読んだ本・「文学+」 トゥルニエ 飛浩隆 山尾悠子 正宗白鳥 J・G・バラード

「文学+」


『文学+』01号 注文フォーム
凡庸の会、による文学同人誌。内容細目は上記リンクから。中沢忠之さんは十年違うけど、そのほかの人はだいたい1980年前後の生まれで私とほぼ同世代といっていい人たちだったのに驚いた。50ページに及ぶ巻頭の討議は内容も興味深いけど、浜崎洋介と梶尾文武とのなかなかシビアな対立をよそに、坂口周が、いやそれは後付けで、タイトルは編集のアレで、蓮實は読んだことない、文学に入った理由全然わからない、とかまったく氏の著書名通りの「意志薄弱」ぶりを見せてるのが笑ってしまった。梶尾氏のいまの日本文学研究は中国人留学生に支えられている、という指摘も面白いけど、学会誌のオーソリティを信じている連中は、権威主義者かものを読めないか学会誌を読んでいないかだという批判も痛烈で、その後に載っている初期大江論がまたとても面白いのが批判の強度を担保している。ご本人は負け惜しみ、と言っていたけれど。議論の前提となる作品を読んでたの倉数茂さんの荷風論ぐらいだったけど、それぞれ面白く読んだ。春樹は読まんとなとは思ってるんだけど、一向に気が向かない。清末浩平の唐十郎論での通説の勘違いへの指摘、確かにネットの百科事典とかでも俳優の肉体を特権的肉体って呼んでるのが確認できる。ni_kaのネット詩についての論考、アメブロ的文字装飾文化圏とはてな的テキスト圏を女子的文化と男子的文化と区分けて、ネット詩がほとんど黙殺されてる状況について書いていて面白い。私は文章に顔文字絵文字括弧笑い等をほぼ使わないことにしていて、この分類では男子的文化性がすごいわけで、その面から面白かった。

ミシェル・トゥルニエ『聖女ジャンヌと悪魔ジル』、ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レを題材に、聖女を失い悪魔と化したジルを描く宗教的テーマの小説。ジャンヌの聖女から魔女への転換とジルの悪魔への転換など、解説では価値転換がキーになるとあるけど、最大のそれが触れられていない。それはやはりプレラッティの言う「サタンは神に生き写しです」「サタンのイマージュは神のイマージュを逆にし、形をゆがめたイマージュです。しかし、神のイマージュにはちがいありません」。という神のそれで、「良性の転換」を展望するここのくだりはジャンヌのみならずジルのそれを見ているはず。以下もちょっと面白いところ。

「だって、貧困は悪徳ではないじゃないですか!」
「貧困はあらゆる悪徳の母ですよ」
「プレラ君、君は神を冒瀆していますぞ!」
「もしわたしがあなたをライオンといっしょに檻に閉じこめたとしたら、あなたはライオンが飽食するほうがよいですか、それとも飢えるほうがよいですか?」
「ライオンには飽食させておくほうがよいとは思うが」 98P

清貧を真っ向否定するここのくだりはその通りなんだけど、ジル・ド・レはその有り余る富で蛮行を働いたんだよねっていう面白さがある。

飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン』。新人賞受賞の表題作からして人間を情報の輪郭において捉え、それが崩れ溶け合う崩壊感覚のなかで描き出すあまりにも飛作品で驚く。『象られた力』に収められた以外の初期作品なので、それに比べるとという感はあるけど、他に「星窓」「夢みる檻」はいい。でも「異本:猿の手」のギャグっぽくもあるアイデアストーリーぶりはSFらしくて嫌いじゃない。で、批評集成と銘打たれているようにエッセイや解説などが大半を占めているんだけど、自作に留まらず解説などでの読み手としての強さに圧倒される。この自作解説以上のものを書くのは並大抵でないな、と。以前Twitterで「飛浩隆、人体損壊と音楽が好きだなって感じるけど、「情報」を介するとこれは似たことで、「海の指」のように情報を奏でて存在を再構成する「描写」が全体で重要で、作中の描写を描写する文字表現の二重性」があるなんてこと書いたけど、ここらへんは音楽との関係や小説の記述について作者自身がもっと踏みこんで書いていた。遺伝情報を展開していくことを楽譜を演奏することに擬えるところとか。ここにさらに小説の記述も重なるわけで。遺伝情報が展開されていくこと、楽譜が演奏されること、文章が読まれることで読者のうちにイメージが展開されていくこと、こういうモチーフの連繋がつねに意識されていることが飛作品の感触を形作っていると。

山尾悠子『増補 夢の遠近法』。学生時代だったか、「遠近法」を読んで感動し『作品集成』を買って幾篇かを読んだけれど全篇読まずに十数年、新作の話題を見て積んでいた文庫版で改めて読む。やはり「遠近法」は傑作で、ほかいずれも濃密な文章と世界構築でほとんど酔うほどの力がある。「眠れる美女」の腐乱を描いたり腸詰宇宙の終末とか、構築と破壊、美と醜の要素を堅牢な構造で描いてる。「ムーンゲイト」なんかは満潮の神話起源譚の趣もある。「パラス・アテネ」みたいな重厚なやつから軽妙で親しみやすい掌篇まで。文庫収録作はだいたい集成の三分の一くらいか。あの集成文庫本にして1200ページくらいあるのか。集成、でかいんだよなあ。

自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)

自然主義文学盛衰史 (講談社文芸文庫)

正宗白鳥自然主義文学盛衰史』、自然主義の末席と自認する作家が戦後しばらくして書いた回想録。あんがいにクールな筆致で作家はこういってたけど作品はそうではないと書いたり、自然主義をその凡庸さこそが人生の真実を写し得たと評する態度が印象的。「日本の自然主義作家と作品の一むれは、世界文学史に類例のない一種特別のものと云うべく、稚拙な筆、雑駁な文章で、凡庸人の艱難苦悶を直写したのが、この派の作品なのだ。人に面白く読ませようと心掛けないのも、この派の特色であった」(文芸文庫160P)。このユーモラスというか辛辣というか。藤村『家』を「自然主義文学の最好の代表作」と高く評価するけど、それは作り物ではない人生を如実に写したからだ、と。近松秋江徳田秋声なんかとの個人的交流とともに文壇、作品を語っていて、個々の逸話も含めて面白い。

