「チャップリンですら思いつかないほどのグロテスクな喜劇」 ボフミル・フラバル - わたしは英国王に給仕した

わたしは英国王に給仕した (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

わたしは英国王に給仕した (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

現代チェコ文学の代表的存在といわれる(前回も書いたなこれ)ボフミル・フラバルの長篇。「プラハの春」ののち、作品の公刊が阻まれた時期に書かれたもののため、執筆時期はあいまいだけれど、「あまりにも騒がしい孤独」と同時期の70年代ごろの作品だという。

チェコという「小さな国出身の小さな男」、名字も「子供」の意味があるヤン・ジーチェという駆け出しの給仕人を語り手に、彼の成り上がりと没落の物語を、マサリクの共和国、ドイツの保護領となったナチス時代、社会主義政権下のスターリニズム時代という激動のチェコ現代史を背景に、人間味あるユーモアに満ちた悲喜劇のうちに語り倒した傑作。

「あまりにも騒がしい孤独」は幻想的、幻視的で陰鬱な調子が強かったけれど、こちらはもっとオーソドックスな構成になっていて、非常にポピュラーな魅力のあるものになっている。なので、東欧文学に興味のある人にもない人にもお勧め。とにかく、良い小説。

ユーモラスな語り

主人公ジーチェの語りは、とにかく水の流れるように多彩なエピソードをのべつ幕なしに改行もなしに喋り続け、*1とどまることを知らない。「百万長者」になりたいと願うジーチェが、停車駅で釣り銭を渡すのにわざと手間取ることでお釣りをせしめる小狡いやり方を学ぶ話とか、小銭を通路にばらまいて大人たちが必死にこれは自分のものだと言い合い喧嘩になる様を見て、人が何で動くのかを学ぶ話などが滑稽な調子でつづられていく。

エピソードを紹介していくときりがないけれど、特別気に入ってるのはジーチェの友人ズデニェクの叔父にまつわるものだ。ズデニェクの叔父は元軍隊の楽団長で、有名なワルツやギャロップを作曲したのだけれど、作曲者は誰かなど知られていなかった。ジーチェとズデニェクが町を歩いているとき、その叔父のワルツを演奏している軍楽隊を見つけたズデニェクは、有り金をすべて払うからと頼み込んで、家で薪割りをしている叔父に気づかれないようにまわりを包囲して、サプライズで叔父の作った曲を一斉に演奏させた。楽隊に囲まれた叔父はその時自分が死んで天国にいるのだと思ったという。わずか二ページのものながらとても感動的なエピソード。

もうひとつ、ある事件からジーチェは自殺せんばかりに追いつめられ、タクシーに乗って人気のない公園まで行くのだけれど、そこでのタクシー運転手とのやりとりが傑作。

「いえ、わたしは散歩なんかに行くんじゃありませんよ……たぶん、首を吊りに行くんですよ」けれども運転手は真に受けず、「本当?」と笑った。「どうやって死ぬの?」わたしは何も持っていなかったので、「ハンカチで」と告げた。すると運転手は車から降りてボンネットを開けるとがさがさと何かを探しはじめ、腹帯のようなロープを街灯の光に当てると、にっと笑いながら結び目をつくり、ロープで輪っかをつくるとにこにこしながら助言してくれた。正しく首を吊る方法を……。それから帰り際に窓をわざわざ開けて、「幸運を!」と叫んでから出発し、ライトを点滅させて挨拶をし、森を出る時にはクラクションまで鳴らすのだった……。116-117

このきびきびとした展開がすばらしい。「幸運を」とクラクションのやたらと明るい調子で耐えきれず吹き出してしまった。運転手面白すぎる。でもこの人がおかしいなと気づいてホテルの方に問い合わせたことで給仕長がジーチェを見つけることができたので、いい人。

「グロテスクな喜劇」

こういう人間味と滑稽さ、ユーモアが全篇にあってとても楽しいのだけれど、中盤あたりから物語は民族対立、戦争、社会主義体制を背景にした「グロテスクな喜劇」として展開していくことになる。
チェコ、スロヴァキア、マサリク - Close to the Wall
上記の記事も参照してほしいけれど、1930年代のチェコではズデーテン・ドイツ人問題が高まってきた頃らしく、チェコ人とドイツ人に軋轢が広がっていた。このことは後にズデーテン・ドイツ人の保護を名目にナチスの侵攻を招き、チェコスロヴァキア共和国がドイツによって保護領とされ、解体される結果をもたらす。

ジーチェのホテルでも、ドイツ人に対してドイツ語ができないふりをしたりする人ばかりで、ドイツ人に給仕するのはジーチェだけとなりつつあった。そんなとき、映画館で靴を踏んづけた女性にジーチェがちゃんとドイツ語で謝ったことをきっかけに、リーザというその女性と関係を深めていくことになる。しかし、リーザが彼のホテルに訪れた時、ドイツ人を毛嫌いする同僚たちの失礼なやり方に抗議したところ喧嘩となり、一方的にクビを宣告され、プラハ中に悪評が広まり職を失うことになる。そしてチェコはドイツに占領される。

こうして、ジーチェの存在はふたつの民族の間で引き裂かれていく。彼はリーザと結婚をするのだけれど、元々ドイツ人将校たちに人気のあったリーザと結婚するのがチェコの(三回の兵の徴集にも落ちた)小さな男、だということでほぼ無視の扱いを受ける。チェコ人に背を向けながらもドイツ人にも無視されるわけだ。

わたしはチェコ愛国者が処刑されている時に、ドイツ人女性の体育教師と結婚できるかどうかナチスの医者の検診を受け、ドイツ軍がソ連軍と戦火を交えている時に結婚式を挙げ、「旗を高くかかげよ、隊列を詰めろ」を歌い、国中の人が苦しんでいる時にドイツ軍や親衛隊に給仕するドイツのホテルや宿で快適に過ごしていた。152-153

