江馬修『羊の怒る時』、石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』

江馬修『羊の怒る時』

「もとより今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遥かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。」
「それは勿論そうさ、」と友達は重苦しい憂鬱な調子で答えた。「だが、一体どこからそ
うした流言が出たのかね。それが根本の問題だと思うね。」
「それについて誰が答える事ができるかしら?」
「でも、それは無くてはならない。」
「勿論そうさ。でも、それは永久に知る事はできないかも知れない。唯間違いのないの は、すべては日本人全部の責任だという事だ。」286P

本作では、代々木初台に住む作家が「変災」に遭遇し、朝鮮人暴動のデマが二日目の午後から流れ始め、初日に瓦礫のなかから赤子を救出した朝鮮人学生らがその後暴行にあったり留置されたり帰らぬ人になるという、震災が人災へと変貌していく戦慄すべき様子が描かれている。

地震の瞬間の語り手の素早い避難と妻が色々なものを気にして避難が遅いことのやきもきするような緊迫感や、浅草区長の長兄とともに見た災害後の光景や避難する人々の状況など、先日読んだ原民喜『夏の花』の遭難後の光景が思い出される。そうした大地震に際した描写もあるけれども、しかしやはり本作の主題は関東大震災朝鮮人虐殺事件についてだ。

在郷軍人らが朝鮮人の危険を吹聴して回り、デマにより奮起した自警団が誰彼に暴力を振るいたくてうずうずしており、武勇伝を語る過程でありもしない武装朝鮮人らの蜂起をでっちあげ、観音堂を火から守るために朝鮮人の暴動の流言を流して人々を動かしたりする様子が書き留められている。

震災の一日目が過ぎて二日目の午後、朝鮮人の暴動の噂が聞こえてくる。三時頃、語り手の知り合いの中将が「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混雑に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ。」(96P)という話を聞いてくるのが最初だ。その後富ヶ谷一揆を起こして暴れているという噂があり、「たった今富ヶ谷在郷軍人から報告があったのです」(116P)と在郷軍人が注意を呼びかけてまわっていて、在郷軍人朝鮮人デマの周知に当たってどうも大きな役割を果たしているように見える。中将もそのツテで聞いたのかも知れない。

作家は、朝鮮人の知り合いを持ち、人並み以上に彼らの境遇を知っているからこそ、朝鮮人が日本人への暴行をしているというデマを自身の内で否定することができないという逆説もある。

語り手は三日目に、検問をしている男性が朝鮮人を普通に通したことに驚いて訊ねてみると男はこう答える。

「行先さえはっきりしていればどんどん通してやります。朝鮮人だって同じ人間ですからね」と素っ気なく答えて、彼は前後を振返りつつ通行人を注意しつづけた。
 朝鮮人だって同じ人間である、この単純にして明快な真実を、三日目の夕方になって 自分は初めてこの若い男の口から聞いたのであった。かくも単純な真理さえ、正気を失 った人々の頭にはあれほどの犠牲を払った後でなければ容易に悟り得ないのか。しかも これを聞いた時、自分は何がなしに胸のすっとした事を覚えている、湧き返る擾乱の上にどこからか美しい細い一条の光線がさしこんで来たかのように。183P

しかしこの通された朝鮮人労働者を日本人の労働者が付け狙っていることに語り手は気づく。この人は大丈夫ですよと注意すると男から次のように反応される。

「そういう貴様も朝鮮人だろう。」
自分は微笑して答えた。「兎に角あなた方と同じ人間ですよ。」
「同じ人間だって?」と労働者はひどく侮辱されたように一層眼をぎらぎらさせて、「うむ、我々日本人が朝鮮人と同じ人間にされて堪るもんか。」184P

この差別意識。こうした人間を人間と見ない目線はこのすぐ前にもある。

「実際どうかしていますよ。然し見ようにもよる事ですが、つまりこの恐ろしい天変地異に対して持って行きどころない市民の憤懣と怨恨が、期せずして朝鮮人の上にはけ口を見出した訳なんでしょうね。もしこの騒ぎがなかったら、ゆうべあたり掠奪や殺人や強姦なぞどれ程あったかも分りませんよ。それを思って、まあ寛大に考えてやるんですね。」176P

寛大!! ある民族を盾にする、この好都合な道具として見る非人間的態度は、観音堂の話でも見られるもので、語り手はそんな犠牲を出してまで観音像を残させやしないしその流言を流した男を捕まえたいと考える。朝鮮人暴動デマを流して守られたという恥辱の象徴。この観音堂の件や在郷軍人が武勇伝として語ったことなど、朝鮮人が暴行を働いたというデマを捏造した場面が複数書き留められている。