J・G・バラード短編全集2』、初訳「ミスターFはミスターF」を含む全集第二巻。この巻だと時間モチーフの題材としての砂や鉱物が印象に残る。幻想小説の傑作で日野啓三が短篇「石の花」の元ネタにした「時間の庭」や、街が海に覆われる新訳「いまめざめる海」など、幻想短篇も面白いものが収められている。代表作「砂の檻」はやたらと描写が濃密で最初ちょっと入り込みづらいんだけど、後半にぐいぐい盛り上がってきて流石だった。これと「時間の庭」も「いまめざめる海」も淡々と何かが迫ってくる状況が似てて、時間をめぐる強迫観念がよくわかる。本当に悪夢のような解決のされなさがある「監視塔」、タイトルに反してブラックなコメディの「永遠へのパスポート」。資本主義社会の極点が共産主義社会になったかのような消費の加速とサブリミナル広告の「無意識の人間」は前読んだ時やや古い感じがしたけど、今読むと逆に古くないと感じる。ところで「地球帰還の問題」、これ『闇の奥』のような気がするんだけど読んだの昔で覚えてない。現地人のあいだで神と崇められる西洋人、ボルヘスにもそんな短篇あった気がするな。短編全集では全巻通じて、『終着の浜辺(時間の墓標)』の伊藤哲訳と『時間都市』の宇野利泰訳、『第三次世界大戦秘史(ウォー・フィーバー)』の飯田隆昭訳はいっさい採用されていない。本邦初訳のほかこれらの既訳を訳し直したものが基本的にこの全集のための新訳だろう。伊藤典夫の「時の声」は改訳されてるらしい。

石川博品『あたらしくうつくしいことば』

石川博品のネット公開された中篇をふたつ収録した同人作品集。いずれもウェブ版を既読で当時もTwitterに感想を書いたけれど、昨年本書が刊行されていたので、いま改めて再読して記事にまとめておく。

異世界求法巡礼行記」

異世界求法巡礼行記
オリエント風帝国の後宮では野球によって皇帝の寵愛を競っていた、という奇想野球ラノベ後宮楽園球場』があったけれども、これは異世界転移と禅宗を掛け合わせたコミカルな中篇。異世界に転移した禅僧が、詭弁めいた仏教トークや身体能力などで問題を解決していく、軽薄、軽妙、軽快なコメディ快作。

禅問答的なロジックで話を回したり、漢字語彙に現代的ルビを振っていく語りのギミックも心地よく、下ネタの応酬がほんとうにひどくて随所で笑わされてしまう。仏教用語がよく出てくるので随所にルビが振られているんだけど、かなり自由で、逆に擬態語とかを漢字にしたりする遊びが面白い。「美童」が「エロショタ」ってルビ振ってあったりとか、「大伽藍」に「デケーてら」って振ってあるかと思えば、「ちゃっかり」が「着稼利」って書かれていたりする。

どっかで聞いたようなオタクチックなフレーズやワードが飛び出てきたり、かと思えば仏教説話が出てきたり、ネットスラングも教養も一緒くたに闇鍋されたこの石川博品らしい語り口はやはり良い。下世話で下品なサービス精神あふれる中篇で、話としても仲間が揃ってきてまだこれからってところなので長篇にしてもよさそうな感じなんだけど、まあ、うん、企画通らなそうだよなあとは思ってしまった。

「あたらしくうつくしいことば」

あたらしくうつくしいことば
後半に置かれた中篇は確か作者の三つ目の百合小説で、しかも題材は手話。音声言語とは異なる別様の言葉を通して、壁と壁を越えるものとしての言葉や表現することについて描いた傑作といっていい。

この作品では、現実の手話とは別に、日本に古くからある国語手話、アメリカ人が考案した統合手話、という二つの手話があるという設定で、さらに聴者などが使う、日本語の語順で単語を翻訳したようなものと思われる、日本語同期手話というのがあることになっている。この設定をベースに、統合手話を使っていた聾学校が潰れ、その生徒を受け入れた国語手話の聾学校を舞台にしている。

物語は女子聾学校の高校生、木之瀬紗雪のクラスにある日、三宅真奈美と泉千尋という統合手話の学校から二人が編入されてきたことから始まる。どうやらその二人は付き合っているらしいと言う噂があって、という導入から、友達関係や恋愛関係のもつれが語られていく。

ここで言葉はまず通じなさにおいて描かれる。聾者は聴者との齟齬を抱えているうえに、先述したように聾者同士でも手話の種類によってディスコミュニケーションが起こっている。そのうえで、目の前の相手と話すため、あるいは王子様のような転校生に近づくために違う種類の手話の混成語が作られることになる。王子様と呼ばれる泉千尋と話すためにつくられた「ちーさま語」というのがそれだ。いわばピジン手話だ。このピジン手話は自分たちだけに通じる言葉、という「秘密」をめぐる相反した性質を抱えている。自分たちだけに通じるサインとしての秘密は、隠しておきたいのと同時に知ってもらいたいという矛盾を抱えており、言葉としてそれはつねに交流へと開かれる可能性をもっている。

また印象的なのは、聾学校には教室と廊下に壁がない、という描写から始まっていることだ。音が広がらないので、壁が要らないわけだ。しかし、聴者の先生の手話は何を言いたいのか分からないことも多く、手話形式が違う転校生たちの言葉も、すぐには通じないわけで、壁がない教室の中の「壁」がある。

そして語り手の親が聴者か聾者かで家庭内でのコミュニケーションも違っている。それでいて、手話なら街中で変なことを喋っても他の人に気づかれることはないなんて利点もあったりする。この作品はこうした、音声言語と異なる手話というコミュニケーションの特性を随所に描いていて、聞かれてはいけない人の隣で話をしたり、後ろから抱きつかれたまま鏡文字のような手話を見せられるシーンや、音ではない拍手など、ものとしての言葉、が印象的だ。

 わたしたちの秘密のはなしはドアを閉めておけばどこにも漏れる心配はなかった。
 お風呂からあがり、ベッドに入ってもはなしは続く。
 わたしたちは電気を消してしまうとことばが見えなくなるので、携帯のメールで会話する。P203

聾者を社会的弱者として書こう、という小説ではない。ある程度意識的に、単に別のコミュニケーション様式を持つ人たち、というようなニュアンスが強い。とはいえ、マイノリティの社会性について作者が無自覚なわけではない。聾者あるいは同性愛者のマイノリティ性については明確に意識されており、後半の展開でそれが現われてくる。聴者と聾者の壁、そして聾者のなかでも同性愛者と異性愛者の壁がある。ある事件を契機として紗雪はこう語る。

