図書新聞にサーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』の書評が掲載


既に書店で入手できると思われます図書新聞2021年7月17日号に、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』についての書評が掲載されています。1984年生まれのベラルーシの若手作家による長篇で、「欧州最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコ大統領政権下のベラルーシを描いた小説です。着手しようとしていた時に民間機をベラルーシに強制着陸させ反体制ジャーナリストを逮捕した事件のニュースが入ってきました。本書の刊行自体が去年の大統領選挙の不正への抗議運動を受けたものだと思われますし、そういったニュースに触れて現地はどうなっているのかに関心を持った人に、民主化運動の当事者の立場からベラルーシを内側から描いたものとして非常に興味深く読めるのではないかと思います。ベラルーシといえば2015年のノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが一番有名な文学者かと思われます。ベラルーシ文学では、聞き書きの手法などで彼女が大きな影響を受けたアレシ・アダーモヴィチの『封鎖・飢餓・人間』という本が邦訳されており、「炎628」という映画の原作者でもあるようです。そのほかにあるかどうかは調べがつきませんでしたけれども、とにかくも本書は珍しいベラルーシ文学の翻訳となっています。今回の書評では、『かつての息子』という、国や家族を離れざるを得なかった人々を指す原題と、理不尽なエピソードを互いに語り合う作中の遊びをさす『理不尽ゲーム』という邦題、その双方の意味に触れるようにしました。金原ひとみ、豊﨑由美の同書の書評では特に金原のものが今読むことにフォーカスした内容でしたけれど、そことはいくらか差異化できたかな、と思います。

以下参考文献及び関連書籍について。

サーシャ・フィリペンコ「ベラルーシ 抵抗の日々」、「世界」2020.11月号
サーシャ・フィリペンコ「インタビュー 誇り高き抗議――ベラルーシ民主化の当事者より」、「すばる」2020.11月号
上記記事はベラルーシ大統領選挙に伴う抗議運動についてのリポートですけれど、いずれの付記においてもフィリペンコ作品の翻訳は『赤い十字』という別の小説が予定されていました。インタビューの末尾に『かつての息子』の注目度が上がっていることが言及されており、刊行半年前頃にこのリアルタイム性に寄せた企画変更がなされていることがわかります。『赤い十字』はアルツハイマーの老婦人と若者が対話しながら戦時のソ連と国際赤十字の関係が扱われ、現代ベラルーシのデモについても触れられるとのことで、『理不尽ゲーム』の構成をベラルーシのより遠い過去まで対象にしたもののように思われます。こちらも時期的に翻訳は仕上がっているのではないかと思いますし、刊行されることを期待します。

服部倫卓、越野剛編『ベラルーシを知るための50章』明石書店

明石書店のおなじみのシリーズで、さまざまな観点からベラルーシの状況を描いていてひとまずのとっかかりになるので全体像を把握するにはまずこれから、といえる一冊です。しかし、本書のなかでフィリペンコが描くような弾圧や選挙不正の話は、行きがかり上触れる以上の踏み込みがありません。ちょっと不自然なくらいスルーされています。政権に不都合なことを書くジャーナリストがどういう目に遭うかを知っていると仕方のないことなのかも知れませんけれども物足りなさは残ります。作中の話を知っているとシャラポワを引き合いに「世界的な美人の名産地」などと言及されていることのグロテスクさが露わになります。ソ連時代への復古意識を主張しつつも権力維持のためにロシアとの一筋縄ではいかない緊張感があることもわかります。

服部倫卓『不思議の国ベラルーシ

ベラルーシ日本大使館で調査員を勤めていた著者によるベラルーシ論。現地経験の豊富な著者によるベラルーシ概説で、こちらもベラルーシ社会の様子を知るには好適です。本旨はベラルーシナショナリズム意識の薄さをナショナリズムの「例外」ではないか、という視点からさまざまに論じていくもので、ベラルーシにおけるロシア語優勢な言語状況など非常に興味深い事例が取り上げられています。元々隣接した諸国の間にあって確固とした国の概念がないところに、ソ連解体で偶発的に成立した国でもあるためか国家意識の極端な薄さがあり、ベラルーシ語を母語と認識しつつも多くの人がロシア語を使うのが普通だといいます。しかし確かにベラルーシナショナリズムは薄いけれど、ベラルーシナショナリズムとは統合されていた頃の大国ソ連への帰属識だとすれば、ルカシェンコ大統領はまさにその路線を唱えているわけで、ねじれたナショナリズムではあってもナショナリズムの例外ではないのじゃないかと思いました。独ソ戦の経験から、ベラルーシ民族主義者がナチスドイツ、ファシストと通じた者、というイメージがあるのもあるにしろ。ただ、確かにベラルーシ民族主義、というのは国内的には左派的、反体制的な政治性を持っているのがベラルーシではあるようです。

この点で、観光資源の貧弱さという以上に自国の文化を尊重しないところなども指摘されており、文化遺産にできたかも知れない建築、遺跡が廃墟となっている様子を縷々述べたところはなかなかインパクトがあります。著者が現地観光についてこう言っているのが笑ってしまった。

