TOKON10ブログに「東京SF大全29『白暗淵』」を掲載して頂きました。

日本SF大会の公式ブログで展開されている「東京SF大全」に拙稿を掲載して頂きました。
東京SF大全29・30 『白暗淵』『終着の浜辺』 | TOKON10実行委員会公式ブログ

白暗淵 しろわだ

白暗淵 しろわだ

古井由吉「白暗淵」メインに、同じく空襲にあった体験を持つ作家としてヴォネガットの「スローターハウス5」と比較したりしなかったりした文章です。このブログに書いた「白暗淵」、「やすらい花」その他の文章を切り張りしたものを土台に、ヴォネガットや空襲の話、戦争体験のことを加えて大幅に増補したものになっています。

しかもなんとバラード、ディッシュ等の訳で知られる増田まもるさんのバラード「終着の浜辺」論と同時掲載です。なんということでしょう。しかし、「夢幻会社」は傑作だなあ。

終着の浜辺 (創元SF文庫)

終着の浜辺 (創元SF文庫)

基本的に新進のSF批評家さんが書いているところなんで私とかすんごい場違いな上に、東京SFだっつってんのに古井由吉を題材にするとかむやみに冒険的ですけど、まあ、ヴォネガットをからめてなんとかそれっぽくはなかったかも。
声を掛けてくれた岡和田晃id:Thornさんや、渡邊利道id:wtnbtさんも書いてます。
岡和田さん特別掲載:東京SF論『真・女神転生』をめぐる外挿法(エクストラポレーション)の射程 | TOKON10実行委員会公式ブログ
渡邊さん大阪SF大全4 『日本アパッチ族』 | TOKON10実行委員会公式ブログ


以下、補足というか。

ヴォネガットに一言も触れていなかった第一稿を書いたときに、さすがに東京大空襲にかんする記述がWikipedia頼りというのはないな、と思っていくつか文献を当たった。拙稿の参考文献は

15歳の東京大空襲 (ちくまプリマー新書)

15歳の東京大空襲 (ちくまプリマー新書)

東京大空襲―B29から見た三月十日の真実 (光人社NF文庫)

東京大空襲―B29から見た三月十日の真実 (光人社NF文庫)

この二冊は非常に面白い。おすすめ。
関連ありそうなところを拾い読んだだけなのは以下。
アメリカの日本空襲にモラルはあったか―戦略爆撃の道義的問題

アメリカの日本空襲にモラルはあったか―戦略爆撃の道義的問題

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

東京大空襲の補足のあたりは無理矢理詰め込んだ感があって、あれ以上分量を増やさないように、書いては見たものの削った部分をここに載っける。

 精巧な日本家屋を砂漠に建造してまで試験した新型焼夷弾M69は、当時世界有数の人口密集地、浅草区深川区を含む地域を焼き払い、前述したような被害を与えた。これらの作戦は、戦争終結を早めるためという名目のもと、戦意喪失、軍需工場及びその労働者への攻撃、都市機能の麻痺などを目的にして行われた。当時にも一般市民に対する爆撃への批判はあったものの、日本政府はすべての市民に軍事協力をさせており「日本に一般市民は存在しない」として正当化された。

書いていてどうしようか迷ったのがカーチス・ルメイの扱い。

文中にもあるけれど、東京大空襲を指揮して「鬼畜のルメイ」などと呼ばれ、さらには戦後に日本から勲章をもらい、「ベトナム石器時代に戻してやる」とか「博士の異常な愛情」でモデルにされるなどきわめて象徴的な人物。

ネットを探してみるとまあ、いろいろ興味深い話が書かれてはいるのだけれど、どうにも典拠のないものが多くて、どこまで本当か分からずおいそれと使えないネタばかりだった。やや伝説化しつつあるのではないかと思える。

ドレスデン爆撃と東京大空襲になにかつながりはあるのかな、と半藤一利の上掲書を読んでみると、ルメイはドレスデン爆撃に影響を受けて「焼夷弾による都市攻撃」を立案した、と書いてあって、これはヴォネガット古井由吉を結びつけるのに使えると思った。で、典拠は何だろうかと参考文献を見ると、上掲カーの本があり、他は皆日本人の著述なので、アメリカ側の動きを突っ込んで書いていそうなのはこれだけのようだったので読んでみると、確かにルメイについて書いてるところがあった。ただ、そこにはドレスデン爆撃の新聞記事に目を通した、という風で、どこまで密接な関連があるといえるかは微妙だなと思われる。

ゲルニカ重慶ドレスデン、東京と都市への無差別爆撃、戦略爆撃の流れがあるので、ルメイ一人がどうこう、というわけではないようだ。「空爆の歴史」の荒井信一は無差別爆撃の歴史において、ルメイ一人突出した存在として見る見方を批判している。


本文に関連することでいえば、「十五歳の東京大空襲」では著者は「ほぼ五十年近く、三月十日の空襲の夜の、やっと命を拾った話を誰にもしませんでした」と語っている。ぼろぼろと人が死んでいき、モノのようにしか見えない死体のなかをさまよい(焼死体が積み上がった写真が挿入されているけれど、ただの黒い何か、にしか見えない)、そんな人々にまるで何も感じない「非人間的」な状況を生きのびた著者は、語らなかった理由をこう説明している。

言葉にだしていうと、やや自慢話というか、勇敢なる少年のように自分を美化して語っているような気になってくるからです。
 ものすごい危険ななかにあって、それに負けずに一瞬一瞬に賭けた懸命な生き方、それをは紙一重で、勇気や立派さともなりそのまま陶酔しやすい危険につながっています。危険をものともせずに生きぬき、そしてそのとき腹の底から感じた生甲斐のようなものは、戦争そのもののあやしげな魔力と結びつきやすいようです。戦争体験を語りつぐ、と簡単にいいますが、そのことのむつかしさはここにあると思っています。

非常に厳しい自省が感じられる発言で、自身にまったく非のない空襲被害を語ることすら五十年封じてきたというのは、ことの難しさを思い知らされる。加害体験ともなればさらに、だろう。

いやしかし、半藤氏の語り口は軽妙かつ温和で、自身をユーモラスに表現するのを忘れない。残酷な話もあるのだけれど、十五歳で体験した、自身の恋愛や父の浮気など、戦時中のさまざまなエピソードがどれも面白くてこの本はとても良いです。「昭和史」は読んでないのだけど、この語り口ならあれだけ人気になるのもよくわかる。