田中里尚 - リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

ご一緒した『北の想像力』では清水博子安部公房を論じていた田中さんの専門が女性史や服飾文化だということは知っていたけれどそちらの仕事は読んだことがなかった。そんなおり刊行された本書は、就職活動で着られるスーツという限られた存在に的を絞りながらも500ページを超える大部の服飾社会史となっており、とても面白い。戦後社会を就職活動におけるファッション、の面から切り出したかのような感触もあり、ただ参照文献に漫画小説ドラマが出てくるというだけではなく、表現としての服飾とそれをめぐる言説への繊細なテクストクリティークに一種の文芸評論の趣を感じる瞬間もあった。

はじめにリクルートスーツの前史として、戦前の背広=スーツがどのように受け入れられてきたかの来歴をたどり、背広が大人の象徴としてみなされシンプルな紺のスーツがスーツの序列の始まり、最下部に位置することが確認される。この「スーツの階梯」概念は本書の重要な軸となっている。戦後もしばらく就職活動は学生服で行なわれていて、そうしたツテをたどった就職が自由化される七〇年代初頭、学生服のかわりに着用されたのがスーツで、就職協定の確立が現在のような新卒一括採用の流れを生み、1977年ごろ、就職活動向けのスーツの売り出しがリクルートスーツの始まりとなる。

ここからリクルートファッションが多様な言説のなかでどのように捉えられ、何がなされるべきとされているのか、といったことを書籍だけではなくファッション誌、就職情報誌、新聞その他さまざまなメディアから分析し、その流れを叙述していく博捜ぶりは圧倒される。

リクルートスーツは、社会人にふさわしい服装規範が凝縮された服装のことである。したがって、リクルートスーツを歴史的に追跡していく経験は、社会人にふさわしい服装規範とは何か、という問題に対する解答の歴史を見ていくことと同じであった。506P

この大著の議論の要諦をまとめるのは難しいので印象に残ったところをざっと書いておくと、やはり好景気だと服装の自由度が高かったりだとか、過去女性の服装の自由度が高かったのは「職場の花」という周縁化された存在なことと表裏一体だったことなど興味深い。雇用機会均等法前後での女性のリクルートファッションの変遷もたどられているけれど、それ以前の時代では女性のパンツスーツがかなりの禁忌で、着てくると取引先に失礼だ、と怒られたのは今では理解できない話だろう。女性のパンツスーツ、当時としては男性が化粧するような意味合いがあったのだろうか。パンプス、ハイヒールの強制やその批判運動についても言及されているけれど、職場の女性が化粧を求められるのは最大の差別ではないかとは思う。九〇年代の就活では素顔でも良かったらしいのは興味深い。

リクルートファッションやリクルートルックという言葉は以前から存在したけれど、「リクルートスーツ」という言葉の成立は二〇〇〇年代だという。これは就職活動の長期化によってスーツが複数必要になり、しかし経済的な問題でコストパフォーマンスが優先され、リクルートスーツの日用品化が起こる。バブル期の数十万を掛けたリクルートファッションはリターンが見込める「投資」だったのが、一万ちょっとで就活でしか着ない日用品と化したリクルートスーツへ、という経済の困窮を背景にした歴史も、いかに日本が貧困化したかを思い知らされる箇所だ。

すなわち、就職活動の長期化でスーツが日用品化し、そのスーツを陳腐と見なす見方が提出され、スーツ間の区別が信憑される。そうしたファーストスーツとしての認識が失われつつあった時期に、就職活動の辛さなどを象徴する特殊な否定性を帯びて用いられるようになったのが「リクルートスーツ」という言葉だと言えるのである。483P

地位表示の指標でもあったスーツの階梯からリクルートスーツが切り離され、独自のカテゴリと化す。ここに、スーツを象徴とする企業社会での出世が断念されている状況が反映されているのではないか、と著者は言う。出世のイメージとも重なるスーツの階梯からその始まりにあたるはずのリクルートスーツが切り離されることは、就職と企業で働くこととの切断ではないか、と。


