は10人中8.9人が主張する意見だと思うのだが。

一見南京事件否定論への距離を表明しながら、細部の喩えや文章の端々で、なぜか一貫して否定論を正しいものと前提しているのは悪質な印象操作でなくてなんなのか。

Claw氏の記事だって、基本的にはテンプレート的な否定論に対するテンプレート的な反論をまとめたに過ぎない。そこに反論された以外の否定論すべてが間違っているとまでいっているわけではないし、そもそものfromdusktildawn氏の言うほど印象操作が顕著な記事でもない。fromdusktildawn氏がやっていることこそ、一部の論法のまずさから、その論全体の正当性を否定するという大がかりなアクロバット的レトリックだ。

大元になったらしい上記記事が南京事件否定論への見事な対応、と呼ばれたのは、否定論者の疑問がほとんどFAQと言えるほどにテンプレート化されており、それに対してきちんと史料的根拠を用いて反論しているからだ。まとめた人間とまとめ方に問題はあるとしても、そこで行われている議論は否定論のおきまりのパターンであり、的外れな議論に見えるのだとしたら、南京事件否定論というのはそうした的外れな議論で成り立っている代物だからだと言うしかない。

こういう、論法を論うことで具体的事実について少しも勉強せずに大上段から物を言うというスタイルはほんといい加減にして欲しい。こういうやり方をすれば自分の知らないことについても物申せる(そして何となく頭良さそうに見える)ということなんだろうが、これを得意技にするのは内田樹だけで勘弁して頂きたいと思う。

また、この人物の考えがきわめて乱暴で底の低い代物であるということは、以下の記述を見れば一目瞭然だ。本当にびっくりしてしまった。

ポイントは、たとえ南京事件がなかったとしても、
南京事件はあった」ことにすること自体は、
とても簡単だということ。
そもそも、レイプも虐殺も皆無の戦争なんてほとんどないんだから、
よくある戦争中のレイプや虐殺に「南京事件」というラベルを
貼れば、はい、一丁、南京事件のできあがり!なわけです。
この意味で、「歴史的事実」などいくらでも捏造できるし、
それを立証することなど簡単だ。

歴史的事実の実証がその程度の基準で行われているとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、この御仁には歴史について何かを語る能力が決定的に欠けていると言わざるを得ないと思う。ひどすぎる。

南京事件の論争について、この程度の認識しかない人物が、一方を印象操作だと論難したり、南京事件の政治的意味合いについての意見を表明したりするのか。それこそ、何も知らないなら黙っていろ、と言うしかない。少しは勉強してから物を言ったらどうなんだ。自分は素人だと自称しながら、一段メタな立場に立って、小賢しい印象操作や相対化を図る人物の知的誠実さを私はまったく信頼することはできない。

「素人」ということ

私事になるが、私も元々歴史は非常に苦手なジャンルで、まったく勉強してこなかったけれど、ここ一二年で古代史から中世をとばして近現代史についての概説書、通史などを少数ながら読んできた。それは、喧しく議論されている南京事件について、自分が判断できるほどの知識、教養がないことについて不安に思い、少なくとも近現代史についての通史的理解くらいはある程度把握してから、自分で判断しようと思ったからだ。

私が中高生のころは、小林よしのりの「戦争論」が非常に売れていて、「ゴー宣」をある程度読んでいた繋がりで「戦争論」を読んで、一時期感化されていた。ああ、「南京大虐殺」とか無かったのかあ、なんて思っていたし、肯定派の書籍に目を通すなんてことはなかった。その後読書傾向が変わり、小林よしのりについてはかなり批判的な立場に立つようになってからも、「南京事件」の議論は面倒で、厄介な政治的イシューになってしまっていて、私には判断できない問題だと敬遠していた。

が、ちょっと真面目に議論を追ったり、通史などの書籍を当たったりした結果、否定論はきわめてずさんなデマゴギーの一種だといまは判断している。途中敬遠していたせいだが、私が南京事件否定論を解毒するまで、十年近い時間が経ってしまった。単純に費やした時間にすれば一二年くらいだけれど、それまでは、あったともなかったともどちらとも言えない、という認識だった。そこから、ネットの情報を参照したり、本で読んだりして、わりと少なくない手間と時間を掛けてある程度自分の判断が確定するまで、南京事件などの紛糾しがちな議論にはきわめて禁欲的であろうとしたし、してきたつもりだ。

