読んだ本・「文学+」 トゥルニエ 飛浩隆 山尾悠子 正宗白鳥 J・G・バラード

「文学+」


『文学+』01号 注文フォーム
凡庸の会、による文学同人誌。内容細目は上記リンクから。中沢忠之さんは十年違うけど、そのほかの人はだいたい1980年前後の生まれで私とほぼ同世代といっていい人たちだったのに驚いた。50ページに及ぶ巻頭の討議は内容も興味深いけど、浜崎洋介と梶尾文武とのなかなかシビアな対立をよそに、坂口周が、いやそれは後付けで、タイトルは編集のアレで、蓮實は読んだことない、文学に入った理由全然わからない、とかまったく氏の著書名通りの「意志薄弱」ぶりを見せてるのが笑ってしまった。梶尾氏のいまの日本文学研究は中国人留学生に支えられている、という指摘も面白いけど、学会誌のオーソリティを信じている連中は、権威主義者かものを読めないか学会誌を読んでいないかだという批判も痛烈で、その後に載っている初期大江論がまたとても面白いのが批判の強度を担保している。ご本人は負け惜しみ、と言っていたけれど。議論の前提となる作品を読んでたの倉数茂さんの荷風論ぐらいだったけど、それぞれ面白く読んだ。春樹は読まんとなとは思ってるんだけど、一向に気が向かない。清末浩平の唐十郎論での通説の勘違いへの指摘、確かにネットの百科事典とかでも俳優の肉体を特権的肉体って呼んでるのが確認できる。ni_kaのネット詩についての論考、アメブロ的文字装飾文化圏とはてな的テキスト圏を女子的文化と男子的文化と区分けて、ネット詩がほとんど黙殺されてる状況について書いていて面白い。私は文章に顔文字絵文字括弧笑い等をほぼ使わないことにしていて、この分類では男子的文化性がすごいわけで、その面から面白かった。

ミシェル・トゥルニエ『聖女ジャンヌと悪魔ジル』、ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レを題材に、聖女を失い悪魔と化したジルを描く宗教的テーマの小説。ジャンヌの聖女から魔女への転換とジルの悪魔への転換など、解説では価値転換がキーになるとあるけど、最大のそれが触れられていない。それはやはりプレラッティの言う「サタンは神に生き写しです」「サタンのイマージュは神のイマージュを逆にし、形をゆがめたイマージュです。しかし、神のイマージュにはちがいありません」。という神のそれで、「良性の転換」を展望するここのくだりはジャンヌのみならずジルのそれを見ているはず。以下もちょっと面白いところ。

「だって、貧困は悪徳ではないじゃないですか!」
「貧困はあらゆる悪徳の母ですよ」
「プレラ君、君は神を冒瀆していますぞ!」
「もしわたしがあなたをライオンといっしょに檻に閉じこめたとしたら、あなたはライオンが飽食するほうがよいですか、それとも飢えるほうがよいですか?」
「ライオンには飽食させておくほうがよいとは思うが」 98P

清貧を真っ向否定するここのくだりはその通りなんだけど、ジル・ド・レはその有り余る富で蛮行を働いたんだよねっていう面白さがある。

飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン』。新人賞受賞の表題作からして人間を情報の輪郭において捉え、それが崩れ溶け合う崩壊感覚のなかで描き出すあまりにも飛作品で驚く。『象られた力』に収められた以外の初期作品なので、それに比べるとという感はあるけど、他に「星窓」「夢みる檻」はいい。でも「異本:猿の手」のギャグっぽくもあるアイデアストーリーぶりはSFらしくて嫌いじゃない。で、批評集成と銘打たれているようにエッセイや解説などが大半を占めているんだけど、自作に留まらず解説などでの読み手としての強さに圧倒される。この自作解説以上のものを書くのは並大抵でないな、と。以前Twitterで「飛浩隆、人体損壊と音楽が好きだなって感じるけど、「情報」を介するとこれは似たことで、「海の指」のように情報を奏でて存在を再構成する「描写」が全体で重要で、作中の描写を描写する文字表現の二重性」があるなんてこと書いたけど、ここらへんは音楽との関係や小説の記述について作者自身がもっと踏みこんで書いていた。遺伝情報を展開していくことを楽譜を演奏することに擬えるところとか。ここにさらに小説の記述も重なるわけで。遺伝情報が展開されていくこと、楽譜が演奏されること、文章が読まれることで読者のうちにイメージが展開されていくこと、こういうモチーフの連繋がつねに意識されていることが飛作品の感触を形作っていると。

