菅浩江 - 放課後のプレアデス みなとの星宙

放課後のプレアデス みなとの星宙

放課後のプレアデス みなとの星宙

ゆっくり読める時間を待ってたらちょっと遅くなってしまったか。というわけで感想を。

本作は本篇をそのまま小説化するのではなく、本篇では謎めいた人物だった作中の敵役にして最大のキーパーソン、みなと視点で本篇を逆側から捉え直すものになっている。本篇九話十話を軸にする形でぐるりと裏返してみることで、本篇をさらに立体的に膨らませている。

みなと視点での小説、というのが非常に奏功しているのは、文字媒体ならではの丁寧な心理描写を行えるからで、焦点人物も一人なので、この利点を生かして一冊かけてみなとを描き尽くすことで、みなとの心情が非常に切実に感じられる。また、小説は描写と説明が自然に行えるので、本篇では一言で済まされていたような科学的描写や魔法設定をSF的ロジックで跡づけることも行っている。他にも、宮澤賢治の引用のようなことも文字媒体ならではだし、作中の諸々のガジェットを著者なりに関連づけたり意味づけたりして、様々な関連性を張り巡らせているあたりも、非常に面白い部分だ。アニメは時間と動きがあるので、描写と説明はかなり限られるわけで、小説ならではの丁寧な描き方で、そこを相当に補足する形になっている。

そうした丁寧な描写やロジカルな説明、象徴の関連づけといった手続きを経て、みなと視点からの物語を描くことで、本篇を忠実にトレースしつつもその向こう側に大きな膨らみを与えている。そのほとんどは著者のオリジナルだというけれども、各話おおむね四、五回は見ている者として読んでも違和感はないし、非常に納得感の高い膨らませ方をしていると思う。
天体による永遠――『放課後のプレアデス』について - Close to the Wall
私が以前書いた上記記事では、プレアデスの物語において「今話(九話)と十話のみなとの過去は、この作品の核として本質的に重要で、たぶん宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」が引用されている」と書いたけれど、作者もプレアデスに「銀河鉄道の夜」を見いだした点においては同じで、作中に「星めぐりの歌」とともにたびたび出てくるし、なにしろ、本篇十話にあたるあのシーンでは「銀河鉄道の夜」の朗読が流れているくらいだ。宮澤賢治がきわめて重要なモチーフになっている。そして、私がプレアデスは「銀河鉄道の夜」の絶望を乗り越える話だと書いたように、この基礎的な認識において作者もだいたい同じだろうというのが読んでいてわかる。菅さんがわざわざその記事にコメントしてきてくださったのは、だからか、と非常に納得がいった。

森の奥の大木

本作での鍵になるのは、森の奥の大木のエピソードだ。大きな音をたてて巨木が倒れたとして、それが誰の耳にも入らなかったとしたら、それはなかったのと同じ。病院で眠るみなとはこの痛切な孤独を意識しながら生きており、そしてこの「観測」のエピソードは、他人とのつながりによって自分を見いだす、という本篇のテーマとも通じ合うものになっている。

誰も友達がいないみなとにとっての初めての友達となったエルナトとの出会い、幼い少女との日々、そして絶望的な結末、ここまでを丁寧に百ページ以上をかけて描いて、これを基盤として温室のみなと、角マントみなとを形作る。

他の誰かにも訪れてほしい気持ちと、同じ人と深く縁を結んじゃいけないという無自覚のブレーキが混じり合って、我ながら突っ慳貪な言い方になってしまう。 138P

こうして突き放したい、けれども待望してしまっているとっても天邪鬼な温室みなとを立ち上げている。すばるとのやりとりのなかで、エルナトとの記憶などの様々な思いが去来しては言い出せない心情をみなと視点から描いているのはなかなかに切ない。それをすばる視点から見ると、本篇の描写になるようにしている。本篇の謎めいたセリフが、そうか、こういう意味か、となるのも面白い。

角マントの方は、この世から消えてしまいたいという激しい心情を核にしつつ、五人と対比する形で孤独が強調される。本篇三話にあたるシーンで、角マントがチームプレイをする五人に羨望を覚えながら、絶望しそうになって「独りは駄目だ」「独りは絶対に駄目だ」「でも、ぼくは独りだ」と言う場面は痛切だ。

こうした状況を設えての本篇九話の場面、そして桃色の魔法使いがすばるだとわかる場面をみなと視点から見てみるのはほんとうに感動的で。みなとを丁寧に描くことで、温室にやってくるすばるという存在がみなとにとって何なのか、というのが強く迫り出してくるのが本作の構成になっている。こっちから見ると当然そうなるんだけれど、運命的なラブストーリーの雰囲気が濃い。

まあ本篇のファンで、謎めいた人物に説明を与えて理解できるキャラにしてしまうのを、ある種の没落と見る派の人以外だったら、是非とも読まれることを勧めます。まさか読んでない人はいませんよね?