現地に行ってみなければわからない。往々にして何もないのだから、スリル満点である。116P

そこでルカシェンコが山林資産を着服したことが触れられている以上の政権の不祥事はやはり掘り下げられていません。

以下参考に読んだアレクシエーヴィチの本についての感想もここに。

スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』

事故で大気に放出された放射性核種のうち70%が降ったベラルーシノーベル文学賞作家による、チェルノブイリ原発事故後十年を経て書かれた、ほぼすべてがさまざまな人々の語りによって構成された一冊。完全版も出たけど読んだのは文庫。

これは読むのに結構ハードルがあった。それは最初に置かれた、原発に出向いた夫を亡くした妻の語りの時点で重く辛い気分にさせられるし、それが読む前から予想がつくからだ。深刻な事件について書かれた本というのは読む方にも覚悟がいる。

そこでは当時の状況を語りながら、しかし妻が語る言葉にはいかに夫を愛していたかという思いが満ちていて、ここに語られるすべてがそうだけれど、読んでいて厳粛な心持ちにさせられる。語られる事実自体は見知った感じすらあるけれど、それを生きた経験者の言葉には想像以上のものがある。

子供を作ることが罪となり、愛することが死を招く。最初に置かれた妻の語りでは、夫を愛するがあまり制止を振り切って夫の看病をし寄り添ったために、妊娠した子どもを死産してしまう。コロナ禍でも人が集まり交流することが死を招く事態が現われたけれど、チェルノブイリでも人間性への毀損がある。

ファンタスティック、神話的、幻想的、という言葉が時折使われているのも印象的で、汚染された地獄でもあり、鳥のいない静謐な自然でもあり、ひっそりと汚染地域に住む人間もいて、地獄とユートピア二重写しのようなありようは確かに幻想的な感慨を抱かせる。

しばしば言われるのは戦争のことで、アフガン戦争もだけど甚大な被害を受けた大祖国戦争独ソ戦)が折に触れて想起されるほど、この国で起こった重大な事態だということだろう。以下引用を並べることにする。岩波現代文庫版より。

ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった」30P
「ぼくは証言したいんです。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブイリが原因なんだと。ところが、ぼくらに望まれているのは、このことを忘れることなんです」49P
チェルノブイリ、これは戦争に輪をかけた戦争ですよ」60P
「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」84P
「あそこに行くとすぐにこの世の終わりと石器時代とがいっしょくたになったファンタスティックな世界にでくわせますよ」101P
「「ねえあなた、生むことが罪になるって人もいるのよ」。愛することが罪だなんて……」「子どもを生む罪。こんな罪がだれにふりかかるのか、あなたはご存知じゃありませんか? こんなことば、以前は聞いたこともありませんでした」122P
「戦争と比較することはできません。まちがっているのに、みんな戦争と比較している」139P
チェルノブイリのあとに残ったのはチェルノブイリの神話なんです」「必要なのは記録すること。記録して残すことです。ぼくにチェルノブイリのSFをください……そんなものはありっこないんです。現実はSF以上にファンタスティックなんですから」144P
「国がうそをついたのです」180P
「何十年後、何百年後には、これは神話的な時代になるんです」「一九九三年にはわがベラルーシだけで、20万人の女性が中絶をしたそうです」190P
「ぼくたちがことばを使って考えているだけではなく、ことばもまたぼくらを使って考えています」193P

最近出た完全版は1.7倍の分量になったというけど未読。この本では訳者は「ヴ」表記が原語に近いと認めながら使わない理由をわかりやすさに置いているけれど、完全版ではヴ表記を使っている。解説がセクハラ事件で問題になった広河隆一だった。チェルノブイリ子ども基金というのをやってたのか。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

著者の第一作、大祖国戦争独ソ戦)従軍女性数百人の聞き取りで構成された大著で、女でも国民の一人として前線で戦いたいと志望し、しかし戦後戦地の女として蔑まれたりもした女性たちの、歴史の影に埋もれた語りを書き留める。

女性を戦わせるなんてとんでもないという優しさや蔑視による男性たちの制止を突破していく女性たちの力強さや、女性を想定していない前線でのさまざまな不如意、勇敢さ、死を幾たびも見、恐怖に怯え、それが戦後にもトラウマとして残ったこと、パルチザン参加者の家族が殺された陰鬱な話等々……。

わたしたちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の。女たちは黙っている。わたしをのぞいてだれもおばあちゃんやおかあさんたちにあれこれ問いただした者はいなかった。4P

女たちの戦争は知られないままになっていた……。
 その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。5P

と著者が述べる序文から読み応えがある。「人間は戦争よりずっと大きい」という章題は一人一人の体験を聞き取る本書を貫く歴史観だろう。あまりに偉大な小さい語り。

女性たちが何の話をしていても必ず(そう!)「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。
(中略)
戦時の「男向きの」日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。283-4P。