語り手は中将との会話のなかで日露戦争の意義を問われて、白人種の黄色人種への横暴に対するアジアからの反撃として重要な意義があるけれども、アジアのチャンピオンとなって白人種の人種的偏見を打破するチャンスを日本は自らフイにして専横的な白人種の帝国たる英国と同盟する道を進んでしまった、と批判している。右派にはアジア太平洋戦争をこうしたロジックで擁護する場合があるけれども、この時の朝鮮人虐殺について、これでは白人種の横暴を批判する資格がないと語り、そうしたスタンスの矛盾を批判している。朝鮮人への警戒心の一端はこの頃の朝鮮での独立運動とそれに対する弾圧の歴史があるはずで、解説でそこら辺のことももうちょっと補足しても良いのではないかとは思った。


また、語り手も作家で左派的な立場だったからか出で立ちが特徴的だったようで、そのことも横暴な自警団に目を付けられるきっかけになっていることが描かれている。虐殺は朝鮮人だけではなく、中国人や社会主義者、あるいは地方出身者などが含まれていることは知られているけれども、本作でもそうした事件に繋がる細部を見てとることができる。

武装を禁じる布令が出されているのに、猛った人々が朝鮮人は殺していいことになっていると無茶なことを言っている場面がある。デマによる煽動と恐怖による怯えと、無際限に暴力を振るえると思い込む人々。語り手は警察に確認してそれがデマだと判明している。

また暴徒が警察署に押しかけ、朝鮮人を出せという騒動にもなっており、むしろ警察が朝鮮人を留置所に入れて保護する形になっていて、語り手の知り合いがそうして数日後に帰って来る様子が描かれている。デマによる煽動が過熱し、権力にまでその刃がむけられるわけだ。日本人による朝鮮人差別がほかの異物への排除にも広がり、地方出身者や目に付いたものなどの日本人自身への攻撃にもつながる、差別の自家中毒とその暴走。その暴力が自分側に向いて初めてその問題を認識できる場合というのがあるけれど、そもそもの差別という暴力的な線引き自体にその淵源があるわけで。

震災時のあんなやつだから家が潰れるんだという素朴な信仰と出くわす労働者たちが朝鮮人に対する蔑視を露わにしていること、語り手の兄の一人が経営する工場で朝鮮人労働者の働きが悪いということから民族全体を蔑視している有様など、さまざまな素朴な差別感情が観察されている。


前書きで小説と書かれていて、どこまでが事実そのものかわからないところはあるんだけど、小説として今作では死体を直接見ないという間接性が肝になっている。朝鮮人への虐待、遠くでの火事、爆発するような音、暴動と思われる喚声、デマの風聞と色々なことを間接的に見聞きしている。朝鮮人を取り囲んでいるさなかに遭遇するところでも、途中で引き返してしまう。神宮の森の彼方に見える炎の禍々しさは初日の象徴的な風景で、語り手のところにまで炎が来るわけではないけれども、代わりに燎原の火の如くデマが迫ってくる。

語り手は作家なら事件の現場や死体の惨状などを見て回るべきではないかという話に対して、自分はそうした気の毒な人をわざわざ見ませんよ、死体を見なくて幸福だったと返していて、さらにこう答える。

でも、こんな時は、自分の中にある小説家よりも、人間としての気持の方がどうしても勝ちを占めますからね。そしてそこから却って僕の作が生れてくるんです。233P

これはそのまま本作のスタイルとなっている。直接の目撃をすることができず、決定的な場面には居合わせないとしても、人間的な態度を保っていられるか、という問い。フェイクニュース、デマがネットを介して広まる現在、いまでもまったく同じ問いが横たわっている。

語り手は自分たちの住むところで血を見ないで済んだのは知識階級の人が多いからだ、と素朴なことをいう場面があるけれどもどうだろうか。

正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくとも彼等は残虐から顔を背ける事ができた。192P

知的に思われる人々が差別を煽動している事例は今いくらでも見られる。

ちょっと面白いのはこの九月一日が新潮社の自社ビルの開館式当日だったらしいこと。また、隣に朝鮮総督だったT伯爵の邸宅があることで、朝鮮人がここに襲いに来るのではないかと語り手が思うところがあるけれど、これは寺内正毅のことだろうか。あと、原稿が焼尽したロシアの作家Sとは誰のことだろう。

本書の特徴的なところは、朝鮮人にすべて×のマークが付いていて、発刊当時これらがすべて伏字にされていたというのがわかるようになっているところだ。被害の表現すらもまた不可視化されたということが繰り返し伝わってくる。

