青木淳悟 - このあいだ東京でね

このあいだ東京でね

このあいだ東京でね

続いてこれを読む。三つ目の短篇集で、本書では一貫して建築、土地のことを書いている。しかし、その書き方が尋常ではない。一冊目ではまだずいぶんと普通の小説に近かったのだなと驚いた。二冊読んで、青木淳悟がどういう作家なのかということがなんとなく分かってきたような気がした。

今作では特に、小説の語り、ナラティブの側面を強調して書かれていて、どこまでやれば「小説」でなくなるのか、という境界に挑戦しているかのような作品が並んでいる。

表題作の「このあいだ東京でね」からして異常な作品。マンションを買うとすればどのようなことを考慮し、どのような手順、手続きがあり、例えばモデルルームはどんな場所で、何があり、何が行われるのか、というような住宅事情にまつわる様々な事柄を延々と語り続ける。文体も、まるでコラムの文章か何かのように、一般的な視点から、通常、こういうときはこのようなことがこうして起こり、こういう手順を踏むもの、というように進み、小説が普通そうであるように、個別具体的な誰それの体験ということをほとんど書くことがない。

小説的な文章もなくはないけれど、延々と住宅事情の解説のような文章を読むことになり、まずもって面食らう。そもそも、主人公と呼べる人物すらいない。最終段落に取って付けたように「私」という人物が現れるのだけれど、本当に取って付けたような適当さだ。

一冊目でもそうだったのだけれど、この人は地味なディテールや情報、業界の常識みたいなものにやたらと詳しい。雑学、というのとも博識、というのともちょっと違った知識の豊富さだ。知っていることを書いているのか、調べながら書いているのか、どちらにしろ、普通はこの知識の上に、登場人物を展開させるところだけれど、むしろ、その知識を主役にしてしまっている。

その意味で、この小説はもはやフィクションですらない。時間的継起もほとんどなく、主人公もほぼ姿を見せず、誰が何の目的でこの記述を行っているのかすらもわからない。

もうほんとうに、なんだこれは、と当惑するしかない作品で、これは何なんだろうと思ったところ、Thornさんは青木淳悟「ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」と呼んでいたことを思いだし、そうだ、これはヌーヴォー・ロマン、あるいはアンチ・ロマンと呼ぶべきか、と納得した。

この短篇を「小説」というものをいかに脱臼させるか、という試みとして読むと、ここで書き落とされたものが、普通小説にまず必須のものと考えられているものであることがわかる。というか、そもそも「物語」「お話」が欠けている。そして当然その話の主人公も欠けている。おそらく、かなりの人はこんなものは小説ではない、とすら言うだろう。

つい最近下記の小説概論が話題になったけれども、青木淳悟の小説はこの議論ではまったく掬いとることができない。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。
なぜ増田小説概論 (須江岳史)
Ⅱ、物語の面白さについて (須江岳史)
私はこの表題作を読んで、そして次の短篇を読んで、その次を読む内に、この作家は次はどんなやり方で小説を書くつもりなのかと、ニヤニヤしながらどんどん読み進んでいくことになった。「TOKYO SMART DRIVER」ではグーグルストリートビューを取り上げて、俯瞰的な視点からの叙述がいつのまにか車中の視点にスライドする語りの妙が楽しい。「障壁」はまるで海外旅行の心得みたいな知識と、ちょっとした小説的オチがついたりしてやや意外。

特に言えば、「夜の目撃談」という短篇が面白い。内容自体は、ある女性の妊娠から出産にまつわる出来事を語りつつ、同時に猫の生殖行動についてのあらましが語られ、そのうち猫の話がメインになって終わるというもの。この書き方も、特定の女性について書いているようでありながら、どこか一般化したモデルケースを語っているような距離感があり、ものすごく独特な印象がある。で、この作品は「僕」という女性の恋人が語っているのだけれど、作品にはその男性が知り得ないことが書き込まれていて、「僕」がイコール語り手とは言えないというような混乱が含まれている点が妙だ。第三者視点から書いているのかと思ったら後半で突然、「僕」とか言い出して面食らうわけだ*1

もうひとつ変な作品があって、「ワンス・アポン・ア・タイム」という短篇がそれだ。これ、1999年の新聞を適当に漁って読んでいるだけ、という代物。いろいろ雑感めいたことが語られつつ、当時の新聞を今の目で読むのだけれど、で、何がしたかったのか、という読者の疑問には答えない。

全体的に私はずっと後藤明生のことを考えながら読んでいた。「ワンス・アポン・ア・タイム」の新聞記事の渉猟など、後藤明生のあみだくじ式テクスト散策を思い起こさずにはいられない。後藤明生もまた、「小説」の関節外し系の作家というか、日本のヌーヴォー・ロマンと呼ばれた作家として、ある種同じ括りに入れられるのじゃないかと思った。

後藤明生近畿大で教鞭を執っていたとき、自分の小説を読ませて、小説に対する固定観念、先入観(上でリンクした小説概論のような)をまずぶちこわしてから授業を進めていったというけれど、青木淳悟の小説もこれは小説だろうか、いや、これが小説なのだ、と小説の概念を考え直させるのにピッタリなんじゃないか。

後藤明生作品に比しても、本書収録作品は「小説」からの逸脱ぶりにかんしては徹底していて、後藤明生のように私小説的形式すらも採らず、語り手すら宙に浮いてしまうような書き方はなかなか凄い。後藤明生をさらに訳分からなくしたような作品集だ。そう思うと、「このあいだ東京でね」のラストシーンなんかちょっと「挾み撃ち」っぽいかななんて思えてくる。

それはいいとしても、デビュー作からしてこの人の小説はかなり変なので、小説に当惑させられたい人には一度読んでもらいたい作家だ。

7/4追記

やっべ忘れてた。この記事をがっと昨日書き上げた理由を忘れてた。

社会は存在しない

社会は存在しない

こちらで青木淳悟論を書いた岡和田さんid:Thornさんが明日、高井戸の地域区民センターで、「SF乱学講座」というものの講師をされるらしいです。
SF乱学講座
「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」 という演題で、岡和田さんが過日刊行したTRPGリプレイである「アゲインスト・ジェノサイド」
ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks)

ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks)

と、青木淳悟の本書収録作「TOKYO SMART DRIVER」を題材に語ってくれるとのこと。
私は二つとも読んでいるので、これを彼がどう絡めるか楽しみです。普段は超硬派な批評を書く岡和田さんですが、今回は分かりやすく話すことをひとつの目標にしているとのことで、私のようなアレにも親切。きっと。

ストリートビューを扱った青木淳悟の短篇通りに、これで場所を確認してから行きましょう。
Google マップ

*1:というか、猫の鳴き声が、「ウリリイイイイイイ!!」と「ディオォォオオーッ!!」ってのにも面食らったのだけれど