上記ブログの人物は、その程度の手間を掛けることもせず、自分の知識がきわめて些少であることも認めながら、ずいぶん突っ込んだことをいっている。手間も掛けず、知識もないなら、言えることは極めて限られてくるはずだけれど。どういう思考回路なのだろう。

知らないことについては黙っていろ、というのは実は正しくない。知らないことについて言えることはかなり限定されてくるのにかかわらず、この人物はその範囲を明らかに逸脱して物を言っていると言うことだ。否定論も肯定派の主張も知らないのならば、両者の主張のメタ的な立場に立つことは原理的にできない。知らないことを俯瞰することはできないからだ。この人物は知らないことについて俯瞰したつもりになってきわめて的外れなことをいっているという事態になっていることに気づいていない。

ついでだが、日本の戦争犯罪がことさら問題になることの理由の一つ(差分)は、慰安婦南京事件が特にそうだが、それが今現在の問題として否定論が活発に議論されているところにある。しかもそれが政府要人のレベルでなされていることが大きな問題になっている。慰安婦にかんする安倍晋三の発言や、慰安婦を中傷するような意見広告の存在が非難決議可決への後押しをしたことがその顕著な例だ。慰安婦に関しては基金もあり、河野談話などでそれなりに謝罪なども(議論はあるが)されてきていたのに、安部前首相が修正主義に感化されて、それを反故にするようなことを口走ってしまったため、国際的波紋を広げることになった。

事態がいまも政治的な問題になっているのは、過去の事実そのものの性質のみにあるのではなく、いま現在の対応にも多くを負っている。ちょっとアレな言い方になるが、現代日本歴史修正主義こそが、事態を紛糾させている大きな原因になっている。

また、もうひとつ重要な点として、日本は敗戦時に戦後問題になりそうな資料のたぐいを大量に焼却処分してしまっている。このことは、証拠隠滅することで戦争責任を免れるためだったようだが、これは誰かから告発されたときに、自分の身の潔白を証明する根拠もないということでもある。証拠隠滅を図った者が、相手の言い分のおかしさを非難するというのがかなり無理のあることだということは分かるはずだ。

「ダメな議論」かどうかの簡単な基準

やたら長くなってしまったけれど、私がなぜ修正主義的な主張を嫌うかは、それがしばしば攻撃的、差別的主張と一体になっているからだと書いた。

もうちょっと詳しく言うと、私は、その主張そのものの当否について判断を下すほどの情報を持ち合わせていないとき、過剰な攻撃、中傷、差別的な発言が見られる場合は、その文章が語っていることの80パーは間違っているかデマだろうと判断している。

罵倒や非難、中傷が渾然になった文章というのは、その攻撃性が先に立ってしまうため、自身の主張を冷静に再検討するというプロセス、客観化して自身の主張の妥当性を判断するというプロセスが欠けていることの現れだと思っているからだ。

客観的かつ冷静な態度は、自身の主張を再検討することができる余裕があることを示している。そういうと、ここまでのおまえの文章だって攻撃的だったり乱暴だったりする部分が散見されるじゃないかと、まあ批判されると思うけれど、一応、その個々人の具体的な振る舞いについての説明を付けた上で批判的評価は下しても、一方的なレッテル張りをしたりそのことについての中傷をしてはいないと思う。まあ、書いていて熱くなることは多いので、書きすぎた部分は結構あるのだけれど、きちんと理のある批判があれば、訂正、修正謝罪に応じる準備はあるつもりだ。それに、個々人の属性、性、民族、文化などによる差別はしたことはないつもりだ。

私がここで「ダメな議論」の念頭に置いているのは、嫌韓と呼ばれる人たちの差別意識たっぷりの文章とかだ。そこでは、日本と韓国、という単純な二項対立が前提され、敵味方の二分法が前提されているため、冷静で慎重な議論が期待できない。相手を罵倒して溜飲を下げることが目的となっているので、議論が為にする代物になっていることが多い。胸がすく思いをするのが、重要だなどといっている人は一度ものを考えると言うことについて真面目に考えた方がいい。

ただ、もちろんこの理屈は、歴史修正主義のみにではなく、反歴史修正主義にも当てはまる。反歴史修正主義には、単純な二項対立に陥らず、冷静で客観的な議論が求められるということだ。まあ、私はあまり達成できたとは言えないが。やはりどうしても腹が立つし、それが文章に反映してしまう。あまり反省はしていない。