何かであるというだけで攻撃されることがある、そのとき、ことばは役に立たないのだろうか。247P(傍点と太字にして引用)

壁と壁を越えるものが幾重にも折り重ねられて埋め込まれている本作において、統合手話を学び、海外留学を目指す三宅は、いくつもの壁を越えていく存在として紗雪から見られている。三宅は紗雪にとってのそうした希望の一端なわけだ。それに対して紗雪は書くということへの躊躇いにふさがれている。

 ホームルーム明けの生徒たちが教室から溢れだし、廊下を満たす。目がくらむほどに騒がしい。あのことばがあいもかわらず結ばれ、ほどかれて、また結ばれる。その起源など知らぬくせに、あたかもいまこの手で生みだしているかのような顔で少女たちは、おごそかに、時に無造作に、ことばを発する。P251

自分(たち)だけのものと、だからこそ書く意味がある、という秘密をめぐる矛盾がそして書くことへの動機へと転化する。

かつてわたしもその一部だった秘密が、水面に生じる波紋のように、廊下を渡っていく。P252

冒頭と結句に現われる、広がる波紋の比喩は、壁のない教室から広がっていく希望としてある。「遠慮会釈もない」「明け透け」な言葉。壁のない教室のなかの「壁」を踏まえた上での、言葉が断絶を越える可能性を指し示すわけだ。手話が音のないもの同士の断絶を越えるために作られたならば、そして文字は言語様式の違う世界を繋ぐことができる。手話を通して、言葉そのもの、表現することへの祈りと希望が込められている。


と書くと非常に繊細な百合小説っぽく見えるかも知れないけれども、そういう側面とともに『四人制姉妹百合物帳』で剃毛ネタが出てきたように、今作では主人公というか作品全体に「ガラッパチ」な感じがあって、竹を割ったような軽快さがある。スタバでローファットのラテ飲んでるかと思えば、他に出てくるのがラーメンと餃子とかだったりするのが面白いし、バットで殴り込んでくるバイオレンスな場面は笑ってしまう。特に紗雪のラーメン屋での手際良くスタイリッシュに味わい尽くす熟練ぶりは、

「ラーメン食べるのに自分のスタイル持ってない奴は何やらしても駄目だと思ってる」195P

というセリフが面白いし、「このかんがえはいまでもかわらない」という時のスタイルとはつまり文体ということかね、という感じもある。紗雪が小説を書こうとしていることに、表現することのテーマがあるけど、もう一人の表現者としてYoutuberが出てくるところとか、なかなかにコミカルでいい。

そういえば本作で、家族に知らせるために照明を明滅させる場面があったけど、アニメ「18if」の第8話では、聴覚障碍者の家の来客チャイムが照明の明滅だったのを思い出した。机を叩いて勘定を求めたり、タブレットでの筆談、DVDやブルーレイに字幕がないことにがっかりしたり、そういう聴覚障碍者の日常を描きつつ、手話でバンドをやっているというなかなか興味深い話だった。


18if.jp

津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

長篇の前に、同じタイトルを持つ短篇について。

「ジャッカ・ドフニ――夏の家」

北海道にあるウィルタ民族のダーヒンニェニ・ゲンダーヌが建てた資料館「ジャッカ・ドフニ」。ウィルタ語で「大切なものをしまっておく場所」だという。そこにある、息子達と写真を撮った小さな「カウラ(夏の家)」がタイトルの由来。

序盤は不思議な叙述が続き、語り手はどうやら息子を亡くしているらしいけれども、いつか息子が帰ってくるのを待っているらしくもあり、リアリティの位相がにわかには判別できないようになっている。そこで、過去に新居を建てるという話が出た時に子供たちと考えていた新しい間取りの話になる。子供たちは銘々自分の大切なものを中心に間取りを夢想し、考え、図面を起こし、それはひとときの幸せな時間として感じられる。

その後息子はとつぜん亡くなった。にもかかわらず、小説は子供たちと暮らした新居がさまざまに語られだし、実現されなかったはずの幻想が膨らんでいく。

たとえそれがどんなに適確な、しかも一般的な言い方であるとしても、私は、息子が死んだ、という言葉を口にする人を恨み、腹を立てるのを通り越して、軽蔑してしまう。気の毒に、かわいそうに、という人も許せない。立ち直れましたか、と聞く人にも腹を立て、今頃、天国で楽しく過ごしていますよ、とこともなげに言う人を馬鹿にしてしまう。それでいて、私自身も言葉を見出せないままでいるのだ。ちがう、ちがう、と身に襲ってくる言葉を否定することしかできない。せめて、否定し続けていなければ、とんでもないことをいつの間にか押しつけられてしまう。P271

語り手は、息子を死んだ、と明確に言葉にすることを拒む。そうすることで別の場所に息子がいる、という感覚を保持し、それによってさまざまな幻想が流れ込み、現実との境界を突き崩していくわけで、愛する人が死んだ、ということとそれを受けとめると言うことについて、非常に印象的な短篇になっている。ジャッカ・ドフニ、夏の家、そして新居のイメージが連鎖して、大切なものを収める場所という意味を変奏していく。

1987年、息子を亡くした二年後の作。

私が読んだのは詳細を貼った本でだけど、短篇集『夢の記録』や人文書院津島佑子コレクション、同じく文芸文庫の現代小説クロニクルにも入っている。

『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

同題の短篇から三〇年後、津島佑子最後の長篇として残された大作がこちら。「すばる」に連載後、2016年刊行、今年文庫化された。十七世紀のエゾ地、日本、マカオバタビアジャカルタ)までを舞台に、和人とアイヌの混血の少女が海を渡り、アイヌの歌を心に生き抜くスケールの大きな小説だ。キリスト教の国際ネットワークがそのスケールを支えている点も印象的。

主人公チカップ(鳥の意)は、和人に捨てられたアイヌの女性を母に持ち、馬小屋で生まれ生後間もなく巡業の軽業師に売られた旅の途中でパードレにしがみついたことで以後キリスト教徒としての生をはじめ、兄代わりのジュリヤンと二人で、兄の神学を修めにマカオへの旅に出発する。つまり混血アイヌキリスト教徒という存在だ。