山尾悠子『増補 夢の遠近法』。学生時代だったか、「遠近法」を読んで感動し『作品集成』を買って幾篇かを読んだけれど全篇読まずに十数年、新作の話題を見て積んでいた文庫版で改めて読む。やはり「遠近法」は傑作で、ほかいずれも濃密な文章と世界構築でほとんど酔うほどの力がある。「眠れる美女」の腐乱を描いたり腸詰宇宙の終末とか、構築と破壊、美と醜の要素を堅牢な構造で描いてる。「ムーンゲイト」なんかは満潮の神話起源譚の趣もある。「パラス・アテネ」みたいな重厚なやつから軽妙で親しみやすい掌篇まで。文庫収録作はだいたい集成の三分の一くらいか。あの集成文庫本にして1200ページくらいあるのか。集成、でかいんだよなあ。

自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)

自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)

正宗白鳥自然主義文学盛衰史』、自然主義の末席と自認する作家が戦後しばらくして書いた回想録。あんがいにクールな筆致で作家はこういってたけど作品はそうではないと書いたり、自然主義をその凡庸さこそが人生の真実を写し得たと評する態度が印象的。「日本の自然主義作家と作品の一むれは、世界文学史に類例のない一種特別のものと云うべく、稚拙な筆、雑駁な文章で、凡庸人の艱難苦悶を直写したのが、この派の作品なのだ。人に面白く読ませようと心掛けないのも、この派の特色であった」(文芸文庫160P)。このユーモラスというか辛辣というか。藤村『家』を「自然主義文学の最好の代表作」と高く評価するけど、それは作り物ではない人生を如実に写したからだ、と。近松秋江徳田秋声なんかとの個人的交流とともに文壇、作品を語っていて、個々の逸話も含めて面白い。

J・G・バラード短編全集2』、初訳「ミスターFはミスターF」を含む全集第二巻。この巻だと時間モチーフの題材としての砂や鉱物が印象に残る。幻想小説の傑作で日野啓三が短篇「石の花」の元ネタにした「時間の庭」や、街が海に覆われる新訳「いまめざめる海」など、幻想短篇も面白いものが収められている。代表作「砂の檻」はやたらと描写が濃密で最初ちょっと入り込みづらいんだけど、後半にぐいぐい盛り上がってきて流石だった。これと「時間の庭」も「いまめざめる海」も淡々と何かが迫ってくる状況が似てて、時間をめぐる強迫観念がよくわかる。本当に悪夢のような解決のされなさがある「監視塔」、タイトルに反してブラックなコメディの「永遠へのパスポート」。資本主義社会の極点が共産主義社会になったかのような消費の加速とサブリミナル広告の「無意識の人間」は前読んだ時やや古い感じがしたけど、今読むと逆に古くないと感じる。ところで「地球帰還の問題」、これ『闇の奥』のような気がするんだけど読んだの昔で覚えてない。現地人のあいだで神と崇められる西洋人、ボルヘスにもそんな短篇あった気がするな。短編全集では全巻通じて、『終着の浜辺(時間の墓標)』の伊藤哲訳と『時間都市』の宇野利泰訳、『第三次世界大戦秘史(ウォー・フィーバー)』の飯田隆昭訳はいっさい採用されていない。本邦初訳のほかこれらの既訳を訳し直したものが基本的にこの全集のための新訳だろう。伊藤典夫の「時の声」は改訳されてるらしい。