- 作者: サミュエル・R・ディレイニー,大久保譲
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2011/06/22
- メディア: 単行本
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「ぼくたちはある都市に、ある打ち捨てられた都市にいる。いいかい、そこは燃えているんだ。電力はとだえている。テレビカメラやラジオの取材も来られない、そうだろう? だから、外の世界はこの都市のことを忘れている。情報は外に出ていかない。はいってもこない。街じゅう、煙におおわれているってことにしようか? だけど今は炎さえ見えない」(I)92P
叢書「未来の文学」の目玉とも言える、上下二段組二分冊の合計千ページ、原稿用紙換算おおよそ三千枚の大作にして、1975年の発表当時アメリカで七十万部売れたという伝説の問題作。ベローナという災害に見舞われ見捨てられた曇りの都市で、自身の名前を見失った男が都市を訪れ放浪するうちに、男性女性相交わる性的遍歴をたどり、詩を書き、スラムのグループのリーダーとなるなどの過程を経て、そしてまた都市を立ち去ろうとするまでをメタフィクショナルな技法のうちに描きあげる。
年末に予告したとおり、年始休みのあいだに突貫で読み通した訳だけれど、これは疲れる。重いし。波瀾万丈のストーリーというものでもないし、またものや人の動作の描写が細密で、会話のやりとりもまた細かい。さすがに読んでいて長すぎてだれてしまうというのは否めない。つまらないわけではないんだけれども、この長さと重さを牽引するだけの強い魅力がつねに持続するというような作品ではないとは思う。
と苦労したけれども、それだけの甲斐はあったと思う。災害後のスラム都市で、複数のコミューンができている様子や、そこで黒人と白人との境界が崩れていく人種混在社会に、ネイティブアメリカン系らしい主人公が彷徨っていく構図も興味深く、どこかコシンスキの『ペインティッド・バード』のようでもある。そして、第一章タイトル「プリズム、鏡、レンズ」でも提示されている光学的屈折をもたらすガジェット群(シリーズ近刊にはディレイニーの『ドリフトグラス』がラインアップされていて、このタイトルもそう)は、スコーピオンズ(ロックバンドではなく)と呼ばれる愚連隊が、ホログラフ装置のようなものを用いて動物や空想の生き物の幻影を映し出して威嚇したりすることや、都市には二つ目の月や巨大な太陽が現われたりという、虚実混淆の曖昧さをもたらしもする。さらにこの都市では時間が明確にならず、毎日の新聞は年月日が数百年のスパンの中から選んだランダムな日付になっていて、そして主人公もまた後半、数時間から数日にわたる記憶喪失に悩まされることになる。こうして、光学的屈折と認識の屈折が重ね合わされ、幻影、記憶喪失、メタフィクション技法へと通じ、最終章の断片化した実験的な構成へと展開することになる。
特に話題を呼んだらしい、バイセクシャルの主人公の男女を問わない性遍歴の様子は随所に差し挟まれ、さらに詩を書くことを見出し、それがベローナ内で出版されるという展開は、ゲイにして黒人のSF作家ディレイニーの物語ともいえ、解説で巽孝之はジョイス『フィネガンズ・ウェイク』を例示しているけれども、ジョイスを読んでいないので私はむしろプルースト『失われた時を求めて』を連想した。作家が作家になるまでの自伝的作品を書くことなど珍しくもないのだけれど、円環構造と長大さとの三題噺的な意味と、文学を光学器械と見るプルーストの記述等から。
この自伝的構成や光学的ガジェットといった特徴は、過去の作品群との照応があるのだろうし、その点ディレイニーを『ノヴァ』しか読んだことがない読者としては、読みこなす素地がそもそもないのでアレなんだけれど、ベローナを立ち去ろうとするくだりから小説冒頭の一文と接続し、しかもそれが単にループするのではなく、裏が表になるようなメビウスの環のごときねじれた円環構造を形成する締め方は良かったと思う。