このメインストーリーを枠づけるのが、作者とよく似た現代の「わたし」の三度の北海道旅行で、2011年震災後に北海道を訪れ、短篇版でも描かれた「ジャッカ・ドフニ」訪問の記憶を想起しつつ短篇版を別様にリライト*1しながらその体験が描かれるのには重要な意味がある。ウィルタ民族が日本兵となっても戦後その恩給から外され続けた歴史を書き込んでいることや、現代におけるアイヌとシサム(隣人=和人)の関係、震災と原発事故の枠組みは、解説で川村湊がいうように原発事故後の被災者の離散と禁制されたキリシタンの流浪が重なっていることのほかに、朝鮮系が出てくるように現代日本の排外主義とキリシタン排斥も重ねられ、国家の枠組みを批判的に見返す。十七世紀日本のキリシタン迫害と天正遣欧使節を絡め、西欧列強の植民地を旅しながら、日本という国を外側から眺め、その迫害や多民族社会での憎悪にも批判的意識を向けていくわけだ。

ウィルタ民族のゲンダーヌが「土人」という言葉に怯えていた、というくだりに続く以下の部分は、ウィルタアイヌという少数民族原発事故とが作者においてどのように繋がっているかを語る箇所だ。

土人」ということばは、原発の事故で古い過去からふたたび噴き出てきた「ヒバクシャ」ということばをも、あなたに連想させる。あなたが中学生のころ、このことばが得体の知れないおびえとともに、まわりでどれだけささやかれていたことか。原爆による「ヒバク」で実際に苦しむひとびとを置き去りにした身勝手なおびえ。被害を受けたひとたちがさらに、心理的に追いつめられてきた日本の社会だった。(上巻46P)

そして、キリシタンについてのこの記述は当然現代においての同根の問題を視野に入れたものでもある。

眼に見えぬ敵ほど、こわかもんはねえ。そげな敵を作っとけば、国内を支配しやすくなるっちゅうのが、お国の本音なんかもしれん。きりしたんをやめんのは、反逆罪ちゅうふっとか罪になるとよ。お国にとって、わしらは逆徒ずら。(上巻76P)

憎しみがうえから与えられて、そいに身をまかせるのは、まっこと、気持よかごたるし、いくらでん伝染するんや。憎まなけりゃならん理由なんぞ、だれも知らん。知りたいとも思っちゃいない。チョウセンを攻めたニホン人もチョウセン人に対して、同じやったそうな。憎しみというより、残酷さを楽しむ心が、人間にはもともと隠されておるんやろうな。(下巻70P)

カップが旅する、マカオバタビアなど東アジアの海域には、キリスト教の根拠地として多民族社会ともなっており、こうした社会を生きながらも、心に母親の残したアイヌの歌を抱え、アイヌ系混血児かつキリシタンという「日本」の異分子と化した主人公がエゾを望郷の心で眺める。チカップというアイヌ語で鳥と名付けられた主人公の流浪の旅。風は南から再度北海道にたどり着く。


キリスト教ネットワークの中継地点で、重要な文書を書き写して伝送していく部分が興味深かった。伝えると同時にストックしておき、情報をコピーしていくシステムがあったのか、と。

ただ、マルチリオ=殉教がよく出てきて、命より信仰を上に置く感があるのが、キリスト教ちょっと好感持てないなって感想もある。あと、短篇とはジャッカ・ドフニの語の意味が違う風に訳されている。本書では「大切なものを収める家」、とある。これは意味のある違いなのかどうか。

気になったところ

とまあ傑作と言っていい作品なんだけど、ただ、文庫下巻240ページでぞっとするところがあって、読み進めづらくなり、さらに脳内に批判や不満が渦巻いて全然集中できなくなった。個人的にどうしても気になるところで、作品の印象に強い影響を与えた箇所なので、書き記しておく。

未読の人は気をつけて欲しいけど、終盤チカはバタビアにいて、そこで結婚して子を産み十歳と九歳の兄妹を持っているんだけれど、金銀の島を求めてエゾへ探索船をだす話を聞きつけ、エゾへの郷愁冷めやらぬチカは身重では無理だとさとり、そうだ、私の子がいるじゃん、と子供を密航させようとする。ここめちゃくちゃ驚いたんだよね。

はんぶんえぞ人なのだからえぞ地たんさくの船にのせてほしい、とコンパニーのおえらがたにこんがんするとしても、じっさいには、いくつかの、しかもまちがっとるかもしれんアイヌのことば、そして、いくつかのうたをうたえるだけなんやから、通辞としてつかいものにならんし、そもそもおなかのおおきかおなごなんぞ、たんさく船にのせてもらえるはずがなか。
 兄しゃま、そこで、チカップはおもいついたんや。チカップにはおおきくそだったレラとヤキがおるではないか、と。あの子らをもぐりの水夫として船にのせてしまえ ばええ。(下巻240P)

自分のエゾへ行きたい気持ちを代わりに子供に果たさせるつもりなの? 南国生まれの子供に? 夫に隠して? エゾには氷や雪があるよって自分でもほとんどしらないアイヌやエゾへのロマンを説いて聞かせて幻想を育てて?正気?こいつ子供を自分のものだと思ってくる毒親クズじゃんって。

びっくりするとともにゾッとした。その後まんまと子供達を密航させていなくなったことを知った夫に神隠しだとデマを吹いて、一向に戻ってこないのを怪しんでこれはチカがやったんじゃと感づいた夫が、元々そういう傾向はあったにせよよりチカへの暴力を振るうようになるんだけどこれに被害者意識もっているのまったく理解できない。子供を勝手に売り飛ばすようなマネをしておいて、なんで被害者気取りなんだ。

夫がわりとDV傾向あるとかバタビアで日本人は肩身が狭いとかなんだかんだここにいないほうがいい状況づくりをしてるんだけど、このあまりに身勝手な毒親ぶりはほんと理解できない。ちょっと邪悪すぎない?