その他余談

本篇の会話を利用しながらも随所に補足を加えたりして、流れを変えずに膨らみを与える肉付けの作業がさすがだな、と思いながら読んでいたけれど、特に作者の繊細な見方になるほど、と思ったのが「イチゴ」。本篇でのいちご牛乳はすばるとあおいの関係性を描くリンクで、またみなととの縁でもあるんだけれど、本作では「いちごの香り」からエルナトを示唆している。確かに、本作にもあるように、本篇十話ではみなとはエルナトとイチゴを食べており、アイキャッチもそのシーンだった。つまり「イチゴノカオリ」はすばる、あおい、みなと、エルナトをそれぞれに結びつける非常に重要なものだったのは、これを読んで気づかされたことだ。これは本篇をちゃんと見ていればわかることだったはず、となかなか悔しい。

また、本篇やパッケージのジャケットなどで印象的に用いられながらもその素性がスルーされていた蝶について、本作なりの説明が与えられているのも面白い。温室そのものが彼女との再会を期待して設定されていて、蝶は「あの子も嬉しいだろうな」と可能性の結晶を元にみなとが作り出している。そして、蝶は「バタフライ効果」がどこにも伝わらない象徴として描かれている。とすると、蝶はそれ自体があり得ない出会いの象徴でもあり、存在しないことの象徴でもあり、温室みなとの象徴でもあるか。公式設定はわからないけれども、蝶にバタフライ効果を重ねているというのは、可能性がゼロではない、ということの示唆でもあるだろう。つまりは奇跡の象徴。

この下りでちょっと笑ってしまったのは、文中に温室を指して「内緒の花園」という言葉が出てきたこと。これ、私の記事でも本篇九話でみなとの部屋に「ないしょの花園」って本があることについて注記したんだけど、作者もこのワードに反応してる! と驚いた。これ、本篇九話を見てから書いた下りなんだろうか。それとも、脚本段階で書いてある言葉かなんかだったのかな。

すばるのクセっ毛を見て、「かっこいいね」、と言うシーン、以下の記事で書いたように、
『放課後のプレアデス』一挙上映&キャストトークショー 感想その他 - Close to the Wall
やっぱり角マントの格好のことを指してもいるんだろう。本書では「もしもぼくが自分の好きな姿になれるとしたら、絶対に角を生やすよ」と続くけれど、これは作者のオリジナルなのか、あるいはこういうのが台本にはあったセリフだったりするのかな。

それぞれの人名の漢字表記と由来は、たぶん公式設定とはずれる部分(キャラ名はスバル車に由来があるらしい。ただ設定の由来と作中の命名の由来は別物であり得る)で、五人が出会った理由をそう根拠づけるか、と思うとともにそこまでこじつけなくてもと思ったけれど、ラストでそう来るか、と。必ずしも「元の世界」に戻ったわけではないというのは本篇もそうだったけれども、それをこう生かしてくるんだな、と。

あと、読み通すとやっぱり脚本段階ではそうだったんだな、というのがわかる、かな。

放課後のプレアデス みなとの星宙 | 立野香菜子 オフィシャルブログ「もぎたてのKanako」Powered by Ameba
立野さんによると、アフレコ時に台本からカットされたセリフがそのまま使われてたりするとのこと。どこだろう。脚本を先に渡されて書いてるから、そういうことも起こるわけか。つまり、テレビ版と小説版は同じ脚本から分岐した別の運命線でもあるわけか。

さらに余談

あと、二巻ジャケットを見て、これは書いておかないとなということ。

上掲の上映会の記事で、ジャケットにあるひかるが弾いてるピアノはソが鳴らないピアノだよね、と書いたけれど、これツイッターでも指摘があったように、ジャケット画実物をよく見るとひかるが弾いてるのは確かにソの音。つまり、ソを聴くことができなかったひかるが、ソが鳴らなかったピアノを弾いているわけで、お互いにその欠けたところを乗り越えた姿がここに描かれており、本篇第四話がジャケットで綺麗に完結したように見える。これは感嘆した。というか、たぶん普通のアニメだったらエンディング後のCパートとかでピアノを直してひかるがソを弾くシーンとか入れるんだろうけれど、プレアデスはつねに「つづく」エンドだからCパートってないんだよね。

なお、今月は児童書版の下巻(だよね?)が出ますね。

放課後だけの魔法使い!すばるとカケラの秘密

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アートワークスは来月になるそうで。