現代東欧文学全集6 コスモス 他 ゴンブロヴィッチ〈ポーランド〉

現代東欧文学全集〈第6〉 (1967年)

現代東欧文学全集〈第6〉 (1967年)

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コスモス―他 (東欧の文学)

コスモス―他 (東欧の文学)

第六巻。ポーランドの部その一、1967年刊、第8回配本。「ポーランドアヴァンギャルド三銃士」*2の二人を収録し、この全集のなかでも人気の高い巻ではなかろうか。ただ、シュルツの『クレプシドラ・サナトリウム』が抄訳で、改訳を経た『シュルツ全小説』が入手しやすい現在、他で出ていない『コスモス』目当てにこの巻を読む場合が多いだろう。月報著者がなかなか意外で、デビューしたばかりの日野啓三が書いてたりする。

工藤幸雄「異端のポーランド文学」……3
シュルツ
肉桂色の店……27
クレプシドラ・サナトリウム……119
ゴンブロヴィッチ
コスモス……185
篠田一士「わたしの作品論」……339
月報
日野啓三「シュルツと反リアリズム文学」
豊崎光一「妄執のコスモス」

ブルーノ・シュルツ Bruno Schulz (1892-1942)

ウクライナのドロホビチで、織物店を営むユダヤ人の家系に生まれる。父の名はヤクブで、職業もあわせて作中でも同じだ。画家を志して美術学校に行くものの、兄の反対によって中退、建築科に通うもこれも学費がなく退学した。そして、第一次大戦開戦の翌年、父が病死する。石油会社の兄が病死し、また彼も病身だったため、婚約が破談になった。絵画・手工の教師として働くかたわら創作をはじめ、ヴィトカツィと知己を得る。また、シュルツを世に出す助けをしたのは、ゾフィア・ナウコフスカという女性作家で、34年頃からシュルツの作品が雑誌などに載るようになった。第二次大戦のなか、彼の住む町はドイツの支配下におかれ、学校は閉校させられ、窮迫と飢えのなか、神経病と腎臓結石に悩まされていた。そんなおり、1942年11月19日、「黒い木曜日」と呼ばれる日に、シュルツは路上でゲシュタポに射殺される。題名だけが知られるドイツ語で書かれた中篇など、37年から38年ころの多産な時期の未発表の作品は、喪われてしまったという。

肉桂色の店 "Sklepy cynamonowe" 1933

13篇からなる短篇集だけれども内容には関係性があり、序盤の内容を受けての終盤があるので、連作短篇集と呼ぶべきだろう。また、登場人物の名や関係性などが『クレプシドラ・サナトリウム』とも共通している。

多少の評判を聞いたことはあったので、難解さや幻想性を予期して読んでいると、序盤はその比喩に満ちた詩的な文体とあわせて、まるで散文詩のような感触に満ちており、意外な感を持った。

しかし、次第に顕著になるのは父の奇行だ。屋根裏部屋のようなところで鳥の飼育をはじめて下女アデラに始末される一事や、造物主(デミウルゴス)、創世の理論を語りだすなど、奇妙な行動が目立ってくる。またしばらく少年期の回想のような抒情性をもった短篇などがあり、しかし、「あぶら虫」で話は一気に幻想味を強めてくる。

それは父の天才的な時期のすばらしい開花のあとにきた灰色の時代の日々であった。98P

という文章から始まるこの短篇では、次第に父の様子がおかしくなり、身体の節々があぶら虫を思わせる変貌を見せ始め、ついにはあぶら虫――ゴキブリになりきってしまう。

そのときから、私たちは父を見はなした。あぶら虫との類似は日を追って明瞭の度を加えた――そして父はあぶら虫に変わった。
 私たちはそのことに慣れはじめていた。父を見かけることは、ますますまれになり、父は何週間もどこか自分のあぶら虫の道に消えていた――私たちは父を見わけることをやめた、父は完全にあの黒い、不気味な種族と一体になったのだ。101P

そして母は、私にこう語りかける。

前にもいったじゃないか、おとうさんは行商人になって国じゅうを旅行しているんだって。でもね、いいかい、ときどき夜には家にもどってきて、明け方にならないうちに遠くへ出かけてしまうのさ。101P

解説にあるようにまるでカフカの『変身』を裏返しにしたような奇妙な変身譚となっており、そしてその変身が日常に溶け込んでいる。次に来る短篇「疾風」でも、ペラジア叔母がなぜか急に激怒し、変身をはじめる下りがある。

怒りの発作のなかで、彼女はばらばらに解体し、小さくなり、百匹の蜘蛛となり、床の上にちらばって黒い、ぎらぎらと光る狂気のあぶら虫の疾走に分かれるのではないかと思われた。そうなる代わりに彼女はにわかに小さく、縮まっていき、そのあいだにも呪詛と雑言をわめきちらすのであった。(略)行きついた一隅でますます小さく小さく縮んで行き、黒ずみ、燃えてちぢかまった紙のようにまるまり、一かけらの灰燼、細かな灰となり、そして無に帰した。106P