ここに出てくる美しさや女性らしさというのは、人間性の別名のように読める。

「男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。戦争で彼らの関心を惹くのは、行為であり、思想や様々な利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女たちは男には見えないものを見出す力がある」12-3P
「捕虜の中に一人の兵士がいた……。少年よ……。涙が顔の上に凍り付いている。私は手押し車で食堂にパンを運んでいるところだった。[略]私はパンを一個とって半分に割ってやり、それを兵士にあげた。その子は受け取った……。受け取ったけど、信じられないの……。信じられない……信じられないのよ。 私は嬉しかった…… 憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ……」129P

戦争の陰惨さのなかで敵兵士を倒して嬉しいという話もあればこのような話もある。戦争のなかで浮かび上がる人間性のさまざまな形のなかで、検閲官は英雄的でない話に意見を付けていたのが序文にある。

「その人は通りを行く人に近寄って行くんです……だれかれ構わず……そして言うんです。「あたしの子供がどんなふうに殺されたか話してあげるよ、どっちの子供から始めようか? ワーセンカから? あの子は耳に撃ち込まれたのよ、トーリクはアタマなんだけどね、どっちからにする?」
 みんな、その女の人から逃げていました。その人は狂っていたのです。だから話すことができたんです……」314-5P
「みんな、あなたに会うのを喜ぶよ。待ってるよ。どうしてか教えてあげよう、思い出すのは恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしいことはないからね」187P
「言ってご覧よ、どんな顔してこういうことを思い出しゃいいのか? 話せる人たちもいるけど、私はできないよ……泣けてきちゃうよ。でもこれは残るようにしなけりゃいけないよ、いけない。伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が」480P
「祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけど、女たちは? 女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……」367P

戦地で結ばれた恋もあれば、戦地の女だとして消えた恋も本書には語られている。ユーモラスな話も勇敢な話もあるけど、後半に多く収められたパルチザンの話は気が滅入るものが多い。生理の血が流れるままになってた話も漫画で先に読んでたけど、戦地と女性の話として象徴的だった。
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ドラマティックなものではないけど、個人的には漫画でも読んだのを覚えてるローラ・アフメートワのこの一ページが印象深い。これまでのジャーナリストからどういう反応があったかが窺える皮肉な言い方で、自分が一番恐ろしかったことが笑われたことだったという経験が垣間見えるからだ。

本書で語られていることはそれまでソ連で語られていた話のカウンターという意味合いがあるけれど、むしろそっちのほうを知らないのでこの本の意味合いをちゃんとわかってない気もする。検閲官の言い方などからうかがえることがあるけれど。男らしくないとされた男の兵士なんかはいったい軍でどういう扱いになったんだろうな、なんてこととか。著者は少年兵のテーマで一冊あるのとアフガン帰還兵で一冊あるからそっちのほうを読めば良いかもしれない。まあなんにしろ、人間と歴史を考えさせる一冊だ。

日本語版は原本とは別編集になっており、検閲削除した部分を検閲官の意見とともに掲載したり、戦前にスターリンが軍幹部を抹殺したことや、ソ連兵のドイツ人女性への強姦や捕虜が国賊として流刑されたことなど、国内的に不都合な事例が増補されている。版権表記に初版と2013年のクレジットがある。

岸惠子ベラルーシの林檎

言わずと知れた名優、だけど私はほとんど人となりを知らなくて、1950年代に映画監督のフランス人と結婚して渡仏していたというのもここで始めて知って、あのドレフュス大尉の孫が友人だったり、川端康成が仲人だったり、交友関係に驚いた。このエッセイはタイトルにあるベラルーシを題材にしているわけではなく、ユダヤ人、イスラエルパレスチナ問題についてテレビ番組の現地リポーターとしての体験を交えて書かれた第一部が半分を占め、東欧、バルト三国の取材過程についての第二部ほか、日仏往還の生活を描いた文章で構成されている。自身と取材対象の流浪、根無し草性というのが全体を通じた問題意識になっており、表題は鉄道で遭遇したベラルーシ人の女性が独特の食べ方をしていたしなびた林檎のことで、ここに元々「国境が動く」という表題を考えていた著者にそのイメージの具体的な表現としてぴたりときたらしい。なのでベラルーシは道中通過するだけ。現地取材で結構向こう見ずなことをしてイスラエルの宗教的に厳格な人たちに不用意に近づいて撮影して集団でボコられる目に遭ったりしている。

それはそれとしてパレスチナ問題について時のイスラエル首相の言い分にはなかなか驚かされた。イツハク・シャミール首相は著者に対してこう答える。「私たちは今、何千年も前から私たちの領土である、この小さな小さな土地へやっと帰ることが出来たのです。アラブ人には広大な領土がある。私たちが欲しいのは、たったこれっぽっちの小さな土地で、その中で平和に暮らしたいと思っているだけなのです」162P。何千年前にいたパレスチナをずっと自分たちの領土だったと言い張ってるのもどうかと思われるけど、パレスチナ人をアラブ人と呼ぶことで彼らにはいくらでも土地があると問題を誤魔化し、人々を押しのけている自分たちこそが被害者だというポジション取りをしているこのロジックの悪質さには驚かされた。