もっと自然に子供たちの自発性に任せる流れは作れるはずで、こうなのには理由があるんだろうけど。息子の墜落死を自分の責任と思っている罪責感の反映とか、親から子供たちがまた旅立っていく連鎖を読み込むとか。ちょうど息子が死んだ年齢が八歳で、この兄妹はそれより年上だったりして。いろいろ考えられるんだけども、端的にここにどん引きして読むの辞めようとか思った箇所だ。

このレラとヤキの扱い、この箇所をほかの人がどう読んだのか気になる。まあ一七世紀だしそういうものとして流してもいい気はするけど、ここで突然主人公がクズっぽくなるの違和感すごいうえに、これがおかしなこととは思われてなさそうなのが。

*1:家族の構成から違っている

『名もなき王国』「エヌ氏」『原色の想像力2』『妖精の墓標』『デュラスのいた風景』『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』

名もなき王国

名もなき王国

倉数茂『名もなき王国』久しぶりに原稿とかと関係なくただ面白いだけで読める本を読んで、屋外でメチャクチャ体を動かした後にスポーツドリンクをがぶ飲みするみたいに楽しかった。生き返る気分。とにかく次々と魅力的な物語――売れない作家同士の鬱屈と友情、洋館に棲まう忘れられた幻想小説作家、家族を共有するカルト団体、奇病で閉鎖された街からの脱出、満洲引揚げの一頁、一筆書きのような幻想掌篇、デリヘル嬢に自作小説を配るドライバー、謎の薬をめぐる探偵小説――が現われる楽しさ。各篇に連繋や暗示でつながる要素は丁寧に再読しないと配置をまとめきれないけれど、第三章でコウが出てくるあたりで全体の動機はうかがえる。小説を物語を必要とし書くことについて、なぜ私が私なのか、現実が現実なのかという根源的でかつ普遍的な感情を基盤にして、さまざまな単独でも読めるような小説内小説を配しながら、個々人の名もなき王国を希求する業について書かれたメタ幻想小説。本書は倉数さんより恵贈頂きました。

『名もなき王国』倉数茂|ポプラ社一般書編集部|note

ここで第一章まで試し読みできる。ほかに本書未収録の掌篇がいくつか公開されているので、こちらから読むのも良いかもしれない。

掌編「緑陰の家」沢渡晶|ポプラ社一般書編集部|note

掌編「イザベラの庭」沢渡晶|ポプラ社一般書編集部|note

掌編「アクアリウム」沢渡晶|ポプラ社一般書編集部|note

ミステリーズ! Vol.90

ミステリーズ! Vol.90

渡邊利道「エヌ氏」読む。幻視社同人でもある渡邊さんの創元SF短篇賞の飛浩隆賞受賞作品。氏のこれだけ長い作品を読むのは久しぶりだけど、やはり語り口が見事で、冒頭からディッシュ「アジアの岸辺」を思わせるイスタンブールの舞台設定とともにヨーロッパの終焉を背景にしたデカダンスの雰囲気のなか、悠々として余裕を感じさせる感触がとても良い。やっぱ洋館は燃えてこそだよなっていう展開をはさみつつミステリじみた筋書きの先に現われる可能性の糸の束としての人間、という概念に瞬間的に飛浩隆を思い出したけど、飛作品には刻々と生成されるその瞬間瞬間のものといういわば音楽的ニュアンスだとすれば渡邊作品は逆の感触。メタ時間の次元。過去と現在と未来という西洋的「物語」を可能にする条件が廃棄される物語が、ヨーロッパの終焉を迎えつつある近未来において語られるメタ物語になっているあたりの知的な構成もさすが。人を待つと言えばゴドーを思わせるんだけどそこからのラストも素晴らしい。可能性の束の糸のモチーフは蜘蛛の糸とも連なってて、終盤の比喩は洋館を蜘蛛の巣にしていた語り手を指すけど、糸を張って待ち構えているのは当時のエヌ氏もいまの語り手もそうだし、罠にかけられ、かけかえす二人のそれにもなってる。追うものと追われるもののロマンス。冒頭、計量スプーンで食事した哲学者はわからない*1けど、ドストエフスキートルストイが混ざってるので、語り手においてヨーロッパ的教養が崩壊しているってことでいいのかな。ヨーロッパの自滅、読んでないけど『トラストDE』かな。いろいろ仕込んでるはず。 

創元SF短篇賞の候補作を集めた『原色の想像力2』ようやく読んだ。正賞受賞でない新人でアンソロジーを組んでこの水準があるというのはすごいなと思うものの、やはりちょっと物足りないなという部分もあり、面白い本だった。個人的に良かったのは「繭の見る夢」と「ものみな憩える」。空木春宵「繭の見る夢」は言われるとおりちょっと長さを感じさせてしまうところはあるけど、王朝メタSFとして雰囲気があるので、連作にして一冊の本にすれば良さそうだなと思ったんだけど、商業媒体ではほかに書いてないみたい。巻末で言われるとおり蟲師の筆の海?を思い出す。忍澤勉「ものみな憩える」、選考でいわれる通り情感のある小説として読み応えは一番だった。後藤の『挾み撃ち』や藤枝の「一家団欒」を思わせる三十年前の場所や家族との情景にはSFとかはどうでもよくなってくるけど、宇宙計画の話からラストに繋がる味わいにはいい小説だったという印象が残る。酉島作品は単行本で既読なので飛ばしたので、ラストの忍澤作品でクールダウンさせつつ終わるのが、良い感じに読み終えられて印象が良い。

妖精の墓標 (講談社ノベルス)

妖精の墓標 (講談社ノベルス)

松本寛大『妖精の墓標』読んだ。『玻璃の家』と探偵役を同じくするシリーズで、認知心理学のかなり専門的な論文まで参照した密度の高さと、田舎の製材所を経営する一族の因縁をからめた本格ミステリ。人間の認識にまつわるネタは引き続きだけど「妖精」を題材にしたところが面白い。画家が見る妖精の話は認知心理学で説明されるんだけれど、そこには留まらない展開を見せてくるのが鮮烈。前作は目撃者の相貌失認からガンガン転がしていく後半が圧倒的だったけど、今作はもうちょっと落ち着いていて、とはいえ、無関係に思えた話が遠くから繋がってくる感じは楽しい。認知心理学ネタでもあるように、ある世界においては自分の見るものが先入観に枠取られているということが自分では分からない、という話にもなっている。土地に根付かず流浪するものにとっての苦しみがあるなら、木のようにそこを離れては生きて行けないという地元民もまたいる。妖精ネタのように、地方の有力一族の「古典的な悲劇」もまた、21世紀の現在にもあり、古いものをただ古いと解体するのではないやり方で書かれている感じ。人間関係が面倒なので、一族の関係は本の登場人物リストにたよらず、家系図を作ったほうが良かったかも知れない。