巽孝之による解説でも触れられているのだけれど、そもそもこの『ダールグレン』って何か、という謎がある。この言葉は主人公が拾ったノートにある名前のリスト中に見出されるのが最初だ。羅列の中は「ウィリアム・ダールグレン」とあり、つまりある男性のファミリーネームなわけだけれど、最後までこの名前は謎として残される。ただし、注意深くない読者の私にもすぐ分った程度には、ダールグレンが誰なのかは分りやすい。とはいえ、ダールグレンが誰かというのがどういう意味を持つのか、ということは推測するしかない。主人公が拾ったノート、詩は本当に主人公が書いたのかという疑惑、「ベローナタイムス」、最終章。そういう謎を、ダールグレンということから作品を考え直してみると、じつはこれは……? という疑問が浮かんで、そこで本書を見返してみるとこの黒一色の装丁――文字は光の当て方を変えないと見えず、そこで浮かび上がってくるのは「ダールグレン」――というギミックになっていることを発見して、そういうことか! となるまでが本書の読書となります。光学的屈折というモチーフが装幀にまで貫かれている点で、きわめて一貫した作りになっている。
国書刊行会の黒い本と言えば『セリーヌの作品』があって、いやあ国書さんは黒い本が好きだなあと思っていたら、内容と密接に関連した仕掛けになっていたのには驚いた。
なんなら、セリーヌみたくページ縁も黒く染めたら、とも思うけれどさすがにコストがかかりすぎるか。箱入り、布張りの『セリーヌの作品』は、造本がいろいろ凝っていて集めたくなる。『北』しか持ってないけれど。
分ったような口を利いているけれど、作中さまざまに仕掛けられているだろう謎やヒントの類は、かなり見落としていると思うし、よく分らない部分も多いのだけれど、そういう感じで得心がいったのでひとまず読み終えたという満足感はあった。ただ、さすがにもう一周するのはきついので、詳細な謎解き論考でも出ないかなとは思う。
事前に知っていた山形浩生の「ナルシスティックで長いだけ」という評が不安ではあったけれど、私はそこまで読み込めるわけでもないので個人的には特に気にならないものだった。やっぱり長さが一番の問題かな。あと、今読むとポルノチックな描写にインパクトがあるわけではなく、『幻視社第七号』で岡和田さんがギブスンの序文を引いてホームグロウン・テロとの関係を示唆しているように、バラードの「病理社会の心理学」三部作のような、閉鎖されたような都市と内部での暴力という問題につなげて見ると面白いかも知れない。
そういえば、解説では「ダールグレン」の連呼を主人公が音節を切り間違えて「グレンデル」と誤解していたことを説明するくだりでこれが叙事詩「ベーオウルフ」に出てくる怪物にしてカインの末裔だということを「連想しない読者はいまい」と言うんだけれど、わたしはまったく思い至らなかったので、おいハードル高いだろって思ってしまった。ただし、イギリスのプログレバンドMarillionによる初期の楽曲に「Grendel」という十八分に渡る大作があり、それは何度か聞いていたので単語自体には覚えがあり、おそらくこの曲を聞いた時にはこれが「ベーオウルフ」に基づくもので、しかもこれが退治されるグレンデルの視点から歌詞が書かれているという解説を読んでいたはずなので、単に「ベーオウルフ」を読んだことがないからMarillionの曲のネタだということを覚えていなかっただけだった。
初期MarillionのGenesisフォロワーらしさが典型的に出ている曲との評判で、かぶり物ありの演劇的パフォーマンス含めて本当にそう。ラスト近辺ほとんど「ごはんですよ」こと、「Supper's Ready」じゃねーか。シングルのカップリングで、企画盤や最近のボーナスディスク付きの1stアルバムなどでしか聞けないので、ややマイナーな曲か。しかし、『ダールグレン』のダールグレンをグレンデルと聞き違えることと装幀のギミック、それとマリリオンの「グレンデル」が退治される怪物の側からの逆の視点による詞、という符号ぶりは偶然だろうとはいえ面白い。ただ、偶然ではないかも知れない。グレンデルのアナグラムとしてダールグレンという名前が作られたとしたなら。もっと言うと、DelanyとGrendelとDhalgrenはどれも似ていて、結局はダールグレンってディレイニー自身なのかなってところはある。そこら辺が山形氏の「ナルシスティック」ということだろうか。読み込んでいくとどれも結局ディレイニー自身のことに行き着くようになっている、という。
音楽繋がりでどうでもいいことだけれど、作中で白人娘をレイプしたとして渦中の人物となっている屈強な黒人男性(修道院だったかが裸のポスターを作って配布している)の名前はジョージ・ハリスンという。もちろんビートルズのギタリストを引用しているのだと思うのだけれど、作中で現われる二つ目の月には彼の名前が冠され、後には巨大な太陽が現われるという展開に、ジョージの代表作「Here Comes The Sun」が引用されていないだろうか?
山形評以外では、こちらのブログが色々な指摘をまとめていて参考になる。
■感想 サミュエル.R.ディレイニー『ダールグレン:Dhalgren』: ★究極映像研究所★