ダニロ・キシュ - 庭、灰

庭、灰/見えない都市 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)

庭、灰/見えない都市 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)

このまえ「死者の百科事典」が良いと書いた旧ユーゴスラヴィア出身のセルビア語作家、ダニロ・キシュの第一長篇がこの河出の全集に収録された「庭、灰」。この自伝的な作品は他二作(「若き日の哀しみ」「砂時計」)とあわせて「家族のサーカス」と総題を付された三部作のうち、最も早く書かれた作品となる。1965年作。

三部作の中心的モチーフがそうである以上触れなければならないのは、キシュが九歳(1935年生まれなので1944年のこと)の時に父親はアウシュヴィッツに連れて行かれ、そのまま消息を絶ったという事実だ。ユダヤハンガリー人の父とモンテネグロ人の母との間に生まれ、ハンガリー国境近くにあり、第二次大戦中にハンガリーに併合されていたヴィヴォディナで生まれる。アウシュヴィッツ以前にも父親はヴィヴォディナの都市ノヴィサドで、処刑されドナウ河に放り込まれるなどして二千人を超えるセルビア人、ユダヤ人の犠牲者を出した「冷たい日々(あるいは「寒い日々」「冷え込んだ日々」)」と呼ばれる事件で九死に一生を得たことがあり、この時代の親ナチスハンガリーによるユダヤ人迫害に追われていた。一家もそのために転々と住まいを変えている(本記事末尾により詳しい説明を引用した)。

というわけで、自伝的なこの作品にそういう予断を持って臨むと、これがかなり違った印象を受ける。少年の視点で当時の状況を描くために、起こっている物事の歴史的位置づけがはっきりせず、どうしてそうなったのか事情がつかみづらい。警察に連れて行かれて強制労働させられる挿話があるけれども、それも星(ダビデの星)というのが出てくることでユダヤ人だからだろうことが推測できる、という塩梅だ。だからか、ある種夢幻的な雰囲気といわく言い難い不穏な空気に満たされているように感じた。

小説は直接にアウシュヴィッツをモチーフにはしていない。キシュの作品中でも、アウシュヴィッツという言葉が直接現れることは数度しかないはずだ。この作品では特に、父、それと母及び姉の家族が中心で、ホロコーストユダヤ人、というよりは父がいなくなったことそのもの、そして父や母の姿を描いているといえる。キシュは自作がホロコーストを告発する類の作品として読まれることを警戒していた、という。

序盤では夏の朝の爽やかな目覚めが置かれ、叙情的な描写が続く。そして主に母親とのかかわりが多く描かれていくことになる。ただ、それも母親から叔父の死を告げられると、死の恐怖について考えるようになり、母が自分より先に死ぬだろうことに大いに苦しむようになる。序盤には「失われた時を求めて」の冒頭のように、眠りと目覚めについての執拗な思索が続くのだけれど、対照的なのは眠りについての思索と死についてのそれが密接にからみついていることで、プルーストにはなかった陰影がある。

少年期の自伝的作品とはいえ、抒情的なばかりではなく、かなり思索的な粘り強い文体で書かれている点も(解説でも出てくる)プルーストを思わせるところがある。少年アンドレアスの目から眺められるエピソードは、母と城へ行った話や死の恐れや少女との恋の話などの少年らしいものから、父が煉瓦の片づけをさせられるとか何人もの人が来て扉を叩きつけるノヴィサドの虐殺の危機が迫った挿話などの不穏な話が交錯する(作中ではそれがノヴィサドの虐殺である、と言うふうには書かれない)。

展開には次第に不穏な雰囲気が立ちこめるようになり、そしてついに父がどこかへ行ったまま帰ってこなくなる。父は新聞で洟をかむ癖があり、その紙くずを散歩している森の中に捨てることがあった。

父がいなくなってから、たっぷり二年も経って、もうけっして帰ってこないことがはっきりしたころ、僕は、伯爵の森の奥深く、空き地で草と矢車草の花の間に、色あせた新聞紙を見つけ、アンナ姉さんに言った。「見てよ、父さんたら、これだけを僕たちに残していったよ」
99P

ここで小説が折り返し地点にたどり着く。次の章の冒頭で語り手は歴史についての宣言を記し、「父の歴史、天才エドアルド・サムの物語」がはじまり、父と母との出会いが語られたりもする。同時に叙述が分裂的に、相矛盾するものを含んだものとなり始めていく。二、三年ごとに父が現れたり、自分を別人だと言い張る「父」に出会うあたりの幻覚的な挿話はまさにそうした印象を残す。それがむしろ語り手の父への執着を如実に語るわけだけれども。しかし、このことは語り手が父へ情熱的愛情を傾けていたからではなく、ある距離感を持っていたからこそ生まれた執着だということに注意する必要がある。

この作品は解説でもあるとおり、父という謎について語られている。国際時刻表の執筆者で、その異常に膨れあがった改訂版を延々と書き続けていたという不思議な人物である父の消失、そして父という存在自体という謎が、語り手を引きつけている。消えてしまったために、もはや答えを得ることができない不可能性。

ラスト近く、少年は天恵を受けたように詩の女神の訪れを感じる。そして母にこう言う。

「ひとつ詩を書いたよ」

父を失った少年の抒情的な自伝的作品としても、ポストホロコーストの戦後文学としても、いろいろと読むことが可能な作品だろうと思う。これが一番最初に書かれた作品でもあるし、「砂時計」は正直難物なうえ、もっとも読みやすい「若き日の哀しみ」は入手困難なので、これからキシュを読むとしたらこれが一番良いと思う。