デュラスのいた風景―笠井美希遺稿集・デュラス論その他 1996~2005

デュラスのいた風景―笠井美希遺稿集・デュラス論その他 1996~2005

笠井美希『デュラスのいた風景』。詩人笠井嗣夫氏の息女の若くして逝去したのち、卒論、修論、あるいはいくばくかの商業原稿のほか、大学時代のレポート含めた断片、草稿、映画評メモ、母への手紙、そして遺書をまとめた本。核となるのはデュラス論で、卒論では『太平洋の防波堤』での主人公の「処女」が経済的交換商品となっていることをバタイユやモースを援用して論じ、修論では『愛人』を絡め、レズビアン批評の概念を用いて、強制的異性愛ヘテロセクシズムかな)批判として読み解くものでとても興味深い。他の原稿も読むと、優秀な人というのは大学一年でこれだけ書けるんだなとおもった。最後、年譜には2015年に美希の母の逝去が記されている。これを編集する父嗣夫氏の痛ましさたるや。寄稿にある林美脉子の追悼文が、彼女の味わった女性差別やその論考にあるフェミニズム批評による戦いを自らと重ね合わせ、闘争のはじまりを宣言するきわめて熱量のあるもので印象的だった。

岡和田晃『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』。これの原本となった第50回北海道新聞文学賞の佳作を受賞した『破滅の先に立つ』は私が印刷用PDFを作成したので、大半既読だけど新しい原稿も多く、改めて全篇通読すると情報量と密度には眩暈がするような迫力がある。大江論のカナファーニー引用から始まって、アイヌあるいは北方文学そして沖縄から世界へと、辺境から見返すことと、現在の問題をつねに視界に置く姿勢が顕著に出ている。マイナーなものを拾い上げていく博捜ぶりと辺境から見返す姿勢は相通ずるものがあり、これはつまり、文学に政治を持ち込むことに冷淡な自閉性批判の姿勢も同様、それぞれのジャンルの暗黙のコードを相対化せんとする意識が多様なジャンルの横断を本質的な方法たらしめており、以て現在との闘争の言葉を組織する言説の核となっている。このスタンスは、たとえば津島佑子の『ジャッカ・ドフニ』について多くの書評が出ていながら、作者自身が書いてもいた現在進行形のアイヌ差別を主題として論じたものはなかった、として論を進める津島論の一節が印象的だ。マイナーなものをマイナーだからと称揚するのではなく、レベルの高いものを評価すると自然とこうなった、とは氏が常々言っているように、批評、研究の区別なく徹底した資料の博捜のなかから汲み上げるべきものを拾い集めていくことで、新たな布置を描き出す、ということ。文学よりの本書とSF、幻想小説、ゲーム論集として対の形になる『世界に空けられた弾痕と黄昏の原郷』を読むことで、より総体的な著者の幅広い横断性がうかがえる。 

世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷〜SF・幻想文学・ゲーム論集 (TH SERIES ADVANCED)

世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷〜SF・幻想文学・ゲーム論集 (TH SERIES ADVANCED)

 

これも著者から恵贈頂きました。

*1:渡邊さんによればパスカルとのこと

イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

松籟社〈東欧の想像力〉第十四弾、二年ぶりの新刊は、ユーゴスラヴィアの最初にして最後のノーベル文学賞受賞者イヴォ・アンドリッチ(1892-1975)の中短篇集。1931年の中篇から、第二次大戦後に発表されたものまで、アンドリッチの四〇代あたり、およそ中期にあたるだろう作品群を収める。舞台となっているのは、トラーヴニク、ヴィシェグラード、サライェヴォといったボスニアの都市や街で、いずれもアンドリッチ自身の生地や育った場所など、彼自身に縁のある場所だ。ヴィシェグラードはもちろん『ドリナの橋』の舞台でもあった。

ボスニアの田舎町(カサバ)と都市は物語の宝庫である。作り話であることの多いそれらの物語のなかには、 およそあり得ない出来事の体裁のもとに、またしばしば架空の人名の仮面のもとに、実在の人物や、 とうの昔に過ぎ去った世代の人々に関するこの地方の真実の知られざる歴史が隠されていることがある。ここには、トルコの諺で「どんな真実よりもはるかに真実味がある」と言うところの、かのオリエントの嘘の話がある。(7P、ルビを括弧入れし、傍点を太字にして引用)

表題作「宰相の象の物語」は七〇ページほどの短篇で、トラーヴニクに新たにやってきてすぐに、招集した市長や権力者たちを虐殺した宰相が持ち込んだ象をめぐる作品。アフリカからやってきたらしい象は小さい時はともかく、大きくなるにつれて商店街を気ままに闊歩し、売り物をひっくり返したり店に小便をしたりと大きな被害と恐怖を与えていた。もちろん不満に思う人々は、ミツバチをけしかけたり、リンゴに毒を混ぜたりして抵抗を試みるけれども、芳しい成果をあげられなかった。この象は宰相そっくり(その男は宰相を見たことがないのに)だと言われるように、あらわな独裁権力の寓意だけれども、この小説の焦点はそことはずれた、アリョという男の話に合わされているように思う。商店街の人々の象への怒りが高まり宰相への抗議がなされることになったとき、立ち上がった男の一人がアリョで、五人集まるはずが三人しか待ち合わせには現われず、城の目の前まで来た時には、いつの間にか一人置いて行かれてしまう。門番の誰何は切り抜けたものの、本人が帰ってきてから絶対秘密といいつつ英雄的に宰相にきちんと意思を伝えたという嘘の話を広め、それがまことしやかに街に広まっていくことになる。その後宰相は失策から自害によって脅威とはならなくなり、象も民衆の抵抗によって倒されるのではなく、なかば衰弱するように死んでいった。そして本作の末尾はアリョの物語への言及で終わるように、本作はそもそも民衆の物語について説き起こされていた。そこでは、真実より真実らしい物語、について語られており、それは嘘の歴史でもあるとも述べられ、この宰相の象の物語も「そのような」物語だと言明されている。アリョは仲間に裏切られて逃げ帰ったのではなく、英雄的な抗議の物語として人々に記憶される。民衆の物語としての抵抗の物語。その証拠に、序章の「宰相の「フィル」という象の話は、そのような物語である」という一文は、最後に「アリョとフィルの物語は、ボスニアじゅうに広まり、その過程において膨らんでいく」となっており、宰相のフィルの物語はアリョとフィルの物語へとズレている。