石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』

被災した大正文士の詩や日記、随筆を集めたほかにも、無名の人も含んだ女性たちによる回想や虐殺された大杉栄らへの追悼、上野動物園飼育係、帝国ホテル支配人、政治家や実業家など、また別の職業からの回顧も含まれているところも面白いアンソロジー

冒頭に荷風の日記ではなく「震災」の詩が採られているのがなかなか意外で、後藤明生も『壁の中』で題材にしたこの江戸明治文化の焼失という歴史的転換を印象づける。萩原朔太郎の短詩「近日所感」を引いておく。

朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連れなり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ

室生犀星の日録、志賀直哉の西から東京へと向かうなかで朝鮮人の暴動を自分は信じないと断言する日記など色々あるけれども序盤の読みどころは泉鏡花の「露宿」だろう。震災に出くわしての体験があの鏡花のスタイル、文章で時に幻想的な戦慄とともに描かれるところがなんとも言えない。

実は、炎に飽いて、炎に背いて、此の火たとい家を焚くとも、せめて清しき月出でよ、と祈れるかいに、天の水晶宮の棟は桜の葉の中に顕われて、朱を塗ったような二階の障子が、いま其の影にやや薄れて、凄くも優しい、威あって、美しい、薄桃色に成ると同時に、中天に聳えた番町小学校の鉄柱の、火柱の如く見えたのさえ、ふと紫にかわったので、消すに水のない火は、月の雫が冷すのであろう。火勢は衰えたように思って、微に慰められて居た処であったのに―― 34P

意味が取れない箇所もあるけども「消すに水のない火は、月の雫が冷すのであろう」なんて文章の鮮烈さ。

もう一箇所

浅草寺の観世音は八方の火の中に、幾十万の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたたるばかり厳に気高く焼残った。44P。

これは上掲『羊の怒る時』の、流言で朝鮮人に被害を出しながら守ったということで語り手が怒っていたものか。

久米正雄津波前の波が引いた海を見て戦慄するところも印象的だし、志賀直哉の文章で「魔法壜」が出てきて、魔法壜ってもうこの時代からあったのかとも思った。中西伊之助征韓論以来日本人の頭から古代以来日本の先を行っていた朝鮮の歴史が消えてしまい劣等民族と見なすようになった不幸を嘆く。

吉野作造はこう書いている。

罪なくして無意義に殺さるる程不幸な事はない。今度の震火災で多くの財と多くの親しき者とを失った気の毒な人は数限りもないが、併し気の毒な程度に於ては、民衆激情の犠牲になった無辜鮮人の亡霊に及ぶものはあるまい。今度の災厄に於ける罹災民の筆頭に来る者は之等の鮮人でなければならない。176P

この文章にはもう一箇所重要な部分がある。

朝鮮から来て居る僕の友人は鮮人同士の今回の災厄によって被れる窮迫を救わんとして、本国の父兄に発して義捐金を募った。やがて集った若干額を東京に送ろうという時になって、銀行は送金を拒んだ。官憲の干渉があった為めだと云う。官憲は何の為めに救恤資金の転送を阻止したか。揣摩するもの曰く、この金の或は不逞の暴挙に利用せらるるなからんかを恐れたからだと。何所まで事実かは知らないが、食うや食わずの罹災者の救助資金にまで文句を云わねばならぬ程煩わしき警戒を必要とするなら、何所に我々は朝鮮統治の成績を語る面目があるか。爆弾を懐いて噴火口上を渡るようなのが、属領統治の本分では断じてない。181P

佐多稲子の文章にも興味深い箇所が多い。一つ目は朝鮮人暴動のデマの出所に関するもので、もう一つは市井の人間が非常に鮮やかにそのデマへの反駁をしている箇所だ。

とび口のさきは鋭く、銀色に光って、それは重いものだった。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。つまり、こういう形で、いわばいち早く人心動揺のほこ先転化が計画されたので、弟の持ってきたとび口はしかるべき官筋から出たのにちがいなかった。240P

「話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と。」241P

この一言を「興行師のおかみさん」が言ったというのはなかなかに示唆的だ。社会のはぐれ者としての経験がこの観察にあるようにも思える。そしてこの「逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない」という一節は、そのまま日本人の朝鮮人への仕打ちを示唆するものでもあり、己の加害を不可視化することで朝鮮人の脅威を言い立てる言動への批判にもなっている。それを日常的な言葉で表現している。この箇所は本書でも特に印象的な一節だ。

編者は他にも同様の書籍を編集しているようだけど、それらと本書との違いは何かが書かれていると親切だったかなと思う。コンセプトは似ていて収録文章が微妙に異なる編著が他に二つあって、解説なんかも違うんだろうか。