このような急激な事件が起こったのにもかかわらず、結末を見とどけると皆は安堵して自分の仕事に戻ってしまう。いったいこれはなんなんだ。

そして次の短篇では、父が育てていた多数の鳥の帰還が父を有頂天にさせたものの、次々と墜落し、よく見てみるとそれは紙やなにかで作られた「見せかけの生命」だった、という奇妙なオチがついている。

あぶら虫になった父は平然と再登場しているし、奇妙で幻想的な光景が平然と展開されていく。終盤の畳みかけは素晴らしいものがあり、これは一体何なんだろうとこちらを困惑させてくる。敬愛していたという父の死を文学的に昇華したのがこれらの作品群のようにも思え、父の奇行の描写やらにもその敬愛ぶりがうかがえる。亡き父の姿を文学的に再創造する、といえばこれはまさにダニロ・キシュの作品群を思わせる。それを感じたあたりで個人的には非常に面白く読めてくるようになった。というわけで次に。

クレプシドラ・サナトリウム "Sanatorium pod Klepsydrą"1937

こちらは他に『砂時計サナトリウム』の題でも訳されている。最終的な訳ではその題になっているけれど、本書の注釈では、「原語は『クレプシドラの下の療養所』Klepsydraには(1)水時計(2)死亡ないし葬儀の通知または掲示、の両様の意味がある。ここでは固有の名称の意に解しておいた。水時計のイメージも捨てがたいからでもある。」とあり、水時計とともに死亡通知のダブルミーニングとなっていることがわかる。また、この収録作の多くが書かれたのは1920年代で、『肉桂色の店』よりも早いのだという。

注意すべきことは本書では抄訳になっており、全13篇中6篇が訳されているのみ、ということ。最長の作品で代表作とされている中篇「春」が訳されていない。これは集英社の全集版でゴンブロヴィッチの『フェルディドゥルケ』とカップリングになっている巻でもサナトリウムが抄訳になっている。『クレプシドラ・サナトリウム』が完訳されたのは、もしかしたら98年のシュルツ全集が初なのだろうか。本書で訳されているものを列挙すると、「七月の夜」「父の消防入り」「第二の秋」「死んだ季節」「クレプシドラ・サナトリウム」「父の最後の逃亡」。

と、抄訳版なので全体での各篇の位置づけがわからないのだけれど、幻想味はこちらのほうが強いように思う。特に「クレプシドラ・サナトリウム」は、SF性のある幻想小説で、傑作だろう。

水時計(砂時計。ポーランド語だと同じ単語の模様)のサナトリウムというのは、死と時計のダブルミーニングだけれど、その通りこのサナトリウムは時間を逆回しにして死んだはずの人が生きている状況を作りだす施設。ここでは夜になることがない、といわれ、時間を一定程度遅らせることで、既に死んだ人が、「あの方の死にしても、ここではまだ結果に到達していません、あなたのお国では、すでに片づいたことですけれども」という相対論的効果(?)によって語り手は父と会うことができる。相対性理論を用いているというトンデモ設定がなされており、もちろんSFだ。

灰色にくすんだ情景描写と、デジャビュに襲われる不思議な街、同じ病室の同じベッドで寝る親子、と妙な展開にくわえ、組み立てた望遠鏡があぶら虫(またあぶら虫!)になり、それに乗って走りだす、というわけのわからない場面まであるからたまらない。さらには、街では突然「敵軍」が攻めてきたらしく、それに乗じたテロリストの蠢動がはじまり、一気にあたりは騒然としてしまう。

そして特におかしいのは、中庭で出会う、犬の属性を持っているために犬にしか思えない人間、という奇妙な存在だろう。この恐ろしい存在を鎖から解放したものの、やはり恐ろしくなってそこから逃げだしてしまう。そして、革命や陰謀にさいなまれた「私」はサナトリウムからも逃げだす。

時間の前後も人と犬との境界もが入れ替わる不可思議な場所を描いて、しかもこれは収録作品中でも、わりあいに独立して読むことができる作品なので、絶好の幻想小説のアンソロジーピースとなっているものとばかり思っていたら、東雅夫編の『幻想小説神髄』にしか入っていない。東雅夫以外に誰も取りあげなかったとは信じがたい。

作品集としては、その後も父は蟹になったばかりか調理されて食卓に供され、しかも生きのびて脱出するという壮絶なラストを迎える。開いた口がふさがらないフリーダムな展開ぶりで、私はすっかり嬉しくなってしまった。これは面白い。

そのころ父は決定的に死んだあとだった。父はいくども死んでいたが、そのたびに完全な死とはいいきれず、いつもある種の留保条件がついて、そのために死の事実に修正を加えざるを得なかった。これには、それなりの良い面もあった。父は、こうして自分の死を細分し、賦払いにすることによって、彼の出立の事実に私たちを慣れさせてきたのだった。179P