シナンの僧院(テキヤ)に死す」は、学識と高徳で知られた老僧が、死に際の回想において、誰にも秘密にしていた罪責の記憶が不意に蘇るという二〇ページほどの短篇。女性を知らない彼の生涯に二度だけ現れた女性の記憶がそれで、方や水害の際に目の前に現れた全裸の水死体で、かたや夜中の僧院の門までやってきた半裸の男に追われた女性の姿だ。その両方を僧は見なかったことにしてやりすごした。女性と罪悪感の混合したものが僧にとりついており、生涯女性を知らなかった彼にとって宗教的な潔癖性とそれゆえにこそ惨い状況にある女性を無視してしまった罪責が死に際の彼を苛むということだろうか。この誘惑と罪のテーマは別の作品でも現れる。

これも二〇ページほどの短篇「絨毯」は、また別の倫理性についての話だ。私宅の所有権をめぐって争論のなかにあり、ウスタシャの副議長との抗弁を間近に控えた老婆は、回想のなかの祖母を思い出す。その祖母は体を悪くしてはいてもきわめて毅然としたまさに一家の不動の大黒柱で、家族や町の人々からたびたび相談を受けていた。老婆が子供の時、街が戦争に巻きこまれ兵士が家に乱入し、どこかから略奪してきた絨毯とラキヤ(この地方の蒸留酒)を交換してくれと言う頼みを、祖母は決然と拒否した。この回想の時期は1878年オーストリア軍がサライェヴォを陥落させたときで、現在時はナチスドイツに占領され、クロアチアファシスト組織ウスタシャに実権支配を受けているときにあたる。侵略者の暴力を目前にして、いかなる倫理的態度を取りうるか、という危機の状況が描かれており、この現在時の老婆はしかし祖母の偉大な姿を回想することで、むしろ自身の倫理的態度がくずれていっている。

「アニカの時代」は一〇〇ページほどある中篇。娼婦を害悪として扱っており、今読むと厳しい面も多いけど、もっとも緊張感のある作品だった。話は、性欲に駆られて殺人の片棒を担いでしまい色恋にトラウマを負った青年と、その青年に拒絶されたことであらゆる男のための売春宿を開き街に害悪をもたらしたとされるアニカの物語だ。シナンの僧院の話で扱われた誘惑と罪のテーマをより踏みこんで描いたともとれる。欲に駆られて醜くなりまさる男たちを尻目に、アニカは超然毅然としており、1931年の作ということで娼婦が百年の害悪をもたらすものなどと言われたりしているけれど、それゆえに市長や聖職者や周囲の街のものまでも虜にするアニカの悪としてのカリスマ性が際立つ逆説が生まれてもいる。

「いいかね、きみはまだ若いが、年寄りたちが言う真理をきみに話しておこう。どの女の中にも悪魔が住んでいる。その悪魔は労働か出産によって、あるいはその両方によって殺さなければならない。もしその二つを免れる女がいたら、その女を殺さなければならない」201P

本筋としては青年ミハイロの性と罪の懊悩の遍歴で、男を誘惑する女にこそ罪があり男の性欲は免罪され結果的に女で身持ちを崩した男がかわいそう、という語りは八〇年前の小説では仕方のないところだけれども、現代この物語を読むなら、男たちを手玉にとって地域に君臨した英雄的女性たるアニカの話として、語りの倫理意識をひっくり返して読むほうが面白いような気はする。アニカはほとんど内心を語っておらず、語りによってその内面を簒奪されていない。とはいえ、そう読もうとしても199ページの「誰かあたしを殺してくれる人がいたら、その人は善行を施したことになる」というセリフが妨げにはなるんだけども。

発狂した神父を枕にしていくつもの殺人の記憶が呼び出される暗い話でもあって、出てくる殺人はだいたい男女間の性愛がからんだものだけれど、最初の神父のだけはそうではない、というのはどういうことだろう、と思ったけど、神父の発狂と娼婦の害悪、つまり宗教的危機のテーマではあるか。解説いわくの悪のテーマ。しかし悪が多くは女性として現われるところは時代的あるいは宗教的なミソジニーが根付いているとは思う。個人的には、発狂した神父が渡った川や、ミハイロが殺人に手を貸したすぐの場面で繰り返し描写される水槽と水の音、そしてミハイロが「泥に落ちてしまった男」と評されることなど、随所で水が描写されるのがちょっと印象に残る。汚れを流す水とあふれる血、水が血と重ね合わされて不吉なエレメントになっている、と言い切れるかは微妙だけど。


オスマントルコの時代からオーストリア軍侵攻の戦時下そしてウスタシャの実権支配にある第二次大戦中までの近代ボスニアを舞台にした、土地に根付く歴史から生まれる物語。ヒトラー時代にベルリンのユーゴ大使だったという外交官でもあったアンドリッチの事績を詳しく紹介した解説も貴重な一冊。
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2018年と2017年の文藝賞、日上秀之、山野辺太郎、若竹千佐子

日上秀之「はんぷくするもの」 

はんぷくするもの

はんぷくするもの

今年の文藝賞受賞作。東北震災後の仮設店舗で商店を営業しみなし仮設の家に住む男とその母がいて、店に訪れる友人やツケでもの買っていく男、常連の老女といった人物を配置しながら、加害、被害の妄念に取り憑かれた男を通して、微細な倫理感覚を描いた小説のように思う。

日常を細かに見つめながら、あやふやな足元つまり自己存在の不確定さが描かれ、自分を雇ってくれる会社などないと繰り返されることにもそれは滲んでいて、だからこそ、自分の行為の倫理性がつねに問題になってしまう。それもある種解決不能のものとしてある。仮設の商店の床は薄くぐらついており、客も少なく経営も先がない、日々細かく追い詰められているなかで、いつまでも金を返さないのに必ずこの日に金を返すと幾度も連絡してきて、男とその母に帰ってこない金のいとわしさを思い返させるかのような男が主人公と対置されてもいる。

町田康の指摘でお、と思ったのはこの借金男の「だってあなたの家は津波に流されたじゃないですか」のセリフの解釈だ。非常に印象的ながらこの下りをどう読むのかいま一つわからなかったけれども、これは自分は被災者になれなかったという意味だ、という指摘は、なるほど確かにそうだ、と。自分の家はまったく無傷だったんだ、と呪わしそうに語り、この男はほかのアパートに引っ越すんだけど、ここで主人公と借金男には立場の反転があって、津波に流されてない私はあなたに貸しがあるんだ、という奇妙なねじれが金を借りて返さないこととして表現されている。