機知と機転によって成り上がる物語は、歴史の激動のなかで居場所をなくした男の悲喜劇の様相を呈することになる。

戦後、共産党による社会主義体制が成立すると、政策として百万長者が財産に応じて収容所に入れられる。戦争特需で成り上がったジーチェは、戦前からの百万長者のなかにあって一顧だにされない。ドイツ人を擁護したことでプラハのホテルを追い出され、リーザとともにドイツ人たちにも無視され、またもやチェコの金持ちたちの間でもいないことにされる。

この社会主義時代百万長者を収容した施設での顛末もまた怒濤の滑稽さで、職員に書類の書き方を教える百万長者たちは、そこで居心地の良い状態を作り出し、逃げ出さない百万長者たちと怠惰な民兵たちの立ち位置はやがて逆転し、民兵の制服を百万長者が着用し、自分たちを自分たちで監視するようになるさまは、「チャップリンですら思いつかないほどのグロテスクな喜劇」と表現されている。

分水嶺にて

終盤、彼は山の道路補修の工夫として、ジプシー(ロマ)の代わりに働くことになる。この国境近くの山村での生活は、彼に内省の機会を与え、静かに自身の人生を振り返るようになっていく。ポイントは、それまで自慢の種だった「エチオピア皇帝に給仕した」ことと、そのとき賜った勲章が、次第に一種の持ちネタとなっていく様子だろう。同時に百万長者になる、という目標は、このときすでに捨てられている。派手で滑稽な調子はなりを潜め、村の住人とのやりとりや動物たちとの暮らしは、しみじみとした情緒のなかで描き出されていく。

ここで非常に重要なのが、「クラスリツェのはるか先」で彼の使う猟場家が「ドイツ人の使っていた建物」というところだ。他のところでもドイツ人の跡が指摘されるし、解説でも書かれているように、ジーチェが訪れた国境地帯の山、というのはズデーテン・ドイツ人問題の現地、まさにそのズデーテン山地だ。

戦後、ナチス侵攻に対する報復として、住民らによる虐殺、略奪が発生し、政府大統領令による財産没収、強制移住政策がとられ、ドイツ人が追放された後にジプシーや彼のような奉仕活動に従事させられるものたちが送られてくる、そういう歴史をここでは背景に持っている。
ドイツ人追放 - Wikipedia
ベネシュ布告 - Wikipedia
追放されたドイツ人を支援する西ドイツと、タブー扱いするチェコスロヴァキアとで、軋轢を生んでいたこの問題は、体制転換後の1997年に一応の解決を見ることになる、きわめて長い時間のかかる難しい問題だった。70年代にこれはかなり踏み込んだ内容なのではないだろうか。それでなくとも、戦前のドイツ人差別については給仕たちを通じて具体的に書いているし、収容所を徹底して滑稽なものとして描くなど、いわば、チェコ現代史の汚点ともいえる問題が中盤以降の展開でキーとなっている。

地下出版や国外出版しかなかったのも道理だろう。

そして、このチェコのドイツ人問題を描きつつ、それを乗り越えようとする書き方になっていく。チェコとドイツに引き裂かれた彼は、あえて自らその狭間の場に立つことを選ぶ。彼は終盤、もし自分が死ぬことになったら、という話題のなかで、以下のように村の住人に語りかける。

もしここで死んで、噛まれずに残った骨が一部しかなくても、あの小さい丘の上にある墓地に埋葬してほしいと思っています。分水嶺の真上にわたしの棺を置き、時間が経って棺が崩れ落ちたあと、分解されたわたしの残余物が雨で流れ出し、世界の二つの方向に流れていくようにしてほしいんです。その水とともにわたしの身体の一部分が一方ではチェコの小川に流れていき、もう一方では国境の有刺鉄線を越えてドナウに続く小川に流れついてほしいんですよ。つまり死んだ後も世界市民であり続けたいんです。225

ズデーテン山地は、方やドナウに注ぐ南部に流れる川と、チェコから北海へむかう川の分水嶺にあたる。民族においても、川の流れにおいても、文字通り分水嶺にあたっているわけだ。この物語がこの場所で結末を迎えるのは、きわめて自然な流れといえる。



こう書いていると本作が歴史を前面に出したもののように思えるかもしれないけれど、それはあくまで重要な舞台背景ではあっても本筋というわけではない。歴史と民族に関係するところを重点的に取り上げたけれども、これはある一人のホテルマンの成り上がりと没落を自身をも突き放した滑稽な視点で語ったお話、としてチェコ史を知らずとも楽しめるはずだと思う。

ただ、チェコ現代史のさまざまを、ジーチェの人生節目節目に巧みに組み込んで織り上げているため、ジーチェの物語をたどるうちに、チェコの歴史を個人の視点からたどることができる。大きな事件や政治史とは離れた場所で、やはり歴史を背景に持っていることは確かだ。

読んでいる時に気になったのは、途中で出てくるフランス人女性と密会している大統領、って誰のことか、ということだった。第一共和国時代、ドイツが侵攻してくる前なので、マサリクかベネシュなんだろうとは思っていたけど、解説によるとこれはマサリクのことなのだという。マサリクのこの関係は「公然の秘密」だったらしい。荒唐無稽な話のように見えて、実はかなり事実あるいはあり得る話を元にしているらしいことが、訳者の解説で触れられている。

映画にもなっている。予告編だけ見ても、あの場面はこういう絵になるのか、と面白い。

*1:編集段階で適宜改行した旨解説にあり、原文ではほぼ改行していないのではないかと思われる。ページ数の割には密度のある作品だなと思ったけれど、単にほんとうに文字数が多いのだろう