川上亜紀『チャイナ・カシミア』


チャイナ・カシミア

チャイナ・カシミア

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去年亡くなった詩人でもある作家の作品集。「早稲田文学」掲載の表題作と、同人誌「モーアシビ」掲載作三篇の計四篇を収める。笙野頼子の年頭の短篇「返信を、待っていた」でその存在を知った人で本書で初めて読んだ。タイトルのようにいくつもの作品で衣服が題材となっていて、身にまとうもっとも身近なものから導かれる想像力が、私と別のものを繋ぐ感触がある。

表題作「チャイナ・カシミア」、中国のカシミアは四割がモンゴル原産で厳冬のモンゴルで77万ものヤギが死んだことがあるという。そう話した劉氷という中国系留学生との会話を皮切りに、ある女性の日常風景がカシミア混紡セーターを着た語り手ごとヤギと化す変身譚へと展開していく。

空と路上の雪が薄青い翳で風景全体を包みこんでいて、私はそのなかをせっせと歩き出した。私がコートの下に着ているカシミア混紡のセーターもそんな色だった。15P

冒頭から「氷点下」や氷の名とともに雪が降った日の池袋を舞台にしていて、そんな日、「外の世界全体が青い翳のなかに入ってしまったようだ」という言葉から次第に世界は変貌していき、「青い翳」が冬の雪の池袋に覆い被さり、語り手の着ているカシミア混紡セーターの色でもあるその色のなかで出会うはずのない人、あるはずのないものが現われ、語り手は「ヘエンヘエン」「メヘヘヘヘン」とヤギのような声を出しはじめる。中国、内モンゴル自治区で取れるカシミア原毛からできたセーターを着ている自分という存在が、植民地的収奪の一環にあるのではないかという意識が背後に感じられ、ヤギっぽくなっている語り手は同じくカシミアを着ている両親共々マンションに「重要な資源」として閉じ込められる。

「あんたたちは重要な資源なんだよ。重要資源は外に出さないように管理会社に言われている」 27P

ヤギあるいはヒトなのか、いずれにしろ家畜的「資源」と化す悪夢的世界のはずだけれどどこかのんびりとした感触もあり、灰色猫が悠々をそれを横切っていくユーモラスなところもあり、何かしら奇妙な幻想譚になっていて面白い。ラスト、増殖するヤギと増殖する猫、羊を数える入眠儀式のイメージが浮かぶんだけどそれで合ってるんだろうか。寝入りばなの場面だからたぶん合ってるんだけど、なかなかに奇妙。

ほかに、「靴下編み師とメリヤスの旅」は、四〇代の女性がずっと年上の老女と出会い、ふと彼女のために靴下を編むことになるという話で、シンプルながらとても感触の良い小説。語り手は彼女を勝手にミズカと名付け、彼女の実在すらときに疑いながらも丁寧に靴下を編む。失業と服用しているステロイドの減薬という負荷のなかにある語り手にとって、靴下という人への贈り物を編む作業は、まさに希望を織り紡ぐことでもあった。ダニロ・キシュは母の編み物を小説を書くことと重ねていたけれども、この小説もまた作者にとっての言葉の編み物でもあろうか。笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」が相手のない恋愛を書こうとした、ということを思い出したからでもあるけど、本作にはどこか恋の感触を感じた。語り手は相手の名前をじっさいの名ではなくミズカと自分のつけた名で呼ぶとか、彼女が喜んでくれるだろうかという不安のあり方とか、とか。長々しい編み方の名前とか、アラン編みとかメリヤス編みというものの歴史や来歴が語られ、いまそうして編まれた靴下となって、二度会っただけの白髪の年配の女性の着衣としてカナダのバンクーバーにまで旅していくそのイメージがとてもよく、着衣が悪夢的な幻想にいたる表題作と好対照をなしてもいる。

潰瘍性大腸炎のことはミズカさんに話すつもりはなかったが、ステロイドはもう一〇ミリ以下に減っていたので副作用だの骨密度だのをそれほど気にしなくなっていた。減薬のあいだ少しずつ靴下を編むという作業療法に近い手仕事がなかったら、私はステロイドのもたらす高揚感や疲労感に振り回されてもっと妙なことを始めていたかもしれない。125P

「妙なこと」という話、作中に警官を呼ぶ騒ぎになった「荻窪宗教論争事件」というのが触れられていて、それより「もっと」という。白髪の女性、あるいはこうありたいという語り手の無事に年を取った未来の現し身でもあるだろう。

機械編みと手編みの話とともに、ここでも中国製衣服が出てくる。

そして最後の「灰色猫のよけいなお喋り 二〇一七年夏」は、これまでの作品にしばしば登場していた猫の語りによる短篇で、「ボクは偉大な詩人や作家の猫として後世に語り継がれることはまるでなさそうだから、今のうちに自分で語っておくことにしたの」と、猫の視点から著者と思しき人物とのかかわりを軽妙に語って、もっとも身近な他人による語りを短篇集に導入する。

笙野頼子の解説は著者との関係をたどり、著者もまた「群像」の編集部入れ替えのあおりを食らって作品掲載が拒絶された作家だったことを明かす一幕が興味深い。過去の論争文で触れられていた「女性の詩人作家」とはこの人のことだったのか、と。その一文に見覚えがあった。「一見他人事のようにしてはいても、結局物事は全て、違う形で、自分に触れるのだ」(158P)という一文が表題作の性質をよく指摘していると思う。「搾取で作られたセーターではなく、自前の暖かさで、抵抗して増えようとする大切な飼い猫」。この解説もまたほとんど小説的な味わいがある。

ただ、「北ホテル」という小樽旅行を描く分身譚小説はまだ自分のなかで感想が出てこない。ナイロンバッグ、中国製のダウンジャケット、ダッフルコート、レンガ色のワンピースなど、さまざまな服飾品がキーアイテムとして現われ、自分の高校生時代のことなどを回想しながらの小樽観光の不可思議な感触、そして詩。

余談だけど川上亜紀は向井豊昭が「BARABARA」で受賞したとき、95年の早稲田文学新人賞の最終候補の一人でもあった。
早稲田文学新人賞受賞作・候補作一覧1-25回|文学賞の世界

本書は笙野頼子さまに恵贈いただきました。
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