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- 作者: ケシ・イムレ,桑島カタリン
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桑島健一「ケシの人と文学」……3
ケシ
「エリジウムの子供たち」桑島カタリン訳……25
杉浦明平「わたしの作品論」……433
月報
小田善一「黄色い星」
石本礼子「あるユダヤ人一家の思い出」
ケシ・イムレ Keszi Imre (1910-1974)
ブダペスト大学でハンガリー語とドイツ語を学んだ後、中学校教師として働く。在学中はブダペスト音楽大学でも作曲を専攻し、コダーイの門下生だった。教師として十三年間働いてから、第一短篇集『期待の饗宴』を出版する。この古代を舞台にしたアイロニカルな作品は「好戦的な反ファシズムの文学」だったらしく、刊行の翌月にハンガリーを占領したドイツ軍によって「危険思想の書」として「粛正」されてしまった。次の作品は8年後の1952年『土台の石』で、戦後ハンガリー文学の代表作とされ、ドイツ語に訳され東ドイツで刊行された。戦後、ハンガリー文学が国際舞台に登場したのはこれがはじめてだという。その後、戯曲を書いて成功したのち、初めての長篇*1『エリジウムの子供たち』を刊行し、一躍評価を高めた。また、63年に刊行されベストセラーとなった『終りのないメロディ』は、ワーグナーの生涯を扱ったもの。戦前から活躍している作家で、寡作ながらも評価の高い作家のようだ。
エリジウムの子供たち "Elysium" 1958
天上の至福は誰にとっても同じものであり、天上の楽の音はあまねく鳴り響くのだから、彼岸(あのよ)では人間は数字なのだった。336P(ルビを括弧に)
本文が四百ページあり、この全集のなかでは単独でもっとも長い。舞台・時系列は前巻の『ブダペストに春がきた』と重なっており、1944年、ブダペストでの敗戦前後を扱っている。『ブダペストに春がきた』でも、連行され虐殺されるユダヤ人を探し求める人物がいたけれど、今作では連れ去られたり、連れ去られるのではないかと恐れ隠れ住むユダヤ人の様子が特に大きく描かれている。
作品は第一部と第二部に分れている。第一部は、街中でとつぜん憲兵に呼び止められた少年ギュリカが、そのまま連行され、貨物列車に乗せられて強制収容所へと向かう様子と、息子を連行されたことに気が付いた両親とその知人らが、ブダペスト中を走りまわって、なんとか息子を取りもどそうとするまでが描かれる。時は1944年の夏。およそ一週間ほどの期間が第一部。
第二部は、エリジウム・ラーガー(ラーゲリのことか)でのギュリカ少年の暮らしと、戦火のブダペストでユダヤ人らが暮す様子を描く。連行された先での何らかの実験をされている子供たちの共同生活に対して、つねに連行の恐怖にさらされ神経を磨り減らされていく極限状況とが並行して語られている。
敗戦直前のハンガリーのユダヤ人がいかなる運命を辿ったのか、ということを収容所の少年とブダペストで匿われた家族らを軸に描き出す大作となっている。
ヒューマニズムをめぐる抗争
第一部、少年が連れ去られた後、ユダヤ人の両親に代って、元内務省の参事官、ジャンボキ氏や陸軍中尉のテルダークといった人が、ユダヤ人迫害へ反対する立場の人物として登場し、特にジャンボキ氏はギュリカの父親セケレーシュの親友としてブダペスト中を奔走することになる。テルダークはユダヤ人の老画家メニヘールトを自家にかくまうなど身近のユダヤ人を助けるために行動を起こしている。
しかしその行動は、当時の親ナチス政府の役所的な形式主義だったり、犯罪的な怠惰だったりという不条理、不合理の壁にぶち当たる。参事官ジャンボキが、労働力として使えるはずもない少年ギュリカが連れ去られたのは協定違反でおかしい、解放してくれ、と軍大佐にかけあったところ、大佐からこう返される場面がある。
「とおっしゃると、連合国の考えどおりに、子供さんの代りに、もっと肉体労働に向いた人間を用立てるということになりますね(中略)協定に基づいて連合国側には欲しいだけの人間を揃える権利がありますし、われわれとしてはその権利を満たす義務があるのです」133P*2
そして、ギュリカ少年の引き渡し要求に対し、それはジャンボキが誰か別の犠牲者を責任を持って用意することと一緒くたにして、要求を事実上無効化する手法で反撃される。
なぜ少年を連行するのか、と力ないジャンボキの疑問に対してこの大佐は「ユダヤ人なんですよ!」と返す。どんな子供だろうと、「小さな蛇は蛇ではないとおっしゃりたいんですか?」という。そして、軍人は自分の仕事の本質がヒューマニズムとの戦いだということ、戦時下、「腕を麻痺させられ」るヒューマニズムがいかに害悪かということに熱弁を振るう。
「(前略)ヒューマニストを骨抜きにするには二者択一の前に立たせればいいんです。ヒューマニストを殺すには武器なんかいりません。甲にするか乙にするか、どっちか一つを選べといえばいいんですよ」