ただし、キシュ作品の多くを訳している山崎佳代子の訳文は一つ欠点があって、原文の語順を尊重してのことなのか、終止形の語の後に修飾節がに来るようになっていることが多い点だ。倒置法というか、一文目から、「夏の終わりの朝、音もたてずに母が部屋に入ってくる、お盆をたずさえて。」とあって、これは修辞かと思いきやこういう文章がいくつも出てくることになる。それ以外はまったく問題を感じない訳であるだけに個人的に惜しい。この倒置法の多さは原文の修辞というよりは訳者の意図的なこだわりに思える。事実、奥彩子の訳は倒置法が少なくてごく自然に読める。

なお、「庭、灰」という印象的なタイトルは帯にもあるように(帯の装画は森に佇むエドアルド・サムだ)、本文中の以下の文章がある。

だが、ディンゴは僕の父に敬意を抱き、父のことが好きで、父の崇高な汎神論的態度をけっして忘れなかった。父の出発を前に一晩中、ディンゴがぞっとするほど痛々しく遠吠えしたという事実がそれを物語っている。失ったものがどんなに大きいかを理解し、家の中庭に灰のように降り積もる静けさを予感していたのだ……。
146P

犬の使い方がなかなかに卑怯だけれどそれは措くとして、訳者の山崎佳代子は父の消失が「灰」に、家族、命、ささやかな営みを「庭」に象徴させている、と見ている。「砂時計」の訳者奥彩子は「庭」を母及び「生の方向」、「灰」を父あるいは「死への方向」として、対照的な二つの方向を指していると論じていてこれも説得的。
ダニロ・キシュの自伝的三部作における『庭、灰』の位置(PDF)
なお、他にもいくつかのかなり丁寧な論考がネットで読める。
CiNii 検索- 奥彩子
奥氏は1976年生まれのかなり若い研究者で、本書の解説には奥氏によるキシュ研究書が近く刊行されるとある。と書いたところ、既に刊行されているのを知った。松籟社のサイトにもAmazonにも情報がないけれど、bk1にはデータがあった。
境界の作家ダニロ・キシュの通販/奥 彩子 - 小説:honto本の通販ストア
同名の博士論文を書籍化したもの(にネットでも読める論文が併録されているかも)だと思うけれど、しかしこれ高いなあ。

◆〓本のシャワーにさらす肌〓◆
東大で行われたキシュシンポジウムについてのレポートを中村びわさんが書いておられるのでリンク。しかし、山崎佳代子、奥彩子、沼野充義、とかオールスターという感じだ。「死者の百科事典」で帯文を書いている柴田元幸もいて豪華。

ここで柴田元幸が英訳された短篇を朗読しているように、キシュにはまだ短篇集が二冊と遺稿集が未訳で残っているので、その翻訳が出ないかなと思う。エッセイをのぞくと、それで小説作品はすべてという寡作の作家だった。



キシュの伝記的事実と歴史的背景については「砂時計」の訳者奥彩子による簡潔な説明があったので、ここに引用する。

そこで、まず、三部作に共通の基礎となった作者の伝記的事実と歴史的な背景について簡
単に述べておくと、ダニロ・キシュは、1935年、ユーゴスラヴィア北部ヴォイヴォディナ地方のハンガリーとの国境近くの町スボティツァに生まれた。父は45歳、母は30歳。父エドゥアルド・キシュEduard Kisはユダヤ人で、ハンガリー南西部の農村ケルカバラバシュの出身。母ミリツァ・ドラギチェヴィッチMilica Dragicevicはモンテネグロ人のセルビア正教徒で、モンテネグロツェティニェの生まれである。二歳年上の姉ダニツァDanicaがいる。翌年、一家はヴォイヴォディナの中心都市ノヴィサドに移った。
 ヴォイヴォディナはオーストリア・ハンガリー帝国の旧領土で、第一次世界大戦後、ユーゴスラヴィア領となってからも、ハンガリー王国の政治状況の直接的な影響をこうむる地方であった。ハンガリーでは、1937年10月、ファシスト団体、矢十字党が結成され、1939年5月、第二次反ユダヤ法が成立する。そして1939年11月、第二次大戦の勃発の直後、日独伊三国同盟に加入。1941年4月、ドイツ軍がユーゴスラヴィアに侵攻し、これを降伏させると、ハンガリーはヴォイヴォディナを再併合する。1941年7月には、第三次反ユダヤ法が施行されて、ユダヤ人とキリスト教徒との結婚が禁止される。こうして、反ユダヤ主義の機運が異常に高まるなか、1942年1月21日から25日にかけて、矢十字党はハンガリー警察と組んで、ノヴィサドで多数のユダヤ人とセルビア人を殺害する事件を起こした。人々が「冷えこんだ日々」と遠まわしに呼ぶことになった虐殺事件である。
 キシュの両親は、第二次反ユダヤ法の施行に先立ち、息子にセルビア正教の洗礼を受けさせた。この法律が、ユダヤ人とキリスト教徒から生まれた子供について、息子は父の宗教を、娘は母の宗教を継ぐと定めていたからである。『出生証明書(短い自伝)』(1983)には、「四歳のころ、ハンガリーで反ユダヤ法が公布されようとしていたとき、両親はノヴィサドの聖母被昇天教会で僕に正教の洗礼を受けさせた。それが僕の命を救った」と書かれている(4)。キシュの父は、「冷えこんだ日々」の殺害を奇跡的に免れて、故郷に避難する。しかし、やがて、妻と子供たちから切り離されて、近くの町ザラエゲルセグのゲットーに住むことを強制され、二年後の1944年、ついにアウシュヴィッツに送られて、消息を絶った。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38986/1/50-001.pdf