スーツの標準的な色だったチャコールグレイがドブネズミ色とされて忌避された経緯や、ビジネスでは禁忌だった黒がなぜ近年急に標準となったのかなど、さまざまにたどられるリクルートファッションについての記述の厚みは盛りだくさんだけれど、本書においてはこの500ページを超える厚さこそが必要だった。

紺からグレー、グレーから黒と、標準となる色彩のモードが変化するときも、当初は差異化しようする動機が見える場合がある。しかし、その動機を大多数が同時に持つがゆえに画一化という結果に帰結してしまう。すなわち、現象の結果を見れば、リクルートスーツを着る若者の心性は画一的と見なせるが、動機を見ると個性の追求とも言えなくはない。だから、学生の心性が没個性的であるとは、リクルートスーツという現象だけではにわかに判定できないのである。
 しかし、若者は没個性で画一的であるという心性をリクルートスーツという現象で例証したい、という言論は多数生じている。むしろ、その理由付けの方が画一的な常套句となってしまっているようにも見える。この現象は、現在を画一的と見なすことで、過去を画一的ではなかった時代として位置づけようとする欲望によって突き動かされているようだ。488P

もし、没個性や同調圧力の強さを論じるのであれば、学生のそれではなく、日本におけるスーツ着用の根拠に関する議論の少なさを指摘すべきであろう。就職活動生の心性が「画一的」だからリクルートスーツが変わらないのではなく、面接におけるスーツ着用の根拠の議論がなされず、お互いに言論を確かめ合って規範をつくりあげてしまっているから変わらないのである。若者に変化しない責任を押し付けるのは、あまりに酷であるし、四〇年前の若者も、同じように画一的とみられていたことを忘れてはいけない。508P

凡庸な画一性の象徴にみえるリクルートスーツにも内部にはゆらぎがあることや、その歴史にはさまざまな流行と変化があることを丁寧にたどり返し、リクルートスーツの画一性とはそもそもビジネススーツの自明性を疑わない社会の側に由来するのではないかと切り返してみせる。就職活動がなぜスーツで、社会人の標準的な服装がなぜスーツなのか。ここを疑わないメディアや大人たちの側からリクルートスーツがいかに画一的なのか、という画一的な言説が出てもそれは鏡に文句を言うようなものだろう。だからこそ本書はスーツの歴史性から説き起こされるわけだ。


あとがきで著者はもともと、「画一的なリクルートスーツを批判する目的で本書の執筆を始めた」と書いている。そして調査を進めていくうちに、流行の反映や細部の個性などを見いだし、ついに、リクルートスーツはつまらないスーツではなく、スーツの意味体系の要にあると言うことを発見したという。著者は自分が就職活動の面接でつまらない、と言われたことを回想しつつ、こう言う、

リクルートスーツもまた、平凡で、地味で「つまらない」服だと思われている。私は書きながら、勝手に仲間意識を抱き、リクルートスーツに同情的になっていた。そのうち、リクルートスーツが「つまらない」スーツではない、ということを発見した。リクルートスーツは、スーツの意味体系の要に位置するスーツなのである。リクルートスーツの「つまらなさ」は、浮薄に変化を志向する社会の中で「平凡さ」が被る言われなき悪名だと思う。

「つまらない」ものとは基本的なものである。基本的なものがなければ、多様もない。平凡なものは、基本的なものである。基本的なことは、重要なことである。「つまらない」ものに見えても、それは、重要なものであることが往々にしてある、ということをリクルートスーツの社会史は照らし出しているのである。リクルートスーツが「つまらなく」見えるのは、差異が、標準を否定項として表現するからである。517P

終盤ファッション誌の記事からリクルートスーツをスーツの階梯に位置づけ直そうとする姿勢を読み込むのは、この基本の重要性を確認するためでもある。著者がリクルートスーツを擁護するのはしかし、花森安治にならって、「服装的自覚を持って選ばれた基本的なスーツであるという条件が不可欠である」とも述べる。

リクルートスーツ」という凡庸なつまらないとされたものに踏みこんでみることで画一的と見えたものが持っている重要さを発見すること、本書はこの500ページを超える分量を以てそのことを証し立てている。