ジャンボキは立ち上がって、低い声で反駁した。「それは違いますよ、大佐! この場合、甲にするか乙にするかなんてことはありません。この情況全体が根本から間違っているのです。なんのかんのといったって、すべては詭弁にすぎないんです。私が優柔不断なのではなく、はっきりしないのはあなたの論理であり、行動なのです。あなたが下す命令、それもあなたの立場から下せるような命令全部が不備なのですよ。(後略)」139P
この議論はとても示唆的だ。作中で設定されている問題は、一時期有名になった倫理学における「トロッコ問題」そのままだ。ここで、トロッコ問題を設定しているのが反ヒューマニズムの親ナチス軍人で、それに反駁して設問の設定自体が問題だとしている点は面白い。こうした極限状況を設定する思考実験そのものが、時にヒューマニズムを揶揄するために使われる状況への批判となっている。
歪められたユダヤ人
親ナチス政権下、そして戦火のブダペストという極限状況では、人は隣人をユダヤ人をかくまっていると密告し、ユダヤ人は身分を偽って身を隠し、苛烈なストレスにさらされたユダヤ人はどんどん精神的に不安定となっていく。この作品で描かれているのは、解説に指摘されてもいるように、そうした極限状況での人の醜さでもある。特に読者のいらだちを呼ぶと思われるのは老画家メニヘールトで、かくまってもらっている相手に対し、ギュリカ少年の救出に奔走して目立つと、自分が危ないから歩きまわらないでくれと頼み込んだり、自分をかくまった軍人が不在の間の妻に関係を持つように強要しようとしたりと、身勝手かつ嫌らしい人物の相貌を露わにする様を描いている。
しかし、これはユダヤ人の本性がそういう醜いものだと読んでしまってはならない。必要なのは、そうした極限状況そのものを問い返す観点のはずで、その点、ジャンボキの反駁は、メニヘールトの陥った醜悪さを本質主義的に読むことの批判として機能するだろう。
歪められた情況によって人間自体歪んだ姿になってしまったのである。368P
戦時ブダペストの場面は、全体として、極限状況(非常時、戦時下、あるいは例外状態?とも言い換えられよう)のなかで、人はどう生きていけるか、と問い掛けられている感覚抜きには読むことができない。大佐になるか、参事官になるか、メニヘールトになるか。ユダヤ人をかくまう隣人を密告する市民となるか、あるいは無垢なギュリカ少年となって収容所へ送られるか。あなたは誰か、という問い。
天国の子供
収容所へ送られる少年の場面は、対照的に、自分の手を引いてくれた名も知らぬ女性への思慕や、収容所で出会った少女への好意といった、少年の生活する情景が瑞々しく綴られており、ちょっとしたレジャー施設での一夏の思い出のようにすら読める。しかし、エリジウム・ラーガーの近くの建物からは、
「あすこで焼かれているのは人間なんだよ。悪くて、狡くて、そして卑怯な奴たちさ。あすこが『タルタロス・ラーガー』ってわけさ」
風が吹いて来て、脂肪の焼ける重い、濃い煙がみんなの鼻の中に入って来た。285P
というように、人間を焼いた煙が吹きだしていたり、人体実験の施術を受けると特例で湖畔に行けたり、片方が死んだ双子のもう片方が実験の都合で殺されたりする場面があり、少年の目からはあまり深刻には見えないけれども、双子の人体実験を行う収容所ゆえのおぞましさは隠れてはいない。
死を間近に見据えるなかでの人々の生活が、一方では明るく、一方では陰鬱に、対照的なコントラストのなかで描かれる、ハンガリーのホロコースト文学。重い読後感を残すことは間違いなく、同時に極限状況とは過去の歴史ではないことを実感させられる。
しかし、戦火のブダペストを描いた作品がことのほか多く、訳された作品の偏りかも知れないけれども、いかにこの歴史が現代ハンガリー文学での大テーマだったのかがわかる。とはいえ、ほとんどがブダペストを舞台にしている偏りというのはある。
月報の小田善一氏の原稿は、まさにその当時ハンガリーに滞在していたマスコミの人によるもので、多数のユダヤ人が周囲から消えていくのをまざまざと体験した様子が書かれている。『エリジウムの子供たち』のミニチュアのようなエッセイ。
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ナチスドイツもひどかったが、そのあとにきたソ連の解放軍もひどかった。ガビの家はすっかりソ連軍に略奪された。フランスの画家が描いたというガビの曾祖父の肖像画もソ連軍に没収された。「立派なハンガリー農民」という題の絵だったが、今はソ連の美術館にあるそうだ。どうせ返してはくれないだろう。279P
ここまでのハンガリーの作品群では、ソ連軍のブダペスト解放については書いても、略奪には触れていなかった。知られていなかったとは思えず、口伝えには周知の事実だったのではないか。やはりソ連への悪評は検閲されていたか、検閲をおそれて書くことがなかったのだろう。
ブダペシュト史
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