作者も「文藝」の受賞記念の対談で、被災地で被災しなかった人間に焦点が当てられないこと、を問題化しているけれども、家が無事だったことがこの借金男の主人公に対する負い目になっているのかも知れず、ここにもまた別の立場の倫理感覚が行動として表れているともいえる。

被災者としての自分の視界から、つねにその倫理性が周囲から問われ続けているように感じられるという感覚。それはある種の妄念として、あるいは他者の言葉として、対談で言及される家屋に流れ込んできた泥のようにまとわりついて主人公は手を洗い続けることになる。

 山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」

いつか深い穴に落ちるまで

いつか深い穴に落ちるまで

今年の文藝賞受賞作その二、日本からブラジルに一直線に穴を開けるというプロジェクトを請け負う会社の広報係を語り手にした大法螺話を枕に、戦後の企画出発時からリオ五輪以後に開通するほぼ現在時までの数十年を描く。地球を貫くあり得ないネタの奇想小説、ではなく、広報係の視点から、戦後の企画者、ポーランド大使館の通訳、北の国の女性、ブラジルの向こう側からこちらに穴を掘る会社の広報の女性、現場の中国人や東南アジアの人々といった、日本のなかの国際性を横糸として紡ぎながら描く日本現代史というか。読ませる小説になっているのは確かなんだけど、ただちょっとどういう小説だったのかってのがいまいち自分のなかで像を結ばない。戦後日本史を個人視点でたどっていくという語りの大筋を持つ作品のタイトルとラストが示唆的だとはいえるし、「二階級特進」が直截ではあるけど。現場には中国系や東南アジア系の人たちがいて、でも震災でいろいろあって大部分がいなくなる、というくだりが生々しくて印象的だった。 

   若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

去年の文藝賞芥川賞受賞作。これは良い小説ですね。標準語と東北弁を取り混ぜ、一人称とも三人称ともとれる「桃子さん」という語りで、夫を亡くした哀しみは一方で解放の喜びでもあった、と私は私自身に従って生きていく、と決意する道行のありさま。母親が叶えられなかった願いを子供に託そうとする負い目について、「自分より大事な子供などいない」と繰り返し語るところも印象的。愛情が枷になる瞬間は祖母による左利き矯正が左右盲をもたらしたところでも語られており、これは夫への愛情によって自分を縛り付けた過去にも繋がる。宮澤賢治の引用の表題とともに、科学的言説への好奇心は語り手の特徴の一つで、その点でも賢治の文脈を持ってきているように思う。若者には未来があるように、老人にも老いは未知の領域で、「知らないごどがわがるのが一番おもしぇいごど」だと桃子さんは語る。勇猛なる前進。作者の受賞の言葉の末尾、「私はこれから勇躍出発いたします」の力強さよ。こういう受賞の言葉は珍しい。格好いい人だ。

作中祖母が「食べらさる」という言葉を使っていて、受け身、使役、自発の三態が入り交じった独特の意味があったというくだりがあるけど、これ北海道方言でよくいわれる「押ささる」、勝手にそうなるという言葉遣いすごく似ている。この言い方、東北も伝播範囲内らしいけど、主人公は共有してない模様。読んでいて、やはり東北言葉を小説に多用した向井豊昭を思い出させる。自己を分裂させた自己批評的な手法もそうだし、老人の諧謔と力強さを感じさせるところも。作者は向井豊昭を読んだことがあるだろうか。 

文芸 2017年 11 月号 [雑誌]

文芸 2017年 11 月号 [雑誌]

細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』

ディアスポラを生きる詩人 金時鐘

ディアスポラを生きる詩人 金時鐘

時鐘は詩作を読んでなくてむしろ入門として読んだ。済州島四・三事件から亡命のようにして日本にたどりついた在日の詩人の初期から現在までの活動を、詩への細かな読解を軸にたどり、「マイナー文学」としての「世界文学」を読む。

皇国少年として育ち、日本語に秀でた時鐘はしかし家では母は日本語を話せず、父は話せる日本語を使おうとはしなかったという。朝鮮語は日本の敗戦の後に必死で学んだものだという言語をめぐる様相を基盤に、在日詩人の日本語による詩作という幾重もの屈折を読み込んでいく。広言してこなかったので、それまで読んでいた詩に済州島事件の体験が折り込まれていることに気がついていなかったという衝撃を受けた著者やその知人の驚愕が印象的だった。

金時鐘岩波新書『朝鮮と日本に生きる』で、済州島での弾圧虐殺と抵抗のありさまが無数の人の死を間近に見た場所から生々しく描かれていたのを覚えているくらいだけれど、本書で帰国事業に対する疑問が糾弾を呼び込み十年活動が阻害されていたことは初めて知った。 

また大阪ではくず鉄を拾って売りさばく在日がアパッチ族と呼ばれていて、開高健の『日本三文オペラ』はアパッチ族を書いた快作だけど、金時鐘自身がアパッチ族でもあって、開高の妻牧羊子が詩人で金時鐘と知り合いだったので時鐘にも取材して書かれた、という話は意外な驚きがある。

著者が時鐘のコスモポリタニズムへの警戒心について以下のように述べている箇所は重要だろう。

このあたりの「コスモポリタニズム」にたいする強い嫌悪は、「日本人」にはなかなかピンと来ないかもしれない。しかし、自分は差別と無縁だと思っている「日本人」によって「在日朝鮮人」にたいしてしばしば発せられてきた、「日本人か朝鮮人かというまえに同じ人間ではないか」という語り方は、実際は自明のごとく「日本人」への「同化」を迫るものでしかなかった。件の寛大な「コスモポリタン」の日本人は「だから一緒に君が代を歌おう」としばしば平気で言葉をつづけるのだ。その事実は繰り返し想起されるべきだろう。(163P)

細見和之といえば岩波の思考のフロンティア叢書の名著のひとつ『アイデンティティ・他者性』の著者と記憶していて(もうひとつは岡真理『記憶・物語』か)、そこで扱っていた時鐘についての思考をようやく一冊にまとめられた著作となっている。

金時鐘は元山に生まれたというけれど、ここは後藤明生が通った中学のあるところで、朝鮮で日本語教育を受けた在日朝鮮人と、朝鮮で生まれ戦後日本に引揚げてきた日本人のこの微妙なすれ違い。この二人の植民地体験の距離は、どれほどだろうか、と。