これは「父の最後の逃亡」の冒頭の部分だ。これはそのままこれらの作品群で、父の変身、死が繰り返し描かれてきたことの一つの理由なのだろう。

上でも書いたように、シュルツの作品はキシュを想起させる。ダニロ・キシュはアウシュヴィッツへ消えた父について、繰り返し小説に書きつけてきた。そしてその三部作の最終作は『砂時計』という。キシュは消えた父を文学的に再創造することで、彼の墓標を打ち立てたのだけれど、死んだ父への敬慕の裏返しなのか、父の消滅と変身を繰り返して小説に描き出すシュルツの企図もまた、そのような父の死をいかに文学的に受けとめるか、というところにあるのかもしれない。死と生、生物と非生物、人間と動物、時間とさまざまなものの境界が揺らぐ小説世界を、父の存在が支えている。

解説にあるように、カフカ、シュルツという東欧幻想小説の系譜がおそらくあって、そこにキシュも連なるのだろう。シュルツは全集も出ているし、小説全集がライブラリーで出ており、研究書も複数出て、日本では非常に人気ある東欧作家の一人だろう。追々それらも読んでいくつもりだ。

ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ Witold Gombrowicz (1904-1969)

本書時点ではゴンブロヴィッチの略歴は未詳だったようで、解説にも生年が1904年か5年かはっきりしない、とある。Wikipediaによれば1904、となっている。シュルツのデビューと同年の1933年、ゴンブロヴィッチも第一作品集『成熟期の日記』を出している。そして37年には長篇『フェルディドゥルケ』が出ており、シュルツはこの作品に感銘を受け天才だと評したのが書簡に残されている。また、シュルツの書簡にはたびたびゴンブロヴィッチの名が出ており、相互に交流もあり、互いに敬意を抱いていた様子がうかがわれる。ゴンブロヴィッチが大西洋航路開設記念の招待旅行に招かれ、ブエノスアイレスに到着して一週間後、ドイツのポーランド侵攻がはじまり、ここから24年アルゼンチンでの生活が続くことになる。その後ドイツを経てフランスに移住し、ここで没する。シュルツともども、戦時のポーランドには居られなかった作家ということか。

コスモス "Kosmos" 1965

『コスモス』、という秩序を意味する言葉をタイトルに冠していることからは対照的なぐらいのカオスさに満ちた長篇。単語の羅列から始まる冒頭、口語的で騒がしい文体という実験的なスタイルで書かれており、のっけからこれは挑戦的なものが来たな、という感じだ。

友人と二人で部屋を探しながら道を歩いている二人が、枝に首を吊されたスズメがぶら下がっていることに興味をひかれ、そばの家の貸間に住居を定める。そこには家主夫妻、女中カタシア、そしてその娘が住んでいた。主人公は、事故で唇が裂けた女中に異様に執着している。

新しく住み始めた二人は、スズメの死体の次に天井の傷だとか、木片だとか、ちょっとした不自然(?)なものをすべてなんらかの示唆、徴候だと見なして、いったいここには何があるのか、とばかりに捜索と探偵を始める。今作の枠組みとして一応探偵小説が下敷きにされているわけだ。

スズメの死体からはじまる痕跡は、とてもその大仰な探究にみあった謎とは思えないのだけれども、そうしたふとした違和感を延々と謎や陰謀として探っていく偏執的な姿がここにはある。秩序、と題された今作の展開はカオスとしか感じられないものの、生活の中にある些事に対して異様なまでに関係・秩序の姿を見出そうとする姿をこそ、コスモスと名指しているのかも知れない。この病的ですらある主人公の認識構造それ自体は、私たちが普段は常識の名の下に抑圧しているもの、でもあるということだろうか。語り手は、「度を越した現実というものがある」と述べる。

カタシアの唇に執着し、また結婚したばかりのレナへの欲望の代償行為としてか、猫の殺害が起きるあたり、この探究の運動には語り手の性的な欲求が投影されてもいる。死や暴力と性欲の密接な繋がりが作品に伏流している。そんな語り手に作者と同じヴィトルド、という名前が付されているあたり、なかなかに挑発的な姿勢が露だ。

さて、枠組みとして探偵小説がある、と書いたけれども、そのことの意味の重要さは最後にわかる。殺されたのはスズメや猫などで、探偵小説的な事件が起きない探偵小説の趣を呈していたのだけれど、ラストに死者が出てしまう。そして探偵が犯罪に荷担することで、探偵小説の枠組みをすっかり裏返してしまう。探偵小説が、カオスをコスモスに収束する枠組みだとするなら、殺人を結末とし、謎と陰謀の過剰さを見出す今作は、コスモスをカオスに発散させていくものだといえる。

まあそんなわけで、ベルグベルグベンベルグと意味不明の造語が乱舞する終盤へと展開する。なかなかに頭がおかしい楽しい作品。


ちょっと後半駆け足になったうえに、関連書籍を読んでる時間がないので、とりあえず今回はこれで。両者とも面白いので、いずれ別作品を読むつもり。

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*1:私が持っているのは、ゴンブロヴィッチをメインにしたバージョンなのだけれど、検索してみるとシュルツを前面に出したバージョンもあることがわかった。私のは初版だけれど、再版ではこうなのか、あるいは帯だけ付け替えられたものなのかは不明。

*2:残りの一人、ヴィトカツィことヴィトキエヴィチは、今に至るもどうやら訳がない。評論はいくつか書かれているのに。これが一番の謎だ