イスマイル・カダレ - 砕かれた四月

砕かれた四月

砕かれた四月

前回に続いてカダレの「冷血」二部作のもうひとつ、「砕かれた四月」。

前作とは変わって、今作ではだいたい20世紀あたりの現代(正確な年代がよく分からない)を舞台にしている。作中で作家であるベシアン・ヴォルプシと妻のディアナが新婚旅行で訪れる高地(ラフシュ)は、「近代国家の一部を成しながら、法律も、法組織も、警察も、裁判所も、つまりはあらゆる国家機構を拒絶している」、独自の「道徳律」を持った、「国家管理の外」にあるという場所だ。そこを支配している掟は、「誰がドルンチナを連れ戻したか」で展開されたコンスタンチンの伝承を礎石としたものと語られる点で、「ドルンチナ」との繋がりを示唆している。

「ドルンチナ」について私は、中世の舞台に現代の問題を重ねたアナクロニズム・錯時法的*1な手法で書かれている、と書いたけれど、今作では、現代のなかに中世の掟を保持する場所が存在しているように、時間的な操作に対して空間的な操作というふうに手法を変えているのが分かる。

ちょっと物語の方を説明すると、今作では視点人物は二人いて、一人は作家ベシアン・ヴォルプシ、もう一人は高地の住人で、掟によって対立する一族の青年を今殺したばかりのジョルグ・ベリシャ。

一人の客人が殺されたことに端を発する何十年にも渡る復讐の連鎖があり、ジョルグはまさにその渦中にたたき込まれたところだ。掟によって相手の一族の人間を殺さなければならないことを運命づけられ、そして復讐を遂げると、次は相手の一族からの復讐が待っているという血の応酬に青年は閉ざされている。ジョルグはそして、復讐を終えると、復讐に伴う「血の税」を納めに「オロシュの塔」というところへ行かねばならない。

小説は終始息苦しさで覆われている。掟や誓いはここでは人々を拘束する鎖のように感じられ、ジョルグはその復讐の檻の中にとらわれて決して出ることができない。だからこそ、ジョルグは一目見た外部の人間、ベシアンの妻ディアナを探し求めることになる。

高地の掟、誓いもまた、外部の人間たちに「血の産業」と批判され、掟は変質し、血の奪還が利潤に基づく資本主義事業になってしまったと論じられることになる。事実、血の管理官と呼ばれる人物は、血の奪還つまりは復讐による殺人が減少してきたことを悲観し、一件も奪還が行われない日が来るのではないかと戦々恐々とし、ジョルグがいなければ記録上初めて一日も血の奪還が行われない日になるところだったなどと考えている。血の管理官はその外部の論説を悪書として蔑視しているのだけれども、おそらく論説は妥当な主張として書かれている。

私は「ドルンチナ」を、古い伝承に「アルバニア」の普遍を見いだす国家の立ち上げを企図したものでもあるだろうと考えたけれど、こちらはその「永遠で普遍的な機構」が時代を下るにつれて形骸化し、色褪せてしまった状況を描いているように思える。

このアンビバレントで分裂的な二部作は同時に読んでこそ、より面白くなる小説だ。手法的な類比、主題的な類比等々、様々なコントラストを成していて、非常に興味深い。ただ小説として吸引力があるのは「ドルンチナ」の方だと思うので、そちらを読んでからこっちを読むのが丁度良いかなと思う。


この二作において掟とともに重要なものが、客人、外部ということだろう。「ドルンチナ」ではコンスタンチンが妹を遠い国に嫁がせることに賛成したのは、内にこもることの弊害と外部との交流を求めたからだという。そして今作では、掟の核心として、客人はもっとも神聖なものであり、どんなものであっても最大級のもてなしをしなければならず、もし迎えている間にその客人が殺されるようなことがあれば、一族を挙げて復讐しなければならないとされている。客人はほとんど神そのものとも言われている。そして、「砕かれた四月」では、高地の外部から来た人間と高地の内部の人間との一瞬の出会いが描かれる。しかし、この二作において、外に出たドルンチナ、外に出たいと願ったジョルグらには苦い結末が待っているというところは、どういうことなのだろうか。


しかし、Amazonではこの本にいつの間にかとんでもない値段が付いてるな。

*1:すいません、ここ間違いでした。アナクロニズムの訳語は錯時法ではないです。錯時法はヴォネガットの諸作のように語る事柄の先後関係をずらすことで、時代錯誤ということとは意味が違う。